「・・・・・であるからして、ここはX=−2となり・・・・」
10月下旬の土曜日、この日は、朝からワクワクしていた。
今日はいよいよ、虹村兄弟と『夜遊び』をするのだ。
トランプ、かるた、雑誌の付録のすごろくも持っている。どれからしようか。
その前に手料理を振舞おう。今日は何を作ろうか。虹村兄弟に好き嫌いはないだろうか。
考える事は山のようにあって、数学の授業など、とても頭に入って来ない。
青山の声をBGMのように聞き流しながら、は午後から後の予定をどんどん組み立てていった。
学校が終わったら、買い物をして帰り、
どうせお母さんも食べないから昼食は適当にして、
夕方、いつも通り何食わぬ顔で2人分多く夕飯を作り、
お母さんが出かけて行ったらすぐさま銭湯へ行って手早く入浴を済ませる。
そうすれば、7時には虹村兄弟を迎える事が出来る。
― よし・・・・・!
はノートの隅に、『今日、予定通り遊べる?OKなら7時にうちに来て。良かったら晩ご飯もどうぞ。』と書きつけると、音を立てないよう気を付けて千切り、手の中に隠し持った。
「んっ・・・・・、んんっ・・・・・・」
少しだけ顔を横に向け、小さく咳払いをすると、形兆はすぐに気付いてくれた。
は周りに気付かれないよう注意を払いながら、メモを握った手を下から伸ばした。
「・・・・・」
「っ・・・・」
形兆は躊躇いなくの手に触れ、手の中からメモを抜き取っていった。
初めて触れた男の子の手の感触に、は思わず息を呑んだ。
形兆の手は、の手よりもずっと大きくて、ゴツゴツと硬かった。
「・・・・・」
胸がドキドキするのは、愛とか恋とかではない。
他の男子にはいつもばい菌扱いされていて、手なんか触れた事もないから、慣れていないだけだ。
そんな風に自分に対して言い訳をしていると、隣の席から紙の破れる小さな音が聞こえた。
「・・・・・・・・」
ふと見ると、形兆がさっきと同じように下から手を伸ばしていた。
返事を書いてくれたのだ。
は恐る恐る手を伸ばし、出来るだけ形兆の手には触れないようにして紙片を受け取った。
『分かった、じゃあ7時に。晩飯は済ませて行くから、気を使わないでくれ。』
紙には、怖い見た目の割には繊細な字で、そう書かれてあった。
夕食を辞退されたのは少しだけがっかりしたが、約束はちゃんと覚えていて守ってくれるのだと思うと、すぐに嬉しさの方が上回った。
「・・・・・・・!」
は少しだけ形兆の方へ顔を向け、微笑んで頷いた。
「おーっす、ネーちゃーん!」
「邪魔するぜ。」
虹村兄弟がの家を訪ねてきたのは、予定通りジャスト7時だった。
「いらっしゃーい!どうぞどうぞ、上がって上がって!」
は満面の笑顔で、二人を招き入れた。
「俺達、もう風呂も入って来たんだぜぇ!後の事気にしねーでギリッギリまで遊べるようにって、アニキが!」
玄関に一歩入るなり、億泰は得意げな顔でこう言い放った。
「てめぇ億泰っ、そんなどうでも良い事いちいち言うんじゃねーよ!」
「ホント?・・・実は私も・・・・・」
何だか動揺したように億泰を叱りつけていた形兆は、がそう呟くと、一瞬ポカンとしてから小さく苦笑した。
「何だ、お前も同じ事考えてたのかよ。」
「だって折角だし、その方が良いかと思って・・・・・。うちなんかお風呂なくて銭湯に行かなきゃいけないから、お風呂後回しにしたら遊べる時間が短くなっちゃうし。」
「えっ!?ネーちゃんちって風呂ねーの!?」
億泰に悪気などないというのは、もう十分知っている。は屈託なく笑って頷いた。
「そーだよー!こんなボロアパートだからね。すっごく狭いし。でもゆっくり遊んでってね!」
「おうっ!」
「あ、足音とか声は、あまり大きくしないようにお願いシマス。」
「まかせとけっ☆おっじゃまっしまーす♪」
億泰は囁くような小声で自信満々に請け負うと、部屋の中に入って行った。
そして、居間のこたつの上に並べてあるお菓子やジュースを見るや否や、早速ウォォーッと叫んだ。
「てめぇ億泰っ、静かにしろと言われたばっかだろーが!」
「ごっ、ごめんっ!でもお菓子とジュースがいっぱいあるからつい・・・・・!」
「遊びながら適当に摘まんで。億泰君、何が好きか分からなかったから、適当に買ってきたんだけど。」
「オレ、甘いものとカルピスウォーターが好きぃ!」
「ホント?じゃあカルピス買っといて正解だったね!あ、おでんもあるんだよ。うちの夕飯兼『スナック若葉』の本日の一品だけど。ふふっ。」
「ィヤッホー!オレおでん大好きぃ☆それも食って良いのか!?」
「勿論!女二人じゃなかなか減らないから、億泰君がいっぱい食べてくれると助かるなぁ。」
「そーゆー事なら任せとけって!」
「気ィ使うなっつったのによぉ・・・・」
大喜びしている億泰の横で、形兆は決まりが悪そうな顔をしていた。
だが、形兆にそんな顔をさせるつもりは、にはなかった。
「良いの。どうせ作らなきゃいけないものだったから。虹村君も、後でもし小腹が空いたら食べて。」
