愛願人形 10




先週位からぐっと寒くなっていたが、クリスマスイブの今日は、朝からまた一段と冷え込んでいた。
形兆は誕生日プレゼントにから貰ったマフラーを取り出し、首に巻き付けた。
編み目は多少ガタガタしているが、巻いてみると、意外な程温かかった。
その温もりに、形兆は暫し戸惑った。
安らぎと苦しみ、相反する二つの感情が、自分の中でせめぎ合うようで。


「・・・・・・・」

計画通り、は全てを捨てて来た。
もう今更、後には引けない。
形兆は財布を手に部屋を出て、2階に下りた。


「じゃ、次の問題ね。まずは読んでみよっか。」
「けんたさんの体重はぁ、35キログラムです。
けんたさんのお父さんの体重はぁ、けんたさんの体重のぉ、1.8倍です。
え〜、お父さんの体重は何キログラムですかぁ〜って知るかよんな事ぉーー!!!
グダグダ言ってねーでさっさと体重計乗れよぉーーー!!!」
「はいはい。じゃ、まずは何算になるか考えてみよっか。足し算、引き算、掛け算、割り算、どれだと思う?」

2階の居間では、が億泰に宿題を教えていた。
馬鹿に勉強を教えるのは精神的にかなり堪える重労働なのだが、は嫌な顔ひとつしていない。
億泰の方も、兄に教わる時よりも何だか真面目に取り組んでいるような気がする。
顔をクシャクシャに顰めて一生懸命考えている様子の億泰を眺めながら、形兆は苦笑を浮かべた。


「・・・・・・・・足し算?」
「ブー。けんたさんの体重の1.8倍だよ。何倍っていう計算は、何だったっけ?九九だって、2の2倍で2×2=4でしょ?」
「あっ、掛け算!」
「ピンポーン。じゃあ式はどうなるかなぁ?35キロの1.8倍だから?」
「えーーーー!?!?!?!?!?!?っとぉぉぉ・・・・・」

ふと顔を上げたは、形兆に気付いてこたつから抜け出して来た。


「それ、してくれたんだ・・・!」
「今日は寒いからな。」
「ふふっ・・・、ありがと・・・」

形兆の首元のマフラーを見て、は心から嬉しそうに笑った。


「どっか行くの?」
「買い物行って来る。今日はお前の歓迎会も兼ねて、クリスマスパーティーをするぞ。」
「えっ、パーティー!?」

楽しげなその単語を聞きつけた億泰が、宿題を放り出して駆け寄って来た。


「マジで!?マジで!?それマジでアニキ!?」
「ああそうだよ。」
「パーティーって、ご馳走作ってくれんのか!?」
「まあな。」

形兆がそう答えると、億泰は期待に目を輝かせた。


「じゃあ俺も買い出し付き合うぜぇっ!荷物持ちが要るだろぉ!?」
「いや、俺一人で大丈夫だ。テメーはと留守番してろ。」

目で訴えかけると、億泰は思い出したようにハッとした。


「・・・俺が帰るまで、しっかり留守番してろよ。」
「おう・・・・」

3階の父親の存在を、に気付かれるな。
形兆が下したその命令を、億泰はちゃんと理解していて、下らない冗談を言ってみたり、遊ぼうとせがんだり、ありとあらゆる形で一日中に纏わりつき、が3階に注意を向けるのを阻止している。
3階には父親の書斎があって、息子達にも立ち入りを禁じている位だから3階には立ち入らないでくれとには伝えてあるし、もそれ以上余計な詮索をするような性格ではないが、念の為の予防策というところだ。
しかし億泰は、根が単純で馬鹿な奴だから、本来、人を欺いたり誤魔化したりする事には向いていない。
緊張した面持ちを見せる億泰を、形兆はあと僅かの辛抱だと内心で励ました。


「行って来る。億泰の事、頼んだぞ。」
「うん。行ってらっしゃい。」

には、親や学校の連中に見つからないよう、暫くの間は外出を控えろと指示をしている。
それに対しては一切不満を洩らさず、素直に従っている。
従順でいてくれるのは無論好ましい事なのだが、その一方で、全幅の信頼を寄せ、自分の全てを委ねてくるの無防備な一途さに、形兆はしばしば戸惑いを覚えていた。
真実を全て打ち明けた時、この痛々しい程のまっすぐな想いはどう変貌するのか。
それを思うと、そう・・・・・、怖かった。













クリスマスにまつわる温かい思い出は持っていた。
雪原の中の小屋をイメージしたような可愛いデコレーションのクリスマスケーキ。
艶々とした飴色の、大きなローストチキン。
色とりどりの電飾がチカチカと温かく光る、背の高いクリスマスツリー。
夢中でご馳走を頬張る幼い息子達を見守りながら、ゆっくりとワイングラスを傾けて微笑み合う両親の優しい顔。
今はもう他に誰も知る人のない、遠い昔の家族の記憶だ。


