愛願人形 5




翌日、は久しぶりに熱を出して学校を休んだ。
あの次の日に欠席なんてまるで形兆への当てつけみたいで嫌だったのだが、熱が38度を超えていて、どうにも身体が動かなかった。丈夫なだけが取り柄だと思っていたのに、珍しくすっかりダウンしてしまったのだ。
母の和代には、昨夜遅くまで遊んで来たからだと小言を言われはしたが、億泰を送る途中で公衆電話から遅くなると連絡を入れておいたお陰で、それ以上には叱られなかった。
友達の家で夕飯をご馳走になるという嘘を、和代はすんなり信じていた。
母親としての純粋な信用か、それとも、娘の交友関係を咎めれば却って自分の方が分が悪いと思っての事なのか、どちらかは分からなかったが。
ともかく和代は、昨夜の事について特に深く追及はせず、久しぶりに自分で料理をして、出勤して行った。
和代を送り出すと、はまた布団に潜り込んだ。
和代の作っていった筑前煮と、昼に作ったお粥の残りが台所にあるが、食欲は無かった。今は何か食べるよりも、横になっていたかった。
部屋のドアが静かにノックされたのは、布団に潜り込んで目を閉じた瞬間だった。
最初は隣の部屋かと思ったが、違っていた。


「こんな時に・・・・・・・」

新聞の勧誘か何かだろうとうんざりしながら、はモゾモゾと布団から這い出し、玄関に出た。


「はい・・・・・・」
「よぉ」
「は・・・、はぃ・・・!?」

コンビニのレジ袋を2つ提げてそこに立っていた人の顔を見て、は思わず素っ頓狂な声を上げた。


「に・・・虹村君!?」

そう、その人は虹村形兆だった。
形兆はいつもの仏頂面で、の眼前に白いレジ袋を突き出した。


「これ。今日のノートのコピー。」
「あ・・・、ありがとう・・・、助かる・・・」

ノートのコピーは、大変に有り難かった。
だが、形兆が突然来たという今現在の状況は、まだ全く呑み込めていなかった。


「それから、こっちの袋はプリンとアイス。お前何が好きか分かんねぇから、億泰が風邪引いた時に欲しがるやつを適当に買ってきた。」
「あ・・・ど・・、どうも・・・、わざわざ・・・」
「一人か?」
「あ、う、うん・・・・・・」
「んじゃ、ちょっと邪魔するぜ。」
「あ、ど、どうぞ・・・・・・」

取り敢えず形兆を部屋に通しはしたが、予想外のお見舞いに、は完全に混乱していた。


「あ・・・・あの、その辺座って・・・・・!えぇと・・・・、あの・・・・・!」

昨夜は結局銭湯へ行きそびれて、今日も、あと少ししたら行こうと思っていたところだから、つまり、まだお風呂に入っていない。
辛うじて歯は磨いているが、服はヨレヨレの寝間着で、頭はボサボサ。
奥の部屋には布団が敷きっぱなしで、ついでに襖も開けっぱなし。
まずは襖を閉めねば。その時に急いで着替えたら・・・、いや、それはわざとらしいし、そもそも襖を隔ててとはいえ男の子の隣で服を脱ぐなんて恥ずかしすぎる。
いや、そんな事よりも、まずはわざわざ形兆が買ってきてくれたプリンとアイスを仕舞わねば。お茶も出さなきゃいけないし、ともかくまずは台所だ。


「あ、あ、今、お茶淹れるから・・・・・!」

熱でぼけた頭を高速フル回転させてそんな事を考えながら、はワタワタと台所に立った。
するとすぐさま、背中に形兆の呆れたような声が飛んで来た。


「お前、具合悪いんだろ?なに無意味に右往左往してんだよ。お前の方が座れよ。」
「う゛・・・・、そ・・・、そう・・・?じゃあ・・、お言葉に、甘えて・・・、何のお構いもしませんで・・・」

は見舞いの品を冷蔵庫と冷凍庫にそれぞれ仕舞うと、おずおずと部屋に戻った。


「いい。構わねぇでくれ。もてなして貰おうと思って来たんじゃねぇんだから。」
「う、うん・・・・・・・」

奥の部屋の襖を閉め、は形兆から少し距離を置いて座った。
腰を下ろした途端、形兆はズイッと身を乗り出して手を伸ばしてきた。


「きゃっ・・・!なっ・・・・!?」

大きな掌が、の額を覆った。


「・・・・思ったより元気そうだけど、やっぱ熱いな。」
「っ・・・・・・・」

息を潜めてじっとしていると、形兆の手が離れていった。


「チッ・・・、だから言わんこっちゃねぇ。昨日あんな事してっからだ、バカが。
お前が学校休むのなんて初めてだから、もしかしてと思って来てみたら、案の定じゃねぇかよ。人の世話焼く前にまずテメーの身を気をつけやがれ。」

ぶっきらぼうな口調の小言の数々は、耳には入らなかった。
離れていった手の感触が恋しくて、もう一度触れて欲しくて、その事しか考えらなくて。


「おい、聞いてんのかよ?」
「へ・・・・?あっ・・・!はぃ・・・!」

挙動不審な反応を示したに、形兆は怪訝そうに首を捻ったが、すぐに真顔になってを見た。


「・・・・・とにかくだ。やっぱ日曜はやめとけ。億泰には俺がよく言い聞かせるから。」
「え・・・、何で・・・!?大丈夫だよ、こんなのすぐ治るし!」

こんな程度の風邪で、会える日が少なくなるなんて嫌だった。
億泰とも、そして形兆とも。


「また熱出したらどうすんだ。」
「そんな毎週毎週熱なんか出さないよ!これは偶々だよ、ホント偶々!次からは防寒対策バッチリしていくから!ね!?ゲッホゲホゲホ・・・!!ゲホゴホッ・・・!!」
「何が大丈夫だ。凄ぇ咳込んでるじゃねーかよ。」
「ちがっ・・・、こ、これは・・っ・・、ゴホゴホッ・・・!むむ・・むせた・・・っ、むせた・・だけぇぇ・・・ゴホゴホゴホゴホッ!!」
「何そんな必死に否定してんだよ;」

