「・・・・・・・せるものか・・・・・・・・」
「ユダ・・・・・・・・・・」
「許せるものか!!」
ユダは溢れる涙を拭おうともせず、の手首を強く掴んで自らの方に引き寄せた。
「貴女はまた俺から去って行くのか!?俺はこんなにも貴女を愛しているというのに!!」
「・・・・・・あなたの気持ちはとても嬉しいわ。私だってあなたを愛している。あなたは私のかけがえのない家族よ。だけど、私は人形でも空想の中の人間でもない。生身の女なの。あなたの思い通りに生きてあげる事は出来ないわ。私には私の意思がある。」
「だから俺は、貴女の意思を尊重すると・・・・・!」
「あなたの元を勝手に抜け出し、あの人を看取った事も私の意思だったわ。そして、あなたの妻にならないと決めた事も。」
「っ・・・・・・!」
言い負かされて言葉に詰まったユダの手を、はもう一度そっと解いた。
そして、ユダの頬を伝う涙の筋を冷たい指先で拭った。
「あなたの側に居て、あなたの好みの装いをし、あなたの望む通りに生きていれば、私は多分幸せになれるのでしょうね。生きていくのに何の心配もせず、愛され護られて・・・・・。それに勝る幸せはないと言った人も居たわ。」
「・・・・・・・・・」
「けれど、私は飾り物じゃない。何も出来ずただ流されていては、後で必ず後悔する。私はもう二度と、自分の人生を後悔したくないの。」
優しげな仕草とは裏腹に、の言葉はどこまでも毅然としていて、ユダを完膚無きまでに叩き伏せていた。
再会し、結ばれてから以降は、頼りなげな年下の少女を庇護するが如く愛してきたというのに、今はそれが叶わない。
今のは幼かったあの頃と同じ、大きく絶対的な存在になって、我侭を言う幼い弟を諭し窘める姉そのものであった。
「俺と生涯を共にすれば・・・・・、後悔する事になるというのか?」
「・・・・・分かって、ユダ。」
「俺の元を離れて・・・・・、どうするというのだ?」
「ひとまず村に帰って、あの人の遺骨を彼の両親の隣に葬ってあげてから、何処かで一人で生きてみるわ。」
「女一人、この乱世でどうやって生きていく?飢えるかも知れん、殺されるかも知れん。それでもここを出て行くというのか・・・・・?」
「ええ。」
何の迷いもなく、が頷く。
一点の曇りもないその表情は、ユダに打つ手はないと告げたに等しかった。
「・・・・・・・・・行かせない・・・・・・・」
「ユダ・・・・・・・」
「行かせるものか・・・・・・・・・・・、貴女をもう一度失う位なら・・・・・・・・・・、いっそこの手で・・・・・・・・・・殺す・・・・・・!」
もうどうにもならないと自分で認めてしまったからこそ、気持ちは昂り逆上する。
ユダは泣き濡れた顔を震わせて、を指差した。
「そして貴女を・・・・・・、永遠に俺のものにする・・・・・・!」
この指を一閃させれば、は成す術もなく切り裂かれるだろう。
紅薔薇よりも美しい深紅の鮮血を迸らせて。
その瞬間、この指先は、この身体は、愛しい者の血で紅く美しく染められる。
ユダはゴクリと喉を鳴らし、震える指先をに突きつけた。
「貴女は永遠に・・・・・・、俺のものなのだ・・・・・・!」
だがは、一向に動じなかった。
僅かに顔を強張らせてはいるが、恐怖に顔を醜く歪める事も、助けを求めて泣き叫ぶ事もしない。
ただ青ざめた顔でじっとユダの目を見つめて、身じろぎ一つしないままだ。
まるで、ユダの拳を受け止めねばならないとでも思っているかのように。
「・・・・・・・・・!」
この指を一閃させれば、は成す術もなく切り裂かれる。
その瞬間、この指先は、この身体は、愛しい者の血で彩られる。
初夏の太陽を思わせる笑顔も、さくらんぼのような唇も、杏の香りのする思い出も、全てが鉄臭い血に塗れる。
愛しいの血と、気の狂いそうな罪の意識で紅く染まる。
「くぅっ・・・・・・・・!」
ユダは喉の奥から搾り出すような呻き声をあげると、に背を向けた。
「・・・・・・ユダ・・・・・・?」
「行け・・・・・・・、何処へなりとも行くが良い・・・・・・!」
