大きな夢を遥か遠くに見据えながら、ホークとは、その日その日を必死に生きていた。
目標は途方もなく大きすぎて遠すぎて、まだまだ到達出来そうになかったが、愛する者と二人、
寄り添って一歩一歩歩んでいけば、いつかは必ず。
そう考えるだけでも、幸せだった。
二人で働いて、夢に向かって努力して。
そうして暮らしていると、1日1日が矢のように過ぎ、季節が目まぐるしく巡っていった。
不安定ながらも、それなりに軌道に乗ってきた二人のささやかな暮らしが一変する事件が起きたのは、その夏の、ある暑い日の事だった。
「あぁ、腹減ったぁ〜・・・・・!」
「今日の賄い何だろうね?」
ホークとは呑気な会話を交わしながら、いつものように劇場に出勤してきたところだった。
「くわぁ〜!あふ・・・・、ダリィ・・・・・。」
「ふふっ、すっごいアクビ!」
ホークは喉の奥まで見えそうな程の大あくびを隠そうともせず、締まらない表情のまま面倒臭そうにバックルームのドアを開け、は笑いながら先頭に立って中に入った。
この時間、オーナーのトマスは大抵このバックルームに居て新聞を読んでおり、
出勤してくる従業員に小言なり嫌味なり、何かしら苦言を吐く。
尤も、それが彼の挨拶のようなもので、誰も気にしてはいないが。
今日はさしずめ、『何だその間抜け面は』とでも言って、ホークを睨みつけるのだろう。
この瞬間まで、はそう思っていた。
「シャッキリしないと、またオーナーにどやされ・・・・」
そう。
床にうつ伏せで倒れているトマスの姿を見るまでは。
「オーナー・・・・・!?オーナー!!」
「おい、どうしたんだよジジィ!?」
二人は慌てて駆け寄り、トマスを抱え起こした。
彼は苦悶の表情を浮かべており、二人が大声で呼びかけると微かな呻き声を上げた。
「おいジジィ!しっかりしろよ!」
「オーナー!オーナー!しっかりして!どうしたの!?どこか痛いの!?」
「う・・・・、うぅ・・・・・・!」
トマスは、意識こそ辛うじてあったが、とても口を利ける状態ではないようで、苦しげな呻き声を洩らしながら、服の胸の辺りを握り締めただけだった。
「胸!?胸が苦しいの!?」
の問いかけに、トマスは小さく頷いた。
「どうしよう、ブライアン・・・・!」
「大丈夫だ、落ち着け!と、とにかく病院だ・・・・!」
ホークはトマスをに預けると、机の上の電話をひったくった。
その拍子にペン立てを勢い良く弾き倒して、中身がバラバラと四散したが、全く気付かなかった。
そう、ホークとて、少しも落ち着いてはいなかったのだ。
「あぁ、どうしよう・・・・!オーナー、ねぇ、オーナー!しっかりしてよ!ねぇ!」
「大丈夫だから少し静かにしろって!!」
内心、かなり動揺していたホークは、すっかり取り乱して涙声になっているを、思わず怒鳴りつけた。
「ご、ごめん・・・・・!」
「大丈夫だから・・・・・、すぐ救急車呼んでやるから・・・・!」
涙が一杯に溜まったの黒い瞳を、負けず劣らずの不安げな目で見つめながら、ホークは救急車を呼ぼうとした。
だがその時、それまで苦しそうに呻くだけだったトマスが、今にも消え入りそうなしわがれ声で『やめろ』と呟いた。
「やめとけ・・・・・・、幾らかかると・・・・・、思って・・・・・・」
「何言ってるの、オーナー!?こんな苦しんでるのに、そんな、お金の事なんて・・・・・!」
「そうだよ!とりあえず、救急車呼ぶ金ぐらいどうにでもなるって!後の事は・・・」
「どうにも・・・・・・ならねぇよ・・・・・・・。保険も・・・入ってねぇ・・・・・、金も・・・・持ってねぇ・・・・・。たとえ・・・・救急車に乗ってったところで・・・・・・、門前払いされるのが・・・・オチだ・・・・・・。」
トマスは荒い呼吸を繰り返しながら、二人を睨むように見据えた。
「良いか・・・お前ら・・・・・・、良く・・・・・覚えとけよ・・・・・・。これが・・・・・・、夢を・・・・掴み損ねた奴・・・の・・・・・、末路だ・・・・・。」
これから死んでいこうとしている人間の壮絶な姿を目の当たりにして、は大粒の涙を零した。
身体は縫い留められたように動かず、声も出なかった。
ただその場で、トマスを見つめたまま、涙を流す事しか出来なかった。
「俺も・・・・・、お前と同じ、16だった・・・・・。家族と、故郷を捨てて・・・・・、飛び出して来た・・・・。
