愛願人形 9




を招く準備をしている最中、そういえば億泰がニヤニヤしながら、『もうネーちゃんとチューした?』なんて訊いてきたが、そんなどころじゃあない。
ひとしきり燃えたその後で、腕の中のの髪を撫でながら、形兆はぼんやりとそんな事を考えていた。


「・・・形兆君、今日はありがと。」
「別に。こっちも散々世話になってたしな。」
「・・・っていうか、今日に限らず・・・、うん・・・、全部、ありがと・・・・」

は気恥ずかしそうにはにかみながら、よく分からない礼を言った。


「ヘッ・・・・、何だそりゃ。」
「形兆君のお陰で私・・・・、何とかやってられてるから・・・・。」

の家の話は敢えて訊かないようにしていたが、今頃はどうなっているだろうか。幾らあの母親が馬鹿でも、これだけあからさまにしているのだから、もういい加減に気付いているだろう。


「・・・そういや、最近はどうなんだよ?あのオッサン、妙な真似してこねぇか?」
「うん、大丈夫。あの人と二人にならないようにしてるから。」
「お袋は?」
「・・・・うん・・・・・・」

訊き方も漠然とし過ぎていたが、それに対するの答えもぼかされ過ぎていた。
だが、その曖昧すぎる反応を見れば、母娘の関係が今どうなっているのか一目瞭然だった。


「・・・こないだ、親父にお前の事を話した。」
「え・・・・・・・?」
「いつからでも来て良いっつってたぜ。」
「・・・・本当なの、それ・・・・?」
「言っただろ。うちは普通の家じゃねぇんだよ。」

形兆が平然と笑って見せても、はまだ信じられなさそうに呆然としていた。


「丁度もうすぐ冬休みだ。その頃に出て来るつもりにしてろよ。そこまで間がもたねぇっつーんなら、もっと早くに来たって構わねぇけどな。」

は、喜びよりも戸惑いの方が勝った顔をしていた。
だが、それには敢えて気付かぬ振りをし、形兆は淡々と計画を話して聞かせた。


「くどいようだが、俺達の事は絶対に誰にも言うんじゃねぇぞ。
誰にも何も言わず、お袋もオッサンもいねぇ時に、必要最低限の身の周りの物だけ持って出て来るんだ。
そんで、ここが重要なんだが、出て来る時に・・」
「け、形兆君・・・・」

はとうとう堪りかねたように、形兆の話を遮った。


「あ?」
「あの・・・・その・・・・、その話・・・、本当なの?」
「どういう意味だ?」
「その・・・、お父さんがOKしてくれてるってのもそうだけど・・・、本当の本当に、本気なの・・・・?」

形兆は暫く、睨むようにの目を見つめた。
意外だったのは、が負けじとまっすぐ見つめ返してきた事だった。


「私達・・・、まだ中学生だよ・・・・?」
「だから何だ?」
「まだ中学生なのに一緒に暮らすなんて・・・、それ・・・、本気なの・・・?」
「どういう意味だよそれ。お前まさか、こないだは口先だけ調子合せてたのか?俺の言う通りにするって言ったの、あれは嘘か?」
「そうじゃない・・・・!」

は、形兆の腕の中から跳ね起きた。


「ここに住めば良いって言われて、私、凄く凄く嬉しかった・・・!今でもだよ・・・!でもね、同じぐらい不安になるの・・・!一緒に住めって・・・、それ・・・、いつまで・・・・?」

ポツ、ポツ、と、涙の粒が零れ落ちた。


「甘えてここに転がり込んだとして、そうしたとして・・・、じゃあ・・・、いつまで私は・・・、ここにいて良いの・・・・?」

哀しそうなの泣き顔を、形兆はじっと見つめた。


「形兆君は・・・・、私の事・・・、どう思ってるの・・・・?」

の言わんとするところが理解出来た。
形兆は自分も身を起こし、とまっすぐ向き合った。


「・・・、正直に言う。俺は、多分お前が今考えてるような事は、考えてねぇ。だから、今の時点で未来の事なんか、何一つ約束出来ねぇ。
何故なら、俺の人生はまだ始まっちゃあいねぇからだ。」

の頬を、また幾つもの涙が伝い落ちた。


「俺は今、自分の人生を始める為に必死になってる。
俺が自分の人生を始める為には、まずやらなきゃいけねぇ事があってな。その為に、是非ともお前の協力が欲しいんだ。」

気が付くと形兆は、に本音を聞かせていた。
愛だの恋だの結婚だのと甘言を弄した方が、作戦としては余程効力があると分かっているのに。


「え・・・・?ど、どういう事・・・・?協力って・・・、私、何をすれば良いの・・・?」
「ここにいてくれ。俺達家族の、一員になってくれ。」

自分の発した言葉が、の気持ちを弄ぶようなものである事は、勿論分かっていた。
家族の一員になってくれなんて、まるでプロポーズのような言葉なのに、そうではないとはっきり否定しているのだから。


