その声に、はゆっくりと振り返った。
するとそこには、表情を険しくしたユダが仁王立ちで腕を組んでいた。
「大方城に戻ったのだろうと思って追いかけて来てみたが、やはりな。」
「ごめんなさい。」
「俺とした事が、完全にしてやられた。まさか貴女が俺の眠っている隙をついて、突然黙って帰るとは・・・・・・。どういうつもりだ?」
「許して。あの人の衰弱ぶりが酷くて、どうしても気になって・・・・」
「言い訳は無用だ。俺はいつも貴女に言い聞かせてきた筈だ。貴女はこの俺の妻だと。貴女が愛し案じるのは、この俺一人で良い。俺との時間より、憎い男を看取る方が大事だったというのか?」
そう言ってユダは、勢いを失い始めている炎を蔑むような目で一瞥した。
そんなユダの背後には、ダガールとコマクが影のようにつき従っている。
彼らがユダにハンスの死を伝えた事は、明らかであった。
「そんな薄汚い服を着込んで、そんな男を弔ってやるのか。ドブ鼠以下の男だぞ。」
「死者を弔う事は、生きている者の務めだわ。それに、死んだ人を悪く言うのは良くない事よ、ユダ。」
「その言葉は聞き流して差し上げよう。俺は南斗紅鶴拳伝承者、妖星のユダだ。その俺に知った顔で説教を垂れて無事でいられるのは、貴女が俺の最愛の人だからだ。でなければ、今この場で死んでいる。」
の予想通り、いやそれ以上に、ユダの怒りは激しいものだった。
「俺が聞きたい言葉は只一つ、俺を愛しているという言葉だ。今すぐに俺の手を取り、その汚い服を着替えて俺と共に部屋に戻るというなら、今夜の事は全て水に流そう。」
「あなたを愛しているわ。でもお部屋へは後で行きます。あなたは先に戻っていて。」
ユダは片眉を吊り上げて、をじっと見据えた。
「俺は今すぐに、と言ったのだが?」
「それは出来ないわ。後で必ず行きますから、あなたは先に。」
ユダから剣呑な目で見つめられても、の心は不思議と静かだった。
皮肉な事に、ここへきて初めて迷いという名の霧が晴れていた。
「それでも駄目だというなら、私を殴ってでも蹴ってでも、殺してでも・・・・・・、連れてお行きなさい。」
の、静かだが一歩も退かない強さの篭った言葉を聞いて、ユダは僅かに歯軋りをした。
「・・・・・・・逃がしはしないからな、。貴女は俺のものだ。」
「逃げないわ。」
ユダは苛立たしそうにマントを翻すと、ダガールとコマクを突き飛ばすようにして城内へと歩き去って行った。
ダガールとコマクは、暫しユダとをオロオロと見比べていたが、やがてユダの後を追って城内へと足早に消えて行った。
「逃げないわ・・・・・・・」
再び誰も居なくなった城の庭に、の呟きだけが静かに響いた。
やがて辺りに朝靄が立ち込め始め、城にはいつもと変わらない一日が訪れていた。
「奥方様・・・・・・・」
「奥方様だ・・・・・・」
既に床から起きて、いつも通り一日の支度を始めている下男下女達が、城の中を歩くの姿を見て、驚いたように目を丸くしている。
いつも美しく着飾っている奥方様が、どうしてボロなど纏っているのかと。
しかしは彼らには目もくれず、ただまっすぐにユダの居る部屋を目指した。
「やっと戻って来たか。」
部屋の中には、瞳を油断なく光らせたユダが居た。
ユダは腰掛けていたソファから立ち上がると、のすぐ目の前まで歩み寄って来た。
「それで?満足のいくように弔ってやれたのか?」
「ええ。」
ユダの皮肉混じりの微笑をまっすぐに受け止め、はコクリと頷いた。
「ではこれで、貴女の心配事は何一つ無くなったという訳だ。」
「そうね。不思議よ、私今、とてもすっきりとした気分だわ。」
「さもあろう。憎い男が死んだのだから。これで完全に貴女とあの男との縁は切れた。貴女は心置きなく、この俺の妻になれるという訳だ。」
ユダは口元を吊り上げると、の肩を抱き寄せようとした。
しかしは、その手をそっと振り解いた。
「あなたの言う通りよ。これで私とあの人との縁は完全に切れたわ。妻としての最後の務めも果たしてあげられた。でも私は、あなたの妻にはなれない。」
「フッ、冗談にしても些か過ぎるな。挙式まであと一月程なのだぞ?今更何を・・・」
「勝手を言っているのは承知しています。どうか許して。」
「・・・・・・・・・・・何故だ。俺を愛していると言ったではないか。」
「愛しているわ、ユダ。あなたは私の大切な弟で、家族で、友達で・・・・・、恋人だった。色々な意味で、あの人よりも愛していたわ。それは変わらない事実よ。」
「ならば何故・・・・」
「気付いたの。」
はユダから一歩距離を置くと、穏やかな表情で口を開いた。
「自分の考えや理想だけに囚われて、肝心の相手を見ようとしない事が、どれ程いけない事だったか。」
「・・・・・何を言っているのか分からんな。それは誰の事だ?」
「あの人の事よ、いえ・・・・・、あの人の事だと思っていた、今までは・・・・・。けれど気付いたの、それは私も同じだったという事に。」
それはハンスが死んだ今になって、初めて気付いた事だった。
ハンスと暮らした十年は、確かに辛い日々だった。
妻とは名ばかりの飾り物・奴隷にされ、夫であるハンスにもその両親にも、一人の人間として向き合って貰えた事はなかった。
しかしそれはお互い様だったのだ。
「私は確かにあの人とあの人の両親に軽んじられ、虐げられた日々を送ってきたわ。妻とは名ばかりだった。けれどあの人は今際の際に、本心を打ち明けてくれたの。本当は私を愛していたと。」
