ハンスの口からその名を聞いたは、顔を強張らせて沈黙した。
そんなに、ハンスは静かに語りかけた。
「俺が・・・・・、畑仕事から戻った時・・・・・、既に両親は・・・・・、ユダの足元で事切れていて・・・・・・。そして奴は俺にも・・・・・・、この傷を・・・・・・・」
「ユダが・・・・・・!?そんな、何故・・・・・・・」
「お前を奪われた恨みだと・・・・・・・。ならば・・・・・、何故俺も殺さなかったのか・・・・不思議だったが、・・・・・フフッ、奴はどうやら・・・・・、俺には惨めな生き恥を・・・・・晒させたかったらしい・・・・・・」
自嘲めいた笑いを零す余裕さえあるハンスとは対照的に、は言葉も出ない程のショックを受けていた。
かつてどれ程苦しめられ、憎んだ相手だとしても、殺されて良かったという事はない。
ここはユダの代わりに彼の犯した罪を懺悔するべきかとも考えたが、これはただ詫びるだけで済むような問題ではなかった。
命を奪ってしまったのだから。
直接手を下したのはユダであっても、彼を駆り立てた原因は自分なのだから。
「あなた・・・・・・・、私・・・・・・、私・・・・・・・、何と言って良いか・・・・・」
「良いんだ・・・・・」
「え?」
両親を殺されて、良いという事はない筈だ。
とすれば、『お前に謝って貰っても仕方がない』と思っているのだろうか。
驚き戸惑いつつも、その言葉の意味を考えあぐねているに、ハンスは再び同じ言葉を繰り返した。
「良いんだ・・・・・。ああなって何処か・・・・・・・、ホッとしたんだ・・・・・」
「ホッと・・・・・・した?」
「二人の遺体を見て・・・・・・、勿論悲しかったけど・・・・・・、弔った後・・・・・・、墓の前でふと・・・・・・思ったんだ・・・・・・。俺はようやく・・・・・自由になれた、と・・・・・・」
「自由・・・・・・・」
「枷がなくなって・・・・・、俺が最初に考えたのは・・・・・、お前の事だった・・・・・・。それで俺は・・・・・・、お前に会いに行く事を・・・・・、決めた・・・・・・。ただ・・・・その自由が・・・・・、両親の死をきっかけにしたものでなく・・・・・・、俺自身の力で・・・・得る事が出来ていたものだったら・・・・・・、もっと・・・・・・・・・喜べたんだろうな・・・・・・。それだけが・・・・・、心残りだ・・・・・・」
そう言って、ハンスは不意に鉄格子の隙間から手を差し伸べて来た。
「もっと早く・・・・・・、お前が側に居た内に・・・・・・、俺自身の力で・・・・・・・」
「あなた・・・・・・・・」
「俺は結局最後まで・・・・・・、自分の力では・・・・・、何一つ出来なかった・・・・・・。お前の夫にもなれず・・・・・、一人前の男として・・・・両親から巣立つ事すらも・・・・・、親の仇である・・・・・ユダの力を借りて・・・・・・。フッ・・・・・・、情けない男だった・・・・・・」
ハンスの弱々しい手が、握手を求めているように見える。
は躊躇いながらも、恐る恐るその手を取った。
考えてみれば、こうして手を取り合ったのは初めてだった。
「ああ・・・・・・・・、温かいな・・・・・・、お前の手は・・・・・・。知らなかった・・・・・・。もっと早く・・・・・・・、こう出来ていたら・・・・・・・」
「あなた・・・・・・・?」
「お前には・・・・・・、本当に悪い事を・・・・・・した・・・・・・。済まな・・・・・かった・・・・・・」
「・・・・・・あなた!?」
ハンスの異変に気付いたは、緊迫した面持ちでハンスの手を揺さぶった。
「あなた、どうしたの!?あなた!!」
「お前には・・・・・・・、何もしてやれなかったが・・・・・・、せめてこれからは・・・・・・お前の・・・・・思う通りに・・・・・・・生きてくれ・・・・・・」
