窓の外では、ちらちらと雪が降っている。
冷たく清らかなそれは、地面も屋根も全てを薄らと白く覆い、外の世界を白い静寂に包んでいた。
庭の木々は葉を散らせ、眠りに就いている。
花壇の土も冷たく湿り、雑草一本分の緑すら見当たらない。
しかしそこには確実に、次の世代を担う生命が宿っていた。
杏の枝には小さな蕾が付き始め、土の下には沢山の球根が、それぞれ花開かせる時を待っている。
それらの花が次々と芳しく咲き始める頃、あと二月程もすれば。
は立ち上がると、部屋のクローゼットをそっと開けた。
そこには元々様々な衣装が丁寧に手入れされた状態で掛かっているのだが、今はその中でも一際目を惹くドレスがある。
純白のレースやオーガンジーがふんだんに使われた、思わず溜息の出るような豪奢なウェディングドレスだ。
勿論これは婚礼の為にとユダが誂えてくれたもので、世界でただ一人、だけの為に作られた特別なドレスだった。
きめ細やかで華やかな刺繍の施された美しく長いトレーンや、床に引き摺る程たっぷりとした、窓の外に降る淡雪のように儚げなヴェールは勿論、裾の長いドレスとヴェールに隠れて人の目に触れる事は殆ど無いであろう足元にさえ、最高級の白繻子で作られたパンプスが用意されている。
万事手抜かりはない、全てにおいて最良の選択をなされて出来た婚礼衣装。
それは即ち、ユダの気持ちがドレスの形を成したものに相違なかった。
しかし。
「・・・・・・・・・これで良いの?」
の心には、得体の知れない不安と空虚さが巣食っていた。
与えられるまま贅沢なものを身に着け、惜しみない愛情を注がれ、溺愛される。
確かにそれは、幸せと呼ぶに相応しい事だ。
だが、果たしてユダは、本当に自分を愛してくれているのだろうか。
幸せな幼少時代の思い出をなぞるような数々の行動も、己の意のままにを着飾らせ、玉座に祭り上げる事も、全てがそう思わせる。
ユダはただ、不本意な形で突如終わりを告げた幼少時代を諦めきれないだけではないだろうか。
人形を自分好みに着飾らせ、ガラスケースに入れて眺めたいだけではないだろうか。
ユダの愛を疑うなと己を窘める一方で、は心の何処かでそう思わずにはいられなかったのだ。
贅沢と真心は、必ずしもイコールで結ばれるものでもない。
力にものを言わせて方々から高価なものを掻き集めるのではなく、ほんの些細な事でも何らかの行動で真心を示す。
最初の夫との間にはそれが無かったと言えるが、果たしてユダとはどうなのであろうか、と。
しかしながら、贅沢と真心は全く異なるものである、ともあながち言えない。
少なくともユダは、の頭上に雨あられと金銀宝石を降らせる事が、己の愛情表現の一つだと言っている。
ならばそれは価値観の違い、根本的にユダの愛を疑うには及ばない事なのではないか。
「・・・・・・・・・本当にこれで・・・・・・良いのね?」
誰に訊くでもなく、がそう呟いた時であった。
「えぇい、帰れ帰れ!!!ここは貴様のような薄汚い奴の来る所ではない!!恐れ多くも南斗紅鶴拳伝承者・ユダ様の居城なるぞ!!!」
窓の外から、門番の大きな怒声が聞こえてきた。
「・・・・・・・何かしら?」
ユダは余程実力のある将なのだろう。
誰かが攻め入って来るという事は無く、この城は普段至って静かなものである。
門番がその重い口を開くのは、主であるユダをはじめとする誰かが出入りする時だけで、このような怒声を張り上げるのを、は未だかつて一度も聞いた事はなかった。
「どうしたのかしら・・・・・?」
となれば、気になるのも無理はない。
は様子を伺おうと、小走りに部屋を出て行った。
「ええい、帰れというに!!何処の誰とも分からぬ奴を、この城に入れる訳にはいかぬ!!」
「頼む、方々流離って・・・・、ようやく辿り着いたんだ・・・・・!」
「そんな事、知った事か!!さっさと失せねば痛い目を見るぞ!!」
「な、ならばせめて・・・・・・・、をここへ・・・・・、呼んでくれ・・・・!」
「お前っ・・・!!恐れ多くも奥方様を呼び捨てにするとは何たる無礼!!!もはや生きては帰さんぞ、覚悟せい!!」
憤慨した大柄な門番の男が、重そうな鉄斧を振り上げて不躾な旅人に襲い掛かった。
しかし、何の心得もないらしい旅人は、ただ顔を青ざめさせて立ち竦んでいる。
やがて旅人はその鉄斧で一刀両断にされ、無惨な亡骸を荒野に放り出されて終わる・・・・、
