「・・・・・であるからして、つまり、この頃の武家社会というのは・・・・」
抑揚のない退屈な口調で語られる日本史の授業を、形兆は殆ど聞き流していた。
溝口の頭は相変わらずの不自然さを醸し出しているが、今は面白いと思えなかった。
父親の事で悩まされていて、そんな気分ではなかったのだ。
今週に入ってから、父はまた発情していた。
前回から2週間、こんなに間隔が狭まったのは初めてだった。
もしかしたら父は、今の方法に飽きて欲求不満が溜まってきているのではないか。
考えたくもない事だったが、しかし、そうだとしか考えられなかった。
新しい雑誌を与えてもすぐに見向きもしなくなるし、あの耳障りな声までもが何となく悲痛に聞こえるようになってきているのだ。
しかし、そうかと言って、出来る事はごく限られている。
ビデオは再生や巻き戻しといった操作の手間が頻繁に掛かるので使えないし、勿論、生身の女など宛がえる訳もない。
だから今回は、雑誌を全て新しいものに替えて、蒟蒻を用意した。
板蒟蒻に切れ目を入れたものを使うと性交に似た感覚を味わえると、校内の不良グループの連中が笑いながら話していたのを漏れ聞いたのだ。半信半疑で試した事だったが、幸い効果はあったらしく、父はこの数日、それに夢中になっている。
ひとまず今回はこれでもつだろう。だが、いつまでもつかは分からない。
「・・・・・・?」
ふと、隣から視線を感じた。
目を向けると、がこちらを見ていた。
手に小さな紙片を持っているので、形兆は他の者に気付かれないようにして、下からそっと手を伸ばした。は形兆に紙片を手渡すと、何事も無かったかのようにまた前を向いた。
『学校が終わったら、ちょっと顔貸して下さい。いつもの公園で待ってて。』
渡された紙には、そう書かれてあった。
の方に目を向けると、は僅かに微笑んだ。
は今日、何だかやけに血の気が薄く、いつにもまして翳りのある顔をしていた。気にはなったが、どうする事も出来ず、形兆はあまりの事を考えないようにして授業時間を乗り切った。そして、帰りのHRが終わると、掃除当番のを残し、一人で先にいつもの公園へ向かった。
「ごめんね、お待たせ・・・・・!」
がやって来たのは、形兆が公園に到着して20分後位だった。
「よぉ。何だよ。」
何だよと訊きながらも、話は多分明日の誕生会の事だろうと、形兆は予期していた。
時間の指定か確認か、それとも食べたい物のリクエストか、そんなところだろうと。
それがおめでたい勘違いだと知らしめられたのは、次の瞬間だった。
「あのね・・・・、明日の・・・事なんだけど・・・・・・」
「おう」
「悪いんだけど・・・・、明日のお誕生会、キャンセル・・・させて・・・・」
咄嗟に、言葉が出なかった。
にそんな事を言われるとは、本当に、全く、想像もしていなかったのだ。
だがすぐに、そんな自分が恥ずかしくなった。一体何様のつもりで、は自分にせっせと尽くしてくれるものと思っていたのかと。
「・・・・ああ・・・・」
飲み食いするには、それ相応の労力と金がかかる。人を招いて振舞うとなれば尚更だ。これまで毎週末のように兄弟で押しかけて散々飲み食いしてきたし、その上誕生会までとなると、金銭的にも労力の面でも、流石に負担しきれなくなったのだろう。
だが、それで当然だ。招かれて振舞われる側が文句を言う権利など一切ない。
それに、誕生会が中止になってガッカリしたとに思われるのも嫌だった。そんな格好の悪い事など、断じて。
「分かった。」
「本当に、ごめんなさい。私が言い出した事なのに・・・・・・」
「気にすんな。どうせ元々テスト間近だ。構わねぇよ。」
形兆は出来るだけ何気なく聞こえるように、平然とそう言ってのけた。
だが、の話はそれで終わった訳ではないようだった。
「それからね・・・・、あの・・・・・・・」
「何だよ、まだ何かあんのか?」
「これから、もう・・・・、家には呼べなくなっちゃったから・・・・、億泰君に、よく謝っておいて・・・・・・・」
目を合わせないようにしてそう告げたの顔を、形兆は呆然と見た。
顔色が悪い。
よく見れば目の下にうっすらと隈が出来て、憔悴した顔付きをしている。
たとえ昨夜、苦手な数学の勉強を遅くまで頑張ったのだとしても、ここまで疲れ果てるとは考えられなかった。
「・・・・何があった?」
「・・・・え・・・・?」
「何かあったんだろ?」
毎週土曜の夜に、兄弟で上がり込んで飲み食いしていた事が母親にバレて叱られたのだろうか。
それとも、これは考え難い事だが、あの夜の事を、あの中年男がバラしたのか。
ともかく、の身に何かが起きた事だけは確かだった。
「正直に言え。」
迫るようにして問い詰めると、はそれまで張り付けていたぎこちない微笑みを消した。
「・・・・昨日から・・・・、あの人・・・・・」
「あの人って・・・・、こないだの、あのオッサンか?」
は小さく頷き、震えるような小声で呟いた。
「あの人がね・・・・、昨日から、うちに住んでるの・・・・・」
「・・・・何だと?」
聞かされたのは、耳を疑いたくなるような話だった。
「おいどういう事だよそりゃあ・・・・・」
「あの人、家賃滞納してアパート追い出されて、他に行くとこないから仕方なく、なんて言ってたけど、でも多分・・・・、結婚・・・・するのかな・・・・・・」
「結婚って・・・・」
「お母さん、そのつもりみたいだった・・・・。来年になったら、今のお店辞めて二人で小料理屋やろうって言われてるとか、近い内にもう少し良い部屋に引っ越すとか、何か色々言ってたから・・・・・」
「何・・・・・、何寝言言ってんだよ・・・・・」
聞くに堪えない世迷言としか思えなかった。
それを、大の大人がのうのうと宣っているなんて、心底腹が立つ程信じられなかった。
「中坊にはした金たかる奴が、どうやって店開くっつーんだよ!?