「・・・・分からないよ・・・、形兆君・・・・。そんな事言われたら、私・・」
「余計な事を考えるな。」

形兆は、困惑してさめざめと泣くを抱き寄せた。


「何の約束も出来ねぇっつったがよ、2つだけ、約束する。まず、どんな形であれ、お前への責任は必ず取る。」

永遠の愛なんて、ありはしない。
未来なんて、どうなるか分からない。


「そして、俺は必ず、俺の人生を始めてやる。必ず、な・・・・」

だからせめて、その2つだけは約束しておきたかった。
より一層の苦難に満ちているであろうここから先の、確固たる道標となるように。


「・・・俺を、信じられなくなったか?」

少しだけ身体を離してまっすぐに顔を見ると、は戸惑うように視線を逸らした。


「・・・・そんな・・・・事・・・・」
「俺がお前を利用しようとしていると思うなら、それでも構わねぇ。
だったら、お前も俺を利用しろ。
あの家にいる限り、お前もお前の人生を始める事は出来ねぇんだ。お前も自分の人生を始める為に、俺を利用しろ。」

ハッとしたようなの視線を、形兆はまっすぐに受け止めた。
愛じゃなくても、恋じゃなくても良い。
それでも良いから、に側にいて欲しかった。
















翌日の夕方、まだ明るい内には家へ帰った。
昨夜、形兆に言われた事に混乱していたせいもあったが、今日は夕方までに帰って来いと和代に言われている為でもあった。
その事は、形兆には言えなかった。
家を出て来いと言われているのに、母親に帰って来いと言われているからなんて、どうして言えようか。
そろそろ帰るねと告げた時、億泰はまだ良いじゃんかと名残惜しそうに引き止めてきたが、形兆は帰れとも帰るなとも、何も言わなかった。
そのあまりに素っ気ない態度が、より一層を混乱させた。

昨夜の形兆の口ぶりは、愛だの恋だのではなく、それ以上のもっと大きな理由があるようだった。
はその事に、決して小さくないショックを受けていた。
うちに住めと言ってくれたのは、愛してくれているからではないのか?
初めて結ばれた夜にも、形兆は『俺を助けてくれ』と口走っていたが、あれは孤独や過去の苦しみから逃れたいという意味ではなかったのか?
私の気持ちを利用して何かをしようと、何かを自分の都合の良いようにしようとしているのでは?
形兆を疑いたくはなかったが、そんな事を全く考えない訳ではなかった。

しかしそれならば、家族の一員になってくれというのは、一体どういう意味だったのだろうか?
彼の欲している『助け』や『協力』というのが、家族の一員になって虹村家に住む事だというのなら、それはやはり愛なのではないだろうか?
形兆は、お前も俺を利用しろと言った。そんな事は考えてみた事もなかった。
自分の為に好きな人を利用するだなんて、最低な事だと思っていたからだ。
だが今、こうして一人になってみると、だんだん自信が無くなってくる。
いやむしろ、自宅が近くなってくるにつれて、否応なく思い知らされるようになっていた。

安原のいる家に帰るのが怖い。
母親に裏切られるのが辛い。

そんな自分の事情で、毎夜形兆の家に逃げ込む自分は、彼を利用していないと言えるのだろうか?
そもそも、利用とは何なのだろうか?
考えてみれば、皆、皆、やっている事なのに。
和代だって、安原だって、それ以前の男達だって、学校の同級生達だって、皆、皆、同じなのに。
誰もが皆、自分の中の何かを満たす為に、他の誰かを求めるのに。


― 私、分かんなくなってきちゃったよ、形兆君・・・・・・


何だかとても疲れていた。
頭が回らなくて、これ以上考える事が出来なくて、は考えるのをやめた。


「・・・・ただいま・・・・」
「あ、お帰り〜。」

家に帰ると、フルメイクの和代が出迎えてくれた。
また安原とパチンコでも行っていたのだろうか、それとも、また晩ご飯でも食べに行こうと言い出すのかと思っていたが、そうではなかった。


「ごめん、晩ご飯何か作ろうかと思ってたんだけど、お母さんちょっと用事が出来たから、これから出掛けてくるわ。」
「え・・・・、どこへ?」
「ちょっと常連のお客さん達に誘われたのよぉ。」

和代は煩わしそうにそう答えて、甘ったるい匂いのする香水を首筋に吹き付けた。
食事か、飲み会か、そんな事はどうだって良い。
問題は、こたつの中で堂々と寝そべって、煙草を吸いながらTVを眺めている安原だった。


