愛願人形 3




程なくして、修学旅行が始まった。
誰もいなくなった2年生の校舎は、まるで別世界に迷い込んだような気になる位、いつもと様子が違っていた。
だが、悪くない。
ここには、はやし立ててくる男子達も、陰湿な嫌がらせをする女子達も、誰もいない。
一人で、心穏やかに過ごす事が出来るのだ。
そう思うと、むしろ楽しみにさえ思えてきて、は上機嫌で教室の戸を開けた。


「っ・・・・・・・・」

そこに、虹村形兆がいた。
と同じように、いつも通り制服を着て、当たり前のように自分の席に座っていた。
てっきり修学旅行に行ったものとばかり思っていたのに、何故いるのだろうか。
だが、それを訊く勇気はなく、は彼からおどおどと目を逸らし、自分の席に着いた。
彼もまた、何も喋りかけてこなかった。


「・・・・・・」

席が近い。近すぎる。
普段は気にならないのに、今日はやたらと気になる。
他に誰もいなくて、空間が広く空きすぎているからだろうか。
こんなに空いているのに、何も隣の席じゃなくても良いじゃないか。
だが、自分の席を離れて、関係ない他人の席に座るのも、それはそれであからさまにおかしい。
の方は延々とそんな事を考えていたが、虹村形兆の方は全く気にも留めていないように、文庫本などを読んでいた。
そうこうしている内にチャイムが鳴り、少しして教師が入って来た。
社会科担当の溝口という50過ぎの男性教師で、陰気な仏頂面と不自然な髪型が特徴の、ある意味ではこの学校の名物教師だった。


「あーおはよう。今日は2人だからな。さっさとしよう。はい起立、礼、着席。」

生徒がたった2人だと教師の方もやる気が出ないのか、今日の溝口は何だかいつにも増しておざなりな感じだった。


「えー、この3日間、お前達には自習をして貰う事になった。
こうやって毎時間、先生方の誰かがプリントを配りに来るから、その時間内に済ませて提出するように。
プリントは、また授業時間が終わる頃に先生方が回収に来る。
真面目なお前達の事だからまあ大丈夫だろうが、サボらずしっかりやるように。
では、プリントを配るからな。早速始めてくれ。」

何か他に仕事があるのか、溝口は忙しげな様子で、心ここに在らずな様子だった。
必要事項を纏めてさっさと告げてしまうと、せかせかと二人の所へ歩いてきて、プリントを配ろうとした。


「おっと・・・・!」

急いては事を仕損じるという諺の通り、溝口はと形兆の目の前で、プリントを数枚落とした。
それを拾おうとして、勢い良く屈んだその時。


スポン。


「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」

何か黒くて大きな毛玉のような物が、床に落ちた。
そして、溝口の頭から髪の毛が綺麗さっぱり無くなっていて、河童の皿のようなツルンとした頭頂部が丸出しになっていた。


「あっ・・・・・!」

溝口は慌ててそれを拾って被ると、無言のままマッハでプリントを配り、
『じゃ、じゃあ始めなさい』と小さな声で呟いて、さっきよりもっと速足で出て行った。
それは全て合わせてもほんの数秒の出来事だったが、も形兆も、その一部始終をしっかりバッチリ目撃してしまっていた。


「・・・・・・・・・」

直後は只々唖然とするばかりだったが、時間が経つにつれて、ジワジワと効いてくる。
いけない、いけない、と思えば思う程、腹の底から発作のようにこみ上げてくる。
ただ呼吸をするだけでも危険で、それをどうにか抑えようと、は必死で腹に力を込めた。


「・・・・・・・

すると突然、虹村形兆が話し掛けてきた。この最悪なタイミングで。


「・・・・・・・・何」
「お前、なに痙攣してんだよ」
「そういう虹村君こそ、眉間の皺凄いよ」

は、チラリと見たままの事を言い返した。


「・・・・・・ブフッ・・・・・・」
「グッ・・・・・・」

互いに顔を見合わせた瞬間、急に限界が訪れた。


「グァーッハハハハハッ!!!」
「あっははははは!!」

二人で爆笑した。
これまでに無かった程の大声を上げて、腹を抱えて。


「ハハハハハッ!!プックックック・・・、クククク・・・、ガハハハハッ!!」
「あははは!あはっ・・・・、はははははっ・・・・・!」
「アハハハハ・・・・・!」
「はははは・・・・・・!」