かのように思われたが。
「お待ちなさい!!!」
「おっ、奥方様!?」
間一髪間に合ったの到着で、旅人の命はひとまず救われた。
門番は取るに足らないちっぽけな来訪者をそっちのけて、の足元に平伏した。
「ははぁーーっ!!」
「これは一体何事ですか!?何を争っているのです!?」
「ははっ、これなる男が、恐れ多くも城に入れてくれなどとうつけた事を申しまして・・・・!只今追い払うところでございます!」
「ですが、何も武器まで振り回さなくても良いでしょう!?相手は丸腰ではありませんか!」
「お言葉ですが奥方様、不審な者が城に侵入しないようにこの城門を守るのが私の勤めですので!」
胸を張って言い切った門番は、の城の中へ戻るよう促した。
「ささ、奥方様!早う城内へお戻り下さいませ!ここは寒うございます!」
「旅の方。何か御用ですか?」
「奥方様!!」
門番が止めるのも聞かず、は旅人に歩み寄って行った。
「何か御入り用な物でも?」
「・・・・・ぁ・・・・・・」
「・・・・・どうなさったの?どこか具合でも・・・・」
旅人は突如力を失ったように、に寄りかかるようにして冷たい地面に崩れ落ちた。
「きゃっ・・・・!!」
「奥方様!!!おのれ貴様、何たる無礼を!!」
「・・・・・・・・・・・」
「え・・・・・・・?」
「死んで詫びろ、でええい!!」
「やめて!!!」
は金切り声を上げて、激昂した門番を止めた。
さしもの大男でも、この城の女主人に怒鳴りつけられては太刀打ちが出来ないのか、そのまますごすごと鉄斧を収めた。
「今、私の名を・・・・・・?」
「う・・・・・ぁ・・・・・・・・・、・・・・・・か・・・・・・?」
「・・・・・・・あなた!?」
は目を見開いて、旅人を包んでいるボロ布の顔の部分を肌蹴た。
そして、そこに隠されていた旅人の素顔を見てより一層の驚きを見せた。
「あなた、あなたなの!?どうして・・・・・!?」
「ううっ・・・・・・・」
「酷い傷・・・・・・・!」
もう二度と会う事はないと思っていた夫に突如再会した驚きも大きかったが、今目の前に倒れている彼の身体には、ボロボロになった包帯が至る所に巻き付けられており、その何処にも赤黒い血の染みが出来ていた。
「どうしてこんな・・・・・、どうして・・・・・・」
何から訊きたいのかが自分でも分からない。
ただとにかく今は、一刻も早い手当てを施す必要がある。
混乱する頭をどうにか平静に保とうとしながら、は門番に向かって叫んだ。
「早く、この人を城の中へ!!!」
「い、いけません奥方様!!!そのような薄汚い男、たとえ奥方様のお頼みでも断じて城に入れる訳には参りませぬ!!」
「何を言っているの!?人が死に掛けているのよ!?」
「そんなゴミ、お気になさいますな!!その男は私が処分致します!!それよりも奥方様、早うそこをお退き下さいませ!!」
「なっ・・・・!」
「このような所がユダ様に見つかったら、咎められるのは私なのです!!後生ですからお早く!!」
「ならば結構です!!!」
は狼狽している門番を睨むと、城内に治療道具を取りに行こうと踵を返した。
だが。
「こんな所においででしたか、奥方様。」
「ダガールさん・・・・・!」
振り返った先には、ダガールが立ちはだかっていた。
「いけませんぞ、奥方様。ユダ様に無断でお城を出られては。ユダ様がお捜しでしたぞ、早うお戻り下さいませ。」
「ダガールさん、お願いします、手を貸して下さい!あの人が酷い怪我なの、早く手当てをしないと死んでしまう・・・・!」
縋るように懇願するから目を逸らし、ダガールはその隻眼を冷たく光らせて、の指し示す男を一瞥した。
「・・・・・・ははぁ、怪我人とはあれにございますか。」
「そうです!だから早く・・・・・」
「お捨て置きなさいませ、奥方様。わざわざ奥方様がお気に掛けて差し上げるまでもない、只の卑しい行き倒れです。あの様子では、もう間もなく死ぬでしょう。」
「ダガールさん・・・・・!!」
「それよりも、お早くユダ様のお側へ。お式の際に奥方様がお持ちになるブーケの事で、ご相談がお有りだそうですよ。」
死に掛けている人一人を、まるで飢え死に寸前の野良犬のように冷たく見下し、取るに足りないような事を優先させる、それが人として取るべき態度であろうか。
は絶句して、ダガールを呆然と見つめた。
