「お帰りなさいませ、ユダ様。」
「お帰りなさいませ。」
「うむ。は?」
出迎えた衛兵・召使達の中から付きの下女を見つけ、ユダはそう尋ねた。
「はい。只今お部屋にて沐浴中であらせられます。」
「そうか。」
「お食事の用意が出来ております。如何なさいますか?」
「うむ。」
入浴の邪魔をするような無粋な真似などするつもりのなかったユダは、敢えてすぐに会いに行く事をせず、大して空腹でもなかったが時間潰しに食事を摂る事に決めた。
「その後には身を清める。今宵は部屋の浴室は使わん。客間の方の浴室を使う故、そこへ着替えを持て。」
「はい。」
それに、血の匂いを漂わせた身体での前に出る訳にはいかない。
深紅の薔薇のように芳しいの香りを打ち消すものは、たとえ己の身体から発せられる匂いだとしても許し難い。
それが卑しい者達の血の匂いであれば尚の事以ての外だ。
ユダは手早く食事を済ませると、普段は使わない部屋の浴室で丹念に身を清め、それから急いでの元に帰った。
「ただいま、。寝酒にブランデーを持って来た。一緒にどう・・」
部屋のドアを開けて、ユダは絶句した。
そこに居たは、確かに湯上りの姿をしていたのだが。
「あら、お帰りなさい、ユダ。」
鏡越しに微笑んだは、自らの手で濡れた長い髪を乾かしていた。
「・・・・・何をしている。」
「何って・・・・・、見て分からない?髪を乾かしているのよ。」
「そんな事は分かっているが・・・・・」
部屋の中には、下女達の気配はない。
の世話はあれ程心して励めと申し伝えてあるにも関わらず、たった一日留守にしただけでどういう事か。
しかし、ユダが厳しい表情を浮かべている事にも気付かず、は髪を乾かす手を止めて、ユダの方を嬉しそうに振り返った。
「それより、お食事は済ませた?」
「あ、ああ・・・・」
「どうだったかしら?」
「どう、とは?」
「あら、いつもと味が違う事に気付かなかったの?」
「何?どういう意味だ、それは?」
の言わんとするところが分からず、ユダは訝しげに尋ねた。
するとは、無邪気と言っても良いような笑みでもってこう答えた。
「貴方が今夜召し上がったお食事、あれは私が作ったの。」
「な・・・・・・」
「ねえ、感想を聞かせて頂戴。お口に合った?」
実のところ、ユダは正確に覚えてなどいなかった。
お互いに身支度を整えてからと思ってはいたが、それでも出来る限り早くの顔を見たくて気が逸っていたからだ。
だから食事など、機械的に口に運んだだけ、味などろくに覚えてはいない。
確かに言われてみれば、いつもと少し味付けが違ったような気がしないではなかったが、毒物による味の変化ではなかった為、さして気に留めなかったのである。
「ねえ、どうだった?」
「あ、ああ・・・・・」
嬉しそうなに急かされて、ユダは慌てて微笑を形作った。
「ああ、美味だった・・・・・」
「うふふ、有難う!」
「そうか、あれは貴女が・・・・・・」
愛する女の手料理を食す、確かにそう悪い事ではない。
しかしユダには、それを今一つ手放しで喜ぶ事が出来なかった。
「そうよ。今日は久しぶりにお料理をして、何だかとても楽しかったわ。」
「・・・・・・それは良かった。しかし、今後はもうしない方良い。」
「・・・・・・何故?美味しくなかった?」
「そうではない。貴女の事を思ってだ。包丁など握って、貴女のその美しい手に傷がついたらどうする?釜戸の火で火傷をしたらどうする?貴女の心遣いは嬉しいが、それよりも俺は貴女の身が心配だ。俺を余り心配させないでくれ。」
「そんな・・・・・・」
それはユダの心からの懇願であったが、は些か気を悪くしたように唇を引き結んだ。
「そんな事、平気よ。私、こう見えてもお料理はし慣れているの。今更怪我なんてしないわ。仮にしても、包丁や火傷の怪我など、すぐに治るでしょう?」
「何を言う!?俺の気持ちが貴女には分からないのか!?」
「でも・・・・!」
