踊りたい、その一心でがやって来たのは、『Phoenix』だった。
ここならば音楽とステージがあるからだ。
はずっと預かって持っていた鍵で裏口を開けて中に入った。
電気はまだ通っているようだったが、ずっと誰も入っていなかっただけあって中は空気が篭り、どこもかしこも埃っぽかった。
掃除をしたいのは山々だが、生憎とそんな時間はない。
最低でもホークの夕食だけは作っておかねばならないし、仕事を休む事も絶対に出来ないのだ。
だから1曲、1曲だけ踊ったら、頭を切り替えてまた現実に戻ろう。
はそう決めた。
BGMを流して、スポットライトを一つだけ点けて、舞台の上に立つ。
無人の薄暗いフロアを見渡していると、ふと今の自分が不安になってくる。
本当にこのままで良いのだろうか。
今のまま、ホークと二人、『いつかは必ず』と信じて頑張り続けていけば良いのだろうか。
だが、『いつか』というのはいつなのだろう。
そして、そんなあてのない話に、ホークはいつまで付き合ってくれるのだろう。
― 駄目よ・・・・・・
は立ち込める不安を払うように、頭を振った、
― 何も考えちゃ駄目・・・・・・
明日の食事の心配も、遠い未来の不安も、今は何も考えまい。
せめて今だけは、純粋にダンスの事だけを考えるのだ。
は自分にそう言い聞かせながら、音楽に合わせてステップを踏み始めた。
アップテンポのリズムに合わせて、腕をなびかせ、腰をくねらせて。
久しぶりで勘が鈍っているせいで、動きがずれないようにするのに必死だったが、お陰でダンスの事以外何も考えずに居られる。
こんな時間は、本当に久しぶりだった。
楽しくて、時間があっという間に流れた。
気がつけば、BGMのフィナーレに合わせて、身体が勝手にフィニッシュポーズを決めていた。
と、その時、不意にフロアの出入口から拍手が聞こえて来た。
「ブラヴォ―。」
拍手をしながら入って来たのは、見知らぬ男性だった。
年の頃は30前後位だろうか、すっきりと整えられた金髪に端正な顔立ち、
質の良さそうなダークグレーのスーツが、その身にしっくりと馴染んで見える。
ここに出入りしている者とは、根本的な何かが違う男だった。
恐らく強盗の類ではないだろうが、一応警戒しつつも、はステージを降りた。
「あの・・・・、何か?」
「失礼。休業中の筈なのに開いていたから、誰か居るのかと思って。断じて怪しい者ではないんだ。
君はここの関係者かな?」
「スタッフですけど・・・・。バイトですが・・・・・。」
「それは良い。色々訊きたい事があるんだが、取り敢えずまず一つ。人を捜しているのだが、
君、ブライアン・ホークと・という人を知っているかな?」
「えっ?」
見ず知らずの男が何故自分達の事を知っているのかと、は動揺した。
まさか、NYから追って来たDEAの捜査官だろうか。
潔白はあの時速やかに証明された筈なのだが、逃げる時にホークが捜査官を殴っている。
そうやって逃げて来た以上、追われる可能性はゼロではなかったのかも知れない。
今まで何もなかったから大丈夫だと思っていたが、それは間違いだったのかも知れない。
もしもそうなら、どんな手を使ってもホークを巻き込む事だけは避けねばならないと、はより一層警戒心を強めた。
「さあ・・・・。そういう貴方こそ誰なんですか?」
「ああ、失礼。私はエリック・デュシャンという者だ。」
「エリック・デュシャン・・・・・・?えっ・・・・・?」
ファーストネームが違う上に、長らく何の返事もなかったので最初は分からなかったが、トマスと同姓、
そして自分とホークの事を知っている人間は、あの手紙を読んだ者しか居ない筈だ。
「デュシャンですって!?貴方が!?」
目を丸くしたを見て、エリックは口の端を少しだけ吊り上げて笑った。
「・・・・やはり何か心当たりがありそうだな。もしかして君が、私にこの手紙をくれたMs.・かな?」
そう言ってエリックがスーツの内ポケットから取り出したのは、とホークが送った手紙だった。
「さあどうぞ、入って下さい!」
エリックがトマスの身内と判明してすぐ、は彼を部屋に誘い、招き入れていた。
取り急ぎ、形見の品だけでも見て貰いたかったのだ。
まだ会ったばかりではあるが、にエリックに対しての警戒心はなかった。
エリックは紳士で、何よりトマスの身内である。その事がに絶対の安心感を抱かせていた。
「私はまた少ししたら仕事に行かなきゃいけないんですけど、ブライアンはもうすぐ帰って来ますから、