「・・・悪いな。」
出来るだけ軽く聞こえる感じでそう言うと、形兆は恥じるようにまた苦笑を浮かべた。
それからの何時間かは、目まぐるしい程に楽しかった。夢のような一時とはこういう事を言うのだろうと思った。
TVをつけっぱなして、3人でお菓子とおでんを食べ散らかし、ジュースを飲み干し、思いつく遊びを片っ端からやり尽くした。
こんな風に羽目を外して遊んだのは、これが初めてだった。
「んごふぅ〜・・・・・、フスゥ〜・・・・・・・」
ふと気付けば、億泰がこたつに潜り込んで気持ち良さそうな寝息を立てていた。
「・・・億泰君、寝ちゃったね。」
「アホ面晒しやがって・・・・・」
形兆は苦々しい顔をして、億泰の手から食べかけのお菓子を取り上げた。
「こうやって寝てると、何か幼く見えるね。ふふっ。」
「見えるじゃなくて、正真正銘幼いんだよ。・・・こいつよぉ、今日寝不足だったんだぜ。」
「え?何で?」
「今日が楽しみすぎて、昨夜あまり眠れなかったんだよ。今日も朝っぱらから大興奮でよ。ったく、ガキかっつーの。」
呆れ返ったように鼻を鳴らし、億泰の食べかけていたお菓子を綺麗に食べてしまう形兆の横顔は、何だかとても優しかった。
「・・・虹村君は偉いね。お母さんの代わりに、億泰君の面倒全部みてるんでしょ。」
気が付くと、はそんな事を口走っていた。
その瞬間、形兆の表情が固く強張ったのが分かった。
「前に億泰君から聞いてたの。お母さん、早くに病気で亡くなって、お父さんと三人暮らしだって。気を悪くしたならごめん。億泰君の事は叱らないで。」
「・・・・・・・・別に」
形兆は小さく溜息を吐くと、の方を向いた。
その顔は、別段不愉快そうには見えなかった。
「おあいこだよ。俺もコイツから聞いたからな。お前んち、お袋と二人暮らしなんだってな。」
「・・・うん。」
おあいこ、その言葉には安堵した。
これまで自分の家庭の話は誰にもしないようにしてきたが、形兆にだけは話しても良いような気がした。
「うちはね、元からいないんだ、お父さん。」
「・・・・・・・・」
億泰が一口食べ残していたおでんの大根を摘まもうとしていた形兆は、一瞬、箸を止めた。
「何かね、私のお父さんには、奥さんと子供がいたんだって。」
「・・・・・よくある、不倫ってやつか」
大根の欠片を口に放り込んで暫くしてから、形兆は事も無げにそう呟いた。
「みたい。で、これもまたよくある話だけど、捨てられたのは愛人の方・・・、ってやつ。
私が出来て、お母さんは当然お父さんと結婚する気でいたらしいんだけど、お父さんは結局、奥さん子供と別れなくてね。
で、それっきり。何もなし。生まれた私の顔も見に来なかったんだって。」
「結構詳しく知ってるんだな。」
「お母さんが、時々酔っ払って泣きながら聞かせてくれるから。嫌な事があった時なんかにね。」
が冗談めかして笑うと、形兆も薄く笑い返してくれた。
「ヘッ・・・、そりゃあウンザリだな。」
「ふふっ、うちは親子の立場逆なんだ。うちのお母さん、私にベッタリ甘えてるの。」
同級生の男の子にこんな事を感じるのはおかしいかも知れないが、形兆に受け止められているような気がした。
同情でもなく、侮蔑でもなく、ただそのままに自分が受け止められているような、そんな安心感を、は覚えていた。
「・・・・あと・・・・、男の人にも・・・・」
「男?」
「うちのお母さんね、・・・・男狂いなんだって。」
だからだろうか。
こんな話までし始めてしまったのは。
「・・・・・・・それは誰から聞いたんだよ」
「小学校の時の同級生達。今でも殆ど皆同級生だけど。」
は、数年前の事を思い起こしていた。母・和代と共に、この町に越してきた当時の事を。
「私もね、ここへは小3の時に越してきたんだ。その前はK市にいて、その前は東京で・・・・。
お母さん、私を連れてあちこち転々としてたんだけど、私が小3の時に知り合いを頼ってここへ越して来て、それから今のお店で雇われママをするようになったんだ。」
「そうか・・・・・」
「越してきたばっかりの時に、お母さん、お店のお客さんと親しくなって、付き合うようになったの。そのお客さんっていうのが、私のクラスメイトだった男の子のお父さんで・・・・・・」
「・・・・・お前が学校で虐められてる原因って、その事なのか?」
形兆は、実に理解が早かった。
単刀直入にズバリと訊かれたのも、いっそ清々しい気分だった。
少し前までは知られたくないと思っていたのに、この心境の変化が自分でも不思議だった。
「・・・きっかけ、ではあるかな。あっという間に噂が広まっちゃってね。
水商売の家の子とか、男狂いの娘とか言われて、皆に避けられるようになっちゃった。まあ、越してきたばっかりで、元々友達なんか殆どいなかったから、別に構わなかったんだけど。」
強がりに聞こえただろうか。
しかし本当に、今はもうどうでも良かった。