形兆は呆れた顔で、激しく咳込むを見ていたが、やがて小さく溜息を吐いた。


「・・・ホント・・・、気を付けろよ・・・・。何つーかよ、その・・・、アレだ、後味が悪いんだよ、こうなるとよ・・・・」

咳が治まってきて幾らか余裕を取り戻したは、そっと形兆の表情を盗み見た。


「とっとと治せよ・・・・、週末までにはな」

プイと明後日の方に向けられているその表情は、不機嫌そうな顰め面なのに、何故かとても優しく見えた。


「うん・・・、ありがと・・・・」

が微笑むと、形兆はそそくさと立ち上がった。


「飯食ったのか?」
「ううん、まだ。」
「何か食うモンあんのか?」
「お昼のお粥の残りをあっため直して、後はお母さんがさっき作ってった筑前煮もあるけど・・・」
「じゃあ卵粥作ってってやるから、食って薬飲んでとっとと寝ろ。」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。
それ位、形兆の口調は自然だった。
まるで兄弟か、家族に向かって言うように。


「え・・・、虹村君が・・・?」
「んだよその目は?文句あんのかよ?」

思わず訊き返すと、形兆はハッとしたように表情を変えた。
いかにも不良然としたその口調も威嚇するような険しい表情も、気恥ずかしさを隠す為であるのが一目瞭然だった。
多分、生来面倒見が良いのだろう。典型的な『兄貴』なのだ、彼は。


「・・・ううん、ありがと。」
「・・・フン」

笑って礼を言うと、形兆はぶっきらぼうに背を向け、台所借りるぞと呟いた。
その時だった。



「おぉ〜い、オレだぁ!いるんだろぉ?」

煩いノックの音とほぼ同時に、ドアの向こうで男の声がした。
和代の恋人のあの男、安原だ。
柄の悪い無遠慮なその声を聞いた瞬間、ほの甘い気分は一瞬にして砕け散った。


「何だ?誰だあれ?」

安原はどうも今現在まともに働いていないらしく、平日の真昼間からプラプラとやって来る事がよくある。だが、和代が不在の時に来たのはこれが初めてで、は完全にパニックに陥った。


「・・・・お母さんの・・・彼氏・・・・」
「・・・・・・・・」
「虹村君・・・、隠れて・・・・」

この狭いアパートに、隠れる場所も脱出口もありはしない。
だが、ともかく形兆には隠れていて貰うしかなかった。


「奥の部屋に・・・、早くっ・・・!」

形兆は察したように素早く自分の上着と靴を取り上げると、俊敏かつ静かな動きで奥の部屋に身を隠し、襖を閉めた。
それを見届けてから、は覚悟を決めてドアの鍵を開けた。



「・・・・はい・・・・・」
「おう。邪魔するぜ。」

安原は軽薄な笑みをに投げかけると、当然のようにサンダルを脱ぎ散らかして部屋に上がってきた。


「お母さんなら、もうお店に出ましたけど・・・・・・」
「あー知ってる知ってる。いや、ちょいとよぉ、忘れ物しちまって。」

安原は、さっきまで形兆が座っていた場所にどっかりと座り込み、煙草に火を点けて吹かし始めた。


「忘れ物?」
「いやな、こないだ、財布から出した金をそこら辺にポイッと置いたまま帰っちまって。母ちゃんから聞いてねえ?」
「い、いいえ・・・・・」
「本当にぃ?」
「本当です・・・・・。」

そんな話は初耳だった。何度訊かれても、知らないものは知らないとしか答えようがなかった。


「・・・・そっかぁ、いやぁ困ったなぁ。あれ、今から支払いしてこなきゃいけない金なんだけどなぁ・・・・」

安原は何か言いたげな目で、立ち尽くしているをチラチラと見上げてきた。
人を小馬鹿にしたような、嫌な目付きだった。
無心しているのだ、この男は。
元々置いて行ってもいない金を返せと言って巻き上げようとしているのだ。子供なら簡単に丸め込めると、高を括って。
だが、そうと分かっていても、にはどうしようもなかった。
力ずくで叩き出す事は勿論、和代が男と喧嘩する時のようにヒステリックに喚き散らす事も出来ず、は黙って大人しく財布を開いた。騙されているのは分かっているが、とにかく一刻も早くこの男に出て行って貰いたかったのだ。


「あの・・・、幾らですか・・・?」
「5・・・、いや、6千円だったかな?」

が6千円を渡すと、安原はいそいそとそれをズボンのポケットに捻じ込んだ。


「へへっ・・・・、悪いな。ところでオメー、何か声がおかしいなぁ。何だ、風邪か?」
「あの・・・、すみませんけど、用が済んだなら帰って下さい。横になりたいので・・・・・」
「おーおー、そりゃそうだ。」

安原は煙草を灰皿に押しつけて立ち上がると、ふとの方を向いた。


「なあおい、知ってるか?風邪ってのはなぁ、人に移すと治るんだぜぇ。」
「そうですか・・・・・・」
「俺に移しても良いんだぜぇ、ホレホレェ・・・・」
「やっ・・・・・!」

