まだ冷たい風の吹きすさぶ夜の荒野を、艶々とした栗毛の馬が、一人の女を乗せて駆けていく。
夜露に湿った砂を蹴立て、全速力で。
走って、走って、
走って、走って。
が城に辿り着けたのは、真夜中を過ぎての事だった。
城門の前には、真夜中だというのに爛々と目を光らせた門番が立ちはだかっている。
彼らは数人でローテーションを組み、24時間体制で城門を守っているのだ。
目を盗んで城門を潜る事は不可能、それ以前に、厚く大きな重い鉄の城門を、女の力で開く事自体が不可能である。
また、乗り越えようにも城壁は高く、他に出入り口もないとなれば、が取るべき行動は一つだけだった。
「ご苦労様です。」
「なぁにぃ?女、誰だお前は!?」
「私です。です。」
は堂々と門番の前に馬を止めると、毅然とした表情で彼に言い放った。
夜の帳に視界が遮られている中、を着ているものだけで判断していた門番は、慌てての顔を確認し、驚きの余り目を見開いて叫んだ。
「おっ、奥方様!?そのお姿は!?このような夜更けにそのようなお姿で突如ご帰還とは一体・・・!」
「門を開けて下さい。皆寝静まっているでしょうから、静かに。私の帰城を皆に報せる必要はありません。」
「しかし奥方様・・・・・・!ユダ様はどちらに!?」
「彼はまだあちらのお屋敷にいます。心配するような事は何もありません。さあ、早く門を。」
「しかし・・・・!」
「開けて下さらないの?あなたは、私にここで凍死しろと?」
脅すような言い方はしたくなかったが、やむを得ない。
は初めて見せるような高圧的な表情で、門番の顔をまっすぐに見つめてそう言った。
ユダがいつも『そうであれ』と言い続けている、高貴な厳しい表情で。
「うぐぐ・・・・・、い、今開けます・・・・・」
「有難う。」
完全に気圧された門番は、躊躇いながらも城門を開け、その隙間が人一人分程の幅になった瞬間、はそこから身を滑り込ませて城内へと駆けて行った。
暗く静まった城内を、は地下牢目指して駆け進んだ。
「あなた!!」
一条の光も射さない完全な暗闇を、は勘だけを頼りに、ハンスの収容されている牢獄へと進んだ。
「あなた、あなた!?居るの!?」
大声で呼びかけると、暗闇の中から確かに一瞬、微かな呼吸音が聞こえた。
「あなた・・・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・か・・・・・・・?」
「あなた・・・・・!?」
その後ようやく確認出来たハンスの声は、ぜいぜいと息を吐く音の方が大きい位に弱々しかった。
以前より明らかに悪くなっているようだ。
目が早く暗闇に慣れるように願いながら、は恐らくハンスが居るであろう場所を凝視した。
「どこか苦しいの!?気分は!?」
「もう・・・・・・・・、来ないと・・・・・・・・、思っていた・・・・・・」
「ごめんなさい、遅くなって・・・・・。今すぐに、何かお薬を・・・・・!」
「もう良いんだ・・・・・・・、もう・・・・・・・、良い・・・・・・・」
ハンスの深呼吸が一度聞こえた後、二つの鈍い光が不意にをじっと見据えた。
それは瞼を開けた、ハンスの瞳の光だった。
「何処へも行かないで・・・・・・・、ここで・・・・・・、俺の話を・・・・・、聞いてくれ・・・・・・」
「でも・・・・!」
「頼む・・・・・・・・」
「・・・・・・・・分かり・・・・ました・・・・・・」
縋るようなハンスの瞳に負けたは、覚悟を決めてその場に腰をゆっくりと下ろした。
「俺は・・・・・、お前を・・・・・愛していた・・・・・・・」
「え・・・・・・?」
「お前は・・・・・・、信じてはくれないだろうな・・・・・・。けれど俺は・・・・・・、初めてお前を見かけた時から・・・・・・・・、お前に心を奪われていた・・・・・・・」
「・・・・・・あの日の、お見合いの事?」
「いいや・・・・・・、俺はそれより少し前に・・・・・・、お前の義父上に商談があって・・・・・、父と共にあの屋敷を尋ねた事があった・・・・・・・。その時だ・・・・・・。」
今初めて聞かされた過去の出来事に、は驚いた。
少なくとも、は見合いの席までハンスと会った事はなかったからだ。
「杏の花が・・・・・・、満開だった・・・・・・・。その下でお前が・・・・・・、本を読んでいた・・・・・・。遠くからちらりと見ただけだったが・・・・・・・、お前の横顔は・・・・・・、俺の心にすぐさま焼きついた・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「その後暫くして・・・・・・、父から・・・・・、お前との見合い話を聞かされた・・・・・・・。あの縁談は・・・・・、今まで父から受けてきた命令の中で・・・・・、初めて俺自身も喜び、望んだ事だった・・・・・・・・」
「嘘・・・・・・・」
は呆然とそう呟いた。
当時の事を幾ら思い出そうとしても、頭に浮かぶハンスの顔は仏頂面ばかり。