「うんまぁぁ〜〜いっ!!」
「ほんと、美味しいねぇ!」

今夜は、凄惨な記憶の数々に埋もれていたそれを、久々に思い出させる夜だった。
一応毎年、クリスマスの夕食にはいつもチキンとケーキを出しているが、兄弟二人のクリスマスとはまるで違っていた。
たかだか女が一人、増えただけなのに。


「億泰君、スープのお替りは?」
「あっ、いるいる!」
「形兆君は?」
「・・・・・・」
「形兆君?」
「・・・・・あ?」

ふと我に返ると、がキョトンとした目で形兆を見ていた。


「スープのお替り。要る?」
「あ、ああ・・・・・」

何となく差し出したスープボウルを受け取って、いそいそとコンロの前に立つの背中を、形兆はじっと見つめた。
一時期は泣いてばかりいただが、正式に家を出て来てからは、却って明るさを取り戻してきている。
何者にも脅かされる事のない環境でゆっくり眠って、疲れが取れてきたからだろう。
しかし、果たして本当にそれだけだろうか。
特に何も語らず、ごく普通に明るく振舞っているは、形兆の目には時折無理をしているようにも見えていた。


「は〜い、お待たせ〜!」

だが、そんな事を気にしてはいられない。
無理でも何でも、はここに、虹村家に、溶け込むしかないのだ。
もしも万が一、がそれを拒んだら、その時は・・・・・


「はい、形兆君。」
「・・・ああ・・・・」

形兆はお替りの入ったスープボウルを一旦は受け取ったが、手はつけずにそのままテーブルの上に置いた。


「・・・、ちょっと座ってくれ。」
「・・・何?」

は少しぎこちない微笑みを浮かべながらも、言われた通り、自分の席に着いた。


「これでお前は、もううちの一員だ。」

形兆がそう切り出すと、ついさっきまで賑やかだった食卓は、一瞬にして静まり返った。


「そこでだ。今日はお前に、うちの親父に会って貰いてぇ。」
「お・・・父さん・・・・?」
「アニキ・・・・・・!」

と億泰の驚いたような視線を、形兆は一身に受け止めた。


「お父さんって・・・・、今日、帰って来るの・・・・!?」

父は仕事で留守がちで、家には滅多に帰って来ない。
そんな設定を、は未だに信じている。
本当はずっと3階の部屋にいて、とっくに一つ屋根の下で暮らしている事など、まだ露程も気付いていない。


「うそ・・・・・!何でそれを先に言ってくれないの!?
お料理こんなに食べ散らかしちゃって、どうするのよ!やだどうしよう・・・・・・!」

まだ何も知らないから、こんな取るに足りない事で血相を変えて慌てふためく事が出来るのだ。
考えてみれば、それは何と幸せな事だろうか。
普通の人間の常識が通じる世界で暮らせるのは、それだけで、ひとつの大きな幸福なのだ。


「心配要らねぇ。うちの親父はそんな事気にしねぇ。」
「そ・・・・、そうはいかないよ!形兆君達は親子だから良いかも知れないけど、私は他人なんだよ!?初対面からこんな失礼な事しちゃったら・・・・・!」

いよいよを、そこから引きずり堕とす時が来た。


「もう一度言う。気にする必要はねぇ。」

俺と一緒に、堕ちてくれ。


「っ・・・・・」

口に出せない願いを込めて、形兆は困惑するをじっと見据えた。



















自分達の食事が済み、腹が落ち着いた頃合いを見計らって、形兆は父親の食事の用意を始めた。
あれからはずっと落ち着かない様子で、居間の窓からソワソワと何度も外を覗いている。父がいつ帰って来るかと緊張しているのだ。


「・・・・アニキ・・・・・・」

がトイレに入った隙に、居間にいた億泰がコソコソとダイニングに入って来た。


「何だ?」
「アニキ、本気かよ・・・!?」
「こないだ言っただろ。俺は全てを打ち明けてアイツをこの家に迎えるとな。」
「で、でもよぉ・・・・!あんなのいきなり見せられたら、ネーちゃんきっと・・・・・!」

そんな事は、言われなくても分かっている。
実の息子ですら、何度も気が狂いそうな思いをしてきているのだから。


「心配するな。アイツなら大丈夫だ。・・・きっとな。」
「アニキ・・・・・・」

食事の用意が済んだと同時に、がトイレから出て来た。
億泰が縋るような目で形兆を見上げた。
しかし形兆はそれを無視して、に声を掛けた。


。」
「何?」
「ちょっと付き合ってくれ。」
「え・・・・?」
「今から親父に会って欲しい。」

は目を丸くして驚き、辺りをキョロキョロと見回し始めた。


「え・・・・!?ど、どういう事!?お父さん帰ってるの!?い、いつの間に!?えぇっ・・・・!?」
「こっちだ。ついて来てくれ。」

形兆は食事のトレーを持ち、先に立ってを3階へ誘おうとした。


「アニキッ・・・・・・!」

それを阻もうとするかのように、億泰が目の前に立ち塞がった。
無関係なを巻き込むなとでもいうつもりだろうか。
それとも、大好きなに気味悪がられて、嫌われて、離れていかれるのが怖いのだろうか。
だが何にしろ、億泰の抵抗など形兆には通用しなかった。