机を叩きながら、涙を滲ませながら、二人で暫く笑い転げた。


「実は前から気になってたんだ、あのセンコーの髪・・・・!」
「やっぱり気付いてた・・・・・!?」
「気付かねー方がどうかしてるだろ!?あの怪しさ、あの不自然さ・・・・・!
却って強調してるだろ、『載せてます』ってよぉ・・・・・!」
「ブフーッ・・・・・!や・・・、やめてよ虹村君・・・・・!」
「しかしまた想像以上に見事なザビエルじゃねーか・・・・・!」
「やはははは・・・・・!!ザ・・・、ザビエル・・・・・!!も・・・・ダメ・・・・・!!」
「俺もダメだ・・・・・・!腹痛ぇ・・・・・・!!」

笑って、笑って、散々に笑い倒して。
ようやく治まってきたと同時に感じたのは、むず痒いような気恥ずかしさと、形兆に対する微妙な親近感だった。


「・・・・・・・・」

気付かれないようにそっと様子を窺うと、形兆の方も何だか決まりの悪そうな顔をして、視線を床の方へ彷徨わせていた。


「・・・・・・・・弟が」
「え・・・・・・・?」
「随分世話になってたみてぇだな。」
「・・・・・ううん」

友達が欲しいなら他所を当たれ、そう言われたあの時、内心は傷付いていた。
転校してきたばかりのこの人にさえ、自分の惨めな立場を早々に知られ、馬鹿にされていると、そう感じてしまって。
だが、多分そうではなかった。
いや、もしかしたら、初めて会った時から分かっていた事なのかも知れない。
ぶっきらぼうで、口調も見た目も怖い不良そのものだが、虹村形兆はとても弟思いな人なのだろう。
いやむしろ、億泰に対する形兆の態度は、兄というよりは親のようだった。
幼い頃に母親を亡くした男所帯で、形兆はずっと、兄であると同時に、弟の母親代わりをも務めてきた。今はもう不思議と、そうだとしか考えられなくなっていた。


「私の方こそ、考えが足りなかった。
引っ越してきたばかりなのに、小学生の弟が知らない人と一緒にいたら、お兄ちゃんならそりゃあ心配もするよね。
私、一人っ子だから、あんまりそういう事分かってなかったんだと思う。ホント・・・・、ごめん。」

思っている事を口に出して素直に謝ったら、気持ちがスッと楽になった。


「・・・・・別に、そんな事思ってねぇよ・・・・・」
「だったら良いんだけど。億泰君、元気?」
「ああ。」
「あの子、良い子だね。面白いし、優しいし・・・、ふふっ、ちょっと幼いとこが何か可愛いし。」

が笑ってそう言うと、形兆はフンと鼻を鳴らした。


「どこがだ。面倒ばっかかけやがるバカ弟だよ。」

の方を見ずに答える苦虫を噛み潰したようなその顔も、無駄に慌ただしそうにプリントを始めるその仕草も、照れているようにしか見えなかった。
ついこの間まで、何を考えているか全く読めなかった人なのに、今は不思議と何か通じる気がしている。
知らず知らずの内に微笑みながら、もプリントを始めた。













その日から3日間、はこれまでになかった位、学校の中で喋った。


「虹村君、問4教えて。」
「あぁ?何だよ、こんなの簡単じゃねぇか。
8%の食塩水200gと12%の食塩水150gを混ぜたら何%の食塩水になるか、だろ?
だからこれは、こうなって、こうなって、こう・・・」
「待って、待って、分かんない・・・・!ひとつずつお願いします・・・・!」
「はぁ?何でこんな簡単な問題が分かんねぇんだよ?」
「数学苦手なんだもん・・・・・・。文系は得意なんだけど・・・・・・」
「数学の方が簡単だろ。答えが一つでシンプルじゃねぇか。古文の方がよっぽどワケ分かんねぇよ。」
「ああいうのは覚えたらおしまいでしょ?この文はこういう解釈、みたいに。」
「それが納得いかねーつってんだよ。何でそういう解釈になるんだ。誰が決めたんだよ。
決めた奴は紫式部に会った事があんのかよ?清少納言に直接聞いてきたのかよ?」
「い、いやぁそれは・・・・・;」

他愛もない話ばかりだったが、プリントの自習を進めながら、弁当を食べながら、形兆と二人、取り留めもない会話を何度も交わした。


「よぉ。ちょっと訊きてぇんだけどよ。」
「何?」
「どっかこの辺で、靴下安いとこ知らねぇか?」
「靴下?」
「億泰の奴が色々雑でよ。すぐに穴開けてダメにしやがるんだ。
アイツはどうせすぐ破くから安いので良いんだけどよ、駅のショッピングセンターのとこの靴下屋は高くてよぉ。」
「ああ・・・、あそこはちょっと高いよ。ていうか、靴下屋さんに限らず全体的に高いの、あそこ。」
「やっぱそうだよな!何でもいちいち高ぇ気がしてたんだ。多少質が悪くても、安い方が有り難ぇんだようちは。」
「あー分かる、うちもだよ。靴下はね、ちょっと遠いんだけど、駅を通り抜けたとこの商店街にあるお店が安いよ。」
「マジか!?そこ教えてくれ。マジで困ってんだよ、何足あったって足りやしねぇんだ。」
「良いけど・・・・虹村君、何だか主婦みたいだね、ふふっ。」
「誰が主婦だ!」