「愚かな。そのような言葉、死にゆく者の戯言よ。まさかそれを真に受けたのか?」
「これから死ぬという時に、嘘をつく人がいるかしら?少なくとも私には、本心に聞こえたわ。」
「もう良い。そうであれどうであれ、全て今更だ。」
「そう、全てが今更よ。でも私は気付いたの。愛してもいない人に嫁がされ、私は初めからあの人を警戒していた。妻として尽くそうとはしたけれど、心を開こうとはしなかった。あの人の両親が私に辛く当たる毎に、余所余所しかったあの人が更に余所余所しくなっていくにつれて、私も益々心を固く閉ざすようになっていった。」
互いに互いの事を何も知らないまま始まった結婚生活、それが事の発端だったとすれば、
決定的な原因は、互いに自分の思い込みに囚われ、思い描いていた理想通りにいかない現実に打ちのめされて、それぞれの殻に閉じ篭り歩み寄れなかった事だ。
それでは何も分からないまま、永遠に歯車が噛み合わないまま、どんどんすれ違ってゆくのも無理はない。
そしてそれは、どちらか一方だけが原因ではなかった。
歩み寄るという行為は、どちらか片方が相手に近付く事でもあるが、夫婦はそれでは成り立たない。
互いが互いの方向を向いて歩いて行くから、『歩み寄る』事になるのだ。
はそれに、ハンスが死んで初めて気付いたのであった。
「私とあの人はお互い様だったの。恥ずかしいわ、こんな歳になるまでそんな事が分からなかったなんて。あの人が死ぬまで分からなかったなんて・・・・・」
ハンスの死から得たものは、にしてみればとてつもなく大きな意味をもつものだった。
しかしユダにとってみれば、それは何の意味も成さないものであった。
が過去の自分に非を見つけたからとて、二人の結婚には何ら関係のない話である。
それが何故結婚出来ない事になるのか。
ユダは不愉快そうに眉を顰め、に問いかけた。
「それでどうして俺との結婚が出来なくなる?どういう理屈でそうなるのか、俺に分かるように説明して欲しい。」
「ユダ、あなたも同じなのよ。今のあなたも、何も分かっていなかった私やあの人と同じ・・・・・・。」
「何?」
ユダは不快の混じる声音を取り繕おうともせず、に詰め寄った。
「俺とあの男の何が同じだ。俺が何を分かっていないと言うのだ。俺は貴女の事なら何だって分かっている。貴女の性格、癖、好み、全て。昔から貴女だけを見てきた俺程、貴女に近い人間は居ない。俺程貴女を知る人間は居ないのだぞ。」
「そうね。私達はお互いの事を幼い頃から知っている。だから、お互いの事は何だって知っていると思っている。でもユダ、それは思い込みなのよ。」
「どこが思い込みだ!真実ではないか!」
ユダがとうとう声を荒げたにも関わらず、は落ち着いた静かな口調で諭すように言った。
「思い込みなのよ、ユダ。あなたは私の事を何も知らない。あなたが知っているのは、十年前の私。あなたと杏林で無邪気に遊んでいた、少女の頃の私なの。」
「違う!」
「いいえ、そうよ。十年の歳月を重ね、心に醜いものを抱えた現実の私を、あなたは見ていない。」
「違う・・・・・!」
「あなたが追い求めているのは、あの頃の私よ。澄んだ無邪気な心であなたと遊び転げていた、あの頃の私。あなたは生身の私を、あなたが作り出した理想の私に当て嵌めようとしている。」
「違う!!」
ヒステリックに叫んだユダは、青ざめた顔での肩を強く掴んだ。
「どうしたんだ、!?何故そんな事を言う!?俺の作り出した理想だと!?貴女はあの頃の俺達を否定するのか!?貴女はいつだって俺の事だけを見てくれた、結婚の約束だってしたではないか!!あれは全て現実だった、それを否定するのか!?」
「あなたの言う通り、あの頃の思い出は本物だわ。」
「だったら、それを追い求めて何が悪い!?」
「あれは思い出よ、過去だわ。今の私達は、あの頃の私達とは違う。あなたが幾らあの頃の私達を追い求めても、もう二度と過去には戻れないわ。違うかしら?」
「っ・・・・・!」
言葉に詰まって強張ったユダの手を、はそっと肩から離した。
「私はもう、あの頃の私ではないわ。そしてあなたも、あの頃のあなたではない。私もあなたの事、何一つ知らないの。」
「そんな事はない・・・・・・・!こんなに側に・・・・・・」
「いつもこんなに側に居ても、愚かな私には何一つ分からなかった。あなたが何を考え、何をしていたかを。」
「・・・・・・何だと?」
「あの人の両親を、あなたは殺したそうね。」
悲しげに呟いたに、ユダはハッとして顔を輝かせた。
まだチャンスがあると思ったかのように。
「それか!?それで俺を恐れたからか!?それなら誤解だ、!あれは貴女の仇討ちだ!あの頃の貴女と俺の無念を晴らしただけだ!只の殺戮とは違う、正当な理由があるだろう!?何も怖がる事はないんだ!」
「そうじゃないわ、ユダ。理由はさっき言った通りよ。あなたは私の事を何も知らず、私もまたあなたの事を何一つ知らなかった、こんな風にね。大切な家族だったあなたへの情とあなたの優しさに流されて、私はまた同じ過ちを犯すところだった。あの人の時と同じ過ちを・・・・・」
は、固く握られたユダの拳を取り、両手でふわりと包み込んだ。
「許して、ユダ・・・・・・・」
の何処か悲しげな声に、ユダの瞳から一粒、二粒と涙が零れた。