「億泰、風呂沸かしとけ。沸いたら先に入って良い。」
「ぅ・・・・、わ・・・分かったよ・・・・」

形兆が睨み下すと、億泰は案の定、オドオドと目を逸らして引き下がった。


、来いよ。」
「う、うん・・・・・・」

緊張した面持ちのを連れて、形兆はゆっくりと3階へ上がって行った。
元より狭い家である。後悔などする暇もなく、父の部屋の前に着いた。


「ここが親父の部屋だ。」

閉ざされたドアを前に、は暗がりの中でも見て分かる程の緊張感を帯びていた。
が何を考えているのか、全て手に取るように分かって、形兆は思わず笑った。


「わ、笑わないでよ・・・・・」
「まあそう固くなるなよ。気楽にしててくれ。」
「そ、そんな事・・・・言われたって・・・・」

ガチガチに緊張しているの先に立って、形兆は部屋のドアを開け、中に入った。
静かにしていろと、よくよく、よくよく、『躾けた』のが効いているのか、父は暗闇の中でじっと蹲っていた。
だが、食事の匂いを嗅ぎ取ると、ガバッと顔を跳ね上げた。
空腹で喚かないように、間食用のパンやお菓子を置いておいたのだが、どうやらとっくに食べてしまっていたようだった。


「ブギィッ、ブギィッ・・・!」
「分かってる。がっつくんじゃねぇよ、今置いてやるから・・・」

目の前にトレーを置いてやると、父はいつものようにガツガツと手掴みで食べ始めた。まるで躾のなっていない動物同然だが、今更隠し立てするつもりも、取り繕うつもりもない。


「何してんだ、入れよ。」

形兆は、緊張と遠慮で未だ部屋の前で立ち尽くしているに声を掛けた。


「し・・・、失礼します・・・・」

程なくして、ぎこちない声で挨拶をしたが、ぎくしゃくと室内に入って来た。


「は、初めまして。といいま・・・」

そして、形兆の背後からそっと部屋の中を見て、時を止めたように硬直した。


「・・・・・・・・・」

部屋が暗くて、まだ分からないだろうか。
もうそろそろ、目が慣れてきただろうか。


「・・・・え・・・・」

何となく、分かってきただろうか。


「・・・・・紹介するよ。うちの親父だ。」

そこにいるのが、想像していたような人間の中年男ではなく、人外の化け物だという事に。



「・・・・け・・・・形兆君・・・・」

どれだけの時が止まっていただろうか。
ようやく口を開いたかと思うと、は妙な事を口走った。


「わ、私・・・・、目がおかしいのかも・・・・」
「何でそう思う?」
「だ・・だって・・・・・、そ・・・・、そこに・・・・いる人が・・・・」

形兆の服の裾を掴んでいる手が、小刻みにカタカタと震えている。


「人間に見えないから、か?」
「っ・・・・・・・・!」

思っているであろう事を代わりに言ってやると、は驚いたような目で形兆を見上げた。


「大丈夫だ。お前の目はおかしくなんかねぇから安心しろ。」
「そんな・・・・、だって・・・・じゃあ・・・、その人は・・・・?」
「ああそうさ。こいつは『人』じゃねぇ。今、よく見せてやるよ・・・・」

形兆は壁のスイッチをオンにした。
すると、天井の電灯が点き、真っ暗だった部屋の中が急速に光で満ちた。
その煌々とした光に目を瞑ったのも一瞬、は大きく目を見開いて、そこに蠢く不気味な化け物を凝視した。