意外だったのは、形兆からも同じ位の頻度で喋りかけてきた事だった。
普段はろくに誰とも口を利かない彼が、この3日間は、実に良く喋っていた。
いつしかは、その事に密かな喜びを感じるようにさえなってきていた。



「予定通り、今日の夕方には皆帰って来るようだ。明日からはまたいつもの毎日が始まる。
そこでだ。6限目は教室の掃除に充てようと思う。
明日、綺麗な教室で気持ち良く皆を迎えてやれるよう、しっかり頼んだぞ。
終わり次第、チャイムが鳴っていなくても帰って構わないからな。」

最終日の6限目、やって来た教師はそう言い放ち、さっさと出て行った。
明日からは、またいつもの毎日が始まる。
そう聞いた瞬間、ふわふわと浮いていたの心は、急速に重くなった。
だが、仕方がない。
皆がいないのはたった3日間だというのは、最初から分かっていた事だ。
ただこの3日間が、当初の予想に反して楽しすぎただけで。
は小さく溜息を吐くと、立ち上がって机を動かし始めた。
いつも5〜6人のグループでやっている事をたったの2人でするのは大変だが、仕方がない。
不平不満を口にする前にさっさと片付けた方が、解決は早かった。


「・・・・・・」

形兆はまだ動かなかった。
またいつも通りの厳しい表情に戻って、固く唇を引き結んでいた。
としては、手伝ってくれなくても構わなかった。
彼が今何を考えているか想像がつき、その気持ちが理解出来たからだ。
嫌なら無理に掃除をする必要などない。
強いこの人は、情けなく言いなりになっている弱い私に付き合う必要はない、そう思っていた。


「・・・・・お前、何でそんな事するんだよ?」

しかし形兆は、不意にを見据えて、そんな事を訊いてきた。


「え・・・・・・・?」
「馬鹿馬鹿しい。何で俺達が、ルンルン修学旅行に行って来た奴等を出迎える為に掃除しなきゃならねえんだ。お前、腹立たねえのか?」
「それ・・・・は・・・・・・」
「いつも馬鹿にされて嫌がらせされてるのによ。何とも思わねえのかよ。」

形兆の問いかけは直球すぎて、とても答える事が出来なかった。
は曖昧に笑って、形兆から目を逸らした。


「虹村君。先帰って良いよ。掃除は私が適当にやっておくから。」
「お前・・・」
「私の事、意気地なしって思うならそう思ってくれて良い。」

何か言いかけた形兆の言葉を遮るように、は少し強めの口調でそう答えた。


「でもね、これが私のやり方なの。いちいち言い返したり仕返しするより、黙ってやり過ごした方が楽だから。」

己の気持ちの片鱗を誰かにこうして吐露したのは、これが初めてだった。
しかし、驚いたように黙り込んでいる形兆の顔を見て、すぐ我に返った。


「3日間ありがとう。お陰で楽しかった。明日からはまた元通り知らん顔するから、心配しないで。」

は取り繕うように笑って、形兆に背を向けた。
こんなつまらない事で、折角楽しかったこの3日間を台無しにしたくはなかった。
どうせなら、楽しいままで終わりたい。
そう考えながら机を動かしていると、不意に後ろから机を動かす音が聞こえた。
振り返ると、形兆が向こうの端の列の机を動かしていた。


「虹村君、何で・・・・・」
「やらねぇとは言ってねぇだろ。」
「・・・・・・・・」
「明日からはまた元通り知らん顔、か。俺も他人とは極力関わらねぇようにしてるから、そうしてくれると助かるぜ。
普通はこうなると馴れ馴れしくなりそうなもんだけど、お前、意外と分かってんじゃねぇか。」

そう、分かっている。
クラスの嫌われ者と仲良くなんてしていたら、自分も同じ扱いを受ける。
それを甘んじて受け入れてくれる人なんていないのだと。


「物分かりの良い奴は嫌いじゃねぇぜ。」

だが形兆は、に不敵な笑みを投げかけてそう言った。
一瞬、何を言われたのか分からず、は手を止めてポカンと彼を見た。


「・・・・・・え・・・・・・・・?」
「今度の日曜、時間あるか?」
「え・・・・、え・・・・・・・?」
「あの例の靴下屋。案内してくれよ。教えるって約束しただろ。」
「えぇ・・・・・・・!?」






















「靴下なんて何でも良いよぉ〜、メンドくせぇ・・・・・」
「黙れ。テメェの為にわざわざ行ってやるんだろうが。」
「だからオレは別に何でも良いって言ってんのに・・・・。」