「あなた、あなた!!しっかりして!!」
「俺のように・・・・・・・、後悔ばかりの・・・・人生には・・・・するな・・・・・・」
「もう喋らないで!!今すぐにお医者様を・・・・」
知らず知らず視界が滲んで来る。
は涙声になりながら、ハンスの手を離して助けを呼びに行こうとした。
しかし、ハンスの手は離れず、は困惑しながらハンスを諭そうとした。
「あなた・・・・・・・、あなた、少しだけ待っていて!すぐにお医者様を・・・・!」
「何処にも・・・・・・行かないで・・・・・・く・・・・れ・・・・・・。ここに・・・・・・・・」
「あなた!?」
「本当に・・・・・・、温かいな・・・・・・、お前・・・・・・の・・・・・・手・・・・・・・」
固く握っていた手から、力が抜けていく。
こちらを見ていた瞳の光が、次第に鈍く消えていく。
それは即ち、ハンスの死を意味していた。
「・・・・・・・・・・・あなた・・・・・・・・・?」
がそれに気付いたのは、ハンスの瞳がぴったりと閉じられた後の事であった。
その手は、どれだけ握り続けていても、決して温まる事はなかった。
生ける者の温もりは、移す端から氷の肌に吸い取られ、儚く消えてゆく。
やがて与え得る温もりも尽きてきた頃、はそっとハンスの手を離した。
「あなた・・・・・・・」
もう物言わぬハンスにそっと呼びかけたその時であった。
急に辺りに、仄かな光が差し込み始めた。
「・・・・・・・・奥方様。」
背後から呼びかけてきたのは、松明を持ったダガールとコマクであった。
「ダガールさん、コマクさん・・・・・・・、どうして・・・・・・」
「城の扉が開かれた気配がしましたので、もしや、と。こんな夜更けにお一人でお戻りですかな?」
「そのようなお姿で・・・・。ユダ様がご覧になれば何と仰るか。ともかくこれを。この寒さがお体に障るといけません。」
二人は表情を険しくして、ひとまずに持参していたストールを差し出した。
はそれを黙って受け取りはしたが、身体に巻きつける事はせず、それを見たダガールは、一層苦々しい表情をして溜息をついた。
「ユダ様とのご旅行を抜け出してまで、それ程にこの男を?ユダ様がこの事をお知りになったら、如何に奥方様と言えども只では・・・・・」
「二人にお願いがあります。この人を弔いたいのです。ここから出してあげて下さい。」
「奥方様・・・・・!」
ダガールの脅し文句など、には通用しなかった。
只では済まない覚悟ぐらい、ユダに黙って抜け出すと決めた時からとうにしていたのだから。
「奥方様、貴女様というお方は・・・・・!勿体無い程のユダ様のご寵愛を一身に受けながら、この男に未練がお有りだと仰せですか!?」
「ご自分のお立場を弁えなされ!如何にかつて亭主だった男とはいえ、今の貴女様は南斗紅鶴拳伝承者・ユダ様の妻なのですぞ!!お分かりですか!?」
ダガールとコマクの叱責を顔色一つ変えずに聞き終えた後、は静かに呟いた。
「・・・・・この人が私の夫だった事、あなた達もご存知だったのね。どうして?」
「そ、それは・・・・・・!」
「・・・・・良いわ、無理に答えなくても。今更訊いても意味のない愚問ですものね。けれどあなた達は、一つ勘違いをしているわ。」
「我々が、何を?」
「この人に未練があるだのないだの、私はそんな理由でここへ来た訳ではありません。」
それ以上の弁解は一切せず、は立ち上がって二人に歩み寄った。
「彼は亡くなりました。死者は弔うものです。早くこの冷たい牢屋から出して上げて下さい。」
「なりませぬ、奥方様!!」
「後生ですから、我々をこれ以上困らせないで下され!!」