「き・・・きゃああああーーーーッッ!!!」
「静かにしろ!」
「うぐっ・・・・・・!」

形兆は、甲高い悲鳴を上げたを腕の中に抱き竦め、掌で口を塞いだ。


「うぅっ!うぅぅっ・・・・!」
「落ち着け!騒ぐんじゃねぇ!」
「うぅっ・・・・・・・・!」
「大丈夫だ、何もしやしねぇよ!」
「ぅ・・・、ぅぅっ・・・・!」

一瞬でパニックに陥ったは、最初激しく身を捩ったが、押さえ付けるようにして強く抱き締めていると、次第に大人しくなっていった。


「どうしたんだよぉっ!?」

の悲鳴が階下まで聞こえたのだろう、億泰が騒々しく階段を駆け上ってきた。
そして、を抱き竦めている形兆の姿を見て、怯んだようにその場で固まった。


「あ、アニキ・・・、ネーちゃん、どしたんだよ・・・・!?」
「何でもねぇ。親父の姿を見てビビっちまっただけだ。」
「あぁ・・・・、そっか・・・・」

の身に何事も無かったと分かると、億泰は少しだけ安堵したような表情を見せた。


「億泰、下行ってろ。」
「う・・・・ん・・・・・・」
「風呂沸いたら、さっさと入っとけよ。」
「わ、分かった・・・・・・」

不承不承な様子の億泰を追い払うと、形兆は部屋のドアを閉め、息を潜めて硬直しているに話しかけた。


「・・・もう大丈夫か?」
「・・・・・・ぅ・・・・・・」
「手ェ放すけど、もう叫ぶなよ?」
「・・・・・ぅん・・・・・」

口を塞いでいた手を放し、身体を解放してやると、は疲れ果てたような溜息を吐いた。


「・・・・・・嘘・・・・だったの・・・・・・?」

そして、目の前の物を片っ端から卑しく貪り食っている緑色の化け物を呆然と見つめながら、消え入るような声で呟いた。


「お父さんに私の事話したとか・・・・、いつからでも来て良いって言ってたとか・・・・、あれ全部・・・・、嘘だったの・・・・?」

勿論、弁解の余地など無かった。
口の周りをベタベタに汚しながら夢中で食べているこの生き物に、そんな話の出来る知性があるかどうかなんて一目見れば分かる事だし、大体それ以前に、こんな化け物を父親だと紹介されてすんなり信じられる人間などいる訳がないのだから。


「私の事・・・・・、からかってるの・・・・・・?」
「・・・そうだな。そうだったら、どんなに良いだろうな。」

無様な姿を人目に晒す父親を見守りながら、形兆も呟いた。


「TVのドッキリか何かでよ、下らねぇ芸人が今すぐワーッとここへ入って来てくれたら、どんなに良いだろうな。」
「からかってるんじゃなかったら何なの!?」

は突然、感情的に声を震わせて怒鳴った。


「こんなの・・・・、冗談にしたって酷すぎるよ・・・・!
私、形兆君の事、全部全部、信じてたんだよ・・・・・・!
形兆君の言う事、全部、全部信じて・・・!信じて家を出て来たんだよ・・・!?」

の気持ちは、痛い程分かっていた。
こんな化け物を目の前にして混乱しない人間などいない事も、がどんな思いで全てを捨ててここへ来たのかも、全部、全部、分かっていた。
しかし、全ては紛れもない真実で、それを見せた以上、もうをこの家から出す訳にはいかなかった。


「・・・嘘や冗談なんかじゃねえ!!」

形兆は、以上に大きな声を張り上げた。
その瞬間、はビクリと肩を震わせて黙った。


「嘘でも冗談でもねぇよ・・・・。これが、この化け物が・・・・」

これから話す事を、がどう受け止めるか。
そんな事は、考えるまでもなく分かっている。
だが、それでも。


「正真正銘、俺達の父親なんだ・・・・!」

俺に、お前を失わせないで欲しい。
祈るような思いで、形兆は語り始めた。
長年隠し通してきた、虹村家の真実を。














驚いたなどというレベルではなかった。
現実にある訳のないものが目の前に存在したのだから、驚きよりもむしろ恐怖を感じた。殺されると、本能的にそう思ってしまった程に。
そして、落ち着き払っている形兆に、一瞬、強い不信感を抱きもした。
騙された、騙されて遊ばれたんだと、酷いショックを受けた。
だが。


「これが、この化け物が・・・・、正真正銘、俺達の父親なんだ・・・・!」

掠れた声でそう吐き捨てた形兆の横顔を見た瞬間、いつも冷静で強い彼がまるで泣き出しそうに見えて、恐怖も不信感も、全てが不思議と薄れていった。


「前に話しただろう。親父は東京で不動産会社を経営してたって。」
「・・・・うん・・・・・」
「俺達は裕福で、何不自由なく幸せな家族だった。
けどある時、親父が商売でヘタこきやがって、会社が傾いた。
何があったのか詳しい事は知らねぇ。だが、親父は悪くない、ただ運が悪かっただけなんだって、お袋は言ってた。」

もう一度そっと見上げてみると、父親を眺める形兆の瞳は、やはりいつものように冷静だった。


「親父は莫大な借金抱えて、いつも金策に走り回ってた。
一日中あちこちに電話掛けまくって、誰彼構わず惨めったらしく泣きついてみたり、何日も帰って来ないと思いきや、いきなり帰って来て家の中の物を強盗みたいに持ち出して行ったり。
でも俺は、お袋がそんな親父を責めているところを見た記憶がねぇ。
いきなり帰って来た親父が、ものも言わずにお袋の宝石やハンドバッグなんかを持ち出して行ったって、お袋はいつでも黙って好きにさせてた。
何にも言わねぇで、いつもニコニコ笑い続けて、溜めて、溜めて、溜め込んで・・・・、病気になっちまった。」

形兆の傷痕は、痛みは、のそれとはまた違う形だった。
それがどんなものか、は思いを馳せずにはいられなかった。


「お袋の入院後は、いよいよヤバくなってきた。
親父は浴びるように酒を飲んじゃあキレて暴れるようになって、しまいにゃ借金取りが昼となく夜となく押しかけてくるようになって、子供心にも、ああ、うちはもうダメだなって分かる位だった。」