日曜日の午後、形兆は億泰を連れて、あの公園へと向かっていた。
あと10分後、午後1時に、あそこでと待ち合わせているのだ。
そうとも知らず、億泰はテンションの低い顔をしてブツブツと文句を言っている。
あんまり文句を言われると、だんだん苛々してきて殴ってやりたくなるのだが、しかし形兆はそれをぐっと堪えた。
もう間もなく、億泰が大喜びする事が分かっているからだ。
今日、を誘ったのは、正にその為だった。
3歩歩いたら忘れる鳥頭の億泰が、あの日からずっと、機嫌が悪かったのだ。
形兆に対して反抗したり、母親の事を持ち出して恨み言を言うような事こそあれっきりしていないが、何となく元気のない日があれからずっと続いていた。
元気だけが取り柄のあの億泰がこんなに長く気落ちしているなんて、と遊ぶのが余程楽しかったのだろう。
父親の事を人に知られないようにする為、人目を避ける為、今までずっと友達を作らないよう命じてきた事への負い目もあり、流石に見かねたのだ。
なら他に友達もいないし、馴れ馴れしく踏み込んでくるタイプでもなさそうだから、多少関わっても大丈夫だろう、ただそれだけだ。そう考えただけで、断じて他意はない。


「ほら、グズグズしてねぇでさっさと歩け。」
「ふぁ〜い・・・・」

自分に対してくどくどと言い訳を連ねながら歩いていると、向こうからが歩いて来るのが見えた。


「えっ!?ネーちゃん!?」

億泰もすぐに気付いたようだった。


「アニキ・・・・・!」

億泰は、幼児がベソをかく寸前のような顔で形兆を振り返った。
すっ飛んで行きたいが、それをすると兄貴に怒られるだろうかと苦悩しているのが、はっきりと見て取れた。
形兆は小さく溜息を吐き、の方へ軽く顎をしゃくった。
その瞬間、ずっと曇っていた億泰の顔は、一瞬にして晴れ輝いた。


「アニキサンキューッ!おーーいネーちゃあーんっっ!!ネーちゃあーんっ!!」

弾丸のようにすっ飛んで行った億泰を、形兆はゆっくりと歩いて追いかけて行った。
あっという間にの元へ駆け寄った億泰は、と手を取り合って再会を喜んでいる。
こんな事位であんなに喜ぶなんて馬鹿みたいだと呆れながらも、笑顔の二人を見ているのは、悪い気分ではなかった。


「おう。丁度タイミングぴったりだったな。」
「うん。億泰君、連れて来てくれたんだね。」

形兆との会話を聞いて、億泰が只でさえちんまりとした目を点にした。


「ほへ?な、何で二人共驚かねーんだ?」
「驚くわけねーだろ。待ち合わせしてたんだからよ。」
「ほぇ!?!?」

億泰の驚きっぷりを見て、は苦笑した。


「虹村君、億泰君に内緒にしてたの?」
「驚かせてやろうと思ってな。じゃ、早速行こうぜ。」
「うん。どんなのが良いかなぁ。小学校は靴下の色って決められてなかったよね。」
「億泰は別に何でも良いそうだから、何なら女物でも良いぜ。ほら、ヒラヒラがついてるやつとかあるだろ。」
「う゛ぇっ!?ちょっ、やめてくれよぉアニキぃーッ!オレそんなの嫌だぜーッ!」
「何言ってんだ。オメーが何でも良いっつったんじゃねーか。」
「あぁーんウソウソ、やっぱダメーーッ!!!」
「ふふふふっ!」

笑っている億泰とを見ているのは、悪くなかった。
の笑った顔は、悪くなかった。
この二人と一緒にいるのは・・・・・・


「はははは・・・・!」

いつの間にか自分も笑っている事に気が付かない程、形兆の心は自然と和らいでいたのだった。














靴下を買いに行った後、形兆達はまた公園に戻ってきた。
億泰が3人で遊びたいと熱望したのだ。
鬼ごっこに始まり、だるまさんが転んだ、缶蹴り、石蹴り、果てはたったの3人でかくれんぼやケードロまでやった。
只でさえ子供じみた遊びで退屈な上に人数も少ないとあっては、盛り上がりに欠ける事甚だしかったが、それでも長々と付き合ったのは、この間億泰に言われた事が心に引っ掛かっていたからだった。
考えてみれば、もう長いこと億泰と遊んでやっていなかった。
まだ小さかった頃は、父親から逃げるようにして毎日のように公園へ行き、暗くなるまで二人で遊んでいたが、父親が化け物になった原因を詳しく調べ出すようになってからは、めっきり億泰の遊び相手をしなくなっていた。
それどころじゃあない、こっちは一人で何もかも全部背負って、猫の手も借りたい程忙しいのだと言い訳をしてみても、それでも億泰に対する一抹の罪悪感は消えなかった。
友達も作らせず、いつも暗い家の中で意思疎通の図れない父親と共に閉じ込めて、留守番ばかりさせてきたのは事実なのだから。