今更クラスメイト達と仲良くしたいとは思わないし、自分達母娘の名誉を挽回出来るとも思っていなかった。
何故なら、何も変わっていないからだ。
「・・・その人と別れてからも、お母さん、色んな男の人と次々に付き合ってる。
遊びだったり、本気だったり、その時々で色々だけど、でも皆・・・・・・・・」
母・和代の連れてくる男の中で好ましく思えた者は、今まで一人もいなかった。
最初は調子の良い事を言って近付いてきても、だんだん化けの皮が剥がれていき、母を弄ぶだけ弄び、最後は喧嘩別れをして去っていく、そんな奴等ばかりだった。
娘のに対する接し方も、押し並べて酷いものだった。
まだ幼いをあからさまに邪魔者扱いしたり、母の前では優しくしてくれるが、母の目がないと邪険にしたり、全くの無関心で、いない者のように扱ったり、また・・・・・
「・・・皆、何だよ?」
まだ未熟なの身体に、欲望を持って触れてきたり。
「・・・・っ・・・・・・・」
強烈な嫌悪感が、を我に返らせた。
ふと気付くと、形兆が怪訝な顔をして見ていたので、は慌てて笑顔を取り繕った。
「・・・皆、結局うまくいかなくなっちゃうんだ。で、今度こそ幸せになりたいって思って、また別の彼氏を作って・・・、その繰り返し。
そんな事してるから、男狂いとか言われちゃうんだろうね。本人はあれで結構真剣に幸せ探してるんだけどね。」
「フン・・・・・、幸せ探し、か。」
「ねえ、虹村君はお母さんの事覚えてる?億泰君はあんまり顔も覚えてないって言ってたけど。」
訊いてみたくなったのは、純粋な憧れからだった。
最近になって気付いてきた事だったが、形兆は不良のようなルックスの割に、生真面目で優秀な少年だった。
見た目や言葉遣いの点だけで言えば同類のような連中は各学年に何人もいるが、形兆はその中には混じっていなかった。
成績も良く、遅刻や欠席もなく、身なりもいつも清潔で、ハンカチにはいつでもピシッとアイロンがかかっている、そんな不良は他にはいない。
いや、そもそも形兆は不良などではなく、恐らくよりもっと育ちが良かった。
彼を育てた母親はきっと、品が良くて家庭的な、とても素敵な女性だったのだろう。
形兆の人となりを知るにつれて、の中で虹村兄弟の母親に対する闇雲な憧れが、恥ずかしい位にどんどん膨らんでいた。
「・・・ああ。お袋が死んだ時、億泰の奴はまだ3歳だったけど、俺はもう小学校上がってたからな。」
彼女はきっと、クッキーを焼いて子供達の帰りを待っているような母親だったに違いない。いつも綺麗なエプロンをして、庭で花を育てて、子供達の描いた絵を壁に飾って嬉しそうに微笑んでいるような。
「訊いても良い?虹村君のお母さんって、どんな人だったの?」
「別に・・・・・・、普通の母親だったよ。」
何となく目を逸らす形兆の仕草は、照れ隠しにしか見えなかった。
我ながら妄想じみた憧れだとは思うが、形兆の反応からすると多分、あながち間違いでもないのだろう。
「嘘。普通じゃないでしょ。」
「どういう意味だよ?」
「すっごい綺麗だった筈だよ。だって、日本人とドイツ人のハーフだって言ってたじゃない。それに、息子の顔がソレなんだから、ちょっとそこらにはいない位の美人だったでしょ。」
「・・・何だよ、見た目の話かよ。」
が冗談めかして誉めると、形兆は呆れたように笑った。
そして、ポカンと口を開けて寝ている億泰を指さした。
「言っとくがな、コイツだって正真正銘お袋の息子だぞ。このアホ面を見てもそう言えるか?」
「あはは・・・・!アホ面は酷いよ〜!億泰君、可愛いじゃない。何て言うんだろ、こう・・、コドモ!!って感じで。ふふっ!」
「フッ、何だそりゃ。」
「でも確かに、虹村君とはあんまり似てないね。」
「俺は、目鼻はお袋に似たんだけどよ、コイツはその辺が親父似なんだよ。」
「そっかぁ。ねえ、お父さんはどんな人?」
ふと気付くと、形兆は黙り込んでいた。
つい今の今まで、億泰の寝顔を見て笑っていたのに。
強張った表情で、まるで何かに怯えるように。
「・・・・虹村君?」
が呼びかけると、形兆はふと我に返ったようにを見た。
「・・・・あ・・・・?」
「どうかした?」
「いや、別に・・・・・、別に何でもねぇよ。」
「そう?・・・なら良いんだけど・・・・」
形兆の様子がおかしかったのは、ほんの一瞬だった。
すぐに元の表情に立ち返り、ジュースを飲み出したので、はそれ以上追究しない事にした。
「・・・・・親父は・・・・・」
何となく黙っていると、不意に形兆の方から口を開いた。
「え・・・・・・?」
「うちの親父は・・・・・、只の情けねぇオッサンだよ・・・・・」
返ってきた答えは、の想像とは異なっていた。
「うちの親父は、東京で不動産会社を経営してた。
バブルの最中によ、他の同業者はガッポガッポ儲けてんのに、うちの親父はヘタこきやがってよ。」
長い睫毛を伏せている形兆の横顔は、見ている方の胸が苦しくなる程の憂いに満ちていた。
