ダガールが歩いて来た方向に向かってひたすら歩き続けると、いつの間にか城の行き止まりまで辿り着いていた。
何処もかしこも美しく手入れされ、何かしらの物で飾られている城内と本当に同じ建物内なのかと目を疑いたくなる程、そこは殺風景で寒々としていた。
灯り一つなく、あるのはひび割れた壁と古ぼけたコンクリートの階段だけというその場所に立ち、は暫し戸惑っていたが、やがて決心したようにその階段を下り始めた。
「寒い・・・・・・・!」
只でさえ寒い季節の、冷たいコンクリートの地下室というのは、まるで冷凍庫のような寒さである。
朝から晩までぬくぬくと暖炉の火で温められている部屋の温度に合わせた薄いドレス姿のには、この寒さは殊更堪えた。
指先があっという間にかじかみ、自然と身体が震え始める。
だが、それを誤魔化しつつ下へ下へと下りていくと、やがて辺りは広く拓けた。
「ここは・・・・・・・・」
暗がりに目が慣れて来たは、注意深く辺りを見回した。
すると、最初はただっ広い倉庫か何かに見えたこの場所に、鉄格子のような物が見えた。
「牢屋・・・・・・なの・・・・・・?」
は足元に注意を払いつつ、手探りでその鉄格子まで歩いた。
「・・・・・・・・あなた・・・・・・?」
鉄格子の奥に見えた大きな塊、それがの目には寝そべった人の姿に見えて、は恐る恐る声を掛けた。
「あなた・・・・・・なの・・・・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・?」
モゾモゾと動いたその塊は、呼びかけに反応して二つの瞳でを見た。
「やっぱり、あなたなのね・・・・・・?」
「・・・・・・・・」
再び会えて嬉しいかと訊かれれば、実のところ分からない。
しかし、少なくとも驚きは大きかった。
まさか夫が、何処にいるとも分からぬ自分に会いに来るとは夢にも思っていなかったからだ。
はゆっくりとその場にしゃがみ込むと、夫・ハンスの顔をじっと見つめた。
するとハンスは、それに応えるかのように身体を起こした。
「うっ・・・・・・!」
「あなた・・・・・、無理はしないで・・・・・・・」
「大・・・・丈夫だ・・・・・・」
半身を起こすのもやっとな程苦しそうなハンスを、は痛ましげな目で見守った。
「・・・・・・・・どうして・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「どうして今頃・・・・・・・・、私に会いになんて・・・・・・」
「・・・・・・・・・ただ・・・・・・・・、お前の顔が見たかった・・・・・・・」
「え・・・・・・・・・?」
「会える・・・・ものなら・・・・・・、もう一度会って・・・・・、詫びたかった・・・・・・・」
睫毛を伏せたハンスの表情は、何処か罪悪感に囚われているようであった。
「・・・・・・・・済まなかった・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・何を・・・・・・・・、今更・・・・・・・・」
「お前が・・・・・・・、俺を嫌っているのは・・・・・・・、分かっている・・・・・・。許して・・・・・・・くれ・・・とは・・・・・・、言わない・・・・・・・」
ハンスの言う通り、は確かに彼を疎み、嫌っていた。
というよりは、彼に対して全てを諦めていたのである。
その彼が、何故今頃こんな事を言う為に、瀕死の身体を引き摺ってまで会いに来たのだろうか。
許して欲しいと願う訳でもないのに。
「・・・・・・そんな身体で・・・・・・・・。傷は?痛む?」
「痛む・・・・・・・」
「・・・・待っていて、何かお薬と包帯を・・・・・・・」
「良いんだ・・・・・・・、もう良い・・・・・・・」
立ち上がりかけたを、ハンスは引き止めた。
