重ねていた唇を離すと、ははにかんでポツリと呟いた。
「そろそろ・・・・帰らなきゃ。」
「・・・・もう帰るのかよ?」
この雰囲気の中でそんな言葉が出て来るとは夢にも想像していなかったホークは、驚きと焦りを隠せなかった。
この時既に、ホークはすっかりその気になっていたのである。
だから、も同じ筈だと信じて疑っていなかったのだが。
「うん。もう遅いし。」
「帰るなよ。」
「・・・・駄目よ。」
逃がさないように腕を掴んでみても、は俯いて首を振っただけだった。
その様子を見て、ホークは少し不機嫌になった。
「・・・・・・・何だよ、嫌なのかよ?」
「違うけど・・・・。怒らないでよ、ブライアン。私だってそうしたい気はあるのよ。でも今日は準備が・・・・」
嫌がられてはいないと分かった途端、自分でも呆れる程機嫌が直っていくのが分かった。
そんな自分の単純さを少し恥ずかしく思いながらも、ホークはヘラヘラと笑いながら、いつもの軽い口調で言った。
「別に準備なんて何も必要ねぇだろ。コンドームなら俺が持ってるし。」
「そうじゃなくて!何ていうか・・・・、女の子には色々準備が必要なの!」
は、赤い顔をしてホークの腕を振り払った。
「色々って何だよ?」
「・・・・着替えもないし、シャワーもまだ浴びてないし、それに・・・・、心も。」
「心?」
「何て言うか・・・・、今日はもうこれ以上ドキドキ出来ないわ。」
幾ら好きな男が相手でも、たかがキス位でそんなにドキドキするとは思えない。
頬を染めてはにかむを見て、ホークは不思議そうな顔をした。
「何で?どういう事だよ?」
「もうっ!馬鹿っ!!鈍感!!!」
「え・・・・」
まるで林檎のような頬をしたに怒鳴られて、ホークはようやく勘付いた。
「・・・・マジで?」
「何よ、悪い?言っとくけど、私はずっとダンス一筋だったの!男の子にのぼせた事なんて一度もなかったわ!だからキスしたのだってこれが初めて!悪い!?」
恥ずかしさの余り居直るを見ている内に、妙な気持ちになってきた。
可笑しいような、吃驚するような、嬉しいような、そんな妙な気持ちに。
「悪かねぇけど・・・・」
「けど何よ?」
「珍しい奴だよな。お前、本当ダンス馬鹿なんだな。ハハハ!」
「・・・・ふふっ。何よ、今頃気付いたの?」
その気持ちのままに大声で笑うと、それまで膨れ面だったも照れ臭そうに笑い始めた。
そうして二人でひとしきり笑ってから、ホークは言った。
「O.K.分かったよ。今日はこのまま家まで送ってやる。その代わり、なるべく早い内にその『心の準備』ってやつを済ませてくれよ?」
「・・・・うん。」
どちらからともなく指先を絡め合い、二人はの家を目指してゆっくりと歩き始めた。
数分後、二人はの住むアパートの前に着いた。
ホークの住むアパートと大差ない、古くて小汚いアパートである。
「・・・・・・・ん?」
そんなアパートの前に、不釣合いとしか言い様のない物があった。
エントランスの真ん前に乗りつけたかのように停まっている車である。
「この車・・・・・・」
「いやに小奇麗な車ね。」
「ああ。綺麗すぎる。」
煤けたアパートでその日暮らしをしているスラムの住人が、こんな傷一つないような綺麗な車に乗れる訳もないし、こんな車に乗って遊びに来る家族や友人も居る訳がない。
つまり、この車の主は多分、招かれざる客。
警察か、或いはマフィアか、どちらにしても巻き込まれれば厄介な事になる。
「・・・・・・・嫌な予感がするぜ。」
いつになく警戒し、真剣な顔で低く呟くホークを見て、は怯えた顔をした。
「やだ、やめてよブライアン・・・・・・」
「多分、帰らねぇ方が良い。」
「そんな事言ったって、帰らない訳にはいかないわよ・・・・・・」
「じゃあ、俺が部屋まで送ってやる。何もなかったらすぐ帰るからよ。」
「・・・・・・有難う。でも、何もなかったからゆっくりしていって。コーヒー位出すから。」
「ああ。」
二人は微かに微笑み合うと、慎重な足取りでアパートのエントランスを潜った。
アパートの中は、拍子抜けする程普段通りの様子だった。
どこかの部屋から洩れてくるTVの音が時折微かに聞こえて来るだけで、後は静かなものだ。
ホークと共に薄暗い階段を上がり、は自宅である部屋の玄関ドアに手を掛けた。
そう、ホークの予感は外れて、結局は何事もなく自宅に帰り着いたのだ。
鍵は開いており、がノブを回すと、ドアは小さく軋んだ音を立てて開いた。
「ただいま〜・・・・・・・。居るの?パパ?」
鍵が開いていて、家の中に灯りが点いている。
という事は、父親が帰宅しているという事だ。
無事に帰宅出来て緊張が解けたは、今頃になって急に気恥ずかしくなってきた。
これから、背後に立っているホークを父に会わせる事になるのだ。
16の娘が同じ年頃の少年を連れて来たら、その少年が娘にとってどんな存在か、察しない親など居ないだろう。
特に反対されるとは思わないが、こんな事は初めてで、妙に照れ臭かった。
父には何と言って切り出そうか、そんな事を考えて一人ではにかみながら、はホークを従えてリビングに入った。
「パ・・・」
だが。
「Freeze!!」
突然見知らぬ男に銃を突きつけられて、の微笑はそのままの形で凍りついた。
「手を挙げてじっとしてろ!動くなよ!」
男はあっという間にとホークをリビングに引っ張り込み、銃口を向けてきた。
恐怖に凍りつきながらも、は室内を見渡した。
荒れた部屋。
ひっくり返ったテーブルの脚に、手錠で繋がれている悔しそうな顔の父親。
人の家の中を我が物顔で出入りする、得体の知れない男達。
一体、彼等は何者なのだろう?