「信ちゃんごめんね。悪いけどちょっと行って来るわ。なるべく早く帰るから、の事お願いね。」
「ああ、いいっていいって。俺らの事は気にしねぇで、ゆっくり行って来いよ。これも仕事の内だろ、な?」

安原は労うように、和代の肩を何度か揉んだ。


「ふふっ・・・、ありがと。」

和代は嬉しそうな微笑みを安原に向けてから、ハンドバッグを持って立ち上がった。


「じゃ、行って来るわね。」
「っ・・・・・・!」

横をすり抜けて行こうとする和代に、は一瞬、縋るような視線を送ってしまった。
すると和代は、をキッと睨み返した。
我儘もいい加減にしろとでも言いたげな、厳しい目だった。


「・・・・行ってらっしゃい・・・・」

和代が横を通り抜けて出て行く瞬間、寒気を感じたのは、外の冷たい風のせいではなかった。
もう駄目だ。
窒息しそうな程の危機感の中で、は絶望を噛み締めていた。
一瞬でも形兆を疑った自分が、酷く愚かに思えてならなかった。
形兆は全て、正直に話してくれたのに。
何か大変な事情がある事も、永遠の愛だの結婚だのと言っていられる余裕はない事も、ちゃんと全部、正直に話してくれたのに。
将来を誓ってくれる事を内心で期待していたあの時は、厳しく突き放すような言い方をする形兆に、彼の気持ちに、少なからず疑念を抱きショックを受けたが、あれはきっと形兆の精一杯の真心だった。
どうしてそれにすぐ気付かなかったのだろうか。
愛だの恋だのと甘い言葉で誤魔化して、自分の都合の良いように他人を利用する者達が、こんなに身近にいるのに。


「・・・・・・」

は息を殺して安原のいる部屋を恐る恐る通り抜け、奥の部屋に入った。
そして襖をそっと閉めると、すぐに明日の学校の支度を始めた。
着替えの下着と制服、教科書にノート、片っ端から全部通学鞄に詰め込んだ。
このままここにいたら、安原に何をされるか分からない。
そんな恐怖が、荷造りする手をどんどん早めていた。


「・・・・よぉ、不良娘。」

案の定、安原は頃合いを見計らったように、襖を開けて入って来た。


「すっかりあの金髪に入れ込んでるみてぇだな。ガキの癖して毎晩毎晩盛りやがってよぉ、えぇ?」
「あっ・・・・・!」

突然、頭を殴られた。
平手で叩かれただけだったが、にはそれだけでも十分すぎる程の脅威だった。


「こないだはよくもやってくれたなぁ、このクソガキが。」

威嚇するように目を見開いて迫って来る安原に、は言葉も出ない程怯えていた。
家にいる限り、お前もお前の人生を始める事は出来ない、昨夜の形兆の言葉が、耐え難い程の重みをもって圧し掛かってきた。  
形兆の言う事は正しかった。父親の暴力に曝されてきた彼には、きっと何もかも手に取るように分かっていたのだ。
彼が今抱えている事情が何なのか、『やらなければいけない事』というのが何なのか、それは分からないが、助けを求めている者同士、支え合って生きていけば良い。
形兆の言った『協力』とは、『家族になってくれ』という言葉は、きっとそういう意味だったのだ。
足元から崩れ落ちてしまいそうな恐怖の中、は今、そう確信していた。


「大人をナメんじゃねーぞ。今日という今日はタダじゃおかねーからな。」
「い・・・・、いや・・・・・」

永遠なんて、幸せな人達の幻想だ。
居場所の無い者にとっての『永遠』は、地獄でしかない。


「和代の奴が甘やかしてるのがいけねーんだよな。オレがきっちり躾け直してやるよ。」
「・・・・・!」

安原が手を伸ばしてきた瞬間、は咄嗟に、ペン立てに立ててあったカッターナイフを手に取り、安原の眼前に突きつけた。


「うわっ・・・・!な、何しやがる!?」
「・・・・来ないで・・・・」

少しでも退けば負ける、そんな気がして、はまっすぐに安原を見据えながら、カッターの刃を出した。チキチキ・・・という小さくも不穏なその音に怯み、安原は強張った顔で後退りした。


「来ないで・・・・・・」

絶対に、負けてはいけない。絶対に。絶対に。
は自分にそう言い聞かせながら、鞄を抱き抱え、ジリジリとその場を離れていった。


「テメェこの・・・・!」
「来ないで!!」

横を通り抜けた瞬間、安原はまた掴み掛かろうとしてきたが、カッターナイフを一閃させると、慌てて手を引っ込めた。
はそのまま通学用の白いスニーカーを履き、急ぎ足で家を出た。
外はもう暮れかけていて、寂しい夕闇が降り始めていた。
もうすぐ、また夜がやって来る。
その前に、戻らねば。
形兆の元に、戻らねば。
その事だけを考えて、は虹村家へ急いだ。
そして、玄関の前まで来ると、ドアをドンドンと叩いた。
何度か叩いていると、2階の窓が開き、億泰がひょっこりと顔を出した。