家賃滞納してアパート追い出されて女の家に転がり込む奴が、どうやって良い部屋に引っ越せるっつーんだよ!?」
気付けば形兆は、を相手に憤っていた。
に怒鳴ったって仕方がないのに。
が悪い訳ではないのに。
我に返って黙り込むと、は取り繕うように笑った。
「そ、そういう訳だからさ・・・・・!明日は本当にごめん・・・・!
お詫びと言っちゃあ何だけど、これ、お誕生日のプレゼント・・・・・!」
は通学鞄の中から、金色のリボンで口を括った青い袋を取り出すと、形兆に差し出した。
受け取ってリボンを解き、中身を出してみると、殆ど黒に近いダークグレーの、ふんわりと温かそうなマフラーだった。
「これ・・・・・・・」
編み目がやや不揃いで、既製品に必ずついているタグもないそれは、恐らくの手編みだと思われた。
「へ、変な意味じゃないから、心配しないで!前々から編み物に興味あって、ちょっとやってみたかっただけなの!あげといて何だけど、下手くそだから捨てちゃって!」
笑っている癖に、はまるで泣きそうな顔をしていた。
「・・・・じゃあ・・・・」
そして最後に、今にもかき消えてしまいそうな弱々しい微笑みを残して、形兆に背を向けた。
「・・・・・っ・・・・・・!」
が去って行こうとしたその瞬間、形兆は思わず、の華奢な手首を掴んでいた。
「・・・・・・・・・」
何を言うべきなのかは分からなかった。
ただ、この手を離したら駄目だという事だけは、はっきりと確信していた。
「・・・・虹村君・・・・・、訊いても良い・・・・・?」
やがて、の方から口を開いた。形兆に手首を掴まれたまま、振り向かずに。
「・・・・何だよ・・・・」
「虹村君のお母さんって・・・・、クッキー・・・焼いてくれた・・・・?」
「・・・・は・・・・?」
この状況で、訊かれる事など一つしかないと思っていたが、は予想外の事を訊いてきた。
「何だよそれ・・・・。訊きてぇ事って、そんな事なのかよ・・・・」
「うん・・・・。一度、訊いてみたかったんだ・・・・」
の事をどう思っているのか、今まで敢えて目を背けてきたその答えを今正に直視しようとしていたところに、この質問は正直、ガックリする程拍子抜けだった。
一体何のつもりでこんな事を訊くのか、理解は出来ない。だが、別に隠すような話でもなかった。
「・・・ああ。元気だった頃は、よく作ってくれた。」
「お花は?お庭でお花、植えてた?」
「ああ。花が好きで、季節ごとに色んな花を植えてたよ。」
「虹村君が描いた絵とか、飾ってくれた?」
「ああ。俺が幼稚園で描いてきた、ヘッタクソな母の日の絵とかよ、わざわざ額に入れて壁に飾ってた。」
こんな所で、こんな状況で、こんな気持ちで、死んだ母親の思い出を語るなんて、変な気分だった。自分でもおかしいと思う位、泣きたい気分だった。
「・・・・そっかぁ・・・・・、ふふっ・・・・、やっぱりなぁ・・・・・!」
の声も、か細く震えていた。
「やっぱりって何だよ・・・・・?」
「そんな気がね、してたんだ・・・・・。虹村君のお母さんってきっと・・・・、素敵なお母さんだったんだろうなぁ、って・・・・・」
はしゃくり上げるように大きく息を吸うと、不意に形兆の手を振り解いた。
勢いなど全くない、静かな動作だったのに、何故だかもう一度掴み直す事は出来なかった。
「・・・・ありがとう・・・・」
震える声でそう呟いて、は走って行った。
元々、誕生日なんてどうでも良かった。誕生会なんて、無いなら無いで構わないと思っていた。今もだ。
しかし、ならば、この虚無感は何なのだろう。
「億泰、いねぇのか・・・・?」
今日もまた、億泰は居残りのようだった。
寒々とした居間は、形兆に母親が入院したばかりの頃の事を思い出させた。
母親と手を繋いで嬉しそうに帰っていくクラスメイト達を尻目に、独りで歩く幼稚園からの帰り道。ガランとした部屋の片隅で、泣き疲れて眠っていた億泰は、まるで死んでいるように見えた。
「・・・・・・・」
形兆は虚ろな足取りで、3階へと上がって行った。
父の部屋のドアを開けると、ヌチャヌチャと汚らしく粘つく音が聞こえてきた。
まだ朝と同じ状態なのだろうが、一応様子を見ておこうと部屋の中を何気なく覗いて、形兆は目を見開いた。
「フンッ・・・・、フンッ・・・・、フンッ・・・・!」
父は、床に腹這いになった姿勢で広げた雑誌を凝視しながら、一心不乱に腰を振っていた。丁度、グラビア写真の女と見つめ合うような恰好で。
その姿は、自慰というよりは、女と抱き合う真似をしているように見えた。