吐き捨てるようなユダの言葉を聞いた瞬間、は一筋の涙を零した。
ユダを傷つけた事に対する罪の意識の涙なのか、ユダとの永遠の別離を悲しむ涙なのか、それは自身にも分からなかった。
「・・・・・・・ごめんなさい、ユダ。どうか許して・・・・・・・」
「早く行け・・・・・・・!」
「身体にだけは・・・・・・、気をつけて・・・・・・・」
はそれだけをユダの背に言い残すと、ボロを纏ったそのままの姿で部屋を出て行った。
「奥方様・・・・・・・」
「奥方様・・・・・・・」
階段や廊下を歩くにつれて、辺りに居る下女達が心配そうに声を掛けてくる。
そんな彼女達に向かって、は軽く頭を下げた。
「今までお世話になりました。私は今日限りでこの城を出ます。だからもう、私を奥方様とは呼ばないで下さい。」
「えぇっ、そんな・・・・・・!」
「何故急に・・・・・!?お式まであとほんの一ヶ月程だというのに・・・・・」
「本当にごめんなさい、色々と準備して頂いていたのに・・・・・。あなた達も、どうかお元気で。」
ささやかな親交を結んでいた下女達と別れの挨拶を交わしていると、何処からかダガールとコマクもやって来た。
「そのご様子では、行ってしまわれるのですかな。ほんに勿体無いお話で・・・・・」
「後悔はなさいませんな?」
「ええ。お二人にも、色々とお世話になりました。有難う。」
少し皮肉めいた台詞を吐くコマク、そして念押しするようなダガールにも一礼し、はそれぞれと形ばかりの握手を交わした。
「・・・・・お二人に、最後のお願いがあります。」
「何でしょう。」
「彼の事、どうか宜しくお願いします・・・・・。闘いで命を落とす事などないように、どうぞ・・・・・・、宜しくお願いします。」
「ご心配には及びません。ユダ様のお力とお知恵に敵う者などおりませぬからな。このコマクが保証致します。」
「・・・・・そう、それを聞いて安心しました。」
「お元気で。」
「ダガールさんも。」
城の者達との別れを済ませたは、そのまま振り返る事なくユダの城を出た。
来た時と同じく、何一つ持たずに粗末な身なりで、小瓶に詰めたハンスの遺骨だけを連れて。
が行ってしまう。
夜の闇が明けたばかりの荒野の砂を、一人で踏みしめながら。
永遠に、行ってしまう。
「・・・・・うわああぁぁぁぁ!!!!」
果ての見えない荒野に向かって歩き出しているの後姿を部屋の窓から見つめながら、ユダは声の限りに叫んだ。
「あああッ、うぐあぁぁぁーーーーッッ!!!!」
泣き叫びながら、行き場のない想いを部屋中の物にぶつけて回った。
テーブルセットを蹴り倒し、カーテンを引き千切り、花瓶を床に叩き付け、部屋中の鏡という鏡を砕いて回った。
そうでもしていないと、痛みで心がバラバラになりそうだった。
とても正気を保っていられそうにはなかった。
「ううっ、ぐぅっ・・・・・、おおおおおッッ・・・・・・・!!!」
咽び泣きながら、クローゼットに掛かっていたウェディングドレスも力任せに引き裂いた。
何かにとり憑かれたように、狂気じみた乱暴な仕草で。
本当なら、間もなくが着る筈だった純白のウェディングドレス。
ついこの間まではそれを見るだけで胸が躍ったというのに、今は胸が抉られるような気分になる。
早く壊してしまわなければ、気がどうにかなりそうだった。
「ハッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ・・・・・・!!」
やがて、目につくもの全てを粉々に打ち砕いてから、ユダはようやく破壊を止めた。
そしてその場に、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
それからどれ程の時間を、その場に座り込んで過ごしたのだろうか。
気付けば部屋には、夕方の西日が深々と差し込んでいた。
「俺は・・・・・・・、幻を追っていたのか・・・・・・?」
何の返事も返っては来ない空に向かって、ユダは低く呟いた。