一世一代の夢に・・・・・、人生丸ごと・・・・・賭けた・・・・・・。
だが・・・・・、その結果が・・・・・・、このザマだ・・・・。俺には・・・・・、ツキがなかった・・・・・・・。
夢を掴んで・・・・・、成功するってのは・・・・・、半端じゃなく・・・難しいぞ・・・・・。
よ〜く・・・・・、覚えて・・・・おくんだな・・・・・・」
トマスは、ボロボロと涙を零していると、目元を真っ赤にしているホークにそう告げた。
単なる説教や今際の際の昔話、には聞こえなかった。
トマスの眼差しは、まるで親が子に生きていく術を身をもって教えるかのように厳しく、真摯だった。
「フフ・・・・・、鼻水垂らして・・・・・泣いてんじゃねぇぞ・・・・・。辛気臭ぇツラしてたら・・・・・、幸運の女神に・・・・・・、嫌われ・・・ちまう・・・・」
トマスは小さく笑うと、ひっそりと目を閉じた。
「オーナー!?オーナー!駄目よ、目を開けて!!」
「ま・・・・、これはこれで・・・・・・、満更・・・・悪い事ばっかの・・・人生でも・・・・なかったかな・・・・・・。てっきり・・・・・、一人で・・・・・野垂れ死ぬもんだとばかり・・・・思ってたからよ・・・・・」
「おい、ジジイ!!しっかりしろよ!何言ってんだよ!?」
「オーナー!しっかりしてよ!ねぇ!?」
「あり・・・・・がと・・・・よ・・・・・・」
トマスが、微かな溜息を吐いた。
肺に残った僅かな空気を全て吐き出すかのような、静かで重い溜息だった。
トマスの葬儀は、ひっそりと執り行われた。
参列したのはホークとを含めた劇場のスタッフと、トマスの古馴染み数人だけで、身内の者は誰も来なかった。
いや、それ以前に、彼の身内の名前や連絡先、何もかもが分からず、彼の死を報せる事すら叶わなかったのである。
従って、葬儀や埋葬をはじめ事後の処理一切はやむを得ず身内抜きで行われる事となり、様々な手続きは、ホークとが住むアパートの大家であり、トマスと一番長い付き合いのあるダニーという老人が一手に引き受けた。
そしてホークとは、彼に言われて肉体労働、つまりトマスの部屋の片付けを引き受ける事となった。
トマスの葬儀から幾日か経ったある日の事。
ホークとは、片付けの為にトマスのアパートに出向いていた。
「じゃあ、後は頼んだぞ。済んだら鍵は返しに来いよ。」
「はい。」
まずアパートの管理人に一声掛けてから、二人はトマスの部屋に向かった。
二人の住むアパートにひけを取らない古く薄暗い建物の3Fの一室、そこがトマスの自宅だった。
鍵を開けて入ってみると、中は少々埃っぽく、雑然としていた。
足の踏み場もない、とまでは言わないが、空っぽの酒瓶が何本もキッチンに置きっぱなしになってあったり、適当に畳まれた洗濯物がソファの隅に無造作に積まれている。
ゴミなのかそうでないのか、パッと見た限りでは区別し難いものも色々あり、は思わず溜息を吐いた。
するとホークは、苦笑いして言った。
「そんなキッチリやろうと思わなくても良いだろ。身寄りがねぇんだから、形見を引き取る奴も居ないんだし、基本的に全部ゴミに出しちまって良いんじゃねぇか。」
「ん・・・・・・・」
ホークの言う事は尤もなのだが、それはそれでトマスが気の毒な気がして、は言葉を濁した。
「さっさとやっちまおうぜ。一つ一つ考えながらやってたら、何日あっても終わりゃしねぇ。」
ホークは言うが早いか、目につく物を手当たり次第にゴミ袋に詰め込み始めた。
新聞もシャツもシリアルの箱も、全て一緒くたに放り込むホークを見て、は『ちょっと待って』と制した。
「ねぇ、やっぱり全部捨てるのはどうかと思うんだけど・・・・。せめて高価そうな物とかまだ着られそうな服なんかは取っておかない?大家さんとかフランクとか、他にも誰か欲しがる人が居るかも知れないし・・・・・。」
「居るとは思えねぇけどなぁ・・・・・。こう言っちゃあ何だけど、服は全部安物だし、家具も電化製品もボロくて小汚ぇしさ・・・・・。金目の物なんか、それこそないぜ?」
と共に暮らすようになった今でこそやらないが、昔は窃盗も散々繰り返していたホークである。
物を見る目は確かなつもりだった。
その目で見た限りでは、この部屋には金目の物など一つも見当たらなかったのだが、