「っ・・・・・・!」
精々3〜4歳の幼児位の知能しかないと思っていたが、今、この男は、明らかにセックスの真似事をしている。蒟蒻を女の性器の代わりにして、雑誌の写真を現実の女に見立てて、それを抱いているつもりになっている。
まるで、幼児が人形でごっこ遊びをするかのように。
「フンッ・・・・、フンッ・・・・、フンッ・・・・!」
子供が本物そっくりな玩具を欲しがるように、この化け物も欲しがっているのだろうか。本物の女のように抱ける、抱き人形を。
ふとそう考えた瞬間、形兆の脳裏に、あの日、襖の隙間から見たの姿がフラッシュバックした。母親の男に襲われ、ろくに抗えもせず、いとも容易く抱き竦められていた、人形のようなの姿が。
「・・・・・・・・・・」
いや、人形のよう、ではない。
は正しく人形なのだ。
あの男にとっては、面白おかしく弄べる、抱き人形なのだ。
「・・・・親父・・・・、テメェ・・・・」
非力で、護ってくれる者もいないには、逃れる術などない。
は今後、あの男の欲求を発散させる為の、玩具になる。
玩具になって、飽きられるまで、ボロボロになって壊れるまで、弄ばれ続けるのだ。
「本物の女、抱きてぇとか・・・・、贅沢言うんじゃねえだろうな・・・・・」
どうせ玩具になるのなら、
あんなクズにくれてやる位なら、
そんな位なら、いっそ。
浅ましい父親の姿を呆然と眺めながら、形兆は頭の中でその言葉を繰り返し呟き続けた。
折角の誕生日だというのに、今日は朝から冷たく寂しい雨の降る日だった。
出来る事なら形兆に、お誕生日おめでとうと言いたかったが、出来なかった。
直接声を掛ける事は勿論、紙に書いて伝える事さえも。
の手首には、今もまだ、形兆の手の感触が残っていた。
手を掴まれたあの時、このまま何処か遠い所へ連れ去って欲しいと思った。
だが、そんな物語のような救いを求める訳にはいかないのも分かっていた。
形兆には、億泰がいる。
形兆には、亡くなった母親と多忙の父親に代わって、家を守り、弟の面倒を看なければいけない責任がある。
そんな彼に助けを求める事など、どうして出来ようか。
だから、友達ごっこは、もう終わり。
彼への密かな恋心は、このまま自分の胸の内にだけ秘めていよう。
これからは、それだけが心の拠り所となるだろうから。
そう決めたは、形兆にチラリと目を向ける事すらせず、淡々と授業を受けて下校した。
そして、虹村兄弟と出逢う前の、今まで通りの、独りぼっちの土曜の夜が訪れた。
夜になって、雨足は少し強くなっていた。
雨粒が窓ガラスを叩く音を聞きながら、は勉強していた。
出勤していく和代と一緒に安原もパチンコへ出掛けて行ったので、気は幾らか楽だったが、心は虚ろなままだった。他にする事もなくて、午後からずっと勉強ばかりしていたが、何時間勉強していても頭にはあまり入らなかった。問題を解き終わった時、分からなくなった時、そんな瞬間にいちいち考えてしまうのは形兆の事だった。
今頃は、家で億泰と誕生祝いをしているだろうか。
もしかしたらこんな日位、いつも留守がちだという父親も、プレゼントを持って早く帰って来ているだろうか。
あのマフラーを、形兆はどうしただろうか。
殆ど黒に近いあのダークグレーの色は、彼の金色の髪にとても良く似合う筈だ。
出来れば、巻いてくれたところを一目見たかった。
そんな、考えても仕方のない事ばかりを取り留めもなく考えながら、は夕食を済ませて銭湯へ行った。そして、帰って来ると早々に布団を敷き、電気を消して床に就いた。
今夜はもう、さっさと眠ってしまいたかった。
遅くまで起きていても、先週までの賑やかだった土曜の夜を思い出して寂しくなるばかりで辛かったし、何より、出来るだけ安原と顔を突き合わせたくなかったのだ。
安原が転がり込んで来てからというもの、は一日を一刻も早く終わらせたいと願うようになっていた。せめてもの意思表示で襖をしっかりと閉めて奥の部屋に閉じ籠ってはいるが、そんなもの、何の役にも立ちはしない。閉めたこの襖を安原がいつ開けに来るかと思うと、眠気などとても催さないが、それでも眠らなければ一日が終わらない。いっその事このまま死んでしまえれば良いのにと思いながら、無理矢理浅い眠りに就く日々だった。
警戒心に張り詰める自分をどうにか眠りの淵に追い落とす為に有効だったのが、空想だった。思い描くのは、形兆と相思相愛になる、他愛なくも幸せな日々だった。
空想の中では、は楽しい学校生活を送る事が出来た。