だが、億泰の為ばかりかと言えば、実のところそうでもなかった。
形兆自身が、と過ごす時間を心地良く感じていたのだ。
は、キャーキャー騒いで群がってくる他の女共とは違っていた。
女は皆、男を見た目で判断して、意味の分からない勝手な幻想を押し付けて、無遠慮に騒ぎながらズカズカ踏み込んでくる生き物だと思っていたが、はそうではなかった。
色素の薄いこの髪の事を訊かれて、亡き母親の血統の事を軽く話して地毛だと答えると、物珍しそうに驚かれはしたが、只それだけだった。
他は何も詮索しなかった。
越して来る以前の事も、生活の事も、家族の事も、何一つ。



「・・・暗くなってきたな。そろそろ帰るか。」

形兆は座り込んでいた石段から立ち上がり、ジュースの空き缶をゴミ箱に放り投げた。


「えーーっ!?もうかよぉ!」
「えーって何だ。5時半回ってんだぞ。もういい時間だろ。オラ、とっとと立て。」
「いてっ、いてーよアニキぃ、いちいち蹴らねーでくれよぉ・・・」

背中を蹴って促すと、億泰は渋々従って立ち上がったが、このまますんなり帰る気はないようだった。


「だったらアニキよぉ、ネーちゃん送ってこうぜ!」
「あ?」
「えっ?い、いいよそんなの!私なら大丈夫だよ!」

は恐縮したように何度も首を振って遠慮したが、億泰は引き下がらなかった。


「ネーちゃんち教えて欲しいんだよ!そしたら、これからいつでも誘いに行けるだろ!?オレんち電話ねーからさぁ、今度からはオレが呼びに行くよ!それでまた遊ぼうぜ、な!」
「えぇ・・・・・・?」

は困惑したような視線を、チラリと形兆に投げかけてきた。
それはどういう意味を持つのだろうか。
迷惑なのか、それともこちらの反応を気にしているのか。
考えようとした瞬間、億泰が必死の形相で縋りついてきた。


「なぁアニキ、良いだろ!?オレまたネーちゃんと遊んで良いよなぁ!?
ダメなら最初から今日遊んだりとかしてねーもんなぁ!?なぁ!?」

バカの癖にこういう時だけ筋道立った説得をしやがると、形兆は呆れ半分感心半分に聞いていた。
の意向を知りたくて、返事は敢えてしなかった。


「・・・・・あの・・・・・、いつでも・・・って・・・・・、いつ?」

ややあって、は気まずそうな表情で、億泰にそう訊き返した。


「や、別にテキトーに。学校ある日なら夕方とか?
土曜なら昼からはいけるしよぉ、休みの日なら別に朝からでも・・」
「・・・あのね、億泰君」
「ほえ?」
「・・・・あの・・・・・」
「??」

何も分かっていない様子の億泰に向って、は少しの間、言い難そうに躊躇っていた。
形兆の方は、何か訳があるようだとすぐに察しがついたが、億泰はアホ面をキョトンとさせているばかりで、これだけ分かり易い態度に出られていてもなお、気付きそうな気配が全くもって無かった。
まあ大体、コイツを相手に察せと言う方が間違っているのだ。
迷惑なら迷惑だとはっきり言ってやってくれと言いかけたその瞬間、は覚悟を決めたように口を開いた。


「・・・夕方はうち、ちょっと忙しいんだ。
お母さんが起きて仕事の支度する時間だし、私もそのお手伝いがあって・・・・・」
「え!?ネーちゃんの母ちゃん、夕方に起きんの!?」

億泰は目をまん丸くさせて、不躾な程驚いた。


「うん。」
「マジで!?夕方に起きて、で、仕事するって事はよぉ、夜起きてるって事だよな?」
「うん・・・・」
「マジで!?すげー!!ネーちゃんの母ちゃん、吸血鬼みてーじゃん!」
「っ・・・・・!」

人の母親を捕まえて吸血鬼呼ばわりは、流石の形兆といえども焦った。
わざと嫌味でならともかく、本気で驚き、凄いと思っての発言だから、尚更始末が悪かった。


「・・・・ふふっ・・・・・、ふふふっ・・・・!」

しかし、当のは笑っただけだった。何故だか、少し楽になったような顔をして。


「あははっ!億泰君ってホント面白いね!吸血鬼かぁ、言われてみればピッタリだわ、ふふふっ・・・!」
「え、えへへ、そっかぁ?」

億泰は締まりのない顔で照れ笑いしながら、更に無遠慮な質問を重ねた。


「なあ、ネーちゃんの母ちゃんって、仕事何やってんだ?」
「うちのお母さん、スナックのママやってるの。」

その一言で、形兆は合点がいった。


「スナック?スナックって、ポテチか何か?それのママ??へ???ど、どーゆーこと????
ネーちゃん、ポテチのネーちゃんなのか?????一人っ子だって言ってなかったっけ??????」