この状況は一体何なのだろう?
「誰だ、お前らは!?この家の人間か!?」
「む、娘よ・・・・・・。彼は私の友達・・・・・・」
が震えた声で答えるや否や、男は不躾にとホークの身体を探り始めた。
そして、二人の身体を文字通り頭のてっぺんから足の先まで素早くチェックし終わると、男は素っ気無く言い放った。
「フン。取り敢えずは二人共何も持っていないようだな。」
「おい、いきなり身体検査かよ。何の話か分かるように説明しろよ。テメェらこそ何者なんだ?」
鋭い目付きで威嚇するように言うホークを見て、男は腹を立てた。
「ああ?何だとこのガキ。生意気な口を・・・」
「よせ。やめろ。」
その時、スーツ姿の男がキッチンから出て来て彼を制した。
その一言で男がすんなり引き下がったところを見ると、彼の上司なのかも知れない。
「私の名はグラント。我々は全員DEAの捜査官だ。」
グラントと名乗った男は、落ち着いた物静かな口調でにそう告げた。
DEAとは麻薬取締局、そしてこの男達はその捜査官。
だとすれば、彼等が何をしに来たのか、大体の想像はつく。
「を麻薬所持及び密売の疑いで逮捕しに来た。」
「パパ・・・・・・・!」
その想像は概ね当たっており、は絶望の眼差しで捕縛されている父親を見た。
「だから!俺は知らねぇ!何も知らねぇ!さっきからそう言ってるだろ!!」
それまで苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいたの父親は、突然大声で喚き始めた。
恐らく既に散々抵抗して暴れ、ひとしきり騒いだ後だったのだろうが、再び気力が湧いてきたかのように、捜査官達に罵声を浴びせ、動かない身体をどうにか動かそうともがいている。
「ありました!」
そんな時、急ぎ足でリビングに入って来た別の捜査官が、グラントに小さなビニールの包みを手渡した。
グラントはそれを受け取ると、包みを開けて中の匂いを嗅ぎ、中身を少量指先に付けて味をみてから、の父親に向き直った。
「ほう・・・・・、ならこれは何だ?」
「・・・・・・・・クソッ!」
そう、それは麻薬だった。
物的証拠が見つかった以上、最早これまでだ。
の父親は自棄を起こしたように拳を床に叩きつけると、再び黙り込んでしまった。
「他にもないか、徹底的に調べろ。」
グラントは他の男達にそう指示を出すと、再びとホークの方を見た。
「・・・・・それで?君がの娘で、そっちは彼氏か。名前と歳は?」
「・・・・・・、16よ・・・・・・・・」
「ブライアン・ホーク。16。」
「そうか。腕を見せてみろ。」
「あっ!何するのよ!?」
は、抵抗も虚しく袖を捲られた。
グラントはの白い腕をまじまじと眺めると、次にホークの腕を掴んだ。
だが、ホークはその手を振り払い、自ら袖を捲って見せた。
「・・・・・・ふむ、二人共綺麗なもんだ。ヤクにはまだ手を出していないようだな。」
はそうだが、ホークは違った。
2年程前に、当時母親と交際していた男からくすねたドラッグを、何度か好奇心で試した事があったのである。
しかし、万年貧乏だったその男は安くて純度の低い物しか持っておらず、かと言って自腹で高いドラッグを買うのも馬鹿馬鹿しくて、それっきりすっぱりと止めたのだが。
「当たり前でしょ!馬鹿にしないで!!」
「ヤクって何だ?美味いのか?」
は激怒して感情的に怒鳴り散らしたが、ホークはこんな状況にも関わらず、薄ら笑いを浮かべてふざけて見せた。
グラントは、白々しくとぼけて笑うホークに一瞬油断のない眼差しを向けたが、やがて視線を逸らしてに尋ねた。
「・・・・・・もう良い。次の質問に移ろう。他に家族か、一緒に住んでいる人間は居るか?」
「誰も居ないわ。ここに住んでいるのは私とパパだけよ。」
「父親の『商売』の事は知っていたか?何か手伝ったりはしなかったか?」
は一瞬、父親をチラリと見てから、きっぱりと答えた。
「・・・・知らないわ。私は何も知らない。まして手伝いなんて一度もした事がないわ。」
