目の前で微笑む愛しき者に、この手が届かない。
手を伸ばしても、走って追いかけても、決して届かない。
これ以上ない程伸ばした腕の筋が引き攣るような、妙な感覚だけが生々しく残っている。
そんな夢を見た。
浅い眠りから醒めたシンは、深い溜息をついた。
デスクで考え事をしているうちに、うたた寝をしてしまったようだ。
すっきりしない頭をどうにかしたい。
シンは気だるそうに立ち上がると、湯浴みをするべく浴室へ赴いた。
そして手早く入浴を済ませ、身体を拭くとガウンを羽織った。
― 落ちたものだな。
シンは自嘲気味に笑うと、まだ身体に少しついている水滴を乱雑に拭った。
こういう世話をする女達は、気がつけば一人もいなくなっていた。
妾だけではない。兵士の数もかなり減っている。
殺された者も大勢いるが、自分の目を盗んで逃亡を企てた者も少なくない。
― 鼠は沈みかけた船に見切りをつけて何処へともなく逃げ出すというが、本当だな。
だが別に構わない。
もはや権力などに興味はないのだから。
シンは、月光に誘われるようにしてテラスへ出た。
今日はやけに満月がぎらついている。
「あれは・・・・」
闇に紛れるようにして立つ男が二人。
シンは二人の様子を黙って見守った。
二人の勝負は一瞬でついた。
一方の男が膝をつき、有り得ない方向に背を曲げて破裂した。
こんな芸当が出来る者といえば、あの男しかおるまい。
「北斗神拳・・・・生きていたのか・・・・・」
― ケンシロウ、やはり貴様だったようだな。
シンはその場を離れていく男の姿をしばし見つめていたが、男が闇に溶ける前に、踵を返して部屋へ戻った。
更に夜が深まった頃。
は固い面持ちでシンの部屋のドアをノックした。
しばらくして中からシンの返答があり、は室内に足を踏み入れた。
「何用だ?」
眠れないのか、シンは椅子に腰掛けて酒を呷っていた。
シンはの顔をちらりと一瞥しただけで、ただ淡々とグラスを傾け続けた。
彼は自分の話を聞く気などなさそうだが、は構わず訴えかけた。
「お願いがございます。KING様、あのような真似はどうかもうお止め下さい。」
「・・・・・何の事だ?」
「あの人形のことでございます。」
― 殺されても構わない。
その覚悟の出来たには、怖いものなどなかった。
これ以上悲しみに狂うシンを見ている方がよほど辛い。
このまま彼の正気の沙汰とは思えぬ所業を手をこまねいて見ているぐらいなら、何だって出来る。
は口を閉ざしたまま何も語ろうとしないシンの胸に、一思いに飛び込んだ。
「KING様・・・・!どうかもう、ユリア様の事はお忘れ下さい!」
「・・・・・・」
「私では何のお役にも立てませんか!?KING様、私は・・・」
「言うな。」
シンは、涙目で自分に縋るを制した。
喉まで出掛かった言葉を詰まらされ、の表情が一瞬悲しげに歪む。
しかし、言われるまますごすごと引き下がりたくはない。
は気を奮い立たせて服の胸元を肌蹴た。
「ならば、せめてどうか、いつものように抱いて下さい!」
はそう言うと、恥ずかしさを堪えてシンの分身に手を伸ばした。
このような事はしたことがないが、それでも無我夢中でたどたどしく愛撫の真似事をする。
まるで娼婦にでもなったような錯覚に陥り、羞恥で気がどうにかなりそうになる。
しかしの身体は、まるで別の誰かに動かされているかのようにシンを求めた。
そうすることで、シンを助けられるとでも言わんがばかりに。
しかし、シンはその手を押さえつけて阻んだ。
「よせ。」
「嫌です!」
「・・・・もう抱けん。」
シンはから目を逸らすと、独り言のように小さく呟いた。
その言葉は、をひどく傷付けた。
は震える声を振り絞って、その理由を問い質した。
「どうしてですか・・・・?」
「俺は、俺の愛し方こそが正しいのだとお前に知らしめる為に、お前を抱いていた。」
「どういう事ですか?」
「自分を省みず、報われずとも満足するようなものなど愛ではない。手に入れてこそ意味もあり、価値もある。」