想像する事で形兆の痛みが消える事などないのだが、それでも、少しでも、分かりたかった。
の痛みを理解してくれた、形兆の為に。


「お袋が死んだのは、俺が小学校に入ったばっかの春だった。
確か、億泰の3歳の誕生祝いをした直後に入院になったから、まあ、ものの半年程で死んじまった訳なんだがよ、親父はその最期の1ヶ月程、行方をくらましてた。
俺の卒園式にも入学式にも勿論現れず、何処に行ったか誰も知らなかった。
それを俺はてっきり、お袋と俺達兄弟を捨てて一人だけ逃げやがったと思ってたんだけどよ。」
「・・・・そうじゃ・・・・なかった・・・・・?」
「ああ。お袋の葬式が終わったばっかのある日、親父は突然帰って来たんだ。血走った目をギラギラさせて、分厚い札束を幾つも抱えてな。」
「え・・・・・!?」

形兆は突き刺すような鋭い視線を、食事に夢中になっている父親へ向けた。


「何かやけに興奮しててよ、気味が悪かったぜ。『形兆、コレ見ろコレ』って気違いじみた顔で笑って、俺の肩を掴んでガクガク揺さぶってきやがってよ。
だから俺は、黙ってお袋の骨壺を見せてやったんだ。
何が嬉しいんだか、一人で興奮してはしゃいでる親父に、せめて冷や水ぶっかけてやらなきゃ気が済まなかった。
だってそうだろ?親父がいなかったせいで、喪主はあのクソッタレの伯父貴になって、費用をケチられて、ろくな弔いもして貰えなかったんだからな。
何処の馬の骨とも知れん混血女にはこれで十分だと、あの野郎はぬかしやがったんだぜ。」
「・・・・そんな・・・・・」

何という痛みだろうか。
その痛みを、たった6歳や7歳で受け止めさせられた形兆を思うと、自分の受けた痛みなど取るに足りない気がした。


「お袋が死んだ事を知った親父は、訳の分からない事を喚き散らして、外へ飛び出して行った。
その時は、多分しちゃあいけねぇ事をして稼いできたんだろうなと思ってたんだがよ、不思議とその後も、親父はしょっちゅうそうやって金を持って帰って来るようになったんだ。
札束じゃなくて、宝石や貴金属だったりする時もあったけど、いつもとんでもねぇ額を持ち帰るようになった。」
「ど、どういう事・・・・・?」

まるで作り話のような、有り得ない話だった。
しかし、それを語る形兆の顔は、重苦しい現実味を色濃く漂わせていた。


「勿論、本業で稼いだ金じゃねぇよ。会社はとっくに倒産しちまってたし、他所の会社に就職した訳でもなかった。
あんなの会社員の貰える給料じゃねぇし、そもそも相変わらずメチャクチャな暮らしぶりで、人相も昔とはまるで別人みてぇに酷くなっちまってたからな。そんな奴を雇う会社なんかある訳ねぇだろ。」
「じゃ、じゃあ・・・・」
「だがよ、犯罪に手を染めてたとしても、そんな短期間でそんな金を稼げると思うか?
元々その筋のモンだってんならともかく、ついこの間まで堅気の商売してた奴だぞ?
たとえ裏社会に飛び込んだところで、昨日今日入ったようなチンピラが、そんな金を稼ぎ出せると思うか?」
「お父さん本人には、訊かなかったの・・・・?」
「訊いたさ。だが、親父は何も教えちゃくれなかった。
それまで通り飲んだくれて、家を空けちゃあ時々フラッと帰って来て、憂さ晴らしみてぇに俺達を痛めつけて、持ち帰った金を部屋の金庫に貯め込んでた。
そんな日々が暫く続いて・・・・」
「それで・・・・?」
「・・・・忘れもしねぇ・・・、1988年の、1月の事だ・・・・」

1988年の1月。
その頃なら、と同い年の形兆はまだ小学校1年生だった筈だ。そして億泰は4歳。
そんな幼い頃に、一体何があったのか。
は固唾を飲んで、形兆の話の続きを待った。



「あの日の昼、学校から帰ると、億泰が泣いてた。最初はまた親父に殴られたのかと思ったが、そうじゃなかった。台所にいた親父を見て、俺もさっきのお前と同じようにビビったよ。」
「じゃ、じゃあ、お父さんはその時・・・・!?」
「いや、その時じゃねぇ。その時はまだ言葉も喋れたし、手も顔も気持ち悪いイボみたいな出来物だらけになってたが、一応、人間の顔形はしていたからな。
その日から1年程の時間をかけて、ゆっくり、ゆっくり、こうなっていったんだ。」

気が付けば、虹村兄弟の父親はいつの間にか食事を終えていて、満ち足りたように口の周りを舐め回していた。こんな事を考えてはいけないと頭では分かっているが、その姿は、思わず吐き気を催す程醜怪だった。


「最初はひたすら苦しんでのたうち回っていた。痛ぇのか何なのか、とにかく飯も食わず、眠りもせずに、一日中呻いてばかりであまりにうるせぇからよ、俺はその時初めて、親父をこの手で殴った・・・・。」