がそこまで言うならと、ホークは仕方なくゴミ袋の中身を選別し始めた。
と、その時。
「わ、凄い・・・・・・・!」
が隣室で感嘆の声を上げた。
ホークが『どうしたんだよ』と顔を覗かせると、はベッドの下から引っ張り出したらしい大きなトランクを指差した。
「ねぇ、見てこれ!」
そこには、古いモノクロ写真や、びっしりと書き込みの入ったボロボロの台本らしきものが山のように入っていた。
ホークにはさして価値のある物とも思えなかったが、にとってはそうではなかったようで、
目を輝かせながら一つ一つ手にとっては眺めていた。
「この写真、凄くない!?全部スターのブロマイドみたい!」
「ああ、確かにそんな感じがするけどな・・・・・」
「オーナーって昔、映画スターを目指してたって言ってたし、これ全部その時の物じゃないかなと思うんだけど。ほら、台本とかもあるし。」
「かもな。」
ホークが頷くと、は益々瞳を輝かせた。
「オーナーの写真もあるのかしら?ね、ブライアンも探してみてよ!」
「おいおい、そんな事してたらいつまで経っても終わらねぇだろ!?」
「良いじゃない!折角見つけたんだからさぁ!」
「仕方ねぇなぁ・・・・・!」
に乞われるまま、ホークは写真を1枚1枚、観察し始めた。
写真には老若男女、様々な人間が写っていた。
ドレス姿で、まるで肖像画の王女のように写っている若く美しい女性の写真。
パナマ帽を被った中年の紳士の写真。
ホークは一瞬、これがトマスではないかと思ったが、写真の古さと彼の年齢から考えると、どうも違うようだった。
これらの写真が撮られた頃なら、トマスはまだ若い筈だ。
ホークは眉間に皺を寄せて考え込みながら、次々と写真を繰っていった。
「・・・・・ん?」
ホークの目にふと、1枚の写真が留まった。
ストライプのスーツをきっちりと着込んだ、スマートな青年の写真である。
「まさかなぁ・・・・・・・」
年頃から言えばそれらしいが、写真の青年は、ホークの知るトマスとは随分違って見えた。
写真の中の青年は、髭のないほっそりとした顎を少し持ち上げ、物憂げな視線を彼方に向けていて、誰が見ても美男子と称賛するであろう容貌をしていた。
一方、ホークの知るトマスは、ストライプのスーツどころかいつも小汚い身なりをして、
不精髭を生やした厳しい老人である。
ホークの脳内では、どうやってもこの二人を重ね合わせる事が出来なかった。
首を捻りつつ、次の写真を見ようとしたその時、があれ?と声を上げた。
「どうしたんだよ?」
「手紙が・・・・・・・」
ほら、とが差し出したのは、写真や台本に負けず劣らず古ぼけた感じのする手紙だった。
それはトマス宛てのフランスからのエアメールで、驚くべき事に、差出人がトマスと同じ姓であった。
トマスの故郷・フランスから送られてきた、トマスと同じ、デュシャン姓を持つ男の手紙。
それはつまり、トマスの家族か親戚からの手紙という事ではないか。
ホークとは瞬時に同じ事を考え、ハッと目を見合わせた。
「中・・・・・、見ても良いと思う?」
「・・・・今更構やしねぇだろ。むしろ、見た方が良いんじゃねぇか?身内だったら連絡してやれるかも知じゃねぇか。」
「そ、そうよね・・・・・!」
人の手紙を勝手に見るのは良くない事だが、今はそんな事を言っている場合ではない。
は意を決すると、封筒を開いた。
中には、写真と便箋が1枚ずつ入っていた。
写真は裕福そうな家庭の家族写真という感じで、中年の夫婦と思わしき男女を囲むように、10代から20代位の男女が5人、写っていた。
そして、便箋の方は、というと。
「わ、分かんない・・・・・!」
つらつらと並んでいる文字の列を見て、はガックリと肩を落とした。
「あぁ、そうか!フランス語か!参ったなぁ・・・・・!」
フランス人がフランス人に宛てた手紙なのだから、フランス語で書かれていても何ら不思議はないのだが、そんな事など全く念頭になかった二人は、途方に暮れて頭を抱えた。
しかし、目的は手紙の解読それ自体ではない。
差出人が本当にトマスの身内の者なのかどうか、あくまでもそれが知りたいだけなのだ。
トマスと付き合いの長い誰かに訊けば分かるかも、という結論に達した二人は、そのトランクを持って自分達のアパートの大家の所に駆け込んだ。