見栄えは決して悪くないが、ニコリともしない冷たそうな彼の表情に、酷く身構えた事ばかりだった。
「しかしお前は・・・・、見合いの席でも、結婚式の最中でも、初夜の床でも・・・・・・、
俺に心を許しては・・・・・くれなかった・・・・・・・」
「それは・・・・・・・」
「そう、仕方がない・・・・・・・。見合いの席で・・・・一度会ったきり・・・・・、結婚式の当日まで・・・・・会わなかった男など・・・・・、愛せる筈はない・・・・・。」
ハンスの言う通り、は見合い以降、式の当日までハンスと会う事がなかった。
ろくに会話も交わした事のない男と、二度目の面会で永遠の愛を誓わされ、そのまま褥に侍らされたのである。
心が伴わないまま、形だけの夫婦の契りを交わさせられた初夜の痛みと無念さは、忘れようとて忘れられるものではなかった。
「だが・・・・・・、頭ではそう分かっていても・・・・・・、辛かった・・・・・・。お前に・・・・愛されていないと・・・・・感じる度に・・・・・・、傷ついた・・・・・・」
「・・・・・・・」
「お前は俺に・・・・・・、妻として尽くしてはくれても・・・・・・、愛してはくれなかった・・・・・・。やがて俺は・・・・・・耐えきれなくなり・・・・・・・、次第にお前を・・・・・遠ざけるようになっていった・・・・・」
「・・・・・・・それならば、私にも言わせて下さい。」
「・・・・・・・・」
「あなたの言う事、否定はしません。その通りだわ。けれどあの頃の私には、あなたのそんな気持ちなど、何一つ伝わっては来なかった・・・・・」
ハンスの穏やかな瞳を見つめながら、は微かに声を詰まらせた。
「あなたは私を愛していたと言ったけど、私が里心ついて寂しい思いをしていても、あなたは決して思いやってはくれなかった。お義父様やお義母様から理不尽な扱いを受けていても、あなたは只の一度も庇ってはくれなかった。」
今までは言うだけ無駄と思っていた恨み言が、次から次へと口をついて出る。
「私達の結婚生活は全てご両親の意のままに運ばれて・・・・・・、あなたはいつだってご両親の言いなりで・・・・・、こんな風に本心をぶつけて口論する事さえ許されなかった・・・・・。私には自由もプライバシーも、人権すらも・・・・・・、何もなかったわ・・・・・・」
いつの間にか流れていた涙を拭いながら、は悲痛な声を震わせた。
「だから、今更そんな風に私を責めないで・・・・・・!」
「・・・・・・・責めてはいない・・・・・・・。俺が・・・・・悪かったと・・・・・・、一言詫びたかったんだ・・・・・・・。何より・・・・・・、俺の本心を・・・・・・知って欲しかった・・・・・・・・。」
しかし、ハンスの切なげな声が、の涙を止めた。
「あなたがここへ来た目的は・・・・・・・・それなの?」
「ああ・・・・・・・」
「今更あなたの本心を知っても・・・・・・、私にはもうどうしようもないわ・・・・・・・」
「分かっている・・・・・・・。それでどうこうしようとは・・・・・思っていない・・・・・」
「それなのに・・・・・・・、そんな怪我を負った身体で私を捜したの・・・・・・?」
ハンスは蚊の鳴くような声でああ、と返事をした。
「お前の言う通り・・・・・・、俺はいつも・・・・・親の言うなりだった・・・・・・。そんな自分が・・・・・・、自分でも情けなかった・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「俺は・・・・・・、いつも葛藤していた・・・・・・。幾つになっても・・・・・・俺を縛り付ける両親を・・・・・・疎ましく思う気持ちと・・・・・・・、そうされる事で得られる・・・・、安心感に・・・・・・・、挟まれて・・・・・・・」
このハンスがそんな事を人知れず悩んでいたなどと知らなかったは、内心酷く驚いていた。
何故ならハンスは、そんな素振りなど見せた事は一度もなかったからだ。
「いつか・・・・・・、自分で解決をつけたいと思いつつも・・・・・・、時間ばかりが・・・・・無駄に過ぎていった・・・・・・。両親が・・・・、お前を拳王軍に差し出すと言った時も・・・・・、結局逆らえなかった・・・・・・。あの時俺は・・・・・・、俺はもうこのまま一生・・・・・・、親の言うなりになって生きて死ぬのだと・・・・・・、全てを諦めた・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「しかし・・・・・・・・、その両親がある日突然・・・・・死んだ・・・・・・」
「な・・・・・・・、何ですって!?」
は驚きの余り、無意識的に鉄格子を掴んでハンスとの距離を可能な限り縮めた。
そうする事で、ハンスの小声を良く聞き取ろうとするかのように。
「どういう事なの!?どうして・・・・」
「殺された・・・・・・・・」
「殺された・・・・・!?誰に!?」
に問い詰められたハンスは、暫し躊躇った後、やがて意を決したようにある男の名を口にした。
ユダ、と。