形兆はそう言って、握った拳を哀しげに見つめた。


「でもよ、親父は呻くばっかりで、俺が殴った事には何の反応も示さなかった。
それまで、俺達がほんの少し口答えしただけで、ブチ切れて100倍の暴力で返してきた奴がだぜ?それが、床に縮こまって震えてるばかりで、何にも反撃してこなかったんだ・・・・・」

は、いつか形兆も『親子逆転』という言葉を口にした事があったのを思い出した。虹村親子の立場が逆転したのは、その瞬間だったのだろうか。


「その内、その苦しみに慣れてきたのか、やたらと一日中呻く事はなくなっていったが、代わりに今度はやたらと自殺するようになった。」
「え・・・・えぇ・・・・!?」

形兆の哀しげな眼差しに言葉を失っていたのも束の間、その奇妙な言い回しには驚いた。


「やたらと自殺って・・・、どういう事・・・・!?」
「最初は包丁で胸を刺してたっけな。ある朝起こしに行ったら、部屋が血の海になってた。」

形兆はとてつもなく恐ろしい事を、ごくごく何気ない口調で軽く言ってのけた。


「そ・・・、そんな・・・・!」
「俺もまだ7歳だったからよぉ、そりゃあ怖かったよ。それこそ泣き叫んでパニクりながら、親父を助けようとした。けど、助けるまでもなく、あいつは生きてた。」
「え・・・・・・!?」
「次はロープで首を吊りやがった。でも、それもやっぱり生きてた。
農薬や猫いらずを飲んだ事もあったし、風呂場で感電しようとした事もあった。けど、全部失敗に終わったんだ。」

死への恐怖は、動物の本能である。
死にたいとふと考える事はあっても、実際にはそうそう死ねない。
最初は驚いたが、よくよく考えてみると、それはさほど珍しい話ではなかった。


「それって・・・・、自殺、未遂・・・」
「じゃねぇ。」

しかし形兆は、それを否定した。


「自殺未遂なんかじゃねぇ。親父は確実に、何度もテメェを殺してた。けど、親父の身体が死ななかったんだ。」
「ど、どういう事・・・・!?」
「包丁の刃が殆ど全部胸ん中に埋まってんのに、ピンピン生きてる奴がいると思うか?毒を大量に飲んで、ゲロ吐くだけで済む奴がいると思うか?」
「それ、は・・・・・」
「親父は、死なねぇんだよ。あの日からもう、親父は人間じゃなくなってたんだ。」

鬼気迫る形兆の低い声に、身の毛がよだった。


「親父はだんだん言葉を、記憶を、知能を失くしていった。
テメェでテメェの始末をつけるという知恵を失くしてからは自殺もしなくなって、記憶がポロポロと抜け落ちていって、会話の出来る時間がどんどん短くなっていった。
親父は殆ど一日中、ゾンビみたいに呻き声を上げて部屋の中をフラフラしてるだけだったが、それでも時々何かの拍子に、脳の回路が繋がったように喋り出したり、書き物をしたりする事があってな。
そういう時によ、俺に金の管理の事やら伯父貴を誤魔化す方法を教えたり、色んな手続きをしたり、業者を呼んで持ち帰っていた宝石やらを全部現金に換えたりしていた。今から思えば、人間を辞める準備をしていたようなもんだったな。」

人間を辞める準備。
何とおぞましく、恐ろしい言葉だろう。
寒々とした恐怖に耐えきれず、は思わず形兆の腕に縋りついた。


「・・・そうして親父はこの通り、完全に化け物になった。今じゃもう俺達の名前も、俺達が息子だって事も、何にも分からねぇ。
今のあいつは、ただ食って、出して、寝るだけの、何の意味もねぇ生き物だ。取り立ててする事と言えば、そこの木箱をゴソゴソ漁る位の、愚鈍な化け物だ。」

形兆はそう言って、床に倒れている大きな木箱を指さした。


「・・・・どうして・・・・?」
「あ?」
「お父さんは・・・、どうして、こんな事になったの・・・?」
「どうしてだと?ハッ・・・・、それは俺が訊きてぇよ。」

形兆は乾いた笑い声を微かに上げた。
思わずどうしてと訊いてしまったが、確かに愚問だった。
その原因が分かっていれば、形兆はこんなに哀しい顔をしていないだろうに。


「ごめん・・・・・」
「・・・・・・DIO・・・・・・」
「え・・・・・・?」
「親父が言い残したんだ。親父がああなった原因は、『DIO』って奴のせいだと。」
「DIO・・・?何なの、それ・・・?」

形兆は小さく首を振った。


「分からねぇ。親父は金の為にそいつの手先になっていたそうだが、そのDIOという奴は、信用出来ねぇ人間の脳に『肉の芽』という細胞を埋め込み、テメェの意のままに操っていたらしい。
でもそいつが死んだ事により、その肉の芽が暴走して、親父は化け物になっちまったんだ。」

今までずっと信じられない話の連続だったが、これが最も理解出来ない話だった。
SFやホラー映画ではあるまいし、そんな話が現実にあるものか。


「・・・それ・・・、本当なの・・・!?」
「親父がそう言ってたんだ。信じるしかねぇだろ。苦しんでのたうち回りながら冗談言える奴がいるってんなら、話は別だがよ。」
「でもそんなの・・・考えられないよ・・・・」