急に抱き付かれそうになり、は反射的に腕でガードして自分の身を庇った。
しかし、が幾ら抵抗したところで、大人の男には敵わなかった。


「チューすりゃ移るぜ、ほらほらぁ、チューすりゃあよぉ・・・」
「ぃやっ・・・!何すっ・・、やぁっ・・・!」

もがくを強引に抱き竦めた安原は、酸えたような悪臭のする口を、の唇目掛けて近付けてきた。
その瞬間、全身の毛穴が一気に開いたかのような、猛烈な寒気を感じた。


「やめ・・・・!や・・っ・・・!」

は、このおぞましい男に唇を貪られる事を、そして、その恥辱に塗れる様を形兆に見られてしまう事を、絶望の内に覚悟した。
その瞬間、部屋の襖が勢い良く開いた。


「なっ・・・何だテメェ!?」

冷ややかな顔をした形兆が、そこに立っていた。


「そっちが何なんだよ、オッサン。」

形兆は奥の部屋から堂々とした足取りで出てくると、の腕を取って自分の方へ引き寄せ、安原と真正面から対峙した。


「う・・・うぐぐ・・・・・」

形兆の事を知らない安原は、金髪で自分より背の高い形兆に、明らかに怯んでいた。
と同じ中2だとは、きっと思いもしていないだろう。
安原は形兆から目を逸らし、下衆な笑みを引き攣らせながら、の方に話し掛けてきた。


「へ・・へっ・・・、何だオメェ、母ちゃんの留守にワルそうな男引っ張り込みやがって・・・。純情そうなツラしてなかなかやるじゃねぇか。中坊のくせにどこでこんなのと知り合ったんだ?えぇ?オイ・・・」

形兆が実年齢よりも随分と大人びて見えるせいもあるが、この金髪を逆立てた派手な髪型や鋭い目付きから、安原は形兆の事をよりも年上の不良だと考えたようだった。


「あんま似てねぇと思ってたけど、やっぱオメェも和代の娘だな。まだガキの癖にもう男に現をぬかしやがって・・・・」
「そのガキに手ェ出そうとしたテメーは何なんだよ。」

形兆は殺気の籠った目で安原を睨みながら、胸倉を掴み上げた。


「ひっ・・・・・!」
「・・・・・・・・」

形兆は片手で安原の胸倉を掴んだまま、もう片方の手でズボンのポケットを弄り、が渡した金を抜き取った。


「店出てる間に、テメーが娘に金せびりに来て、おまけに手まで出そうとしやがったと知ったら・・・、コイツのお袋、どう思うだろうなあ?」
「っ・・・・・・・・!」
「バラしに行ってやっても良いんだぜ、今すぐによぉ。」
「・・・・わ・・・、分かったよ・・・、帰りゃ良いんだろ、帰りゃ・・・」
「二度とコイツに手ェ出すな。次にやりやがったら殺すぞ。」

形兆は最後にひと際低い声で唸るように脅してから、安原を解放した。


「ケッ・・・、ガキが、いきがりやがって・・・・!」

安原は、顔に脂汗をびっしり浮かべて、負け惜しみのような悪態を吐きながらそそくさと帰って行った。




「・・・・ほらよ」

安原が帰って行った後、形兆は奪い返した金をに手渡した。


「・・・・ありがとう・・・・」

さっきまでの甘酸っぱい喜びは、打って変わって逃げ出したくなる程の羞恥心に変貌していた。
とんでもないところを見られてしまった。
よりにもよって形兆に、初めて好きになった人に。


「・・・・いつもあんな事されんのか?」

ちょっと尻を触られた程度なら何度もあるが、ここまでされたのは初めてだった。
しかし、それは安原に限っての話だ。母親の恋人に弄ばれる事自体は、これまで何度もあった。ここ1〜2年は特に。
和代は気付いていないようだが、男達は、に対して下衆な欲望と好奇心を抱いていた。禁断の扉の向こうを少しだけ、チラッと覗き見するかのようにの衣服を開け、触ってはいけないものをこっそり触るように、の身体を弄った。
そうして己の邪な好奇心を満たすと、女として何の魅力もない幼い身体にすぐ飽きてしまう、今までずっとその繰り返しだった。


「・・・・・・・・」

だが、そんな事をどうして形兆に話せようか。
辛うじて純潔こそまだ無事だが、既に何人もの男に人形のように弄ばれてきたなどと。
好きな人とロマンチックなファーストキスをしたいという、女の子なら誰もが見る夢さえも、もう叶わない身なのだと。


「・・・・だ・・・大丈夫・・・、別に何て事ないから・・・!」

形兆の前で泣きたくなくて、は殊更に明るく笑った。
ここで泣いたら、察しの良い形兆に気付かれてしまうだろうから。


「今日は、わざわざ来てくれてありがとう・・・!私はもう大丈夫だから、早く帰ってあげて。億泰君、おうちで待ってるんでしょ?」

だからは、いつものように笑った。
形兆は一瞬何か言いかけたが、やがて思い直したように口を噤むと、奥の部屋から上着と靴を取って来て玄関へと出て行った。


「・・・・・・またな。」
「うん・・・・・・・・」

送り出すまでは、何とか笑顔でいられた。
しかし、もったのはそこまでだった。


「っ・・・く・・・・っ・・・・」

ドアを閉めた瞬間、堪え切れなくなった涙が溢れ出し、は冷たいドアにもたれ掛かって、声を押し殺して泣いた。










翌日、何とか熱が下がり、はいつも通りに登校し、いつも通りに授業を受けた。
形兆は話し掛けてこなかったが、それはいつもの事だった。
学校内では、二人はろくに目を合わせる事もない他人同士なのだ。
形兆は孤高を貫き、は相変わらずのいじめられっ子で、お互い知らん顔をして過ごすのが当たり前になっていたので、の方も昨夜の礼などは特に言わず、至って普段通りに一日を過ごした。
形兆に呼び止められたのは、その一日が終わる頃、下校の時だった。