ゆっくりしていって下さいね!取り敢えずお茶でも・・・」
「いや結構。私もすぐに失礼するから。」
「あぁ、そう・・・・・・」
やっと連絡がついたと喜ぶとは対照的に、エリックの態度は少々素っ気なかった。
部屋に誘った時から、いや、最初からそうだ。
流暢な英語を喋り、会話に不自由はないが、その分隙がないと言おうか、愛想がないと言おうか。
とにかく、あの手紙を読んでわざわざフランスからやって来たにしては、何処か他人事のような、クールな態度だった。
「ところでMr.デュシャン。どうして貴方が・・・」
「エリックで結構。色々見る限り、そういう畏まった雰囲気ではなさそうだ。」
色々とは、劇場は勿論の事、この部屋や自分の事も含まれているのだろうか。
フランス人は皮肉屋が多いと聞いた事があるが、どうやら彼もその手合いらしい。
はそう結論付けると、気を取り直して再び笑顔を浮かべた。
「えぇと、エリック。どうして貴方があの手紙を?私達確か、アランという人に手紙を出した筈なんだけど・・・・」
「アランは私の父で、トマスの弟だ。つまり私は、トマスの甥という事になる。」
「なるほど・・・・・・。それでその、お父様は?」
「半年前に亡くなった。それで一人息子の私がこうして来たという訳だ。」
「そうだったの・・・・・・。お父様、お気の毒に・・・・。」
「どうも。」
依然、淡々としているエリックに、はぎこちなく笑いかけた。
「え、えっと、そうだ、こっちにはどれ位居る予定なの?」
「暫く居るつもりだが、それが何か?」
「だったらお墓参りはまた近々に改めるとして、取り敢えず今日のところは形見だけでも是非見ていって下さい!
家族の人に受け取って貰おうと思って、整理しておいたから!」
は、ベッドの下からトマスの遺品のトランクを引っ張り出した。
「ほら、凄いでしょう!?」
は嬉々としてトランクを開けた。
中身はあの古い写真と台本の山である。
まだ着られそうな衣類や使えそうな家電・雑貨などは全部誰か彼かが持って行って、結局残ったのはこれだけだったのだ。
だがは、中途半端に小奇麗な服などよりも、これらの方が余程形見に相応しいと思っていた。
これらはトマスの歴史、人生そのものなのだから。
「トマスは若い頃、役者だったらしいの。私もトマスが亡くなってから知ったんだけど、とても努力家で、
いい線までいったみたい。この話、知ってた?」
「いや。」
「じゃあ、その辺の話も今度ゆっくり是非。実はここの大家さんがトマスの古い友達で、
昔の事色々知ってるのよ。近々紹介するわね。折角フランスから来てくれたんだもの、貴方達家族の
知らなかったトマスの話、色々と聞かせたいわ。私達もトマスの昔の話、色々と聞きたいし。」
が喋りかけても、エリックはろくに返事もしなかった。
まるで品定めでもするかのように古い写真や台本をパラパラと捲るばかりで、が何を話そうが、
食い付く事はおろか、ほんの少しの興味すらも示そうとしない。
終いには、ちゃんと話を聞いているのかどうかも怪しいとさえ思えるようになってきたのだが。
「・・・・君達が手紙と共に送って寄越した写真は、私の父の家族、つまり、私の祖父母と父、
伯父・伯母達の写真だ。家族全員が揃った、最後の写真だそうだ。」
エリックは不意に、独り言のように喋り出した。
「最初に見た時は驚いたよ。父が肌身離さず大事に持っていた写真と同じものが、突然遠い異国の見知らぬ他人から届いたのだから。」
「・・・済みません、驚かせて・・・・・。でも、家族が居るのならどうしても知らせたくて・・・・・」
「別に君を責めている訳ではない。少なくとも、父は喜んでいるだろう。・・・・・ああ、これだけで良い。」
エリックはおもむろに、古写真の山から1枚のモノクロ写真を取り上げた。
ストライプのスーツを着込んだ、若き日のトマスの写真を。
「ああこれ!この写真が、トマスの全盛期の頃だって聞いたわ!とってもハンサムで素敵・・」
「これだけは父の弔いの為に貰い受ける。あとは不要だ。適当に処分してくれ。」
「適当に、って・・・・・」
さっきから黙って見ていればこの男、淡々とするにも程があると、は些か腹が立った。
「それだけ?貴方の伯父さんでしょ?伯父さんの形見を、そんなゴミみたいに・・・・・。
そりゃ何も全部持って帰れとは言わないけど、もうちょっと言い方ってものがあるでしょう?