しかし億泰の方は、相変わらず何も分かっていない。
ダメ押しのように重ねられてゆくトンチンカンな見当に、はとうとう腹を抱えて笑い始めた。


「あはははは・・・・・!に、虹村君どうしよう・・・・!億泰君、可愛いすぎる・・・・・!」
「っ・・・・!てめぇ億泰ぅ・・・・・・・!馬鹿にも程があるんだよこのダボがぁ!」
「ぎゃぴっ!」

気が付くと自分の方が恥ずかしくなっていて、形兆は億泰の脳天に思い切り拳骨を落とした。
そして、咳払いをすると、何とか平常心を取り戻した。


「・・・スナックってのは、大人が酒飲む店だよ。そういうとこは夜中に開いてるんだ。」
「ほへぇ〜・・・・・・!」

仕方なしに教えてやると、億泰は脳天を擦り擦り、素直に感心した。


「そ。で、ママってのは、そういうお店をやってる女の人の事。だからうちのお母さんは、昼夜反対の生活してるんだ。
いつも昼間に寝てて、夜お店に出て、帰って来るのは大体明け方位なの。月曜から土曜日まで毎日その繰り返し。
だから私も、家の事をしたりお店で出すおつまみ作ったりしなきゃいけないから、夕方は毎日忙しくって・・・・・。」
「フーン、そっかー」
「日曜はお店休みだからお母さんずっと家で寝てるし、出かける時もあるけど、その時になってみないと分からないから、気持ちは嬉しいんだけど、突然誘いに来られるのはちょっと都合が悪いんだ。」
「えーーー!!!」
「ごめんね、億泰君・・・・。」

は心底申し訳なさそうに、億泰に対して謝った。


「マジで!?ちょっとも遊べる時ねーのか!?マジのマジで!?」
「う、ん・・・・、そうなっちゃうかなぁ・・・・・・。
お母さんがお店に行った後、夜の7時位からは暇になるんだけど、でも、小学生がそんな時間から遊べないもんね。残念だけど、しょうがない・・・」
「・・・いや、別に構わねーぜ。」

形兆が静かに口を開くと、と億泰は揃って見開いた目を形兆に向けてきた。


「え!?か、構わねぇって・・・・、門限は6時だってアニキが・・・・・!」
「勿論、お前一人じゃ駄目だし、毎日も無理だ。週に1回・・・・・、そうだな、
土曜の夜なら次の日学校も休みだし、俺が付き合って遊ばせてやるよ。」
「う・・・・・、うおぉぉぉやったぜぇーーっ!!アニキありがとーーっ!!」

その提案に、億泰は天にも昇らん勢いで大喜びした。


「あ・・・・、土曜の夜なら、うちに来てくれても良いよ・・・・・!
土曜は絶対お客さんが入るから、お母さん絶対お店休まないし、平日より長くお店開けてたり、お店閉めた後もお客さんとご飯食べに行ったりとかして、朝まで帰って来ないんだ。だから、うちでゆっくり遊んでって・・・・・!」

もまた、嬉しそうに顔を輝かせていた。


「じゃあ、決まりだな。」
「うん!」

そして、そんなの笑顔は、形兆の胸の内をじんわりと温めた。
















「なあアニキ、ネーちゃんち、結構うちと近いんだなぁ。」
「そうだな。でも勝手に一人で押し掛けんじゃねーぞ。」
「分かってるよぉ。メーワクだもんな。」
「そうだ。」
ネーちゃんち、ボロかったなぁ。」
「そうだな。でもそれアイツに言うんじゃねーぞ。」
「分かってるよぉ。シツレーだってんだろぉ。うちと同じ位だなぁって嬉しくなっただけだよぉ。」
「そうか。」

を家まで送り届けてから、形兆と億泰は、に教えて貰った帰り道を歩いていた。
土地勘があまり無くて今まで分からなかったが、教えられた道を通ると、の家は虹村家から案外と近い場所にあった。


「へへっ・・・、楽しみだなぁアニキぃ!」
「・・・・・・別に」

思いきり嬉しそうな顔をしている億泰を何となく直視出来ず、形兆はプイと顔を背けた。


「単なる付き添いの俺が何で楽しみにしてなきゃならねーんだ。
つーか億泰、これから土曜に夜遊びさせてやるんだから、その代わり日曜はお前、一日留守番だぞ。」
「え!?何で!?アニキどこ行くんだよ!?」
「東京だ。」
「え・・・・、伯父さんち?」
「ちげーよ。図書館だよ、H大の図書館。」