「お袋が病気になったのも、丁度会社が傾いてきたのと同じ頃だった。
癌だったんだ。判った時には身体のあちこちに転移してて、手術のしようがなかった。だから、ずっと入院して投薬治療をしてたけど、親父はろくに見舞いにも来なかった。
まだ小さかった俺達の事もほったらかしで、あちこち飛び回って家空けっぱなしでよ。やっと帰って来たかと思えば、いつも鬼みてぇなツラしてて、理由もなく俺達を殴りやがった。まるで、その為に帰って来たみてぇによ・・・・・」
何と言えば良いのか分からなかった。
形兆の幼少期は、のそれ以上に過酷なものだった。
母から泣き言を言われ八つ当たりされる事はしょっちゅうだが、男親のいないには、いるのに『いない』父親というのが、鬼のように子供を殴る父親というのが、想像出来なかった。
母親の恋人とは違って、本当の父親なのだから、子供に対して愛情はある筈だ。
それなのに、どうしてそんな酷い事が出来るのだろうか。
しかし、こんな悲しそうな顔をしている形兆に向かって、彼の父親を悪く言う事は出来なかった。
「・・・・会社を・・・・・、立て直す為・・・、に・・・・・?」
「・・・・結局、会社は潰れちまったし、お袋も死んだけどな。」
形兆は、否定も肯定もしなかった。
ただ物憂げな瞳をして、淡々とそう呟いただけだった。
「・・・・・・もう11時になるな。そろそろ帰るよ。」
形兆はふと壁の時計に目を向けて、にそう告げた。
「億泰、おい億泰。起きろ。帰るぞ。」
「んぁ〜〜・・・・・・・」
「起きろ、立て。立って自分で歩け。」
「無理ぃ〜・・・・・・、アニキぃ・・・・、おんぶぅ・・・・・・」
「ふざけんなよ、何歳だテメー。」
「ぁいって・・・・・!」
億泰の頭を叩いて起こす形兆の様子は至っていつも通りで、もうそれ以上、何も言えなかった。話の続きは勿論、帰らないで、とも。
今までが楽しすぎた分、寂しさもひとしおだった。
また独りになってしまう。長い長い、独りの夜がやって来る。
しかし、それを虹村兄弟に、形兆に訴える事など、どうして出来ようか。
他人からそんな漠然とした不安を訴えられたって、迷惑なだけなのだから。
「すっかり散らかしちまったな。このゴミどこに捨てりゃあ良い?」
「え、あ・・・、あぁ、いいの、置いといて・・・・!私がやるから・・・・」
「そうか?悪いな。」
「ううん・・・・・・」
寂しさを押し殺しているに気付かず、億泰を叩き起こした形兆はテキパキと帰り支度をし、まだ寝ぼけ眼の億泰を引き摺るようにして玄関に出て行った。
「遅くまで邪魔したな。」
見送りに出たに、形兆は律儀に挨拶をした。
「ううん・・・・・。あ、き、気をつけてね・・・・・」
「ああ。億泰、挨拶。」
「おじゃましましたぁ〜・・・・・・・・」
「またね、億泰君・・・・。」
殆ど開いていない目でペコリと頭を下げる億泰に笑って手を振っていると、ふと形兆がの方を振り返った。
「・・・・・」
「え・・・・?」
「お前よぉ、何でそんな話、俺にした?」
何故、父親がいない事や、母親が男をとっかえひっかえしている事などを話してしまったのか。その理由も、口には出来なかった。
「・・・・・そのうち・・・・・、どっかから耳に入るだろうから・・・・・、それならその前に、自分の口から言っちゃった方がマシだと思って・・・・・・」
「・・・そうか」
「また来週・・・・・、遊べる・・・・・?」
その理由を話す代わりに、はそう訊いた。
これっきりだと言わないで欲しい、そんな切実な願いを込めて。
「・・・・・・ああ。」
形兆は微かに笑って、頷いた。
土曜の夜の夜遊びは、それから密かに毎週続いていた。
今日は4回目、11月も半ばに入っていた。
「よっしゃー!オレあーがりっ!」
「あっ、億泰君が1番だぁ!おめでとーっ!じゃあ次私の番ね。・・・・・・・・やった、私もあーがりっ!わ〜い兄貴に勝った〜♪」
「わ〜いニジムラくんの負けだぁ〜!」
「てめぇら・・・・・・」
はしゃぐと億泰を前に、形兆は普段より一層眉間の皺を深くした。
「俺ぁいつからお前の兄貴になったんだよ。あとお前も『ニジムラくん』だろうが。」
「でへへー!」
「あはははっ!」
4回目ともなると、3人共がそれぞれにもうすっかり馴染んでいた。
は益々明るくなり、億泰は寝不足になる事もなく、形兆も日々の憂さを一時忘れて他愛もない遊びを純粋に楽しむ事が、言い換えれば、自分の生活にメリハリをつける事が出来るようになっていた。
「・・・・・すごろくの決着もついた事だし、億泰、そろそろ帰るぞ。」
楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、ふと見れば、時計はもう11時を回っていた。今夜もそろそろお開きの時間だ。
「えー!?まだいいじゃねーかよー!」
だというのに、億泰は盛大に不満を垂れた。
その内こうなるだろうという予測は最初からしていたが、遊び慣れてきて調子に乗っているのだ。