「・・・おい、ちょっとツラ貸せ。」

教室を出て、階段を下りていると、形兆が追い越しざまにそう呟いた。一瞬、聞き間違いか他の人に向けた言葉かと思ったが、形兆は確かにを見ていた。
が微かに頷くと、形兆はついて来いとばかりに、先に階段を下りて行った。
は黙ってその後を追って行った。
普段は歩くのが速い形兆だが、今は背中を見失わない程度にスピードを落としてくれていたので、ついて行くのに苦労はなかった。
つかず離れず、決して連れ立っているようには見えない距離を保ちながら校門を出て歩く事数分、連れて行かれた先は、いつもの公園だった。



「・・・昨日は、わざわざ来てくれてありがとう。」

公園に着き、見知った顔がいない事を確認してから、はまず昨日の礼を言った。すると形兆は、怒っているような険しい顔でを睨んだ。


「・・・あれから、大丈夫だったか?」
「うん。」
「あのオッサン、戻って来たりとかしなかったか?」
「うん。」

呼び出された時から大体見当はついていたが、案の定、心配を掛けてしまっていたようだった。形兆の眉間の皺の数が、その程度を暗に物語っていた。


「・・・・昨日は、本当にごめんね。嫌なとこ見せちゃったね。」

形兆はいつも大体、仏頂面か怒ったような顔をしている。
その顔で、弟の世話を焼き、ふとした優しさを見せてくれる。
形兆の険しい表情の意味を知っている今はもう、彼の事を怖いとは全く思っていなかった。


「でも、助けてくれてありがとう。嬉しかった・・・。」

昨夜、あの場ではとてもそんな事を考える余裕などなかったが、絶体絶命だったあの瞬間、助けてくれた形兆は、まさしくヒーローだった。引き寄せられて彼の側に庇われたあの時の事を思い返す度に、胸が切なく締め付けられる。
こんな気持ちは、初めてだった。
姿を見かけるだけで心がじんわりと温まって、他愛もない会話が堪らなく楽しくて。
優しくされると、泣きたくなって。


「あ・・・、お金・・・・!」

形兆の鋭い視線に自分の気持ちを見透かされているような気がして、は慌てて取り繕った。


「取り返して貰えてホント助かったんだ!あれ持って行かれてたら、うち大打撃だったから・・・!」

明るく笑い飛ばして見せると、形兆はやがて微かに溜息を吐いた。


「・・・・ああいう奴にはよぉ、絶対に甘い顔見せるんじゃねぇぞ。
金に汚ねぇ奴ってのは、バレバレの嘘でも平気で吐く。何とでも言って、金毟り取って行こうとする。
特にガキ相手なら、何とでも言い包められると思ってやがるからな。よくよく気をつけろ。」

翳りのある形兆の表情には、重々しい真実味があった。
彼も、そういう人間に心当たりがあるのだろうか。
多分そうなのだろうと、は思った。


「・・・うん。気を付ける。」

形兆もきっと、父親の会社が倒産した時に、色々と嫌な目に遭ってきたのだろう。
口に出しても形兆は嫌がるだろうから、は胸の内でそっと、彼の心に寄り添った。


「ねぇ、今週末も大丈夫だよね?」
「・・・ああ。」
「じゃあ、また土曜の夜に!」

は笑って手を振り、一人で先に公園を出た。
あまり長く二人でいると、その内クラスの誰かに見られる可能性があったからだ。
もし見られたら、またある事ない事はやし立てられて、自分が嫌がらせをされたり不愉快な思いをするだけならまだしも、形兆にまで迷惑が掛かってしまう。それだけはどうしても嫌だった。
公園を出たは、まっすぐ家には帰らず、駅の方へ向かった。
いつもの駅前のスーパーで食料の買い出しをする為ではない、今日は全く別の用があった。
今日の目的地は駅を通り抜けた商店街、この間虹村兄弟と靴下を買いに行った店の近くにある毛糸店だった。



「いらっしゃい。」

が店に入ると、店番をしていたお婆さんが声を掛けてきた。


「こ・・・、こんにちは・・・。」

はおずおずと挨拶を返して、店の中をキョロキョロと見回した。
初めて入ったが、毛糸店という店は、本当に毛糸ばかりだった。
外観は古くて小さな店なのに、こんなに沢山あったのかと驚く程、壁一面の棚にも、ワゴンにも、見事に毛糸ばかりがビッシリと詰まっていた。
淡い色、濃い色、可愛いパステルカラーなど実に色とりどりで、風合いも、オーソドックスな糸からモヘア、ラメやスパンコールの絡まったものやふわふわと変わった質感のものなど様々あり、見ているだけでも楽しかった。
見本として飾られている複雑な模様編みのセーターや繊細なレース編みのカーディガンなども沢山あり、到底編めはしないが、どれもこれもをうっとりとさせてくれた。