そんな言い方じゃ、トマスがあんまり可哀相だわ。」
は毅然とエリックを窘めた。
たとえうんと年上の大人の男だろうが、たとえ立派な身なりの紳士だろうが、無礼なのは彼で、非があるのも彼の方だったからだ。
ところがエリックは、真剣そのものなを鼻で笑うように軽くあしらった。
「伯父と言っても、私は直接会った事はない。他人も同然だ。だから彼の形見にも、彼そのものにも、
何の思い入れもない。君がトマスとどれ程親しかったのかは知らないが、君と同じ程度で彼の死を悼めと言われても、それは無理な話だ。」
「なっ・・・」
「トマスに対して思い入れが深かったのは、私の父だ。父は彼を心底敬愛していた。よく話も聞かされたよ。」
エリックは、トマスの写真をしげしげと眺めながら話し始めた。
「トマスは、身体が弱く大人しい自分と違って、活発で冒険家で自慢の兄なんだと、
父はよく言っていた。家族の中で彼の夢に唯一賛同し、協力したのも父だったそうだ。」
「夢、って・・・・」
「長兄が戦死し、本来なら次男のトマスがデュシャン家の当主を継ぐべきだったのだが、
彼はハリウッドスターになると言って家を飛び出した。それを手助けしたのが父だ。」
「そうだったの・・・・・・」
「末弟の父は、トマスの代わりにデュシャン家の当主となり、家と代々続いてきた会社を守った。
自分にはこういう生き方が向いていると笑いながらも、何かというと誇らしげにトマスの話をしていた。
恐らく、トマスのようになりたくてもなれないジレンマや、彼への羨望もあったのだろう。
もう連絡先すら分からず、長年音信不通になっているのに、いつかきっと夢を掴んだという報告が
貰える筈だ、トマスにはそれだけの才能があるんだと、今際の際まで言っていたよ。」
だが、と呟くと、エリックはの方に目を向けた。
「結局、彼からの連絡はなかった。スクリーンの中で彼を見掛ける事もなかった。
残念ながら、父の買い被りだったというところだろう。」
「そんな事ないわ!」
淡々とそう言ってのけたエリックに、は猛然と反論した。
「本当にかなりいい線まで行ってたって聞いたもの!もう一歩で映画の主演俳優になれるところだったのに、理不尽な嫌がらせに遭って、それで・・・・!」
「それは負け犬の言い訳に過ぎない。結局は成功しなかった、ただそれだけだ。」
「負け犬ですって!?」
この一言が、決定的にを怒らせた。
事情も知らずに簡単に人を馬鹿にするエリックが許せなかった。
「私の恩人を馬鹿にするのはやめて!トマスには成功する実力があったわ!
私は当時の事は知らないけど、ダニーが、トマスの友達がそう言ってたもの!トマスはただ運が悪かったのよ!」
「運も実力の内という言葉がある。成功するには、チャンスをものにする運も必要だ。情熱や実力だけでそれが掴めれば、世の中誰も苦労しない。」
「っ・・・・・・!」
エリックの言葉が、の胸を深く抉った。
トマスの昔話をしている筈なのに、今の自分の事を言われているような気がするのは何故だろうか。
「でも・・・・・!」
「私の言う事が分からないのは、君がまだ子供で世間を知らないからか、それとも、
現実を見ようとしない負け犬だからか。」
「何ですって・・・・・!?」
エリックの青い瞳が、には自分を馬鹿にしてせせら笑っているように見えた。
いや、実際馬鹿にしているのだろう。
ここまで酷い侮辱を受けた事は、未だかつてなかった。
怒りの余り、身体が震えてくる。
だがエリックは、そんな事は気にも留めていない様子だった。
「見たところまだ随分若そうだが、君は幾つだ?」
「・・・・・18よ」
「じゃあ一つ良い事を教えてやろう。挫折した人間は、挫折した己の姿を直視して
それを受け入れていく者と、いつまでも受け入れようとせずに不満と弁解を垂れ流し続ける者の
二通りに分かれる。前者にはまたそれなりの未来があるが、後者になると絶望的だ。
君も精々気をつける事だな。」
「なっ・・・・・!」
「では、私はこれで。」
好き放題に言うだけ言ってから、エリックは一方的に話を終わらせ、部屋を出て行った。
「何なの、あの男・・・・・・!」
そう言えば、トマスの墓参りのスケジュールを立てる事もしていないし、
彼の連絡先さえ聞いていないのだが、追いかけて呼び止める気は、怒りと屈辱に拳を握っている今のにはなかった。