「本当か?」
「本当よ。」
は、グラントの厳しい目を負けじと睨み返した。
「・・・・・・・まあ良い。ここの探索が済んだら、改めてゆっくり話を聞かせて貰う。君にもパパと一緒に来て貰うぞ。」
「ちょっと待ってよ、私も逮捕する気?」
「別にそうは言っていない。ただ話を聞くだけだ。今のところは特に疑わしい点もないしな。」
「当たり前よ。私は何もやってないわ。ドラッグに手を出した事だって一度もない。神様に誓ったって・・・」
「まあそう怒るな。こっちは親切のつもりで言ってやってるんだ。」
「親切ですって?」
「父親が逮捕されて、16の娘が明日からどうやって生きていくんだ?話を聞いた後で、私が君の身内に連絡を取ってやる。だからそう警戒せずに、大人しくついて来るんだ。」
「パパの他に身内なんて居ないわ。」
「だったら、然るべき専門機関を紹介してやる。」
結構よ、と突っぱねてやろうとしたその時、遂に捜査官達がの部屋へと雪崩れ込み始めた。
「ちょ、ちょっと待って!勝手に私の部屋に入らないでよ!」
その様子を見たは、慌てて彼等の後を追った。
だが、もう遅かった。
が自室に駆け込んだ時には、既に捜査官達は部屋中をめちゃくちゃに荒らし始めていたのである。
「やめて!やめてよ!荒らさないで!!私の部屋にドラッグなんかある訳ないでしょ!!」
「うるさい!邪魔をするとお前も逮捕するぞ!!」
「酷い・・・・・!」
必死で真実を訴えても、誰も手を止めようともしなければ、耳を貸そうとすらしない。
捜査官達は無遠慮にのベッドのマットレスを捲り、クローゼットの中身を掻き出し、引き出しやバッグの中身を次々と床にぶちまけた。
「っ・・・・!」
このままでは壊されてしまう。
は捜査官の目を盗んで、床の隅に置いてあったラジカセを素早く抱きかかえた。
しかし、目ざとい捜査官にすぐさま見咎められ、は鬼のような形相の捜査官に厳しく問い詰められる破目になった。
「おい!?今何を取った!?」
「只のラジカセよ!私の宝物なの!アンタ達に壊されちゃ堪んないから!」
「貸せ!」
「あっ!」
の腕からラジカセをひったくった捜査官は、忙しなく荒々しい仕草でそれを調べ、やがて本当に只のラジカセだという事が分かると、ゴミでも捨てるかのように床に放り出した。
「ああっ!」
ラジカセは重い音を立てて床に落ち、は慌ててそれを拾い上げ、捜査官に猛然と食ってかかった。
「酷い!!何て事するのよ!!」
「捜査の邪魔をするな!あっち行ってろ!!」
「きゃっ・・・・!」
だが、捜査官は非礼を詫びるどころか、纏わりつくを鬱陶しそうに突き飛ばした。
でっぷりと肥え太った男に突き飛ばされ、後ろによろけて転びそうになったを支えたのはホークであった。
「ブライアン・・・・・・・」
振り返ってホークの顔を見た途端、それまで必死で抑え込んでいた恐怖や不安や怒りが堪えきれなくなり、はホークの胸に頭を預けたまま、小さく震えながら泣き出した。
「ブライアン、ブライアン・・・・・!どうしよう・・・・・・!」
「・・・・・・とにかく、ここから逃げるぞ。」
「えっ・・・・・!?」
「俺に任せろ。ついて来い。静かにな。」
「で、でも・・・・」
「いいから。」
ホークは、の腕を掴んで部屋から連れ出した。
の部屋から玄関まではごく僅かな距離である。
しかし今、玄関には一人の捜査官が居て、その辺に雑然と置かれてある物を引っくり返している最中だった。
「・・・・・・・なあ。そこのオッサン。」
ホークは一瞬考えてから、忙しそうなその捜査官に声を掛けた。
「あ!?何だ小僧!?」
「グラントってオッサンが呼んでるぜ。」
「あぁ?」
捜査官が怪訝そうな顔をした瞬間、ホークは彼の鳩尾にその拳を思い切りめり込ませた。
捜査官はたったその一撃だけで、声も上げる事なく悶絶して崩れ落ちた。
「今だ、・・・・・!」
「っ・・・・・・・!」
誰も来ない内に。
誰かに気付かれる前に。
二人は手を取り合って、アパートを飛び出して行った。