「ダガールさん・・・・・、貴方という人は・・・・・・・」
「さあ。ユダ様がお待ちかねでございます。」
何を考えているのか分からない光を左目に宿らせるダガールに、は言い知れぬ恐怖さえ感じていた。
その時。
「遅いぞ、ダガール。を連れて来るだけに何をもたもたしている。」
「申し訳ございません、ユダ様。」
「ははぁーーっ!」
城内から出て来たユダに、ダガールと門番は跪いて敬意を示した。
「ユダ・・・・・!」
「こんな所に居たのか、。捜したぞ。全く貴女は、ふとした隙にふわふわと飛んで行ってしまう蝶のようだ。」
優しい苦笑を浮かべて腰を抱いてくるユダを、は悲痛な顔で見上げた。
「ユダ、そんな事を言っている場合じゃないわ!怪我人なの!お城に入れて手当てをしてあげて!」
「どれ?・・・・・ああ、あれか・・・」
そう言いかけて、ユダは幾分驚いたように口を噤んだ。
「・・・・・ユダ?」
が呼びかけるのも聞かず、ユダはそのままをそっと解放すると、倒れている男に向かってツカツカと歩み寄った。
「何かと思えば、このように寒い時期でもウジ虫は沸いて出るものなのだな。どうやってここを探り当てた?」
「・・・・・・あちこち・・・・・・、探し回った・・・・・・・」
「フン。その傷でか。これだけ生き永らえただけでも褒めてやるが・・・・・・、愚かだな。」
男の、ハンスの血染めの包帯を見て、ユダは冷酷な笑みを浮かべた。
「折角命拾いしたのなら大人しくしておれば良かったものを、わざわざとどめを刺して貰いに来たか?」
「に・・・・・・・・・・、どうしても・・・・・・、会いたかった・・・・・・」
「・・・・・・・フッ・・・・・・」
ハンスの言葉に暫し沈黙したユダは、やがて大きな声を上げて笑い始めた。
「ハハハハハ!!!今更会ってどうする!?まさか取り返せるとでも思ったか?」
「ただ一目・・・・・・・、会いたかった・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・それで命を捨てる覚悟を決めて、ここまで来た、と?」
ユダは不機嫌そうに片眉を吊り上げて、ハンスを睨み下ろした。
「させん、と言ったらどうする?」
「・・・・・・・・・」
「今俺がこの指先を少し動かせば、お前の命など枯葉のように粉微塵になる。とまともな対面を果たせる事なく、な。」
そう言いつつも、実際のところユダにそれは出来なかった。
このハンスという男を畏怖しているからではない。
愛するに、ズタズタに切り裂かれた汚らわしい肉片を見せたくなかったのだ。
そして、残忍に人を殺す己の姿も。
ユダはの前では、常に優美でありたかった。
最愛の女に相応しい、強く逞しく美しい、上品な紳士でありたかったのだ。
それに、この男がまさか追って来るとは思ってもみなかったが、この計算外の不測の事態は、よくよく考えてみれば、また楽しいショーが一つ見られる機会とも取れる。
「・・・・・・・・良いだろう。」
不敵に口元を吊り上げたユダは、ダガールに振り返って命じた。
「ダガール、この男を城に入れてやれ。」
「はっ!?ですがユダ様・・・・!」
「構わん。我が城で一番上等な客間に通して、丁重におもてなししろ。何しろこの男、元は上流階級の御曹司だ。失礼のないように・・・・・・・・、良いな。」
「・・・・・はっ。」
ユダの含み笑いから何かを感じ取ったらしいダガールは、心得たとばかりに薄らと笑って頷き、ハンスの身体を軽々と抱え上げて城内に運んで行った。
「ユダ・・・・・・・・」
「何も心配は要らないよ、。ダガールに任せておけ。」
不安そうな顔をするに口付けて、ユダは優しげな微笑を浮かべた。
「でも・・・・・・」
「案ずるな、きちんと世話をしてやるとも。俺が今まで貴女に嘘をついた事があるか?」
「それは・・・・・・」
「さあ。貴女にはこれから、ブーケのデザインを選んで貰わなければならない。幾つか考えてみたのだが、どれも思いの他良く出来て選び難くてな。ここは一つ、貴女に選んで貰おうと思って。」
「ユダ・・・・・、さっきの人は私の・・・・」
「さあ行こう、。こんな寒い所にいつまでも立っていては冷えてしまう。挙式を控えた大事な身体なのだから、体調にはくれぐれも気をつけて貰わねばな。」
「きゃっ!」
ふわりとを抱き上げて歩きながら、ユダは一人そっとほくそ笑んだ。