「誰だぁ〜!?・・って、ネーちゃん!!」

まだ動揺が治まっていなくて、言葉を返す事は出来なかった。
ただ、何も知らない幼い億泰に心配を掛ける事はしたくなくて、は何とか笑顔を作って手を振った。


「アニキぃ、ネーちゃんがまた・・・」

億泰が顔を引っ込めるのと入れ替わるようにして、今度は形兆が窓から顔を出した。


「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」

一瞬見つめ合った形兆の目は、何もかもを見通しているかのようだった。
その次の瞬間、形兆はまた奥へ引っ込み、ほんの数秒経つか経たぬかの内に、凄い速さで階段を下りて来る足音が玄関ドアの向こうから聞こえた。


「け・・」
ネーちゃん!!どうしたんだよぉ、帰ったんじゃなかったのか!?」

形兆かと思ったが、ドアを開けて勢い良く飛び出してきたのは億泰だった。


「あ・・・・うん・・・・その・・・・・」
「・・・億泰」

何と答えるべきか戸惑っていると、億泰の後ろから形兆が姿を現した。


「お前は上へ上がって、引き続き食卓の用意をしてろ。食器をもう1人分追加してな。」
「おうっ!分かったぜぇアニキぃッ!」

億泰は嬉しそうに笑って、また凄い速さで階段を駆け上がって行った。
その賑やかな足音が聞こえなくなった後には、静かな波の音だけが残った。


「・・・・・形兆君・・・・・、私・・・・・・」

形兆は何も言わず、に近付いて来た。
そして、抱き抱えている鞄の中に突っ込んだままのの右手を取って、ゆっくりと外に出した。


「・・・・・私・・・・・・」

その手はまだ、カッターナイフを強く握り締めたままだった。
人に刃物を向けたのはあれが初めてで、自分がそんな恐ろしい事をしたなんて信じられなくて、怖くて、怖くて、手が硬直していた。


「・・・・刃が綺麗だ。やらなかったんだな。」

形兆は、の握り締めているカッターナイフをじっと見つめた後、そう呟いた。
微かに頷くと、形兆はの右手を優しく握った。


「ぁ・・・・・・・」

形兆に手を握られると、ガチガチに緊張して固く握り込んでいた手の力が次第に緩み、ゆっくりと開いていった。
そして気が付くと、カッターナイフは形兆に取り上げられていた。
形兆は飛び出したままだった刃を引っ込めると、穏やかな微笑みをに向けた。


「・・・お帰り。」

何が悪いというのだろう。
居場所の無い者同士、助け合って『家族』になる事の、何が。


「・・・・ただ・・・いま・・・・」

は引き寄せられるようにして、形兆の胸の中にゆっくりと身体を預けた。



















「親父、待たせたな。飯だぞ。」

夕食のトレーを目の前に置いてやると、父はすぐさま手掴みで食べ始めた。
発情時を除き、この化け物の食欲が無いという事は基本的にないのだが、今日はとりわけ食欲が旺盛だった。
何だか機嫌が良さそうに見えるのは、気のせいだろうか。


「今日のオヤジ、よく食うなぁ。アニキのハンバーグ美味いもんなぁ。」
「フン。味なんぞ分かってるもんかよ。」

父に食事を運ぶ仕事は、『給仕』というよりも『給餌』といった方が相応しい。
箸やナイフはおろか、スプーンやフォークも使えず、目につく物を手当たり次第に手掴みでガツガツと食べる様は正しく獣で、その獣に糧を与える行為は餌やり以外の何物でもないと、形兆は常々思っていた。


「そうかなぁ、きっと分かってると思うぜ。だってアニキのハンバーグ、本当に超美味ぇもん。」

しかし億泰は、そう言って嬉しそうに笑いかけてきた。
自分には無い『優しさ』というものが、コイツにはきっとあるのだろうと思うと、一瞬、チビの億泰が大きく見えた気がした。


「・・・・・なぁ、アニキ」
「あぁ?」
ネーちゃんさぁ、何でまた来たのかなぁ?何だか、ちょっとだけ・・・・、様子も変だったし。」

馬鹿の癖に、割と鋭い。
形兆は横目でチラリと億泰を睨んだ。


「何だ、アイツがうちにいたら気に入らねぇのか?」
「ち、ちげーよ、そうじゃなくてさ、その・・・・・、オヤジの、事」
「・・・・・・」
ネーちゃんに・・・・、いつかバレちまうんじゃねぇかって・・・・、ちょっと、心配なんだ・・・・・」