クラスメイト達の目を気にする事なく形兆と談笑し、一緒に帰り、デートをした。
空想の中の形兆は、優しかった。
木枯らしの吹く公園で、が首を竦めると、プレゼントしたあのマフラーを外して、の首に巻いてくれる。
さり気なく手を繋いで、一緒に並んで歩いてくれる。
幻の中のその優しい温もりに包まれて、はどうにか一日を終わらせる事が出来るのだった。
今夜もそうして形兆の事を考えながら、は眠りに就いていた。
眠りは深くなく、自分が眠っている事もぼんやりと分かっているし、外の雨音も遠くに聞こえていた。
は今、雨の中、形兆を待っていた。
形兆が図書館から帰って来るのを、待っていた。
今か今かと待っていると、やがて、あの海沿いの道を形兆が歩いて来た。
「虹村君!」
「何だよ、お前こんな雨ん中、ずっと待ってやがったのか?しょーがねー奴だな、こんなに濡れちまって。」
が駆け寄って行くと、形兆はその凛々しい顔に優しい苦笑を浮かべて、雨に濡れたの髪を優しく撫でた。
「・・・・・虹村君・・・・・」
頭を撫でてくれる大きな手の感触がとても心地良くて、はそっと瞳を閉じた。
すると形兆は、の唇に優しいキスをした。
「・・・・・・・・・・」
一度離れて、瞳を見つめ合って、またゆっくりと唇を重ね合わせた。
形兆は、幸福感に蕩けて力が抜けてしまったの身体を優しく抱きしめ、舌先での唇を擽った。
それに応えるように少しだけ唇を開くと、形兆はの唇にしっかりと吸い付き、熱い舌をの口内に深く差し込んできた。
しかしそれは、酒と煙草の臭いがして、耐え切れない程臭かった。
余りといえば余りのその不快感に、甘い夢が、弾けた。
「はっ・・・・・・!?」
気が付くと、誰かが身体の上に覆い被さって、の唇を貪っていた。
距離が近過ぎて一瞬分からなかったが、それは安原だった。
「いやぁっ!!」
は無我夢中でもがき、首を振って、安原からどうにか逃れようとした。
「チッ、もう起きやがったか!もう少し寝てりゃあ良かったのによぉ!オラッ、大人しくしろ、オラッ・・・!」
「いやぁぁっ・・・・!!やぁっ・・・・!!」
唇は何とか離したが、身体は完全に組み敷かれてしまっており、今度はトレーナーの裾から手が入ってきて、胸を掴まれた。
「やめてっ・・・・!!ぃやっ・・・・!!」
「へへへッ、何もそんな嫌がらなくても良いじゃねーかよ、処女じゃあるまいし・・・!あの金髪とよ、もう散々ヤってんだろ?え、おい・・・!?」
胸を庇うと、今度はズボンの中に手が入ってくる。
「あんなガキ、どうせ見掛け倒しだろ?チンコの方は案外お粗末で物足りねぇんじゃねーのか?えぇ?どうなんだよ、正直に言えよ・・・!」
「やめ・・・・てぇっ・・・・!!」
臭い息を首筋に吹きかけられながらショーツ越しに秘部を擦られて、の全身に鳥肌が立った。
「今夜は和代の奴も朝まで絶対帰らねぇし、じっくり可愛がってやるよ・・・。
あんなガキとは違う、『大人の男』ってやつをたっぷり味わわせてやるからな、ヘッヘヘ・・・」
「ゃ・・・・、いや・・・・!」
まだ女になっていない女の身体に下衆な好奇心を持つ男は、他に何人もいた。
興味本位でのファーストキスを奪い、平べったい胸を舐め、下着を下ろして秘部を触った。そういった連中は皆、幼いを玩具の人形のように扱った。
だが、こんな風に本気で迫ってきた男は、今までいなかった。
「ここだけの話よぉ、お前の母ちゃん、俺のどこに惚れてるか教えてやろうか?・・・コレだよ。和代の奴、俺のチンコとテクにメロメロなんだよ、ヘッヘヘヘ・・・。初めてヤッた時なんか、俺のチンコを一晩中咥え込んで離さなかったんだぜ?お前の親父のチンコなんか、ありゃあもうとっくに忘れちまってるぜ、ヘッヘヘヘ・・・!」
余りの恐怖と恥辱に、涙が止まらなかった。
「ああぁぁ堪んねぇよなぁ、このプリップリの身体・・・!やっぱ女は若ぇのに限るわぁ・・・!乳もケツもプリンプリンしててよぉ・・・!30代のババアじゃこうはいかねぇもんなぁ・・・!」
「うぅぅぅっ・・・・!」
安原は恍惚と呟きながら、の身体を撫で回した。
そう。
安原は、の事を完全に『女』と見なしていた。
「オラッ、とっとと股開け!」
「きゃああっ・・・・!!」
安原は突然、焦れたようにの腰を抱え上げ、両脚を大きく開いた。
そのギラついた目に宿る欲望は、これまでのどの男よりも強かった。
その目の光に、は、自分がいつの間にか女になっていた事を思い知らされた。
母親と同じ、『女』に。
「・・・・ゃ・・・・」
