ユダと初めて口論になった日から、数日が何事もなく過ぎた。
城の者達は皆以前と変わらぬ態度でに尽くし、ユダも何も変わらない態度でに接してくる。
しかし、の心の片隅には、小さく細い棘が刺さったままであった。
ポーン。
不意に鳴った軽やかなピアノの単音が、それまでの流れるようなメロディーを途絶えさせた。
パーティーもいよいよ明日に迫った今日、しっかりと練習しておこうとこの広間に来てピアノを弾いていたのだが、今一つ気分が乗らない。
大勢の人の前で披露するというのにこんな事ではいけないと思いつつも、どうせ元々の腕前が大した事はないのだ、これが実力だと言えばそれで済む話だと思ってみたり、一向に考えがまとまらない。
そんな状態のまま、只ぼんやりとピアノの前に座っていたは、不意に後ろから肩を叩かれ驚いて振り向いた。
「ユダ・・・・・!」
「レッスンに身が入らない、か?」
「え、ええ・・・・・・」
沈んだ顔で俯くに、ユダは艶然と微笑みかけた。
「それならそれで構わぬではないか。何も躍起にならずとも。例えば少し時間をおいて改めてみれば、存外に満足のいくレッスンが出来るやもしれん。」
「そ・・・うね・・・・・」
「フフッ、レッスン嫌いはやはり治りませんか。」
目を細めて笑ったユダは、の手を取って椅子から立ち上がらせた。
「ならば今日は、俺と二人でゆるりと過ごそうではないか。」
「え?」
「今日は本来なら、俺にも貴女にもやるべき事がある。俺は執務で、貴女は明日の身支度。しかし、それは夕刻からにしよう。今日は二人で一日ゆっくりと・・・・・、どうだ?」
僅かに小首を傾げて尋ねるユダの顔は、良い事を思いついた子供のように無邪気だった。
「・・・・ええ。」
「そうこなければ。早速お茶の用意をさせよう。秋の空を眺めながら熱い紅茶でも飲めば、きっと貴女の気分も落ち着くだろう。」
「有難う。」
「それに、冬が来れば庭で茶会など出来ぬしな。今の内しか機会はない。尤も、貴女がどうしてもと言うならしても構わぬが、俺はきっと風邪を引いて寝込んでしまう。」
「まぁ。」
冗談めかして言うユダに、はフッと表情を緩めた。
「・・・・・やっと笑ってくれた。」
「え?」
「貴女にはやはり、笑顔が一番似合う。貴女が色々と思い煩うのも無理はないが、俺はただ、貴女が毎日微笑んで俺の隣に居てくれればそれで良い。その為なら俺は何だってしてみせる。」
「ユダ・・・・・」
「俺は必ず貴女を世界で一番幸せな花嫁にする。俺を信じてくれ。」
優しく微笑むユダの顔からは、数日前に物凄い剣幕で怒鳴った時の面影などとうに消えていた。
まるで、最初から二人の間に諍いなどなかったかのように。
の心に立っていた小さな棘は、何もユダと口論になった事自体ではなかったのだが、ならばそれは何かと問われると、実のところ自身にも良く分かっていなかった。
「さあ、行こう。」
「ええ。」
だからは、その小さな棘の存在を忘れてしまおうとした。
何を思い煩っていても、もう新たな人生へ続く道がすぐ目の前に伸びている。
引き返す事は出来ない。
幼い頃の約束通り、ユダの妻となり、新たな人生を送る道をもう歩み始めているのだ、と。
その夜は、正に晴れの舞台とするに相応しい美しい夜だった。
窓から覗く三日月と煌く星々を見つめて、ユダは一人悦に入っていた。
「ユダ様、拳王様ご一行様が到着なさいました。」
「うむ。」
パーティー会場である大広間の玉座に座っていたユダは、ラオウの到着を知らせに来たダガールを従えると、扉までラオウを出迎えに上がった。
「拳王様、突然のお呼び立てにも関わらずお越し下さいまして感謝致します。」
「フン。あれ程礼を尽くした招待を受けては、そ知らぬ顔も出来ぬわ。それに、何やらうぬは儂に改めて申したき儀があるというではないか。何か由々しき事態でも起きたか?」
「いえ、ごく私的な事にございます。それ故ご迷惑ではと心苦しくもあったのですが、何分拳王様のお慈悲の上に成り立つ事ですので、臣下の一人として、御礼方々ご報告をと思いまして・・・・。何はともあれ、まずはご一献。ささやかな席ではありますが、今宵は存分にお寛ぎ下さいませ。」
「うむ。」
ラオウを玉座まで案内するユダの顔は、口元は笑っていても目は笑っていない、仮初の笑顔を形作っていた。