ここは兄として、きっちり躾けておかねばならないところだった。
「何言ってやがる。今何時だと思ってんだテメー。」
「だって、ネーちゃんの母ちゃんはまだまだ帰って来ねぇんだろ?」
「うん、うちはまだ全然大丈夫だけど・・・・・。」
「ほらぁ!俺達が帰ったらネーちゃん一人になっちまうし、この場合はメーワクっつーより、逆にまだいた方がいいんじゃねーかとオレは思うぜぇ!」
「やかましいっ!知った風な口利くんじゃねぇっ!」
「ぎゃぴっ!」
家主のを味方につけたつもりになって、益々調子付いてきた億泰に、形兆はいつもの如く拳骨を落とした。
「いってーなー!何すんだよぉっ!」
「テメーが聞き分けねー事言うからだろ!」
「ふ、二人共、喧嘩しないで・・・・!」
がオロオロしながら二人の間に割って入ってきたが、億泰は引き下がらなかった。
「大体、アニキは自分の都合を気にしてるだけじゃねーか!どーせ明日もまた朝早くから東京行くんだろ!?その為に早く帰りてえだけじゃねーか!」
止める暇もなかった。あっと思った時には、億泰は早口で捲し立てた後で、の耳にもしっかり入ってしまった後だった。
「明日も朝早くから東京って、どういう事?」
「アニキ、このところ毎週日曜日に、わざわざ大学の図書館まで勉強しに行ってるんだ。引っ越して来る前によく通ってたんだよ。」
「え?そうなの?」
確かにこのところ、形兆は予告通り、日曜日の度に東京にあるH大の図書館へ出かけていた。
勿論、例の『調査』の為にである。
今は、世界有数の大財閥・スピードワゴン財団と、N.Y.の不動産王・ジョセフ・ジョースターについて調査を進めているところだった。
しかし、億泰はその事を知らない。
伝えようとも思わない。
幼い上に人一倍頭の悪い億泰には、調査の手伝いなんて出来っこないのだから。
「テメー余計な事言ってんじゃねーぞ億泰!」
「だってぇ、日曜日のたんびに一日中留守番なんてつまんねーんだもんよぉ!」
ただ、それならせめて、足を引っ張るような真似だけはしないで欲しい。
こっちは何もかもを一身に背負って、血反吐を吐くような思いでやっているのだ。
「約束が違うだろーが!!今更何言ってやがるこのダボがぁっ!!」
なかなか進まなかった調査が、ようやくまた進み出しているのだ。
何の役にも立たなくても、せめて邪魔位はしないように出来ないのか。
「でもよぉっ、アニキは今でも十分頭良いんだし、何もわざわざそんなとこまで勉強しに行く事ねーじゃねーかよぉっ!」
人の苦労も知らず、我儘ばかり言う億泰に、形兆は思わず本気でキレかけた。
「うるっせぇ!!」
「あぁぁぁちょちょちょちょ、ちょっと待って・・・!!」
振り上げた拳を受け止めたのは、億泰の顔面ではなく、の小さな掌だった。
寸でのところで止めたから無事だったものの、あと僅かにタイミングがずれていれば拳を振り抜き、柔らかい掌とはいえ、を思い切り殴り飛ばしていたところだった。
「っ・・・!お前っ、危ねーだろっ!危うく殴っちまうところだったじゃねーか!」
「だ、大丈夫大丈夫・・・・・」
は何だかずれた事を言って引き攣ったように笑うと、形兆と億泰を交互におずおずと見比べた。
「あ、あの・・・・・、そういう事なら明日・・・、朝からまた遊ぶ?」
「え!?」
「良いのか!?」
形兆の声に、億泰の嬉しそうな声が重なった。
甲高い億泰の声が幾らか勝って聞こえたのだろう、は笑って頷いた。
「明日は、うちでは無理だけどね。ほら、お母さん寝てるから。だから、どこか外か、虹村君のおうちで良いなら・・・の話なんだけど・・・・」
は言葉を濁して、チラリと形兆を一瞥した。決定権が誰にあるかを分かっている目だった。
「なぁアニキ、良いだろ、なぁっ!?モチロン、一日外で遊んでるしよぉっ!家にはぜってぇ入らねぇから!」
「あ・・・、家はダメなんだね。」
駄目、と言える立場でない事は承知している。
毎週毎週兄弟で押しかけて、散々飲み食いさせて貰っているのだから、むしろこちらから是非にと招き返して当然だ。
しかしそれは一般的な家庭の常識であって、虹村家では到底不可能な話だった。
「・・・・・こっちは散々世話になってるのに、図々しいのは分かってる。でも、うちは親父が留守がちだから、人を入れられないんだ。」
今更こんな事位でと自分でも驚く程、良心が痛んだ。
今までやってきた色々な事に比べれば、この程度の非礼など、この程度の嘘など、どうという事はない筈なのに。
「ち・・・・・違うよ虹村君、私、そんなつもりじゃない・・・・・!」
必死なの顔を見ていると、罪悪感が胸を刺すようだった。
「図々しいなんて思ってない!私も、虹村君達と遊んでると楽しいから!だから良いの!」
「・・・・・・」
「明日、私、億泰君と朝から公園で遊んでるよ!何時からでも大丈夫!家にいたってどうせ・・・・・!」
そう言いかけて、はハッとしたように言葉を切った。