「何を編むの?」

の様子から、完全な初心者だと気付いたらしいお婆さんは、カウンターの奥から出て来てくれた。


「あの・・・・、マフラー、を、ちょっと・・・・・・」
「うん、マフラーね。プレゼント?自分用?」
「あ・・・、い、一応、プレゼント・・・で・・・・」

億泰から、形兆の誕生日が12月3日だという事を聞いたのは、この間の日曜日だった。
何かプレゼントをと考えた時にふと思い付いたのが、手編みのマフラーだった。
編み物などやった事もないし、大体、付き合っている訳でもないのに手編みなんて貰っても重いだろうと何度も自分の中で否定したが、否定すればする程、どういう訳かやってみたいという気持ちが大きくなったのだ。


「あの、私、編み物全く初めてなんですけど、そんなでも編めますか?
時間も、あと10日位しかないんですけど・・・・」

形兆の誕生日の直後から、期末テストが始まる。
その試験勉強の1週間を考慮すると、編み物に費やせる時間はそれ位しかなかった。
これで無理だと言われたら諦めよう、はそう決めてお婆さんの答えを待った。


「うん、大丈夫よぉ。マフラーはまっすぐ編むだけだから簡単よ。10日もあれば、初心者でも編み上げられるわ。」
「ほ・・、本当ですか?」
「本当よ。編み方が分からないなら教えてあげるし。」
「あ・・・ありがとうございます・・・!」

思いもよらなかった答えに、は顔を輝かせたのだった。














「・・・・・・ただいま」

と言っても返事はない。億泰はまだ帰っていなかった。
大方、また宿題忘れで放課後居残りをさせられているのだろう。
形兆は手を洗い、うがいをして、薬缶の茶をコップに注いで飲んだ。
飲みながら、の事を考えていた。


「・・・・・・・・・」

思ったより平気そうだった。
いや、平気な訳がない。そう振舞っているのだ。
何て事ないなんて笑って誤魔化していたが、今まで何度あんな目に遭ってきたか、何をされてきたか、考えただけで虫唾が走る。
自分達兄弟も、父親に放置され、暴力を振るわれてきたが、はまた違う。
女であるには、男である自分とはまた違った形の危険が付き纏っている。
父が愚鈍な化け物へと変貌した事で、虐待の鎖からひとまず逃れ出る事の出来た自分とは違い、は今現在も、その危険に雁字搦めに捕らわれている。あの様子ではそう遠くない内に、はあの男に・・・・


「くそっ・・・・!」

形兆は、空になったコップを台所のシンクに叩き付けた。
は何故、焦らないのだろうか。
昨日はたまたま一緒にいたから阻止できたが、今日、明日、また同じ事が起きないとは限らない。もしかしたら今頃だって。
は何故、助けを求めてこないのだろうか。
下衆な欲望を剥き出しにした汚らしい中年男に抱きつかれて、なす術もなく無理矢理キスされそうになっていたの姿を思い出すと、こっちは怒りと心配で頭がおかしくなりそうなのに。


「何なんだ・・・、あのバカ・・・!」

だが、分かっている。
助けなど、ないのだ。
ピンチの時に正義のヒーローが現れるなんていうのは只の幻想で、救いの手など、現実には何処からも伸びてはこない。
それは形兆自身が、よくよく、よくよく、身をもって知っている事だった。もきっと、それを知っている。だから笑って礼など言えるのだ。
そして自分も、正義のヒーローになどなれないと分かっている。
人を救う前に、まず自分が救われたいと、無様にもがいているのだから。


「・・・くそ・・・・」

己の不遇を甘んじて受け入れ、明るく笑って見せるの顔を思い出し、形兆は歯を食い縛った。
どうにもならない口惜しさを抱えたまま、3階へ上がり、自室に鞄を放り込んでから父の部屋を覗くと、朝と同じく一心不乱に肉棒を扱いている姿が見えた。


「フゴォォォ・・・、フゴォォォォ・・・!」

昨夜遅くから、また父親の発情が始まっている。
発情している姿は普段以上に醜怪だが、今日は更に一段とおぞましく見えた。


「・・・食いも眠りもしねぇで、よくまあそんなにぶっ通しでヌケるもんだな」

床に雑誌が散乱していた。
昨夜、始まった時はいつもの如く食い入るように見ていたが、今はすっかり飽きてしまったかのように、全部その辺に放り出されてあった。


「おい、散らかすなっていつも言ってるだろうが!」

形兆はそれらを拾い集めて、父の手元に放り出してやった。
しかし父はそれらに興味を示すどころか、邪魔そうに払い除けただけだった。


「テメェ喧嘩売ってんのかコラァ!」

再び散らばった雑誌をまた拾い集めて、形兆はそれで思い切り父の後頭部を殴った。


「要るんだろコレが!えぇ!?これなんかついこないだ買ってやったばっかじゃねぇかよ!バケモンのくせして贅沢言うんじゃねーよ!!飽きたとは言わせねぇぞ!!」
「フグォォォ・・・・!」

何発殴っても、父は雑誌には目もくれず、もどかしそうに肉棒を扱き続けるばかりだった。言葉はないが、その態度から、雑誌に興味を失っている事は明らかだった。
ここ数ヶ月、与えた雑誌に飽きるのがだんだん早くなってきていたが、こんなに短期間で飽きたのは初めてだった。


「クッソがぁ・・・・!」

形兆の苛立ちは絶頂に達したが、かと言って、どうする事も出来なかった。
性欲という本能からきている行動だからだろうか、発情に関してはどうしても制御出来ないのだ。


― 大丈夫、何て事ないから・・・!


