が去った後も、シンはまだユリアの部屋の前にいた。
ユリアが自分の立ち入りを認めていないことは承知している。
しかしシンはどうしてもユリアの顔が見たかった。
― 眠っている今なら、ユリアに気付かれる事もあるまい。
この目でユリアの様子を確認したい、そのささやかな願いが、シンの手をドアノブに掛けさせた。
空気を入れ替えたばかりの部屋は清々しく、穏やかな香りがする。
シンは足音を立てないように、ゆっくりと窓際のベッドに歩み寄った。
ベッドの上では、清潔な寝具に包まれたユリアが小さな寝息を立てている。
確かに衰弱の色は隠せないが、寝込んだ直後の顔色よりは幾分マシになっており、シンは安堵の溜息をついた。
そのまま床に両膝をつくと、穏やかなユリアの寝顔を更に近くで見つめる。
「ユリア・・・・・」
シンの呟きに反応するかのように、ユリアの顔が薄らと綻んだ。
そうだ、この笑顔なのだ。
これこそが、俺の望みなのだ・・・・
いつもそうだった。
この笑顔は、万人に向けられても、自分に向けられることはただの一度もなかった。
自分に向けられるものと言えば、悲しみ、蔑み、怒り、拒絶。
それが怖かった。
自分を否定され、心から拒絶されることが怖くて悲しくて、その度に苛立ち傷ついた。
だからたとえ無意識でも良かった。
こうして自分の前で笑顔を見せてくれた事が、シンにはこの上なく嬉しい事だったのだ。
シンはそっとユリアの頬に触れた。
するとユリアは、温かな感触を愛しむように僅かにシンの手に頬を寄せた。
その仕草に、シンの心は破裂しそうに昂り、抑えきれない愛しさがこみ上げて来る。
「ユリア、愛している・・・・」
心からの言葉と共に、シンはユリアの唇にそっと己の唇を重ねようとした。
今まさに触れようとしたその刹那、ユリアの唇からたった一言、言葉が漏れた。
「ケン・・・・」
最も愛しい女の口から最も憎い男の名を聞いた瞬間、シンの心は再び凍りついた。
目を見開き、近付けていた顔を離してユリアの寝顔を見つめる。
哀しく、絶望と怒りに満ちた目で。
何故だ、何故俺を見ない!?
こんなにも愛しているのに!!
狂いそうな程お前を求めているのに、何故お前は俺のものにならぬ!?
― お前は永遠に、ケンシロウのものだというのか!?
震える拳を握り締めて、シンはユリアの部屋を出た。
己の心の慟哭に気付くことなく眠るユリアを起こさぬよう、音を立てずに。
どんなに仕事に集中しようとしても、先程のシンの笑顔が頭から離れない。
あの時、自然と零れたシンの笑みが余りにも優しく、穏やかだったから。
普段の威圧的な表情とはまるで違う、深い愛を湛えていたあの顔を見たら、ユリアの心は変わるのだろうか。
見て欲しい。
そして彼の本当の姿を知って欲しい。愛を受け入れて欲しい。
そうすれば、彼はきっとこの上なく満たされる。
でも。
そう切望する心の片隅で、小さな嫉妬が息づいている。
― 二人が心から愛し合う姿を、私はきっと見ていられない。
シンは勿論、ユリアも自分にとって大切な人なのだ。
彼女の側にいるだけで心が安らぎ、優しい気持ちになれる。
自分が人間なのだという事を思い出させてくれる。
虫けらの如く扱われる力無き者にとって、彼女は人間の温もりを与えてくれるかけがえのない存在。
恋敵などと下世話な気持ちを抱いたことはないはず。
それなのに。
大事な者達を想い、その幸せを願う気持ちに偽りはないのに。
何故この心は満たされないと泣くのだろう。
この心は、なんと醜いのだろう。
その夜。
は全ての仕事を終えた後、シンの言いつけ通り彼の私室に来ていた。
ここに来るまでに、は散々悩んだ。
シンは自分の望むものを何でも与えると言った。
しかし、そんな事は有り得ない。
出来るはずがないのだ。
自分の望みは、シンがユリアを愛し続ける限り決して叶わないのだから。
は様々な思いに葛藤し、自己嫌悪に苛まれた。
そしてとうとう、それに負けてしまったのだ。
だからもう一つの望みを選んだ。
それは己にとってとてつもなく辛い事だが、ある意味一番楽になれる方法でもあった。
ある決意を胸に秘め、はシンの部屋のドアを叩いた。