親父の事は、絶対誰にも知られるな。
刷り込むように億泰にそう言い続けてきたのは他でもない、形兆自身だった。
億泰が馬鹿だから、これで済んでいるのだ。
もう少し知恵のある奴だったら、ブチ切れて盛大に反抗しているだろう。
俺には友達の一人も作らせない癖に、兄貴は女を連れ込むなんてどういう了見だと。


「・・・心配ねぇ。アイツの事は気にするな。今後、アイツがうちにいつ出入りしようが、お前は何も口出しするんじゃねぇぞ。分かったな?」
「で、でもよぉアニキ、そうしたら本当にすぐバレちまうぜ・・・・!?
オヤジ、あの箱漁る時にガタゴト音立てるし、いきなり叫んだりとかするし・・・・・。
ネーちゃん、今夜も泊まってくんだろ?昨日はたまたまオヤジが大人しかったからバレなかったけど、下手したら今日にでもソッコーでバレるかも・・・」
「分かってる。アイツには勿論、打ち明けるさ。何もかも・・・・な。」
「え・・・・・!?」

流石の馬鹿でも、この発言は聞き捨てならないようだった。


「ど、どういう事だよアニキ・・・・!?だ、だって今までアニキ、オヤジの事は誰にも言うなって・・・」
「それは他人の話だ。問題ねぇだろ、アイツがうちの一員になっちまえば。」
「へ・・・・・!?」
「億泰。俺は近い内、全てを打ち明けた上で、アイツをこの家に迎える。」

形兆がそう予告すると、億泰は呆然と見開いた目で形兆を見た。


「・・・・・アニキ・・・・・、それって・・・、どういう事だよ・・・・?」

億泰は馬鹿だが、勘の鋭いところがある。何か感じ取ったのかも知れない。
だが、今更やめるという選択肢は、形兆には無かった。


「心配するな。お前は黙って俺の言う通りにしてりゃあ良いんだ。
お前だって、と一緒に暮らせるようになったら嬉しいだろ?」
「う・・・ん・・・・、そりゃあ、まぁ・・・・」
「とにかく、今はまだ親父の事には気付かれねぇようにしろ。には折を見て俺から話す。分かったな?」
「わ、分かったよぉ・・・・・」
「じゃあ、そろそろ下に下りるぞ。アイツが風呂から出て来ちまう。」
「う、うん・・・・・」

形兆は億泰を促して、父の部屋から出た。
ドアを閉ざしてしまうと、そこにはもう、何の気配も無くなった。

















2学期の終業式を翌週に控えて、達の中学は今、三者面談の期間中だった。
虹村家に転がり込んでから3日後の水曜日、今日はの面談日だった。
3日ぶりに会った和代は、強張ったような固い表情をしていた。
あの日以来会っておらず、電話の1本さえもしていなかったから、叩かれたりしてめちゃくちゃに怒られる事を覚悟していたが、学校だからだろうか、和代はそれをしなかった。
面談では、担任の青山から、急速かつ劇的に落ちた成績と授業中の居眠りの多さ、忘れ物の多さ、それに加えて今日の遅刻の事を指摘された。
全部事実だから、否定は出来なかった。
毎晩の寝不足が祟って、このところの授業は殆ど聞いていないし、宿題等の提出物や勉強道具の忘れ物も増えているし、今日はとうとう盛大に寝坊して、大幅に遅刻してしまっていたのだ。
形兆との事を口外する訳にはいかないから言い訳も出来ず、は針の筵に座るような気持ちで、ひたすら沈黙を守り通した。
青山は先日の指導の続きのように、何があったんだ話してみろと繰り返し、母親である和代にも同じような事を何度も訊いた。
だが、と同じく、和代も何も答えなかった。
母娘で黙り込んだり口籠ったりしている内に、面談の持ち時間が終わってしまい、青山は不承不承の様子ながらも、と和代を解放した。


「・・・・この3日間、あんた何処にいたの?」

学校を出た途端、和代が口を開いた。


「また例の『友達』のとこでしょ?」

分かってはいたが、和代はやはり怒っていた。


「分かってんのよ。信ちゃんから聞いたんだからね。頭真っ金々の不良なんだってね、あんたの彼氏。」
「・・・・・」
「何が女の子よ、嘘つき。あんたがそんな嘘つきだったなんて思わなかった。」

ハイヒールの踵を鳴らして帰り道を歩きながら、和代はとうとうとを責めた。


「誰の為に命削るような思いして働いてると思ってんのよ。
人が必死で、飲みたくもない酒飲んで商売してる時に、あんたがそんな何処の誰だか分からないガラの悪い男を家に引っ張り込んでたなんて、考えただけで倒れそうだわ・・・・!」
「・・・・・・」
「何とか言いなさいよ。何処の誰なのよ?えぇ?」