「包帯と・・・・・薬を貰ったところで・・・・・・、俺一人では・・・・・・、どうせ何も出来やしない・・・・・・」
ハンスは自嘲めいた微笑を浮かべてそう言い、大きな南京錠の掛かった鉄格子を一瞥した。
ここを開けられない以上、確かにが彼の手当てをする事は叶わない。
かと言って、ユダやダガールに願い出ても無駄というものだ。
それはハンスがこの冷たい牢獄に閉じ込められている状況から、容易に想像がつく。
そして当のハンスはこの通り、一人では何も出来ない男だ。
は途方に暮れた表情で、ハンスを見つめた。
「あなた・・・・・・・・」
「フフッ・・・・・、一人では何も出来ない・・・・・、情けない男だ、俺は・・・・・・・。包帯一つ・・・・・満足に巻けやしない・・・・・・。この傷の手当ても・・・・・・・、村の人にして貰ったんだ・・・・・・・」
「・・・・・・どうしてそんな怪我を?」
の質問に、ハンスは口を閉ざしてしまった。
力を失ったように再び倒れ込み、もう起き上がろうともしなかった。
「あなた・・・・・・・」
「もう行ってくれ・・・・・・・。少し・・・・・・眠りたい・・・・・・・」
壁に向かって寝返りを打ち、ハンスは微かに震える声でそう呟いた。
この男はこうやっていつも、何も心の内を見せてはくれなかった。
何かを話しても、いつも壁に向かって話しかけているような気分だった。
それが虚しくなり、必要最低限の事以外口を利かなくなったのは、一体いつからだっただろうか。
もう思い出せない。
はハンスから背けた視線を、ふと牢獄の片隅へ向けた。
そこには、先程ダガールが持っていた残飯入りの皿が置いてある。
一口も手をつけられていないそれを見て、はスッと立ち上がった。
「・・・・・・また・・・・・・、来ます。」
ハンスからの返事などは期待せずにそう言うと、はそこを後にした。
その翌日のほぼ同じ時間、は小さな紙包みを隠し持って、またハンスに会いに行った。
包みの中には、ティータイムの時に出されたクッキーが数枚とチョコレートが何粒か入っている。
誰にも内緒で行動を起こすに当たってに出来る事といえば、これが限度であった。
持って行ける物は手の中に隠し持てる程度の物、人目につくような大きさの物を持ってうろついては、誰に見咎められ不審に思われるかもしれなかったからだ。
「あなた・・・・・・、あなた・・・・・・?」
「・・・・・・・、か?」
「そうです・・・・・・」
ハンスが起きている事を確認し、は鉄格子へと歩み寄った。
そして、持って来た包みを鉄格子の隙間からハンスに渡した。
「これを。」
「これは・・・・・・・・?」
「少し位は足しになると思って。ろくに何も口にしていないのでしょう?」
「・・・・・・・・・済まない。」
ハンスは辛そうな顔をしてそれを受け取ると、震える手で包みを開き、中の物を瞬く間に平らげた。
しかし、その顔は決して幸せそうではない。
まるで人からの施しは毒にも等しいと思っているかのように、渋く曇っていた。
ましてや愛してもいなかった元妻が、見違えるような立場になって恵んでくれた物など、ハンスにとっては残飯よりも屈辱的なものなのかもしれない。
そう思うと、の表情もまた曇っていった。
「・・・・・あなたは・・・」
「お前は・・・・・・・・、あの男と結婚するのか?」
「え・・・・・?」
ハンスにそう訊かれ、は自分が口にしかけていた話を飲み込み、小さく頷いた。
「・・・・ええ。」
「お前が・・・・・・・・、あの男を選んだのか?」
半ば流されるようにして挙式に臨みつつも、恐れ躊躇うもう一人の自分。
自身も極力見ないようにしてきたそれを今、ハンスに真正面から見据えられた気がして、は黙り込んだ。