「・・・ざけんなよ・・・・」

あの男もきっと、制御出来ないだろう。いや、する気もないだろう。
あの男はその内、その本能的な欲望をにぶちまける。
仮にあの男じゃなくても、次の男が、そのまた次の男がやる。
の母親が、男を連れ込み続ける限り。


― 助けてくれてありがとう。嬉しかった・・・。


あの微笑みが汚される日は、遠くない。
それどころか、もしかしたらもう手遅れかも知れない。


「・・・ざけんじゃねーぞーーッッ!!!」

父に読み捨てられた雑誌の女にが重なって見えた瞬間、激しい怒りが形兆を突き動かした。


「殺してやるっ、殺してやるっ、殺してっ・・・・!!!」
「フガォォォォ・・・・!」

迸るような怒りに任せ、形兆は狂ったように父を殴り続けた。













「ぬあぁぁぁーーー!!!つまんねーーーーー!!!!」

億泰が唐突に大声を張り上げて、鉛筆を投げ出した。
問題集を解き始めて30分、彼にしてはよくやった方だ。


「うるせーぞ億泰。人んちで近所迷惑な事すんな。」
「うぅ、すまねっス・・・・。」

兄の形兆にギロリと睨まれ、しょげはしたものの、もう勉強する気はないらしく、億泰はそのままバタンと仰向けに倒れた。


「でもよ〜、折角の土曜の夜なのに、アニキもネーちゃんも、なーんで勉強なんかしてんだよぉ〜!」
「言っただろ。こっちはもうすぐ期末テストなんだ。テメーは普段全然勉強しねーんだから、偶のこんな機会ぐらい、しっかり付き合え。」
「ええー!?もうやだよ〜!オレ関係ねーじゃんよぉ〜!」

11月最後の土曜、この日の夜遊びは勉強会となっていた。
あと1週間ちょっとで、中学は期末試験の期間に入るのである。
無関係な億泰は文句轟々だったが、形兆も、そしても、今日は勉強に専念するつもりでいた。


「関係ねえだと?億泰よぉ、別に俺達は、今日はやめにしても良かったんだぜ?
テメーがゴネるから、しょうがなしにこうしてわざわざ勉強会を開いてやったんじゃあねぇか。
何なら今から帰るか?そして勿論、明日もキャンセルだ。俺もも、それぞれ勉強で忙しいからな。」
「あぁんウソウソ、やりますやります!やりゃあ良いんだろー!
でもちょっと、ちょっとだけ休憩させてくれよ!10分、いや5分で良いから!」

虹村兄弟の掛け合いを聞いていると、楽しかった。
形兆が億泰を殴ったりするのも、最初は吃驚したが、今はもう驚かなくなってきている。
は二人のやり取りを笑って聞きながら立ち上がった。


「じゃあ、ちょっと休憩しよっか。今あったかいお茶淹れるね。眠気が覚めるように、濃い〜やつ。」
「おう、悪いな。」
「オレはブラックコーヒー飲んでも寝れそうだぜ、飲めねぇけど・・・」

は台所で熱いお茶を人数分淹れ、茶菓子も添えていそいそと虹村兄弟の元に運んだ。


「はい、どうぞ。」
「ああ、サンキュ。」
「うおぉぉぉ鈴カステラじゃーん!やったぁー☆」

億泰は早速茶菓子に食い付き、形兆は熱い茶に息を吹きかけながら、ゆっくりと飲んでいる。
切り出すなら今が良いタイミングだと考え、はおずおずと口を開いた。


「・・・あの・・・、来週の・・、土曜、なんだけど・・・」
「あぁ?」
「虹村君・・・、お誕生日・・・、なんでしょ?」
「・・・は?何でお前がそんな事知ってん・・」

訊きかけて言葉を切ると、形兆は隣の億泰をギロリと睨んだ。


「オメーか億泰ぅ・・・・」
「いっ、いーじゃんかよ別に、そんな怒んなくてもよぉ〜!前にたまたまそんな話になった時があったんだよぉ〜!」
「そうそう。で・・ね・・・?たまたま、そんな話になった時に、ね?」

がチラリと目配せをすると、億泰はようやく思い出したようにあっと口を開いた。


「そうそう!そん時によぉ、ネーちゃんと考えたんだけどよぉ。」
「何だよ?」
「あの・・・・、来週の土曜、さ・・・、うちでお誕生会、しない?」

の言葉に、形兆のくっきりとした目が点になった。


「・・・・・・・・・・・は?」

形兆は、笑顔を張り付けてウンウンと頷くと億泰を暫し唖然と見ていたが、やがて呆れたように鼻を鳴らした。


「・・・・何言ってやがる。週明けすぐテストなんだぞ?んな浮かれた事してる場合かよ。
、お前相変わらず食塩水の問題分かってねぇのに、そんな余裕ぶちかましてられんのか?」
「う゛・・・・・、だ、だからその為にこうして今、前倒しで勉強してるんじゃない・・・・!」
「その為にって何だよ。ヒマな事言ってんじゃねーぞ。」

実は、誕生日のプレゼントにマフラーも編んでいたと言ったら、もっと呆れられるだろうか。
昨日どうにかやっと完成したのだが、あれは本当に渡すのか。
やってみたいという勢いでつい編んでしまったが、やっぱり嫌がられたらどうしよう。