億泰をと定期的に遊ばせてやる事にしたのには、理由があった。
丁度そろそろ、引っ越し前後のゴタゴタで中断していた『調査』を再開させたいと思っていたところだったのだ。
土曜の夜遊びは、一日留守番をさせる億泰への褒美として実に有効だと思った。
だから、自分で設定した門限を破ってまで、あんな提案をしたのだ。


「あー、前によく行ってた、あの大学の図書館な・・・!
アニキ凄ぇなー!引っ越してこんな遠くなっちまったのに、わざわざまたあそこまで行って勉強すんのかよ!?」
「良い成績を保つ為には、それ位の努力は必要だって事だ。」
「ほへー、さすがアニキだぜ・・・・!」
「つー訳だからよ、俺はこれから暫く、日曜は一日出かける。オメーは留守番だ。
その代わり、土曜に夜遊びさせてやるんだからな、分かってんな?」
「おうっ!オレちゃんと大人しく留守番してるぜぇ〜!」
「よし。」

そう、只それだけだ。
あの女は意外と面倒がなくて使えそうだから、だから。


「早く土曜にならねーかなぁ♪」
「・・・フン」

そうやって、自分が享受するメリットだけで考えようとすればする程、何故かの笑顔が思い出された。


― だからちげーってんだよ、そんなんじゃねーんだからな・・・!


「あれ?アニキ何か顔赤くね?」
「赤くねーよ、ほら、さっさと帰るぞ・・・・・!」

形兆は残りの僅かな距離を足早に歩き、億泰から逃げるように家の中に入った。
時刻は6時を少し過ぎたところで、丁度夕食の時間帯だった。
形兆は洗面所で手洗いとうがいを済ませると、一歩も二歩も遅れてチンタラ階段を上ってきている億泰に声を掛けた。


「億泰、手ェ洗えよ、石鹸でな!あと、うがいもちゃんとしろよ!」
「ほぁ〜い!」

飯と味噌汁は、昼に夜の分まで炊いておいた。
あとは魚を焼くだけだから、10分後には食べられる。
それから順番に風呂に入って、寝る前に少し本でも読んで。


「よし・・・・・・」

これから後の予定も決まり、形兆は密かに上機嫌になっていた。
今日は悪くない一日だった。
ほんの一時とはいえ、幼い頃のように思い切り遊んで・・・、そう、楽しかった。
こんな満ち足りた気分になれたのは、随分久しぶりだった。


― 次の土曜、か・・・・・・

ふと壁のカレンダーに目を向けたその時。



「ヌオォォォ・・・・・!!」

3階から、父の大きな唸り声が聞こえてきた。


「っ・・・・・・!」

階段を這い下りてくるようなその太い唸り声を聞いた瞬間、つい今しがたまで形兆の胸を温めていた充足感は、跡形もなく粉々に吹き飛んだ。


「ヴオォォォ・・・・・・!オォォォ・・・・・・・!」

父が声を出す事自体は珍しくない。
例えば腹が減った時、例えば『躾』をしている時、あの男は『鳴』く。
人間の言葉ではなく、獣の鳴き声のような、耳障りな悲鳴を発する。
だが時々、それらとはまた違う『声』を発する事がある。
普段の声より一層耳障りなそれが、この野太い唸り声だった。


「・・・・・アニキ・・・・・・・」
「・・・来るんじゃねーぞ、億泰・・・・・」

形兆は不安げな億泰をその場に残し、一人で3階へと上がって行った。
幾ら馬鹿でチビでも、億泰も小学5年生、そろそろ薄々勘付いてきている。
しかしまだ、はっきりとそれを教えるのは躊躇われた。
まだ『男』になっていない幼い弟に、あのおぞましい姿を見せるのは。


「・・・・・・クソッタレが・・・・・・・!」

形兆は拳を固めながらズカズカと階段を上がり、父親を閉じ込めてある部屋に入った。


「ヴァオォォォォ・・・・・・・!オォォォゥ・・・・・・!」
「っ・・・・・・!」

案の定、父は一心不乱に己の性器、いや、元は性器だった組織を扱いていた。
もはや人間のそれではない、グロテスクな緑色の触手みたいな肉塊を。
そう、この男は今、『発情中』なのだ。
普段は腹回りの肉に埋もれて殆ど見えないそれは、こうして発情すると信じられない程太く長く勃起する。
そして、激しい興奮状態に陥り、息子の目の前だろうがお構いなしに自慰に耽るのである。