「・・・・あの男は・・・・・・・、俺にはない力を持っている。俺とは全く違う・・・・。お前が選んだ気持ちも・・・・・・・・分かる・・・・・・・」
「・・・・・・・あなた、私は・・・・・・・」
「・・・・皮肉だな。こんな状況になって・・・・・、初めてお前の気持ちが・・・・・・分かるなんて・・・・・・」
「私は・・・・」
「俺は・・・・、お前にとって・・・・・・、形ばかりの夫だった・・・・・・・。お前が・・・・・・あのユダとの結婚を・・・・・・幸福と思っているなら・・・・・・・・、それで良い・・・・・・・・」
ハンスの言葉は意外だった。まるで再婚を祝福してくれているかのように聞こえたからだ。
愛してくれるどころか一欠片の興味すらも抱いてくれなかった男なのに、何故。
瀕死の身体を引き摺って来た上に、このような酷い仕打ちに耐えながら、何故。
その疑問に答えを見出そうとするかのように、は毎日のように人の目を盗んでは、ハンスの所へ行った。
とはいえ、ユダや城の者達に気付かれないようにする為、面会出来る時間は僅か十分程度と短かったのだが。
それでもは、その短い時間の枠内で、出来る限りの事を精一杯やった。
僅かな食料を与え、こっそり持ち出した鎮痛剤を与え、ハンスが何か語りたそうにしているならば、黙って耳を傾ける。
何も喋らなくても、ただ黙って沈黙に付き合う。
判で押したように毎日同じ時間、同じ場所で、同じ事を繰り返した。
そんな日々が始まって、早いものでもう二週間が過ぎた。
「ゲホッ、ゲホッ、ゴホッ!!」
「あなた・・・・・!」
苦しそうな咳をするハンスを、は心配そうに鉄格子の外から見つめていた。
扉が開かぬ以上、見守る事しか出来ないのが歯痒い。
「あなた、大丈夫?そんなに具合が悪いの?」
「大丈夫だ・・・・・・ゴホッ、ゴホッ・・・・・」
このところ、ハンスの容態は日に日に悪くなっている。
張りのない声が掠れ、時にはこのように激しく咳き込むのだ。
しかし、ユダやダガールに話せば、却って事態が大変な事になりそうで、はなす術もなくハンスが苦しむのを見ているしかなかった。
「・・・・・・咳に効く薬を探してみます。あれば明日持って来ますから・・・・・」
「・・・・・済まない・・・・・」
荒い息の下からそう呟くハンスを痛ましそうに見つめて、は尋ねた。
「・・・・・・お義父様とお義母様は?あなたがこんな状態で旅に出る事を、お二人がお許しになったとはとても思えないわ。」
息子が少々風邪を引いた程度で、大袈裟に心配して夜通し看病をする義母。
目の中に入れても痛くない程息子を可愛がる義父。
そして、そんな両親に決して楯突けない親孝行なハンス。
そんな三人が、一体どんな経緯で離れ離れになり、傷ついた身体で一人旅立つ事を決め、それを許したのか。
は今更ながらに、それがふと気になったのである。
「そういえばその傷の手当ても、確か村の人達にして貰ったと・・・・・。お義父様とお義母様は?」
「・・・・・・・・あの男は・・・・・・・」
「え・・・・・?何を言っているの?」
「ユダは・・・・・、三十何年経っても・・・・・俺の越えられなかった壁を・・・・・、容易く越えた・・・・・・・」
「一体どういう事・・・・・?」
「何もかも・・・・・・・、俺はあの男に負けた・・・・・・・・。一回り以上も年下の・・・・・・・若造に・・・・・・・」
瞳を閉じて意味の分からない事を呟いたハンスは、また急に激しく咳き込み始めた。
「ゴホッ、ゲホッ、ゲホゲホッ・・・・!!」
「あなた・・・・・・!」
「も・・・・行け・・・・・・、ゲッホ、ゲホ!!ゴフッ!!」
「・・・・・・明日、何かお薬を探して来ますから・・・・・!」
返事も出来ない程咳き込みのたうち回るハンスにそう声を掛けると、は後ろ髪を引かれる思いでその場を去った。