ネーちゃん」

・・・などと考えていると、億泰がこたつを抜け出しての側にやって来て、ヒソヒソと耳打ちしてきた。


「大丈夫だって。アニキ、アレ喜んでんだぜ。ほら、眉間の皺すっげーだろ?」
「うん、ホント、凄い怖い顔してる・・・。」
「あれ照れてるんだよ。だから大丈夫だよ、このまま押して押して押しまくるんだ!アニキだって本当は俺らにもっとグイグイ来て欲しいんだよ!」
「あーなるほど、あれで意外と押しに弱いもんね、虹村君って・・・!」
「おい、丸聞こえだぞテメーら。」

益々眉間の皺を深くした形兆に、と億泰は揃って手を合わせた。


「な!?いーじゃねーかよーアニキィ!」
「ちょっとだけ!ほんのちょっとだけでいいの!」
「そうそう!いつもみたいにゆっくり出来なくても良いんだよ!」
「10時・・・、ううん、9時まででも良い!テスト勉強の息抜きと思って、ね!?」

二人に拝み倒された形兆は、やたらに長くて重い溜息を吐き、仕上げに舌打ちをした。


「・・・・・・・・・・・・・・ちょっとだけだぞ」
「や・・・、やったー!サンキューアニキぃ〜っ!」
「ありがとう虹村君!」
「何でお前らが礼を言うんだよ。意味分かんねぇよ・・・・。」

プイとそっぽを向いた形兆の顔はほんのりと赤みが差していて、は億泰と共にその反応を喜んだ。
来週の今頃には、この喜びが何倍にもなっている。
この時のは、そう信じて疑っていなかった。















週が明けると、いよいよ期末試験1週間前となり、学内全体がピリリと引き締まった雰囲気になってきた。この期間は全部活が活動を休止し、生徒達は皆、下校時刻になると足早に帰って行き、試験勉強に勤しむ。
もその流れに乗り、一応は勉強をしていたが、しかしその実、勉強の合間の息抜きという名目で、形兆の誕生会の計画を練っていた。
予算はごく限られているし、時間も短い。あまり派手派手しくやっても、主役の形兆に小言ばかり言わせてしまう破目になるだろう。
だから、ケーキはスーパーでスポンジ台を買って来て、缶詰のフルーツと生クリームで飾り付けて手作りしよう。和代に訊かれたら、クリスマスケーキを作ってみたいからその練習と答えれば良い。
料理は、億泰に教えて貰った形兆の好物をさり気なく。
それにカルピスウォーターと、渡せるかどうかは分からないが、一応、ラッピングしたマフラーを添えて。
計画がどんどん進んでいくにつれて日も経っていき、12月3日が来るのを、は指折り数えて待っていた。

だが、そんな幸せな気分に浸っていられたのは、ほんの束の間だった。


「今日からこの人、ここに住む事になったから。」

やっと12月に入ったその最初の日、学校から帰ってきたを待っていたのは、ぎこちなく笑っている母の和代と、相変わらず人を食ったような笑みを浮かべている安原だった。


「ま、そういう訳だからよ。よろしく頼むわ。仲良くしよーぜ。な?」

安原はまるで小さな子供にするように、の頭をポンポンと叩いた。
衝撃が大きすぎて、その手を払い除ける事も忘れ、は和代の顔を呆然と見た。


「ど・・・どういう事・・・・?」
「うん、まあ、ちょっと、色々あってさぁ・・・。」
「色々って何・・・?説明してよ・・・・」

和代の奔放な生き方は、今に始まった事ではない。大抵の事は、見て見ぬ振りをして流してきた。
だが流石に、唯一の居場所を侵害されるような事までは、おいそれと許す訳にいかない。
そんなの只ならぬ憤りを感じた和代は、困ったような視線を安原に向けた。
すると安原は、煙草を灰皿に押し潰してジャンパーを引っ掛け、ちょっと煙草買ってくるわと呟いて出て行った。気を利かせて席を外したつもりなのだろうが、それすらも、今のには許し難い嫌悪感を催させた。


「どういう事なの!?色々って何!?何でこうなったのかちゃんと説明してよ!」

和代と二人になると、は詰め寄るようにして釈明を求めた。


「だからぁ、あの人さぁ、ほら、お金ないじゃない?
で、アパートの家賃滞納しまくっててさぁ、とうとう大家さんに出てけって言われちゃったのよぉ。」
「それ、いつの事?」
「・・・・先月・・・・?」

目を泳がせて説明する和代の態度は、明らかに自分に非がある事を分かっている様子だった。


「で、新しいアパートも借りれないし、他に行くとこも無いし、どうしてもって拝み倒されて・・・」
「ちょっと待って・・・、先月って、今までそんな事、一言も言ってなかったじゃない・・・!まさか今いきなりやって来て拝み倒された訳じゃないでしょ!?」
「・・・・ってぇ・・・・」

が強い口調で詰め寄ると、和代は駄々をこねるように唇を尖らせた。


「前もって言って、に反対されるの嫌だったんだもん・・・」
「っ・・・・!」

この言い草には、心底呆れて言葉も出なかった。
確かに、が物心ついた頃から、和代には常に付き合っている男がいた。
付き合い方もまちまちで、一度来たきりの男もいれば、が一度も会わずに終わった男もいたし、ズルズルと暫く泊まり込んでいく男もいた。
だが、こんな風に『一緒に住む』と宣言された事は、今まで一度も無かった。


「どうして・・・!?お母さん、今までだって何人も彼氏いたじゃない・・・!だけど、一緒に住むなんて言った事は一度もなかったのに・・・!」

どれだけ奔放に恋愛していても、この家だけは、母娘の聖域。
これまでずっと、そう思ってきた。
お母さんもきっとそう思ってくれている、そう信じてきた。
今までずっと、その信念がの心の安定を辛うじて保ってくれていた。