が呆然とそう呟くと、形兆は剣呑な表情になっての腕を掴んだ。


「じゃあ何でうちの親父はこんなになっちまったんだ?事故か?病気か?
どんな事故に遭えば、身体がこんなになっちまうんだ?どんな病気に罹ったら、死ななくなるんだ?知ってたらお前、教えてくれよ。」
「っ・・・・・!」

怖いと思った瞬間、形兆は我に返ったような顔になって手を離した。


「・・・・DIOって奴が何者なのかは全く分からねぇ。
だが、その後調べてみると、親父は行方をくらましていた間、エジプトにいた。
そして、親父の身に異変が起きた丁度同じ頃、エジプトで信じられねぇような奇妙な事件が起きていた。」

目を逸らしてボソボソと呟く形兆の横顔を、はそっと見つめた。


「これは偶然なんかじゃねぇ。偶然にしちゃあ出来過ぎてる。もうこれしか手掛かりがねぇんだよ、これしか・・・・」

この時、は何となく、形兆の抱えているものが分かった気がした。


「・・・形兆君の言ってた、『やらなきゃいけない事』って・・・、この事だったんだね・・・・」
「・・・・ああ・・・・・・」
「その『DIO』って人やエジプトの事件の事とかを調べて、お父さんを治す方法を見つけようとしてたんだね・・・・・。
それで、その手伝いを私にして欲しいって、そういう事だったんだね・・・・・」

正直、まだ本当には信じきれていない。
信じる以外にないような状況ではあるが、余りにも突拍子がなさすぎて、頭がまだついてきていない。
だが、形兆が苦しんでいるのなら、助けを求めているのなら、何でもしようと決めたのだ。何をどう調べれば良いのか皆目見当もつかないが、は何でも協力するつもりでいた。


「・・・・治す?」

しかし形兆は、思いもよらない反応を示した。


「ハッ・・・・、いいや、そうじゃねぇよ。俺が知りたいのはそんな事じゃない。俺が知りたいのは、あの化け物を殺す方法だ。」

形兆は鼻で笑って、平然とそう言い放った。


「・・・・え・・・・・?」
「親父は治らねぇ。親父に肉の芽を埋め込んだ『DIO』が死んじまったから、もうどうしようもねぇんだとよ。親父本人がそう言っていたし、俺もそう思う。」
「・・・・そんな・・・・・」
「親父はもう人間には戻れない。このまま、知性も感情も何も無い化け物のまま、ただ生きていくだけだ。テメェが生きてるって事さえ分からずにな。
だがよ、そんな生に何の意味がある?」

形兆の問いかけに、は答える事が出来なかった。


「だから、親父が自殺しなくなった後は、俺が引き継いでやったんだ。それで可能な限りの方法を試してみたが、親父はやっぱり死ななかった。
だから、思ったんだよ。
親父を殺すには普通のやり方じゃ無理なのかもな、ってよ。」

一旦は止まっていた身体の震えが、また始まった。
それは、どういう意味なのだろうか。
形兆は、何を引き継いだというのだろうか。
本人は事も無げに言ってのけているが、彼は一体、今までどんな事をしてきたのだろうか。


「そう思うようになっていた時にエジプトの事件の事を知って、確信したんだ。
これを調べていけば、やがて親父を殺す方法に辿り着けるとな。
だが、何せ雲を掴むような話だ。調べるには時間がかかる。
お前に手伝って貰いてぇのは事件の調査じゃなくて、あの化け物をぶっ殺す時まで、アレの面倒をみて欲しいんだ。」
「・・・・面・・・倒・・・・?」

が恐る恐る見上げると、形兆は穏やかに微笑んだ。


「大丈夫だ。何もお前一人に押し付けようってんじゃねぇ。勿論、俺も億泰もいる。
だが、俺達二人じゃそろそろ限界なんだ。だからお前にも手伝って欲しいんだよ。」
「っ・・・・・」

は改めて、虹村兄弟の父親に目を向けた。
沼の水のような、重々しい深緑色の身体。どんよりと澱んで焦点の合っていない目。
首輪と鎖で壁に繋ぎ留められている姿は、人間は勿論、動物にさえも見えなかった。


「駄目か?」

目の前に迫ってくる形兆を見上げながら、は頭の中で虹村親子の顔を重ね合わせた。
親子だというのが本当なら、二人の顔の何処かに似た面影があるのではないかと。
だが、何度想像してみても、形兆と『彼』は重ならなかった。


「頼むよ・・・・」
「は・・・っ・・・・」

そもそも全て、本当の話なのだろうか?
本当の本当に、あれが形兆の父親なのだろうか?
根本から疑う気持ちが再び芽生えてしまうと、何もかもが怖くて怖くて堪らなくなった。