和代は足を止めて、を睨んだ。
その目に何だか憎まれているような気がして、腹立たしさや悲しさや、色んな気持ちが入り混じって、涙が込み上げてきた。


「・・・・言ったら・・・・、安原さんの事・・・・、追い出してくれる・・・・?」
「あんたほんと・・・・、何でそう分からず屋なの!?」

がやっとの思いでそう呟くと、和代は絶望したようにヒステリックな声を張り上げた。


「お母さんはねぇ、何も男の子と付き合うなって言ってんじゃないのよ!それならそうと正直に言えって言ってるの!
それに、あんたの恋愛とお母さんの恋愛は関係ないでしょ!?
信ちゃんの事が気に入らないからって、当てつけみたいに彼氏作って外泊ばっかしてんじゃないわよ!」
「・・・・当てつけなんかじゃ・・・・ないよ・・・・・」

形兆はそんな存在じゃない。
何処にも居場所の無かった自分を受け入れてくれた、たった一人の人なのだ。
誰にも理解して貰えなかったこの寂しさを、悲しみを、唯一、理解してくれた人なのだ。


「分からず屋はお母さんの方じゃない・・・・!私が何言ったってお母さんは・・・・!」

はポロポロと涙を零しながら、和代に負けない位に声を張り上げた。
そんな二人を、通りすがりの人が怪訝そうに見ていく。
その視線に先に気付いた和代は、決まりの悪そうな顔でから目を逸らした。


「・・・とにかく、帰るわよ。あんた今日は家にいなさいよ。絶対だからね。」

絶対と言われても、和代の言いつけに従う事など、今のには出来なかった。
刃物まで振り回してしまった以上、安原はもう決して逃げる隙を与えてはくれないだろう。次に二人きりになる事があれば、その時こそ絶対に無事では済まない。
信じても護ってもくれない母親はもはや他人も同然で、今のに信じられるのは、形兆ただ一人だった。
一旦は大人しく和代と共に家に帰ったが、和代が出勤していくのを見計らって、は再び家を出た。行先は勿論、虹村家だった。



「おう。遅かったじゃねぇか。」

玄関に出て来た形兆は、ごく自然な口調でそう言った。
つい数日前までは、夜中に訪ねて来ていたのに。


「・・・ごめん・・・・」

日に日におかしくなっているのが、自分でも分かっていた。
曜日も日付も感覚が分からなくなって、何だかまるで夢でも見ているかのように、頭がいつもぼんやりとしている。
僅かな期間に狂いに狂ってしまった生活サイクルのせいでそうなってしまっているのは理解しているが、かと言って、どうしようもなかった。
自分の家だった場所は、今はもう自分の居場所ではなく、心安らぐ事もないのだから。


「とにかく入れよ。飯出来てるぞ。」
「あ・・・・、ご飯は・・・・、さっき、家で食べてきたから・・・・」
「・・・・そうか」
「ごめんなさい、折角作ってくれてたのに・・・・・・」

気を悪くさせてしまっただろうかと不安になったが、形兆は些かも表情を変えなかった。


「そういやお前今日、面談だったっけな。」
「うん・・・・・」
「お前のお袋、何か言ってたか?」
「・・・・あの人が・・・・、形兆君の事、お母さんに喋ってた・・・・」

がそう答えると、形兆は一瞬、顔を強張らせた。
こんなに早くバレるなんて、やはり計算外だったのだろうか。
自分の立ち回り方が、形兆の予想よりも下手だったからだろうか。
しかし、謝ろうと思った瞬間、形兆の方が先に口を開いた。


「・・・・だが、俺の事は何も知らないままだ。名前も年も住所も。だろう?」
「う、うん・・・・・」
「だったら何も問題ねぇ。気にするな。」

平然と唇を吊り上げて見せる形兆の表情にはもう、さっき一瞬見せた緊迫感は無かった。


「・・・・形兆君・・・・」

踵を返して先に家へ入ろうとする形兆の背中に、は小さく呼びかけた。


「あ?」
「私・・・・、どうしたら良い・・・・?」

問いかけると、形兆はゆっくりと振り返った。


「形兆君には何か考えがあるんでしょ?私はいつ、どうやって、家を出て来たら良い?」
・・・・・」
「形兆君の言う通りにするから・・・・、だから・・・・」

お願いだから、独りにしないで。


「どうしたら良いか・・・・・、指示して・・・・・・」

口に出せないその願いを胸の中に押し込めて、はおずおずと形兆の腕の中に身を預けた。
















それから終業式までの1週間を、は形兆の指示通りに過ごした。
その内容は、日によってまちまちだった。
普通に登校しろと言われる事もあれば、遅刻して来るように言われる日もあり、学校をサボって夕方まで少し遠出して来いと、お金を渡された時もあった。
家へも帰ったり帰らなかったりだったが、帰ったとしても滞在時間はほんの僅かで、帰宅した痕跡を残す為だけの帰宅だった。
その一つ一つの行動に何の意味があるのかは分からなかったが、別に知りたいとも思わなかった。
形兆への疑念はもはや欠片程も無く、彼の言う通りにしていれば間違いはないのだと、そう信じて疑っていなかったからだ。
そうして、2学期の終業式を終えた日の夕方、は形兆の目の前で1通の手紙を書き上げた。
母・和代への、決別の手紙を。