「だってしょうがないじゃない、お母さんにも色々あんのよ!もう37だし、もういい加減水商売も身体に堪えるのよ・・・・!
アンタだってあと何年もしない内に、大人になってお母さんの元を離れていくし、このまま結婚も出来ずに、一人で身体壊して年取っていくだけなんて・・・・!」

それが砕け散った今、何を拠り所にして、この家で暮らしていけというのか。


「お母さん・・・・、あの人と、結婚するの・・・・?」
「そりゃあ・・・、幾ら何でも、全然そんな気ないのに一緒に住みゃあしないわよ・・・・。」

恥ずかしそうにはにかむ和代の表情は、まるで嫁入り前の娘のように初々しかった。
こんな顔は、見た事がなかった。
それは即ち、和代の安原に対する入れ込み様が、これまでの他の男達とは違うという証だった。


「・・・・私、あの人・・・好きになれない・・・・」

は俯きがちに、そう呟いた。


「何で?」

前々からちょくちょく身体を触られてきた事や、この間襲われかけた事を話せば、分かってくれるだろうか。


「・・・・あの人・・・・」
「何よ?」
「・・・・何か・・・怖い・・・・」

だが、言えなかった。


「何でよ?ああ・・・、ちょっと口が悪いとことか?しょうがないのよ、あの人ほら、昔ヤンチャしてたらしいから。口が悪いのはそういう人だと思って、気にしないでよ。あの人あれで、アンタの事結構可愛がってくれてんのよ?」
「・・・それ・・・どういう意味・・・?」
「どういう意味ってどういう意味よ?」

が答えずにいると、和代は一瞬キョトンとしてから、さもおかしそうに笑い出した。


「いやぁだ何よアンタ、まさか変な意味で言ってんの?そんな訳ないでしょ〜!アンタまだ子供なのにぃ!あはは、変な心配しないでよぉ!」

あの時の安原の目は、子供を慈しむ大人の目ではなかった。
あの行為は明らかに、恋人の娘に対する親愛表現などではなかった。


「あの人あれで結構子供好きなのよ。アンタの事可愛がってくれてるってのは、勿論そんな意味じゃなくて、真剣に考えてくれてるって事よ。
あの人ね、来年あたりには店辞めて、一緒に小料理屋でもやらないかって言ってくれてるの。そしたらさ、今みたいに毎日朝帰りなんて事もなくなるし、アンタに色々手伝わせる事もなくなるし。
それに、いずれアンタが大人になって結婚なんて事になっても、水商売の母子家庭ってのより、夫婦で小料理屋やってるって方が、外聞がうんと良いからって、あの人が。」

違う。そんなんじゃない。
そんな事を計画する人が、6千円ぽっちの金を恋人の娘にたかりに来たりするものか。
そんな風に気遣える人が、恋人の娘を無理矢理襲おうとするものか。
全部、全部、口だけだ。
は心の中で、そう叫んでいた。


「まあでも確かに、アンタも年頃の女の子だし、続きの二間しかないアパートじゃ、何かと気は使うわよね。
だからさ、取り敢えず近い内に引っ越しだけでもしようかと思ってんのよ。もう少し間取りの良いとこにさ。そしたらアンタも気ィ使わなくて済むでしょ、ね?
あ、転校はしないで済むように近くで決めるつもりだから、心配しないで!
あと1年で卒業なのに、今転校なんて大変だもんね。友達とも離れたくないだろうし、来年はいよいよ高校受験だし。ふふっ!」

だが、和代の幸せそうな笑顔を前にして、その叫びを声にする事は出来なかった。
その内に安原が戻って来て、話はそこでうやむやの内に終わってしまい、和代はその日、店を休んだ。ささやかな記念か祝いのつもりだったのだろう、三人で外にご飯を食べに行こうと言い出したのだ。
安原もそれに賛成し、断る権利はには無かった。
否応なしに連れて行かれた和食レストランで、食べたくもない天ぷらをどうにか腹に収めたが、味は全く分からなかった。
そして、その夜から早速、招かれざる客との共同生活が始まった。
襖一枚を隔てた隣の部屋で和代が安原に抱かれている気配を感じながら眠れる訳もなく、は布団の中でひたすら息を殺してじっとしていた。
安原のおぞましい息遣い、和代の押し殺したような呻き声、鼓膜を突き破ってしまいたくなるような厭らしく粘ついた音がを責め苛み、油で胸が焼けた時のような悪心を催させた。だが、トイレに行くにも胃薬を飲むにも、襖を開けて二人の寝床を通らねばならないから、どうする事も出来なかった。
眠る事も出来ず、吐きたくても吐けず、どうしようもない気分の悪さにひたすら耐えながら、は只々、1秒でも早く夜が明けるのを願った。




back   pre   next



後書き

いちいち挙げていられない程私の夢小説には捏造設定が多いのですが(笑)、兄貴の誕生日も勿論ソレです。
弓と矢で射手座、話の筋書きの都合、そして『123(イー・ニー・サン)』という語呂合わせで12月3日にしました(笑)。
でも、アニメの過去回想シーンを観ていて思ったのですが、兄貴ダブってません?
10月生まれの億泰が4歳で、兄貴が7歳でランドセル背負っているって事は、小1か小2ですよね?
つまり、学年差は3〜4年。じゃあ億泰が高1なら、兄貴は高校出ている筈では?
卒業後も私服として学ランを着ていたという線も有りですが・・・・・・

私はダブりを推したい!(←力説)

なので、兄貴にはおいおいダブって貰う予定です(笑)。