義理でもなければ、戦以外に興味のないような無粋な男など呼びはしない。
そもそもとの事は、十年もの昔から決まっていた運命なのだ、誰に断る筋合いがあろうか。
しかし、物事はいつでも己の感情のまま運べる訳ではない。
時には本心とは裏腹な事を言い、偽りの笑顔を浮かべねばならない事もある。
いや、人はむしろそうしている時間の方が、きっと長い筈だ。
ユダはラオウを玉座に着かせると、給仕はダガールに任せてその場を離れた。
ユダが向かった先は、自室であった。
ラオウが到着した今、パーティーを始めねばならないからだ。
「。時間だ。」
今宵の主役・を呼びに来たユダは、自室の扉を開けて息を呑んだ。
「・・・・・・美しい・・・・・」
「有難う・・・・・」
目の覚めるような艶やかな赤いドレスを纏ったは、今宵の花形として申し分のない魅力を湛えていた。
「やはり貴女は美しい・・・・・。良くお似合いだ。俺の見立て以上だ。」
「そう・・・かしら?」
「ああ。」
アクセサリーも靴も口紅の色さえも、全てがユダの見立てであったが、はそれを一つも裏切る事なく、見事に着けこなしていた。
今すぐにその唇を激しく奪い、鮮やかなドレスに包まれた身体を抱きたい衝動に駆られたユダは、しかし何とかそれを抑えると、辛うじて唇に軽いキスを送るだけに留めて言った。
「さあ、パーティーが始まる。そろそろ下へ下りて来てくれ。華がなければパーティーはいつまで経っても始まらない。」
「まぁ・・・・・、ユダったらそんな・・・・・」
「本当の事だから仕方あるまい?そうだ、演奏は会食が終わった後に頼む。あまり飲みすぎないように。」
「・・・ふふっ、ちゃんと心得ております。」
「それは何より。さあ、行こうか、俺の愛しい花嫁。」
優雅に差し出されたユダの肘を取るのに、は少し躊躇った。
「どうした、?」
「ユダ、貴方は・・・・・、貴方は今日のパーティーで、私を皆さんに紹介すると仰ったけど・・・・」
「それがどうかしたか?」
「それは・・・・・・、何と言って紹介するおつもりなの?まさか今日が婚礼披露だなんて・・・」
は言い難そうに、しかし明らかに渋った様子を見せた。
無論は、ユダと結婚する事自体は了承している。
しかし、自分を既に妻と呼ぶユダの気の早さに、は次第に気後れするようになっていた。
幾ら頭で分かっているとはいえ、まだ今日明日の事として考えられないのがの本心だったのである。
その原因は幾度も考えてみたが、出る答えはいつも違っていた。
最初の結婚で臆病になっているのか、或いは事実上離縁したとはいえ、うやむやの内に生き別れた夫に対して罪悪感があるのか、或いは。
或いは、ユダに対して一抹の不安と不信感を抱いているからか。
ユダは『貴女の気持ちを優先する』と言いながら、その実さっさと既成事実を作ってしまおうとしているように見える。
いや、それだけではない。問題はそんな事ではないのだ。
ユダの愛情・優しさが激しすぎて、時折怖くて。
こちらを見つめるユダの瞳が、時折この身体をすり抜けた向こうを見ているような気がして。
尤もそれは、考えれば考える程混乱して分からなくなる為、の思い過ごしであったやも知れないが。
「・・・・・フッ、何かと思えばそんな事。婚礼披露ならばもっと盛大に行う。勿論、貴女の了解を得た上でな。だから案ずるな、これは只のパーティーだ。」
「そう・・・・・」
「ただ、貴女を俺の未来の妻だと紹介する事ぐらいは・・・・・、許してくれるだろう?」
「え・・・・えぇ・・・・・」
「良かった。これで後で貴女に怒られる事もなくなった訳だ。何も心配はないな。」
ジョークを飛ばすような軽い口調でありながら、その実ユダのこの言葉は伏線だった。
ユダとて、が今一つ結婚に乗り気でない事はとうに気付いていた。
それがどんな理由故の事なのかは定かでないが、とにかくユダは、何が何でもを娶ると決めていた。
だから、後でが万が一にも渋らぬように、早く覚悟を決めさせ、決心させるように。
そう、これもまた、ユダの策略の一つだったのだ。
「さあ、。」
「ええ。」
に肘を貸してやりながら、ユダは満足げに微笑んでいた。
全てはへの愛故、決して卑怯な騙し討ちなどではない。
その内もそれに気付き、迷いのない微笑を見せる筈だと、そう確信しながら。