「早くなさい!!!」
初めて聞いたの怒鳴り声に酷く驚いたのか、ダガールとコマクは目を丸くして硬直した。
実のところ、誰より驚いていたのは本人だったのだが、はその勢いのまま二人の顔をじっと睨み付けた。
「うぐぐ・・・・・・、わ、私は知りませんぞ・・・・・!」
「て、手はお貸し出来ませぬからな・・・・・、お一人で出来るものならやってご覧なされ・・・・」
二人はユダの怒りを恐れる余り逃げ腰になりはしたが、それでも何とか牢屋の鍵だけは開けてくれた。
は今初めて開かれた扉の内側に入り、ハンスの亡骸にそっと触れた。
こうして彼の身体に触れる事など、何年ぶりだろうか。
それでも、かつての記憶にある彼の身体には、確かに生命の温もりが宿っていたのだが、今では冷たく凍りつき、随分と痩せ細ってしまっている。
は瞳を閉じて、その冷たさを暫し噛み締めた後、ゆっくりとハンスの身体を支えて起こした。
「奥方様、無茶をなさいますな!」
「意地をお張りにならず、そのような小汚い男の死体など捨て置きなされ!」
「平気です。」
元がそう大きくない体格であったハンスの、抜け殻のような遺体は尚の事軽く、一人でも運ぼうとして運べない事はない重さである。
やきもきしているダガールとコマクをその場に残し、はハンスを連れて一歩一歩地上へと続く階段を踏みしめていった。
それからの事は、自身も良く覚えていなかった。
しかし、半分放心しながらでも、準備は一人できちんと整えられていたようだ。
ふと気付けば、ハンスの亡骸は真っ赤な炎の中にあった。
城の中からは、誰も出て来ない。
召使も兵士も、ダガールもコマクも。
共にハンスを見送ってくれる者など誰一人としていないまま、は一人、ハンスが天に還るのを見届けていた。
しかし、涙は出ない。
仮にも十年という年月を共に過ごしてきた夫が、つい先程『お前を愛していた』と言った夫が、目の前で灰になっていくのを見つめていても、不思議と悲しみが湧かなかった。
『私もあなたを愛していました』の一言ぐらい、嘘でも死者への餞として捧げてやるのが妻だった者としての優しさかも知れないが、にはどうしても言えなかった。
全てが終わってしまった今となっても、ハンスを愛していたとは思えないからだ。
過去は決して塗り替える事など出来ない。
十年の間に舐め続けた苦しみと悲しみは、今すぐにおいそれと忘れる事が出来る程根の浅いものではなかった。
己の理想や世間体などのしがらみだけを大切にしていた男、それがの知るハンスであったからだ。
妻の悩みや不安に耳を貸すどころか、一人の人間として向き合おうともしない。
それでいて、不仲である事を周囲に悟られるのは恥と考え、公の場には妻の意思など関わりなく、強引に引き摺り出していた。
そしてそれは、『妻たるもの、いついかなる時でも夫とその両親に黙って従い尽くすべき』という彼の両親の教えによるところも大きかった。
思いやりも労りも与えられず、朝から晩まで牛馬の如くこき使われるのは、どれ程の苦痛か。
意に副わぬ事を当然のように強制され、体裁の為だけに夫婦でいさせられる事が、どれ程辛く虚しい事か。
何より、妻とは名ばかりの飾り物・奴隷にされ、一人の人間として向き合って貰えない事が、どれ程悲しい事か。
この十年、そう嘆く事なら何度もしてきた。
しかしよく考えてみれば、その一歩先の行動を起こした事はなかった。
疎まれても、拒まれても、言うだけ無駄だと諦めずに、正面からぶつかる事が出来ていたら。
「そうね、あなたの言う通りね。もっと早くに出来ていたら・・・・・・」
そろそろ燃え尽きそうな炎をぼんやりと見つめながら、が小さく呟いたその時だった。
「。」
背後から、ユダの声が聞こえてきたのは。