「なあ、・・・・・」
「・・・ぁ・・・・・・・」

が怯えているのを知ってか知らずか、形兆は手を伸ばし、キスをする時のようにの顎をそっと持ち上げた。


「形・・・・ちょ・・・・く・・・・」

形兆の指先がの顎を何度か撫で、ゆっくりと喉元に滑り降りてゆく。
背筋が震えるのは、擽ったさのせいだけだろうか。


「はぁ・・・・、は・・・っ・・・・」

形兆がゆっくりと顔を近付けてきた。
キスをされるのだ。
嫌なんかじゃない。勿論、嫌な訳がない。形兆はキスをしようとしているだけだ。
は必死で自分にそう言い聞かせながら、固く目を閉じた。
しかし次の瞬間、形兆はから離れていった。


「・・・・覗き見してんじゃねぇよ億泰。」

形兆は部屋のドアを大きく開け放った。
そこには、呆然とした顔の億泰が突っ立っていた。


「あ・・・・、ご、ごめんよアニキぃ・・・!お、オレ、どうしても気になっちまって・・・!」

億泰は酷く動揺したような顔で、形兆に謝った。


「ずっとそこにいたのかテメェ。」
「う゛・・・・・」

億泰は、の方にもチラリと目を向けた。
オドオドしているのは、際どい場面を見てしまって恥ずかしいからだろう。見られたも勿論同じ気持ちだった。
だが、正直なところ、はそれ以上に安堵していた。
助かったと、さっき咄嗟にそう思ってしまったのだ。


「億泰君・・・・、億泰君も全部・・・、知ってたの・・・・?」

が尋ねると、億泰は一層オドオドしながら、消え入るような声で答えた。


「いや・・・・、オレは殆ど何も覚えてねぇんだ・・・・・。
そん時まだ小さかったし、何でも全部、今でもだけど・・・、全部アニキに任せっぱなしだから・・・、今、初めて知った話とかも・・・、いっぱいある・・・・」
「・・・・そう・・・・・」
「お・・・オレからも頼むよネーちゃん!」

それまで決まりが悪そうにボソボソと喋っていた億泰は、急に弾かれたようにの側へ駆け寄ってきて訴えた。


「オヤジの世話してる時、オレ、時々頭おかしくなりそうになるんだよ!
バカなオレでもそうなんだから、アニキなんかきっともっとそうだと思うんだ・・・・!
で、でもよぉ、ネーちゃんと友達になってから、オレ何か、毎日が楽しく思えるようになったんだ・・・!
アニキだって絶対そうなんだよ・・・!
ネーちゃんが側にいてくれたら、きっとすげぇ支えになるんだよ・・・・・!だから・・・!」
「億泰君・・・・・」

必死の形相で懇願する億泰は、嘘を吐いたり隠し事をしているようには見えなかった。
形兆は今、何を思っているのだろうか。
形兆の方へ目を向けると、形兆は少し動揺したように、から反射的に目を逸らした。


「・・・・分かった・・・・」

SFだろうが何だろうが、信じるしかない。
今、目の前にある光景は、全て現実なのだ。
そして、そうである以上、拒否する事は考えられなかった。
虹村兄弟と、形兆と、支え合って生きていくと、そう決めて家を出て来たのだから。


「私で出来る事なら、何でも手伝うよ。」
「ほ・・・、ホントかネーちゃん!?」
「うん。」
「アニキ・・・・・・!」

億泰は嬉しそうに形兆を見上げた。
しかし形兆は、その笑顔から逃れるように背を向けて、父親の食事の後片付けを始めた。
その寂しい背中を見つめながら、はこれまでの彼を思い返していた。
人に慕われる要素を沢山持ちながら、徹底的に人を拒絶して、孤独を貫いて。
一人で全部、黙って背負い込んで。
考えてみれば、形兆のそんな生き方は、これが事実なのだという証も同然だった。

首輪を着けられ、鎖で繋がれているのは、この父親だけではない。
形兆にも、億泰にも、同じものがついている。
それがある限り、彼等は自分の人生を歩めない。


「・・・貸して。」

は形兆に歩み寄り、彼の手元からベタベタに汚れたトレーをそっと取り上げた。


・・・・・」

形兆が今まで何をしてきたかも、考えてみれば、考える必要の無い事かも知れなかった。
彼が何をしてきたかは知らないが、彼等の父親は今もこうしてピンピン生きている。
ならばそれは、何も無かった事と同じではないだろうか。
知る由のない過去よりも、自分の知っている現在を、自分を愛して受け入れてくれたただ一人の人である形兆を、信じるべきではないだろうか。


「私が洗っとくから、お風呂入っておいでよ。もうそろそろ沸いたと思うよ。」

彼がしてくれたように、首の鎖を今すぐ断ち切って解放してあげる事は出来ないが、それを自力で引き千切ろうともがいている形兆の為に、出来る事は何でもしよう。
それが形兆へのせめてもの恩返しであり、唯一の愛し方だというのなら。
その決意を胸に、は形兆に笑いかけた。




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後書き

虹村家の過去って、妄想(捏造)の余地が豊富ですよね。
考えれば考える程に、どっぷりと虹村沼に沈んでいきそうです(笑)。