家にいたってどうせ・・・・・、その続きは、何となく察しがついた。
形兆は、初めてここへ来た日に聞かされたの身の上話を思い出していた。
どっぷり水商売に浸かりながら『幸せ』とやらを探し続けているという母親と、その母親が次々に連れてくる、どいつもこいつもろくでもないのであろう男達。
「・・・・・・・」
逃げたいのだ、は。
そいつ等から、暗くて息苦しい家から、灰色に濁った重い生活から。
形兆にはその気持ちが、手に取るように分かった。
「・・・・・本当に、良いのか?」
人には頼りたくない。誰かに借りを作りたくない。今までずっとそうやってきた。
人に甘える事など、母親が健在だった頃以来、とんとしていなかった。
「うん・・・・・!」
「・・・・じゃあ・・・・、すまねぇが、億泰の事、頼む。夕方まで、適当に遊んでやってくれ。」
「うん、分かった・・・・・!」
形兆がぎこちなく頼むと、は心から嬉しそうに微笑んだ。
「・・・・礼と言っちゃあ何だがよ、コイツに金持たせるから、昼飯とかおやつとか、二人で何か食ってくれ。」
「そんな、気を使わないで・・」
「俺だっていつもそう頼んでんのに、お前聞いた試しねぇだろ?」
「う゛・・・・・・・」
「それから億泰、明日は門限を守れよ。家に帰ったら、先に飯食って風呂入って学校の用意して寝てろ。分かったな?」
「おう、分かったぜぇっ!さんきゅーアニキぃっ!」
皆、居場所を求めているのだ。
怯える事も孤独に凍える事もなく、心から笑っていられる場所を、億泰も、も、そして・・・・、自分自身も。
「虹村君は、朝何時に出るの?」
「俺は、7時位・・・・・・」
「そっか。億泰君は?その時間に出て来れる?」
「う゛・・・・、7時かぁ・・・・、学校行くより早ぇよなぁ・・・・・」
「じゃあ、9時ならどう?」
「それならぜってー大丈夫!」
「じゃあ、9時にいつもの公園で待ち合わせしよ、ね?」
「おうっ!オッケーだぜぇ!」
「・・・・・億泰テメェ、本当に大丈夫なんだろうな。朝飯食って支度する時間も考慮に入れろよ。あと家の戸締りと。」
「分かってる!ぜぇーんぶダイジョブだって!」
「本当だろうなオイ・・・・・」
嬉しそうな億泰との笑顔を見ながら、自分が今確かに、二人の気持ちにおずおずと寄り添おうとしている事を、形兆は感じていた。
調査は困難を極めていた。何しろ対象が世界的な大物なのだ。スピードワゴン財団に関しても、ジョセフ・ジョースターに関しても、情報が多すぎる。
開館から閉館まで図書館に缶詰で、簡単な腹ごしらえとトイレ以外は休憩も取らずにぶっ通しで調べ続けたが、それでもまだまだ終わっていない。きりは悪いが、また来週に持ち越すしかなかった。
前の家からだったら平日でも行けたが、片道2時間かかるようになってしまった今は、週に1回のペースが精一杯だった。
もどかしい気持ちを切り替えて電車に飛び乗り、形兆はY市へ帰り着いた。
駅前の辺りは飲み屋などがひしめいていて煌々としているが、自宅のある海沿いの方へと進むにつれて、人気がなくなり、暗くなっていく。
別に怖い訳ではないが、この果てしなく静かな闇に自分の未来が重なって見えて、形兆はふと不安に駆られた。
こんなに時間をかけて、アメリカの不動産王だの大財閥だのの事を調べて、何になるのだろうか。
そこからどうすれば、父を殺せる方法に辿り着けるのだろうか。
もう分からない、何もかも。
「・・・・・・ん?」
くたびれた心を身体ごと引き摺って歩いていると、自宅の前に人の姿が見えた。
道路脇のフェンスに寄り掛かって、真っ暗な海を眺めているその人は、だった。
「あいつ・・・・・・!」
形兆は驚いて、に駆け寄った。
「!」
「あ・・・、虹村君!お帰りなさい!」
形兆に気付いたは、呑気に笑って手を振った。
「『お帰りなさい』じゃねーよ!もうすぐ10時だぞ!?何してんだこんな所で!まさか今まで遊んでたのか!?億泰は!?」
「ち、違うのこれは!おっきい声出さないで!億泰君、もう寝てるかも知れないし!」
「は!?」
の視線を追って見てみると、自宅の窓は真っ暗だった。
「・・・ちょっと前に、やっと灯りが消えたとこなんだ。」
「・・・どういう事だよ?」
ともかく事情を聞くべきだ。
形兆は声のトーンを落として、に説明を求めた。
「億泰君は、虹村君の言いつけをちゃんと守ったんだよ。朝からずっと公園にいて、ちゃんと夕方でおしまいにして。でも・・・・」
「でも、何だよ?」
は少し躊躇ってから、再び口を開いた。
「・・・・・いつもあんなに元気な億泰君がね、寂しそうにバイバイって笑って、一人でトボトボ歩いていく後ろ姿見てたら、何だかほっとけなくて・・・・・・」
「・・・・・・・・それで?」
「まっすぐ送って来ただけ。他の所に連れ回したりなんかしてないし、家にも入ってないから安心して。」
「ちょっと待て・・・・、じゃあお前、夕方からずっとここにいたのかよ・・・・?」