子供ではなく『女』と見なされるようになってしまった自分は、これから和代と同じ道を辿るのだろうか。
男達の良いように弄ばれるだけの、哀しくも堕落した人生を。
「ぃやああぁっっ・・・・!!!」
そんなの嫌だ。
形兆の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、は強く、強く、そう思った。
そして、激しく身を捩り、無我夢中で安原を蹴りつけた。
「ぐわっ・・・・・・!!」
それと狙った訳ではなかったが、どうやら鼻を思い切り蹴ったらしく、安原は鼻を押さえてのたうち回り始めた。
逃げるなら今しかない。
は安原が悶絶している隙に、着のみ着のままの状態で外へ飛び出した。
靴は辛うじて履いたが、傘も、財布も、家の鍵も持たなかった。持ち物の事を考える余裕など、欠片程もなかった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・・!」
雨の中を、はひた走った。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・・!」
走って、走って、只々走った。
形兆の顔を思い浮かべながら、助けて、助けて、と呟きながら。
そして気が付くと、すぐ目の前に形兆の家が見えていた。
「はぁっ・・・!はぁっ・・・!はぁっ・・・・!」
駆けつけてきたその勢いのままインターホンを鳴らそうと指を伸ばして、はふと、手を止めた。
「はぁっ・・・・、はぁっ・・・・!」
見上げた窓は、しっかり閉ざされていて真っ暗だった。
今何時か分からないが、多分真夜中近くだろうから、形兆も億泰ももう寝ているのだろう。
「はぁっ・・・・・!」
こんな時間に押しかけて来られたら、迷惑に決まっている。
もしかしたら、今日は彼らの父親だっているかも知れないのに。
はインターホンを鳴らそうとしていた手を、おずおずと引っ込めた。
― ・・・・何してんのよ、私ったら・・・・
何故、形兆の所に来てしまったのだろうか。
和代の店ではなく、何故ここに。
形兆には助けを求められないと分かっている癖に、どうして。
迷う事なくここに来てしまった自分が、男狂いと揶揄される母親の和代とそっくりに思えて、は唇を噛み締めた。
今の自分がしている事は、和代が安原やこれまでの男達に対してやってきた事と同じなのではないか。そう思うと、自分が酷く卑しく思えて、また涙が滲んできた。
― 帰ろう・・・・
はもう一度虹村家の窓を見上げ、来た道をまた歩き出した。
家へ帰れば絶対に只では済まないが、帰るしかないだろうか。
それとも、和代の店へ行こうか。
だが、客のいる店へこんな姿で突然行ったら、それはそれで大変な事になるだろう。
和代には何があったか確実に訊かれるだろうし、そうなったら何と答えれば良いのか。
「・・・・はぁ・・・・」
いっそ、この暗い海の底に沈んでしまえば良いのかも知れない。
ふとそんな事を考えて、真っ暗な海に目を向けたその時。
「!!」
前方から、傘を差した人が走って来るのが見えた。
傘と雨に隠れて顔形はすぐには分からなかったが、その声は紛れもなく、形兆の声だった。
「じゃねえか!お前何やってんだこんな所で!?」
形兆はあっという間にの目の前まで駆け寄って来て、ずぶ濡れのを傘の中に入れた。
「・・・・虹村・・・くん・・・・」
形兆の顔をはっきりと見た瞬間、の中で何かが切れた。
説明どころかまともに声も出せず、はその場に立ち尽くしたまま、ポロポロと涙を零した。
「ちょっ・・・、何泣いてんだよ・・・!?何があった・・・・!?」
話そうにも、胸が詰まって、何も話せなかった。
が黙ったままでいると、形兆は小さく溜息を吐き、の肩を抱くようにして踵を返させた。
「・・・とにかく、家入れ。こんなとこ突っ立ってても仕方ねぇ。」
「・・・・でも・・・・」
形兆の家は、入れないのではなかったか。
が目でそう問いかけると、形兆は苦々しい表情でを一瞥した。
「うるせぇ。こんな状況で、そんな事言ってられねぇだろ。良いからさっさと来い。」
「ぁ・・・・・・・」
形兆は降りしきる雨から庇うようにしての肩を抱き、家へと連れて行った。
その腕の中は言い様もない程心地良く、安らぎに満ちていて、極限まで疲れ果てていたの思考力を優しく包み込んで溶かしていった。
こんな偶然があるだろうか。
偶々牛乳を切らして、むしゃくしゃしている気分をどうにか落ち着かせる為にコンビニへ行って、帰って来たら家の前にが立っていたなんて。