「またかテメー!!こっち向いてヤるんじゃねぇっていつも言ってんだろ!!気持ち悪ぃんだよ!!」
「ブギィッ!ヴァオォォ、ヴァォォォ・・・・!」

形兆は、ドアの方を向いていた父の身体を何度も殴り、蹴り飛ばして、どうにか壁の方へ向かせた。
犬のように首輪をされ、壁に取り付けたフックに太い鎖で繋がれ、蹴られる痛みに悲鳴を上げながらも、それでも股間の肉塊を扱く手を止めないこの生き物が、吐き気がする程おぞましかった。


「こんな化け物になっちまってんのによぉッ!こんな事する知恵だきゃあ残ってんのかよクソッタレがぁッ!」
「ブギッ!!ブギィッ!!ブゲェェェッ・・・・!」

獣のようなけたたましい悲鳴と、太い鎖が揺れる重い音に、加虐心が激しく煽られる。


「ヴォオォォォォゥゥゥ・・・・・!!」

恥ずかしげもなく吐き散らされる大量の粘液を目の当たりにし、不覚にも絶望の涙が込み上げる。
今では肉と同じ緑色になってしまったこの汚らしい粘液から自分も生まれたのだと思うと、我が身を呪いたくなる。


「ウゥ・・・・、ウォォォォゥ・・・・・・!」

大量に射精した直後だというのに、また間髪入れずに自慰を始めた化け物の浅ましい姿を見て、形兆は痛めつけるのをやめ、涙に濡れた頬を笑わせた。


「・・・・フフ・・・・、そうだよな、いつもの事だ・・・・・。こんな事したって無駄なんだよな・・・・・・。」

これが発情だと気付いたのは、丁度今の億泰位の頃だっただろうか。
分からなかった最初の何年かは、なす術もなく只々このおぞましい行為と大音量の奇声に悩まされるばかりだったが、それと気付いてからは、色々と試行錯誤しながら、一応ある対処法に辿り着いていた。


「ちょっと待ってろよ、親父・・・・・」

形兆は拳で頬の涙を拭うと、部屋の隅に置いてある小さな棚へ歩いて行った。
棚の扉には、父が勝手に開けられないよう、4桁のナンバーロック式の鍵が取り付けてある。
形兆はそれを開けて、中から野球ボールと手拭い、2〜3冊の雑誌を取り出した。


「ほらよ。」

雑誌を手元に放り出してやると、父の目の色が変わった。
そう、それらは全て、男性向けのポルノ雑誌だった。


「フゥゥゥッ、フゥゥゥッ、ブオォォォッ!!」

息を荒げながら早速雑誌のページを繰りつつ更に自慰に耽り出した父親の口に、形兆はすかさずボールを押し込み、手拭いで口を完全に塞いできつく縛った。


「フンヌゥゥゥ・・・・・・・!ムフゥゥゥ・・・・・!」

口を塞ぐと、声のボリュームが格段に下がった。
これでひとまずは大丈夫だと、形兆は溜息を吐いた。
だが、これから数日はこの状態が続く。
ひとたび発情すれば、短くて2〜3日、長ければ1週間はこの状態なのだ。
それが大体1ヶ月に1度位の割合で、まるで生理現象のように起きる。
その度にこうして、『介助』をしてやらなければならない。
大抵の事は躾ければ結構言う事を聞くのだが、時折木箱を漁る事とこの発情に関しては、何度躾けてもやめさせられないのだ。


「ホント、クソ虫以下の生き物だなテメーは・・・・・。息子にマスかく手伝いさせる親父がどこにいんだよ・・・・・」

10歳かそこらの子供が、本屋でポルノ雑誌を買う時の気持ちがどんなものか。
売って貰えず、説教されて追い返される時の恥ずかしさがどれだけのものか。
やむにやまれず万引きして必死で逃げる時の惨めさが、如何ばかりか。
全部、全部、思い知らせてやりたいが、しかし、この化け物には人間の気持ちなど、欠片程も理解出来ない。
昔は酷く逆上した息子の侮蔑の言葉さえも、今はもう届かない。


「はは・・・・、最悪だぜ・・・・・。何もよりによって今日じゃなくてもよぉ・・・・・。お陰で折角の気分が台無しじゃねーか・・・・・・・」

ほんの一瞬味わえた気になっていた温かい充足感は粉々に砕け散り、砕け散ったそれは寒々とした虚しさとなって、形兆の心を凍てつかせていた。




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後書き

虹村パパにイヤな捏造設定をプラスしました、すみません(笑)。
でも虹村パパって、初登場時は気持ち悪い化け物っぽく描かれていましたが、
最終回に近くなってくると、なんか可愛くなかったですか?
猫草と虹村パパのコンビ、ほのぼのしてて可愛かったなぁ・・・・