はバツの悪そうな顔をして、小さく頷いた。
間近で見てみると、その頬は真っ白に透き通っていた。
「お前・・・・・・・・・!」
まだ11月半ばとはいえ、夜の海風は真冬のように冷たい。
こんな暗がりで何時間も凍えながら独りぼっちでいたなんて、信じられなかった。
風邪を引く事や、暴走族に絡まれたり、変質者に襲われたりする危険を、全く考えなかったのだろうか。
「怒らないで・・・・・!億泰君の事怒らないであげて、お願い・・・・・!」
なのには、只々億泰を庇うだけだった。
「私が勝手にした事なの・・・・・!虹村君が帰って来るまでここにいるって言ったのも私・・・・・!多分、余計なお節介なんだろうけど、でも・・・・・・」
は不意に勢いを失うと、俯きがちになった。
「・・・・私、億泰君の気持ち分かるんだ。一人ぼっちで、寂しくて、不安な気持ち・・・・。私も、小さい時からいっつも夜一人で留守番ばかりだったから、分かるんだ・・・・・。このまま、もう帰って来ないんじゃないかって、怖くなっちゃうんだよね・・・・・・・」
の言葉に、幼い頃の記憶がまた揺れ動いた。
広い家は、子供二人には寒々しすぎた。
広いだけの真っ暗な冷たい部屋で、ベッドに頭まで潜り込んで待っていた。
元気になった母が帰って来てくれるのを、優しかった頃の父が帰って来てくれるのを。
「虹村君だって分かるでしょ?ううん、虹村君はきっと、億泰君よりも私よりも、もっとずっと分かってる・・・・」
「っ・・・・・・!」
だが、実際に帰って来るのは、1匹の鬼だけだった。
真夜中を過ぎた頃に聞こえる、車の音とドアの開く音。
廊下を歩き、階段を上る、乱暴な足音。
そして、酒に酔った怒鳴り声。
『形兆ォ、億泰ゥ、いるんだろぉ!?父さんが帰って来たのに挨拶もねぇのかテメーらはぁぁっ!!』
「やめろ・・・・・・・!」
形兆は思わず声を荒げ、纏わりつくような忌まわしい記憶を振り払った。
「・・・・・虹村君達といるとね、私、何だか安心出来るんだ・・・・。一人じゃないんだって、そう思えて・・・・・・」
は形兆を見て、まるで泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「だから、全部私がしたくてしてるの。こんな風に思えたの、初めてなの。
余計なお世話なのは分かってるけど、でも・・・・、許して・・・・。ごめん・・・・・」
の身の上話を聞かされたあの夜、自分も口を滑らせてしまったのは、つい釣られたせい・・・ではなかった。
あの時確かに、通じるものを感じた。だから話したのだ。誰にも打ち明けた事のなかった家族の話を、たとえ全てではないにしろ。
が下らない優越感や半端な同情心で動いている訳ではない事など、今更謝られなくても分かっていた。
「・・・・・・何謝ってんだよ、馬鹿じゃねーか、お前・・・・・・」
形兆がそう呟くと、は嬉しそうに笑った。
その微笑みを見ていると、古傷の痛みに疼いていた心が、ゆっくりと凪いでゆく。
いつからだっただろうか。
が笑うと、安らぎを感じるようになったのは。
そんな自分に気付いたのは。
「・・・・つーかそれ・・・・・」
ふと我に返った形兆は、が空っぽのお椀と割り箸を持っている事に気付いた。
「あ・・・・、これ、億泰君が豚汁出してくれたの。本当は家に入れたいけど出来ないから、せめて・・・って。」
「・・・・フン」
億泰なりに色々と悩んで葛藤して、考え付いた事だったのだろう。
馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、少しは気が利くじゃねぇかと、形兆は内心で感心した。
「これ、虹村君が作ったんだってね。すっごい美味しかったよ!」
「お・・・、おぅ・・・・・」
口から出たのは、何とも間の抜けた声だった。
億泰以外の人間に料理を誉められた事がなくて、どう反応すれば良いか咄嗟に分からなかったのだ。
だが、よく考えてみれば、億泰以外の人間に食べさせた事がないのだから、誉められた事がないのは当たり前だった。
「虹村君、お料理も上手なんだね。凄いなぁ、本当に何でも出来るんだねぇ。」
「べ・・・別に・・・・・」
「この豚汁、何かコツとかあるの?私が作るのより全然美味しかったんだけど。」
「っ・・・・・、んなモンねぇよ、別に・・・・」
一歩も二歩も遅れて、猛烈な照れが襲ってきた。
何か気を逸らすものがないかと考えていると、が着ている黒いジャンパーに気が付いた。やけにブカブカな上にどこかで見た事があると思ったら、それは形兆のジャンパーだった。
「つーかそれも俺のじゃねーかよ・・・・」
「あ、こ、これも億泰君が貸してくれたの・・・・・!億泰君のだとサイズが小さいからって・・・・!ご、ごめん、勝手に借りちゃって・・・・・!あ、ありがとう・・・・・!」
今度は何故かが激しく動揺した。
「いいよ、脱ぐな。そのまま着とけ。」
「え・・・?」