もし牛乳があったら、テスト勉強に集中出来ていたら、もう寝てしまっていたら、に気付く事は出来なかっただろう。
紙一重のこの偶然に肝を冷やしながら、形兆はを初めて家の中に招き入れた。
「ちょっとだけここで待ってろ。すぐに戻る。」
玄関と廊下の電気を点けて、ドアの鍵を閉めてから、形兆はをその場に残し、足早に階段を上っていった。
まず3階まで行って億泰と父親の部屋をそれぞれ覗いてみると、億泰は熟睡していて、父親は相変わらず例の『ごっこ』に夢中になっていた。
億泰は一度眠れば朝叩き起こすまで起きないし、父親の口もしっかり塞いであるから、億泰が1階のに気付く事も、に父親の存在を気付かれる事もないだろう。
大丈夫だと判断した形兆は、次に自分の部屋からスウェットの上下と電気ストーブを持ち出し、2階へ下りた。
そして、バスタオルと1階の事務所の鍵も持って、1階へと駆け下りて行った。
はまだ玄関に突っ立ったまま、カタカタと小刻みに震えていた。夜中に冷たい雨の中、傘も差さず、上着も着ずにやって来たのだ。そうなって当然だった。
「上がれよ。」
「・・・・お邪魔・・・します・・・・」
は消え入りそうな声でそう呟いて、おずおずと靴を脱いで上がった。
透き通るような白い足の甲を見て、形兆は思わず眉を潜めた。
靴下も履いておらず、着ているものも明らかに寝間着のような服。
恐らく寝ていたのだろうに、一体何があってこうなったのか。
だがとにかく、まずは着替えさせて身体を温めるのが先決だった。
「こっちだ。この部屋で着替えろ。」
形兆は事務所の鍵を開け、ドアを開けた。
この部屋は、引っ越してきた直後に一通りチェックする為に入ったきり、使っていない部屋だった。
ここにもやはり古ぼけた事務机や椅子、黒い革張りの応接セットといった家具調度品の類が残されていたが、処分するとなると余計な手間と金がかかる為、適当に埃を払って掃除をしただけで、そのままずっと放置していた。だから、天井の蛍光灯もあるにはあるのだが、電球が切れているので、スイッチを入れても灯りは点かない状態だった。
しかし、電気料金はちゃんと支払っているから、電気は使える。形兆は廊下の灯りを頼りにコンセントを差し、ストーブを点けた。少しして、鮮やかなオレンジ色の光が、闇のように暗かった室内をじんわりと照らした。
「よし、これで何とかいけるだろ。この部屋、電球が切れてて灯りがねぇんだ。悪いけどこれで辛抱してくれ。」
「そんな・・・・・・」
小さく首を振ったに、形兆はバスタオルと着替えの服を手渡した。
「これに着替えて、ストーブに当たってろ。今何かあったけぇもん作ってくるから。」
「・・・・ありがと・・・・」
部屋を出た形兆は、ドアをきちんと閉めてから台所へ向かった。
冷たい雨に体温を奪われて凍えているに、何か身体の温まるものを飲ませる必要があった。
何にしようか少しの間考えてから、形兆は買ってきたばかりの牛乳で熱いココアを作り、自分用にコーヒーを淹れた。そしてそれを持って、また1階へと下りて行った。
「着替え、終わったか?」
ノックをしてから声を掛けると、服を着替えたが中からドアを開けた。
流石にいつものような愛想笑いをする余裕はないのだろう、は居た堪れなさそうな顔を俯かせていた。
「そこ座れよ。」
すぐ側の応接セットのソファを顎で示すと、はそこに遠慮がちに浅く腰掛けた。
「これ、ココア。お前多分飲めるだろ。」
「うん・・・・、ありがと・・・・」
甘い湯気の立つマグカップを渡すと、はようやく口元だけを微かに笑わせ、両手でカップを抱えておずおずと口をつけた。
「・・・・美味し・・・・」
の睫毛が、また泣き出しそうに細かく震えた。
余程寒かったのだろう、震えながら2口目、3口目と立て続けに飲むによく当たるようにストーブの向きを変えてやり、形兆は部屋のドアを閉めに行った。
廊下の灯りが遮断されると、部屋の中はオレンジ色の薄闇になった。
形兆はの側で少しだけストーブに当たりながら、コーヒーを飲んだ。
どちらも何も言わず、二人でそのまま暫く、ただ飲み物を飲んだ。
「・・・・・今日は・・・・・、迷惑かけてごめん・・・・・・」
やがて人心地つくと、は小さな声で謝った。
「何があったんだよ?・・・・・また・・・・、またあのオッサンだろ・・・・・?」
大方の察しはついている。
何があったかは聞かずにそっとしておいてやるのが、思いやりというものなのかも知れない。
だが、訳知り顔で黙って雨宿りさせてやったとして、何になるというのか?