「・・・よし。それで良い。」

書き上がったばかりでまだ机の上にあるその手紙をチェックして、形兆は満足そうに頷いた。


「家に帰ったら、すぐに荷物を纏めて、その手紙を置いて出て来い。分かったな?」
「うん。」
「今日はお前のお袋、本当に確実に店に出るんだな?」
「うん。この時期は忘年会シーズンだし、毎年年末ギリギリまで休み無しでお店開けてるから。」

自分で何気なく言った言葉が、先日の和代の言葉を思い起こさせた。
誰の為に命を削るような思いで働いていると思っているのか、そう言った時の和代の傷付いたような顔が、忘れられなかった。
だが、もうどうしようもない。
もう今更、後戻りは出来ない。
母親への未練を振り払って、書き上げた手紙を封筒に収めていると、不意に形兆が背中から抱きしめてきた。


「・・・・・やっぱり、嫌か?」

一瞬、ハッとした。


「そ・・・・、そんな事ないよ・・・・!」

見透かされていると、そう思ってしまった。


「本当か?」
「本当だよ。」

だが、今更後戻りなど出来ない。
形兆を裏切る事など、どうして出来ようか。
助けてくれともがいているのは自分だけではなく、形兆もまた、助けを求めているのだから。








和代が出勤した頃合いを見計らい、は自分の家へ向かった。
そして、家に灯りが点いていない事を外から確認して、そっとアパートの階段を上がり、静かに鍵を開けて中に入った。
家にはやはり誰もいなかったが、和代の煙草の匂いがまだ強めに残っていた。
多分、ついさっきまではいたのだろう。5分か10分か、それ位前までは。
そう思うと、急に胸が詰まって、涙が込み上げてきた。


「うぅっ・・・・・・」

和代が安原を取ったように、も形兆と生きる道を選んだ。
その事に後悔は無いし、裏切った和代を許してもいない。
だが、それならば。


「うぅぅっ・・・・・!」

それならば、この悲しみは一体何なのだろうか。
はその場に座り込み、少しの間、声を殺して咽び泣いた。
しかし、やめるという選択肢は無かった。
は涙を拭うと、持って来ていた手紙をこたつの上に置き、奥の部屋に入って荷造りを始めた。
荷造りといっても、大した荷物は無かった。
学校の物や当座の着替えは既に殆ど虹村家に置いてあるし、宝物も趣味の物も取り立てて何も無い。
持って出るとすれば、あとは精々季節外れの春夏物の洋服と、そろそろ月のものが来る頃だから、生理用品位だろうか。
は押入れから適当な大きさの紙袋を出し、目ぼしい衣類と、買い置きのナプキンなどを手早く詰め込んだ。


「・・・・お母さん・・・・」

もう二度と、ここへ帰って来る事はないだろう。
母娘二人で暮らす事も、もう二度と無い。


「さよなら・・・・・・」

この部屋に、13年間の母娘の生活に、別れを告げると、は部屋の電気を消そうとした。
その時、玄関のドアがガチャガチャと何度か無遠慮な音を立てた。


「あぁ?何だ、何で鍵が開いてんのかと思ったら、オメーいたのかよ。」
「はっ・・・・!」

安原は事も無げにそう言い放ち、靴を蹴り捨てるように脱いでズカズカと入って来た。
は反射的に後退りし、安原から距離を取った。
しかし安原は、必死で警戒心を剥き出しにするの事などまるで気にも留めずにジャンパーを脱ぎ捨て、こたつの前に腰を下ろしかけた。


「あぁ?何だこりゃ?」

そして、こたつの上の手紙に気付き、『お母さんへ』と書いてあるにも関わらず、何の躊躇いもなく封を切った。


「あぁっ、や、やめて・・・!」
「えーと、なになにぃ?」

手紙を奪い返そうとするを腕で押しやって、安原は手紙を音読し始めた。


「お母さんへ。私にも好きな人が出来ました。これからはその人と暮らします。
私の事は心配しないで、お母さんは安原さんと幸せになって下さい。お世話になりました、さようなら。」
「っ・・・・・!!」
「ぶ・・・、ぶわーーっはっはっは!!」