はそそくさとジャンパーを脱ごうとしたが、形兆はそれを止めた。
芯まで冷えて青白い顔をしているから、今ここで上着を剥ぎ取る意味など何もなかった。
「それ寄越せ。」
形兆はジャンパーの代わりに、空のお椀と割り箸を要求した。
「あ・・・、ご、ご馳走様でした・・・・・」
「おう。お粗末さん。」
おずおずと差し出されたそれを受け取って、ノートや筆箱の入ったカバンと共に玄関に放り込んでから、形兆は再びドアの鍵を閉め、に向き直った。
「さてと、行くか。」
「え・・・・・?」
「家まで送ってく。」
「え・・・・、い・・・・・いいよそんな・・・・!」
は小刻みに頭を振って、激しく遠慮した。
「虹村君、今帰って来たとこじゃない!ご飯もお風呂もまだでしょ!?早くしないと明日も朝から学校なのに・・・・!」
「その台詞、そっくりそのままバットで打ち返してやるよ。早く行かねーと風呂屋閉まるぞ?」
「っ・・・!そ、そんな事どうだって良いじゃない・・・!億泰君が寂しがってるよ!私なんか送ってる暇あったら、早く家に入って・・」
「う る せ ぇ 。ゴチャゴチャ言うなら担いでいくぞ?」
「っ・・・・・!」
が何をそんなにうろたえているのか分からないが、一歩たりとも退く気はなかった。億泰を躾ける時の感じで軽く睨み下すと、は言葉を詰まらせた。
「・・・行くぞ。」
「・・・・・は・・・・・、はぃ・・・・・・」
「フン。」
勝った。
何だか妙な優越感を感じながら、形兆はと並んで歩き始めた。
「海、真っ暗だね。」
「ああ。」
漂う波がコンクリート壁に当たる微かな音が聞こえるだけの、静かな夜だった。
「この辺、外灯もロクにねぇからな。夜になると本当に真っ暗になるんだよ。
なのに不用心に何時間もあんなとこに一人で突っ立ってやがって。テメーそれでも女か。危機感が足りねーんだよ危機感が。」
「ふふっ・・・・」
「何笑ってんだよ?」
「虹村君、親みたい。」
「・・・・チッ・・・・、笑いごっちゃねーんだよ・・・・・・」
静かな、静かな夜の中を、と二人で歩いていると、不思議な気持ちになった。
この一時が、もっとずっと長く続けば良い、そんな気持ちに。
「でも大丈夫だよ。だって、億泰君がずっと窓から顔出して喋りかけてくるんだもん、ふふっ。ご飯食べ終わったとか、お風呂上がったとか、全部報告してくれるんだけど、それがいちいち面白いの!
今日の晩ご飯、めざしと豚汁でしょ?それをさぁ、グルメ番組のレポーターみたいに説明してくれたんだよ。ん〜、このカリカリ具合がタマリマセンなぁ、10匹で398円とは思えないお味です、とかって!あっはは・・・・!今思い出しても笑える・・・・・!」
「っ・・・・・・!」
「あ、お風呂の事も聞いたよ。アニキの最近お気に入りのシャンプーはぁ、フルーティフローラルの香りでぇ〜す♪って、サザエさん調で。あっはははは・・・・・!」
「・・・にやってんだあのバカ・・・・!」
「しまいにTVの実況中継まで延々としてくれちゃって。わざわざバラエティ番組のギャグとか真似してくれるの。あの子本当面白いよね、ふふふっ!」
は無邪気に笑い転げてから、ふと形兆の方を見た。
「・・・・・だからね。ちっとも怖くなんかなかったから、大丈夫。また来週も東京行くんでしょ?だったら、次もこうしよ?」
「またって、お前・・・・・」
「ね?」
の優しい微笑みは、形兆の胸を苦しくなる程締め付けた。
何もわざわざ小学生の弟に寂しい思いをさせてまで東京の図書館まで勉強しに行かなくても良いじゃないとか、次は家に入れてとでも言ってくれた方が、まだ気持ちは楽なのに。
「・・・・・・・」
元々、人に借りを作るのは大嫌いなのだ。
がこれからも『余計なお節介』を焼いてくれるというなら、それ相応の『仕返し』をしなければ気が済まない。寒空の下で何時間も立たせるのではなくて、家に入れて、温かい飯でも食わせてやりたい。
だが、それが出来ない。
どうしても出来ないのだ。
あの父親が存在している限り、どうしたって。
「・・・・・今まで気にも留めた事なかったけど、こうして夜に見ると、ここの海も結構綺麗だね。」
黙ったままの形兆からふと目を逸らして、は暗い海の方へ視線を投げかけた。
「・・・・吸い込まれそう・・・・」
そう呟いたの横顔が、とても儚く見えた。
この漆黒の波に攫われて、今にも消えてしまいそうに。
「・・・・っ・・・・!」
形兆は、何かに突き動かされるようにして、を強く抱きしめた。
「・・・・・くん・・・・・?」
想像の中で、そうしていた。
「虹村君・・・・?」
当たり前の楽しみも、愛も恋も、何もかも全部。
自分の人生は全て、父を殺したその後から始めるのだと、心に決めていた。
それを覆す気は、今もない。
だが。
「どうかした?」
「・・・・いや、何でもねぇ・・・・・・」
それならば、どうすれば良いのか。
どうしろというのか。
誰かに問えるものなら、問いたかった。