格好つけてそんな事をしたって、は救えないのに。
「・・・・・さっき・・・・・、寝てて・・・・・・・・、フッと目が覚めたら・・・・・・、あの人が・・・・・・私の上に・・・乗ってて・・・・・・・」
「ヤられたのか?」
ストレートに訊くと、は何度も首を振った。
「されてない・・・・・!夢中で暴れて、何とか逃げ出せて、それで・・・・・・!」
「それで、俺んとこに来たのか。」
は俯くようにして、小さく頷いた。
「気が付いたら、ここに来てた・・・・。でも、考えてみたら迷惑だって事に気が付いて・・・、帰ろうと思ったんだけど・・・・」
「帰るって、何処へ帰るんだよ?テメェの幸せの為に娘を踏みつけにする母親と、お前を玩具にしようとしてる男の家へか?」
はハッとしたように顔を上げ、涙の溜まった目で形兆を見た。
「お前は、本当にあそこが自分の家だと思ってんのか?」
不安定に揺れているに、形兆は静かに問いかけた。
ボロボロに傷付き、不安定に揺れているに、もっともっと揺さぶりをかける為に。
「・・・・だって・・・・、他には・・・」
「あの家は、もうお前の家じゃねぇんだよ。」
「っ・・・・・・・・・!」
当たり前の楽しみも、愛も恋も、何もかも全部、父を殺したその後だと諦めてきたが、もう今更無かった事になど出来なかった。
を忘れる事など、背を向ける事など。
ならばどうする?
お前が欲しいのは、人並みの青春か?
それともか?
ずっと自分に問いかけていたその質問の答えが、今、ようやく出ていた。
「お前のお袋があのオッサンを連れ込んだ時に・・・、いや多分、元々だろうな。お前の居場所なんて、元々何処にも無かったんだ。」
傷付けるのは、の為だった。
そうしなければ、を救えないから。
「・・・・・何で・・・・・・・そんな事・・・・・・・・」
「何でだと?じゃあ何でお前のお袋は、男を引っ張り込むんだ?
そのせいでお前をこんな目に遭わせちまうのによ、何で次から次へと男を引っ張り込むんだ?」
「それは・・・・・・!」
「それは?」
全ては、を手に入れる為に。
「お母さんは・・・・、何も気付いてないみたいだから・・・・・」
「気付いてない?それはつまり、お前の事なんか関心ねぇって事だよな?」
「そ・・・・!そうじゃなくて・・・・!」
傷付けられる痛みに耐えきれなくなったのか、は必死になって反論を始めた。
「お母さんは、私が安原さんからそんな目で見られてるなんて本当に思ってないの・・・・・・!」
「何でそう言い切れる?」
「だって聞いたから・・・・!」
「何を?」
「一緒に住むって聞かされた時、私、あの人の事怖いって言ったの・・・!
そしたらお母さん、あの人はあれで私の事可愛がってくれてるなんて言うから、私、どういう意味かって訊いたの・・・!