安原は馬鹿にしたような口調でそれを読み上げた後、大笑いを始めた。
どんな思いでこれを書いたか、何にも、何にも、知らない癖に。


「ぎゃはははは!何だこりゃあ!これ、アレか!この好きな人ってのは、あの金髪の事か!
ははははは!何だオメー、すっかりのぼせ上がってやがんなぁオイ!ははははは!
ま、あのヤローに何吹き込まれたか知らねーが、せいぜい捨てられねーように気ィつけろよ!男ってのはな、3ヶ月もすりゃ飽きて別の女が欲しくなるもんだからよ!」
「け・・あの人はそんな人じゃない!」

形兆を侮辱された瞬間、は思わず叫んでいた。


「あの人は・・・そんなんじゃない・・・。アンタなんかと一緒にしないで・・・・」

形兆は、あっという間に熱が冷めて他の女の子に気を移すような、そんな軽薄な男ではない。
一時燃え上がった恋愛感情に任せて軽はずみに家出を唆すような、そんな無責任な人ではない。
絶対に、絶対に、そんなんじゃない。
は心の中で何度もそう繰り返しながら、自分の中のありったけの敵意を込めて、暫し安原を睨みつけた。そして、安原の横を通り過ぎ、出て行こうとした。


「・・・おっと。」

だがやはり安原は、黙って出て行かせてはくれなかった。


「放してっ・・・、あっ・・・!」

捕まれた腕を振り解いた瞬間、頬を思い切り叩かれ、は床に倒れ込んだ。


「このクソガキがぁっ!言いたい事言って出て行けると思ったら大間違いだぞ!オメーこないだの事忘れた訳じゃねーだろうなぁ、おぉ!?」
「ぃやっ・・・!やぁっ・・・!」

安原は更にの上に馬乗りになり、顔と言わず頭と言わず無差別に殴りつけてきた。必死に腕で庇うも、その腕も跳ね除けられ、何度も頬を叩かれた。


「調子こいてんじゃねーぞガキィッ!今日という今日は思い知らせてやるからなぁ!」
「や・・・っ・・・、い、やぁっ・・・・!!」

抵抗も空しく、トレーナーが捲り上げられ、ズボンのホックが外された。
今度という今度は、もう逃げられない。
観念しかけたその瞬間、玄関のドアが開いた。


「か、和代・・・・!」

安原は怯んだようにそう呟いて、そそくさとの上から下りた。


「な、何だオメー、店どうした・・・!?」
「忘れ物・・・、したから・・・・」
「そ、そうか・・・・」

和代は呆然とした顔つきでハイヒールを脱ぎ落とし、部屋に入って来た。


「や、ち、違うんだよ和代、これはよぉ・・・・!」

安原は猫撫で声を出して纏わりつくように和代の肩を抱き、苦しい弁解を始めた。


「コイツがよぉ、家出して男んとこ転がり込むとか言いやがったんだよ!
オメーの苦労も知らずによぉ、また酷ぇ態度で出て行こうとするから、ついカッとなっちまって・・・!」
「違う!!」

安原の弁解を掻き消すように、は大声を出した。
しかし和代はどちらにも返事をせず、こたつの上に投げ出されてあった手紙を取り上げて読んだ。


「・・・・・・・・・」
「オメーがどんだけ苦労してるか、一番知ってんのはオレだろ?
オメーの気持ちを思うとよぉ、コイツのワガママがどーにも我慢ならなくなっちまって・・・」
「違うお母さん!!この人は私の事・・」

和代に詰め寄りかけたその瞬間、は頬に強烈な痛みを感じた。


「いい加減にしなさいよ!!!」

和代のヒステリックな金切り声を聞いて、ああ、叩かれたのだと理解した。


「何がそんなに気に入らないのよ!!あたしは幸せになっちゃいけないの!?
あたしの人生、全部あんたの為に使わなきゃいけないの!?冗談じゃないわよ!!
あんたなんか・・・・・、あんたなんか産まなきゃ良かったわ!!
何処へなりとも行けばいいわよ!さっさと出て行きなさいよ!!」

荷物の詰まった紙袋を玄関に向けて放り投げ、和代はに背を向けた。
忙しなくカチカチとライターを鳴らしている和代に、安原がすかさず火を差し出した。
そんな二人の姿を見ていると、不思議と涙も出なかった。
今まであれだけ、何度も何度も泣いたのに。
今はもう、不思議とあまり悲しくなかった。
は黙ったまま紙袋を拾い上げ、靴を履いて、家を出た。
これが最後の別れだという事は勿論理解していたが、何だかまるで現実味がなくて、他人事のようだった。




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後書き

ヒロイン、とうとう家を出ました。
ますます気の滅入るような内容になってきました、すみません。