「あれは・・・・・・、幻影だったのか・・・・・・・?」
荒れに荒れた室内は、が居た痕跡を見事なまでに塗り潰してしまっている。
のドレスやジュエリーは全て原型を留めないゴミ同然の状態になっていて、最早それを着けていたの姿を思い出させる事も出来ない。
こうなった今、がこの城に居たのは幻だったかのように思える。
― あなたは生身の私を、あなたが作り出した理想の私に当て嵌めようとしている。
「理想の・・・・・・・、・・・・・・・・・」
やけにはっきりと心に残っていたの声を、ユダは口に出して蘇らせた。
理想とは何であろうか。
優しく気高い、いつも自分だけに向けてくれたの美しい微笑みは、紛れもなく現実のものだった。
幼い頃一瞬にして心を奪われた、初夏の太陽のような眩しいあの煌きは、確かに本物だった。
「貴女は・・・・・・、誰より美しい筈だ・・・・・・」
目を覆いたくなるようなボロを着て、自らの心に醜いものを抱えていると言った。
そして、その姿で自分を捨てて去って行った。
本当のが醜く冷たい筈はない。
むしろ今朝のの方が幻だったのではないだろうか、あれは幻覚・幻聴だったのではないかと考え込むにつれて、そんな疑念が確信に変わっていくのをユダは感じていた。
「あれは幻だ・・・・・・・・、そうに違いない・・・・・・。何故なら貴女は・・・・・・」
ふと視線を落とした先に、踏みつけられて潰れてしまったのルージュが転がっているのを見つけ、ユダは何気なくそれを手に取った。
それは力任せに踏んだせいで容器が完全に潰れていて、中身を繰り出す事が出来なくなっていたが、ユダはそこに自らの小指を差し込むと、ルージュを指先に認めて唇に塗りつけた。
上唇にも下唇にも、丁寧に。
― 貴女は・・・・・・・・・
「・・・・・・・・ほら、こんなに美しい・・・・・・・・・・・」
割れた鏡の破片には、ワイン色のルージュが引かれた唇を艶然とした微笑の形にしているユダ自身が映っていた。
しかしユダには、自らの姿に重なるようにして微笑むが見えていた。
たとえ幻が何と言おうが、これが己にとってのなのだ。
花のように優美で、視線を向ければいつでも優しく微笑んでくれる。
これこそがなのだ。
「貴女が何と言おうが、何処へ行こうが、貴女は俺の側に居る。貴女は俺と一つになっている・・・・・・・」
ルージュで彩られた唇を指でなぞりながら、ユダは鏡に向かって穏やかに呟いた。
「だから俺達は永遠に・・・・・・・、離れる事はないんだよ、・・・・・・・・・」
それから幾年かが過ぎた。
乱世は決して統治される事なく、世界は相変わらず恐怖と絶望に塗れている。
そんな世に似つかわしくない豪奢な造りの城に、男は居た。
「お前達、俺は美しいか。」
艶やかな長い赤毛を掻き上げて、鍛え抜かれた見事な肉体を惜しげもなく晒す男に、絹糸のような髪と玉のような肌をした何人もの美女達が、繊細なドレスの裾を抑えて傅く。
所有の証である『UD』の紋章を肩に押された女達を満足げに一瞥し、男は言った。
「そう、俺はこの世で誰よりも強く・・・・・・・、そして美しい。」
飛ぶ鳥を落とす勢いでこの乱世に名を轟かせている己以上に強い男など、ましてや世界で一番美しい女と共に生きる己に勝る美の持ち主など、この世の何処を捜しても居ない。
念入りに化粧の施された男の顔には、その自信がありありと溢れていた。
「この俺を愛する資格を持って生まれた事を感謝しろ。そして、その紋章に懸けて俺を愛せ。」
しかし男は気付いていない。
今も自らの内に宿る女の面影に囚われ、失くした愛の幻を知らず知らずの内に探し求めて彷徨っている事を。
巷で評判の美女を何人攫って来ようとも、心が満たされる事なくすぐに飽きてしまうのは、彼女らが評判程美しくないからではなく、自らの中にある幻が余りにも大きく眩しすぎるからだという事を。
「はい、ユダ様。」
男はそれに気付かない。
何故ならその幻は、男にとっては真実だったのだから。
このユダにとっては、その失われた幻こそが、唯一無二の愛だったのだから。