「KING様、私の気持ちを・・・」
「とうに知っていたわ。そしてお前の愛を愚かしい自己満足が生み出す妄想だと、そう思っていた。俺の愛こそが真の愛だとな。だが、結局俺は手に入れる事が出来なかった。」
シンは遠くを見つめたまま、淡々と独白を続けた。
「俺はユリアが飛び降りた時、ただ生きてさえいてくれればもう何も望まないと、そう思った。」
「飛び降り・・・!ユリア様はもう・・・」
衝撃的な話を聞かされたは、驚きの余り話の腰を折る事も構わずにシンに詰め寄った。
「まだ生きている。やむを得ぬ事情があって、ユリアを助けてくれた者達に預けた。」
「どちらにおられるのですか?」
「それは俺も知らん。ただ、ここよりはユリアにとって安全である事だけは確かだろう。」
「そうだったのですか・・・・・。」
「その事情が片付けば、すぐにでも探し出して迎えに行くつもりだった。何も望まないなどと思ったのは、一時の気の迷いだったのだと、そう信じてな。」
「・・・・今でもまだ、いえ、今ならまだ間に合うのでは?」
はそう進言した。
たとえほんの僅かな時間でも、出来る限り長く共にいる方が良いのではないか。
そう思っての事だった。
だがシンは、力なく首を横に振った。
「今のユリアには、過酷な移動や環境の変化は命取りだ。それに無理に連れ戻したとしても、ユリアは直に・・・・・。皮肉なものだな。それを知って初めて、俺は自分の本当の気持ちに気付いた。」
「本当のお気持ち?」
「俺はただ、ユリアが微笑んでいてくれさえすれば良かったのだ。それがたとえ俺の隣でなくともな。
フッ、結局は俺もお前と同じ、愚かな愛に生きていたのだ。」
シンは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「KING様・・・・」
「それが分かった今、お前を抱く気にはなれん。」
それまで逸らしていた視線をに戻して、シンは小さく、だがはっきりとそう告げた。
シンの瞳は今まで見たこともない程儚く、そして何処か物悲しげな光を帯びていた。
なんと皮肉なことだろう。
二人の終末を意味する言葉を告げたこの瞬間に初めて、本心を打ち明けてくれるとは。
シンは、打ちひしがれ呆然とするの襟元をかき合せて、そっと押し付けた。
胸元に触れたシンの手の温もりが、どうしようもなく愛しくて、淋しい。
時が止まったように硬直していたは、その優しげな仕草に揺り動かされ、シンの手を掴んだ。
だが、シンはその手をやんわりと解き、またいつもの冷徹な口調に戻った。
「下らんお喋りが過ぎたようだ。だが一つ肝心な話がある。」
「・・・・何でしょうか?」
「、今日限りでお前はクビだ。ここを出てどこへなりとも行くが良い。」
「そんな・・・・!」
突然すぎる別離を言い渡されたは、激しく動転した。
「食料でも宝石でも、何でも欲しいものを持って早く出て行け。」
「嫌です!!そんなもの欲しくはありません!私はただ・・・」
「今後俺の前に姿を現すことは許さん。決して俺の邪魔をするな。」
「邪魔・・・・、何の事ですか?一体何をなさるおつもりですか!?」
「お前には関係ない。これは命令だ。出て行け。」
シンはの腕を掴むと、強引にドアに向かって引き摺っていった。
そしてドアを開けるとを放り出し、冷たく拒絶するような音を立てて再びドアを閉ざしてしまった。
「お待ち下さいKING様!KING様・・・!!」
何度呼びかけてもドアを叩いても、シンがそれに応えてくれることは二度となかった。
どうやって部屋まで戻ったか覚えていない。
気がついたらは自分の部屋にいて、声の限りに泣いていた。
どうして離れることなど出来よう。
こんなにも愛しているのに。
泣いて泣いて泣き疲れて、涙が枯れ果てた後、はゆるゆると立ち上がった。
許されずとも良い。
それでシンの怒りを買って殺されても構わない。
このまま彼を失うぐらいなら、むしろその方が良い。
は泣き濡れた瞳を拭うと、再びシンの部屋に向かった。