「こんにちわ♪」
あの次の日から、は間柴がジムの前を通りがかると声を掛けるようになった。
生徒がいるときはしなかったが、週に2〜3度はジムへ向かう彼に声を掛ける。
「・・・おぅ」
「今日もお仕事だったんですか?」
「・・・まぁな。」
間柴はまだ運送会社での仕事を辞めていない。チャンピオンになり、ファイトマネーの額も
それなりには上がってきたが、まだそれだけで食べていくには心もとない気がしたし、社長をはじめ、会社の人間に
できる限りいてくれと懇願されたせいもあった。
故にジムに顔を出せるのは仕事が終わった夕方になるのだ。
「・・・今日は?」
「7時半から生徒が一人入ってるんですけど、8時過ぎには帰りますんで、それぐらいに。」
「・・・わかった」
あれから約1ヶ月、間柴はを家まで送り届けていた。の父はあれ以来姿を見せていない。
しかしもはや習慣になったかのように、彼はを送り届けることをやめなかった。
一人の少女が向こうから歩いて来る。小学校低学年ぐらいであろうか。手には手提げバッグを提げている。どうやらの生徒らしい。
「あ、じゃあ私そろそろ。練習頑張って下さいね!」
笑顔で手を振るを一瞥して、背を向ける。その眉間には深い皺がいくつも寄っている。
背後から、と少女の楽しそうな話し声が聞こえてくる。
「先生こんにちわ〜!」
「はいこんにちわ。ちゃんと練習してきた〜?」
「えへへ〜」
「笑ってごまかさない!」
見ずとも分かるその微笑ましい様子を背中で感じながら歩き出す。
こんな光景がすっかり定着してきつつあった。
そろそろ時間だ。
練習を切り上げ、8時過ぎにジムを出た。
の待つピアノ教室へと歩き出す。自然と早まる足は、まるで彼の気持ちを正直に表しているかのようだ。
教室に着いて中を見ると、がピアノを弾いていた。
聞くからに難しそうな、テンポの速い曲。しばし聞き惚れてからドアをノックする。
ピアノの音が止み、嬉しそうな笑顔を浮かべてドアを開けに来る。
「ごめんなさい、つい夢中になってて気がつかなくて。」
「いや、今着いたところだ」
「最後の生徒が急にキャンセルになっちゃって、時間が出来たから練習してたんです。」
「先生でも練習するのか?」
「もちろん!毎日空いた時間に練習してるんですよ。ちゃんと弾かないと指がなまってしまいますから。」
「今弾いてた曲、なんてんだ?」
「ショパンの『ソナタ第3番』の第4楽章です。」
「・・・さっぱり分からん」
「フフフ。あ、そうだ!良かったら弾いてみます?」
「・・・勧誘だったら無駄だぞ」
「そんなんじゃないですよ。もちろん興味がおありなら是非習いに来て頂きたいですけどね。」
「全くねぇ。」
「だと思ってました。」
屈託なく笑い、ピアノの側へ歩いていく。間柴もなんとなく彼女の後に続いてみた。
「どうぞ」
「俺は弾けねぇ」
「『チューリップ』とか『猫ふんじゃった』とか、なんでもいいんですよ。」
「・・・・」
しぶしぶ鍵盤に手を置く。押してみると「ポーン」と軽やかな音が鳴った。
たどたどしくチューリップのメロディを弾いてみる、がどうにも音が外れている。
「『ド』の音はここです。ここから弾いてみて下さい。」
そう言っては間柴の手を取り、指をドの鍵盤の上に移動させる。
間柴は、その手の小ささと柔らかさに思わず固まる。
言われたとおり、もう一度弾いてみる。おそらくここに来ている生徒達の誰よりも下手であろう
『チューリップ』が奏でられる。
「ッダアァァァ!!ウゼェ!!」
そう叫んで突如手を止める間柴。恥ずかしさからか緊張からか、彼の顔は真っ赤になっていた。
「あんたが弾け。聴いてるほうがいい」
そう言って鍵盤の前から身を引く。
「クスクス。分かりました。何かリクエストはございますか?」
笑って椅子に腰掛ける。
「・・・・こないだのやつ。なんだ、あの、あれだ・・・りす、とかなんとか・・・」
「リストですか?」
「そう、それだ。」
「はい。」
ふんわりと彼に笑いかけて、一呼吸すると、は弾き始めた。
この一月、たまにこうしてピアノを弾いた。といっても、彼が勧めに応じて鍵盤に触れたのは今日が初めてだったが。
ついこの間までは有り得なかった状況に、彼は居心地の良ささえ感じ始めていた。
の細い指が美しい旋律を紡ぐ。リストの『愛の夢第3番』。
甘く美しいこの曲を初めて聴いた時、彼は自分が変わりつつあることに気付いた。
ピアノを弾くの横顔をじっと見つめる。真剣な表情。ひたむきなその姿。
いつだったか、ピアノは生き甲斐と言ってたな・・・・
チャンピオンになった途端に急に群がってきた女共とは違う。他愛のない会話も、自分に向ける笑顔も、
決して有名人に取り入る為の媚びた様子のそれではなく。
今まで関係した女性にはなかったものがこのという女性にはあるように思えて、そしてそれに心安らぐ自分に気付いて。
間柴は今まで味わったことのない感情にうろたえる。
他人との関わりを頑なに拒んでいた心に、いつのまにか入り込まれてしまった。
−俺は、俺はどうしちまったんだよ・・・どうすりゃいいんだ・・・・
やがて静かに曲が終わる。途端に現実に引き戻された。
顔を上げてにっこり微笑みかけるに、自分の気持ちを見透かされている錯覚を覚えて恥ずかしくなり、『ヘッ、眠くなりそうだ』と憎まれ口を叩いてみる。