そしたら、全く気付いてなさそうに笑って、アンタはまだ子供なんだから、変な意味な訳がないって・・・!」
「だから?お前のお袋は本当にただ気付いてねぇだけで、お前に関心がない訳じゃあないと?」
必死になって母親を庇うが、苛立たしい程哀れに見えた。
必死になって父親を殺してやろうとしている自分自身のように。
「お前、本当は分かってんだろ?お前のお袋はよ、何も気付いてねぇから男作ってるんじゃねぇんだよ。自分が欲しいから作ってるんだ。
お前のお袋にとっての幸せは、お前じゃなくて、男に愛される事なんだよ。
だから、お前の事なんかお構いなしに、次から次へと男作るんだよ。
前にお前自身が言ってた事じゃねぇか。そうやってずっと『幸せ探し』してるってよ。」
の瞳から涙の雫が一粒、静かに零れ落ちた。
頬を伝うその雫を、形兆はそっと指で拭った。
「・・・・何もそんな、ムキにならなくても良いじゃねぇかよ・・・・・」
「・・・・別に・・・そんなんじゃ・・・・・」
は緊張したように、形兆から目を逸らして息を潜めていた。
「キツい事言っちまったのは悪かったけどよ、でも、俺には分かるんだよ。俺達兄弟も、俺も・・・・、お前と同じだから・・・・」
初めて触れたの頬は、ふんわりと柔らかかった。
柔らかいその頬に触れたまま、形兆は話し続けた。
「お袋が入院してから、俺達にも居場所なんて無かった。
俺達の親父はよ、俺達が風邪引いても、病院に連れて行くどころか咳がうるせぇっつってボコボコに殴ったり、夜中に寝てると、お帰りなさいも言えねぇのかって、髪を掴んでベッドから引きずり出したりした。
他に身内と言える奴は親父の兄貴の一家ぐらいだが、奴等にはそれこそ身内の情なんてありゃしねぇ。ここに越して来る事になったのも、東京の家をその伯父に奪われたからだ。」
は涙に濡れた瞳を驚いたように見開き、呆然と形兆を見た。
「学校の先公共だって、偉ぶるばっかで肝心な事は見て見ぬ振りしやがる。
大人なんかよ、どいつもこいつもテメー勝手で信用出来ねぇ。
普通の家庭ってのがどんだけ有り難ぇもんか知りもしねぇで、下らねぇ事ばっかやってる学校の連中も、鼻持ちならねぇ。
でもよ、お前は違った。お前だけは・・・・・・」
もう今更、無かった事になど出来ない。
愛じゃなくても、恋じゃなくても良いから、を離したくない。
他の誰かの玩具にされる位なら、いっそ自分の物にすれば良い。
それが、形兆の出した答えだった。
「お前も、そうは思わねぇか?」
だから、決めたのだ。
「・・・・虹村・・・君・・・・」
を、攫ってしまおうと。
「何処にも行くなよ・・・・・。ずっと・・・・・、ずっと、俺の側にいてくれよ・・・・・・・」
形兆はを抱きしめ、震えている小さな唇にゆっくりと口付けた。
「・・・・虹・・・村・・・・く・・・・・」
「俺の事、嫌いか・・・・?」
は戸惑うように目を泳がせながら、フルフルと首を振った。
頬がほんのりと薔薇色に染まっているのは、ストーブの灯りのせいだけではない筈だった。
「・・・・でも・・・・、私なんかに・・・好かれたって・・・、恥かくだけだよ・・・・」
「恥?」
「虹村君なら、もっと可愛くて、人気者の女の子達から・・・、幾らでもモテるのに・・・・」
「バカ。下らねぇ事言うんじゃねぇよ。」
「っ・・・・・・!」
もう一度、啄むようなキスをすると、はピクンと肩を震わせた。
「クラスの人気者とか嫌われ者とか、下らねぇ。大体、お前があいつ等に何したってんだ?お前が虐げられなきゃいけねぇ理由なんて、何もねぇだろうが。
あいつ等はよ、何も考えてねぇんだよ。ただ皆がやってるから、一緒になってやってるだけだ。皆が虐めてるから、同じように虐める。誰かが男狂いの娘だって言うから、自分もそう言ってみる。ただそれだけだよ。
それでお前がどんなに傷付くかなんて、考えてもみねぇ。
傷付くって事がどういう事か知らねぇから、その痛みがどんなもんか知らねぇから、簡単に出来るんだよ。」
の瞳から、涙の雫が幾つも零れ落ちた。
「そんな連中に好かれたいなんて、これっぽっちも思わねぇよ、俺は。」
「・・・・っく・・・・、ぅっ・・・・」
に居場所はない。学校にも、家にも。
消えたって誰も心配しない。
そんな薄情な奴等の所に辛抱して居座り続けるよりも、はを本当に必要としている者の所に、
自分の側に、居れば良いのだ。
「俺に必要なのはお前だけだ。お前は?そうじゃあねぇのか?」
形兆はの涙を拭いながら、黒く潤んだその瞳を覗き込むようにして問いかけた。
「俺だけじゃあ、不満か?」
「・・・・・・・・・・!」
はポロポロと涙を零しながら何度も首を振り、自分から形兆に身をすり寄せてきた。
「私も・・・・、虹村君だけ・・・・いてくれたら良い・・・・・!」
「じゃあ、もうやめろよ。そんな他人行儀な呼び方すんのはよ。なぁ?・・・・・」
名前を囁いてやると、は一瞬ハッとしたように上目遣いで形兆を見上げてから、恥ずかしそうに、幸せそうに、また瞳を伏せた。
「・・・・形・・・兆・・・君・・・・、あり・・・がと・・・・・」
「そうじゃあねぇだろ。こういう時はよ、何て言うんだ?」
抱きしめて、優しく髪を撫でながら、幼い子供に言い聞かせるように問うと、は形兆の胸に深く顔を埋めた。
「・・・・形兆君・・・・好き・・・・・!」
「・・・・俺もだよ・・・・・・・・」
形兆は強く、強く、を胸の中に抱きしめた。
多分、冷酷な笑みを浮かべているであろう己の顔を、に見せない為に。