「フフ、クラシックを聴くとα波が出るんですよ。それは間柴さんがリラックスしている証拠です。」
「ケッ、そんなんじゃねぇ。そろそろ帰るぞ」
「はい。」
は立ち上がり、鍵盤に赤い布を掛けてピアノの蓋を閉じる。
そのまま帰り支度を始めるを、玄関で待つ。
いつもと同じ道を通り、二人して帰途につく。初めて出会った頃が、遥か昔のように思える。
この帰路を辿りながら何気ない話をする。とりとめのない話が主だったが、時折自身のことについての話題にもなった。
これにより、間柴はの事をもう随分知っていた。
幼い頃、両親が離婚して母と二歳違いの弟と三人になったこと。間もなく母が再婚した相手が、例の父であること。
すぐに妹が生まれ、三人兄弟になったこと。弟は奨学金とアルバイトで遠方の大学に進学し、下宿暮らしで、
妹と母が実家にいるらしい。
は幼稚園の先生が弾いてくれたピアノに憧れ、親に我侭を言ってピアノを習わせてもらったと言った。
『ピアノを弾くのが大好きで、レッスンがいつも待ち遠しかったんです。』
嬉しそうに懐かしそうに、は語った。
『でもうちお金なくて、お稽古事をさせるだけでいっぱいだったらしくて、ピアノは買ってもらえなかったんです。
でも、小学校5年生のときにやっと一番安い電子ピアノを買ってもらって、嬉しくて嬉しくてもうおおはしゃぎ!』
楽しそうにそう言って笑った。そのピアノは今でも使っているらしい。
その後もずっと習い続け、高校へ進学すると必死でバイトと練習を両立させた。そしてピアノ教師を夢見たが、
音楽科へ進学する費用などない、ならばそれと同程度の演奏力を身につけるしかなく、死に物狂いでライセンスを取り教員に採用された、とは続けた。
その過去が己のそれと重なる。
選べる未来なんてなかった。自分が妹の、久美の親代わりになる、ただそれだけだった。
それを重いと感じたことはない。だが思うように行かなくて幾度拳を握り締めたか。歯を食いしばったか。
ボクシングだけが居心地の良い場所だった。揺るがない野望を胸に死に物狂いでのし上がった。
『でもね、やっぱり音大出の先生が多くて、私なんかうんと下っ端なんです。やっと今の教室を任された時は天にも昇る気持ちでした。』
ボクシングとピアノ、全く逆方向で共通するものなど何もないはずなのに、それを志す者同士の何と似ていることか。
・・・似過ぎだ。
彼がにどんどん惹かれていったのは、その歩んできた道や志に共通するものが多かったせいもあるのだろう。
そして、それを楽しそうに懐かしそうに明るく語るに徐々に張り詰めた心を溶かされ、間柴もまた彼自身のことをぽつぽつと語っていた。
17歳で両親と死に別れ、たった一人の妹と暮らしてきた。妹の親代わりを必死で果たしてきた、そしてこれからもずっと。
ボクシングだけが唯一の居場所だった。必ずのし上がってやる、その一念のみで日本王者にまで昇りつめた。そして今度は世界へと。
彼を知る者が聞いたら驚きの余り腰を抜かすであろう程、彼にしては饒舌であった。
『何だか似ていますね、私たち。』
あの柔らかい笑顔でが話しかけてくる。全く同じことを考えていた自分が妙に気恥ずかしくて、つい表情が険しくなる。
『・・・フン』
『ご、ごめんなさい!間柴さんと私じゃ全然格が違いますよね!図々しいこと言っちゃった・・・怒らないで〜!!』
一介のピアノ教師と日本王者を一緒くたにされて怒ったと勘違いしたが必死で謝る。
『・・・怒ってねぇ』
低い声で呟いて、スタスタと前を歩く。自分でもよく分からない気持ちをに悟られないように抱えて。
『待って、待ってください〜!』と一生懸命ついてくるが、
そう、愛しい。
間柴がその気持ちに気付くのが、そしてそれこそが『恋』なのだと知る日は、そう遠くないだろう。
「・・・それでその子ったら、おさらいして来なかった理由を何て言ったと思います?『いんすぺーしょんを大事にしたかったから』ですって!
もうそれ聞いて思わず笑っちゃって。多分『インスピレーション』って言いたかったんでしょうけどね。」
ふと気付くとがおかしそうに笑っている。
未だ丁寧語が抜けないものの、その口調には大分親しさがこもるようになっていた。
「女の子ってたいてい口が達者でしょ?まだ1年生なのによくそんなこと言えるなぁ、って感心すらしちゃって。」
「・・・先生がそんなんでいいのかよ」
それは間柴も同じであった。ぶっきらぼうな口調は変わらないが、口数が増えてきている。
「ホントは駄目なんですけどね。叱って毎日レッスンするように言わないといけないんですけど、今日はどうにもおかしくって。」
「ダメ教師が。」
「ごもっともです」
神妙な面持ちで反省する。そんなやりとりをしている間にも足はどんどん進み、の家の前へと到着する。
「今日もありがとうございました。お休みなさい。」
「あぁ」
がマンションの階段を上がっていく。質素な感じのエレベーターすらついていない低い建物。
自分の家といい勝負だ。初めて送ってきた日にそう思った。
まだ彼は一度もの部屋へ上がっていない。誘われたことも頼んだこともなかった。
それに互いの電話番号も知らない。休みの日にわざわざ会うこともない。
近いようで遠い二人の距離は、今日も変化のないままであった。