気がつけば、二人は口論を始めていた。
「ならば貴方は、私の気持ちが分かるの!?」
「何だと!?」
「身一つで突然厄介になっておきながら、女王様のように振舞うなんて私には出来ないわ!」
「何を馬鹿な・・・!それで当然なのだ!この城の主である俺の最愛の女性に尽くすのは、この城で働く者にとって、俺の下に居る者にとって当然の義務だ!誰もそれを疑問になど思っていない!連中も当然のようにそうしているだろう!?」
「そうかも知れないけれど、私が平気ではないの!心苦しいのよ!!」
一際大きな声で怒鳴ったは、興奮の余り薄らと目に涙を溜めて言った。
「今日・・・・、とても嬉しかったの・・・・・。侍女の方達のお仕事を手伝って、心から喜んで貰えて・・・・・。私、とても嬉しかったわ・・・・・、必要とされていると実感出来て・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・彼女達だけじゃない。兵士や下働きの方々・・・・・、皆さんに喜んで貰えて・・・・・、美味しかった、有難うって言って貰えて・・・・・・・。そう言われて嬉しいと思う事は間違っているかしら・・・・?」
の言葉に、ユダはハッと気付かされた。
確かに昔は、職業を持って自立した女性になりたいと言っていた。
そして、出来ればその職業は、人の役に立てるものが良い、と。
人の喜ぶ顔が好きで、人に頼られると俄然力を発揮して、何でも自分から動く快活な性格で。
本来は、そういう女性だったのだ。
だがしかし。
ユダは剣呑な表情を浮かべて、低い声で呟いた。
「・・・・・・兵士や下男達にも、だと?」
「ユ・・・ダ・・・?どうし・・・」
「美味しかった、有難う、だと?どういう事だ、それは?」
「どういう事って・・・・、ただ、彼らのお食事を作っただけの事よ・・・・?」
は何でもない事のように言ったが、これがユダを決定的に怒らせた。
「・・・・・貴女という人は・・・・・・」
「な、何・・・・・!?」
「ご自分が何をなさったかお分かりか!?」
「ど、どうして怒鳴るの!?私、怒鳴られるような事など何も・・・」
「仮にもこのユダの妻となる立場でありながら、卑しい下女や下男達に媚びへつらったのか!」
「なっ、そんな言い方・・・・!」
尚も何かを弁解しようとするの肩を、ユダは強く掴んだ。
「良いか、貴女のした事は、貴女自身の威厳を失わせる行為だ!!この俺の威厳を失わせる行為だ!!俺はこの城の主、奴等の支配者だ!!その妻たる貴女が奴等に媚びるような態度を取れば、奴等は次第に貴女を気安く扱うようになる!そして、いずれはこの俺をも!!」
「そんな大袈裟な・・・!」
「何を言う!大袈裟などではない!あのように頭の足りぬ愚かな連中は、甘い顔を見せるとたちまち付け上がる!常に威圧し恐怖で支配せねばならんのだ!!」
「そんな、そんなのおかしいわ!」
「それが今の世の条理なのだ!!いや、平和だった時代からそうだ!!弱き者は強き者を仰ぎ傅き、強き者は弱き者共を束ね支配し更なる高みを目指す!!いつの世もそうではないか!!」
ユダは、今まで見せた事もない程の剣幕でに怒鳴った。
「現に見てみるが良い!奴等は己の立場も弁えず、既に貴女を気安い目で見ている!!」
「どうして・・・・・!?何をもってそんな風に決め付けるの!?」
「あれ程俺がきつく言い渡しておいたにも関わらず、貴女の世話を怠っているではないか!!」
「誤解はやめて!!これは彼女達の怠慢ではないわ!私が断ったのよ!」
「何だと!?」
「幼子ではあるまいし、自分の身の回りの事ぐらい自分で出来ます。着替えや入浴の手伝いなど、私には不要です。私から貴方にそう断っておくから、気にしないでこれからは構わないでと、私がお願いしたの。」
の言葉にうち震えたユダは、カッと目を見開くと部屋の扉を乱雑に開け放ち、足早に出て行った。
「ユダ、待ってお願い!!」
後を追って来るに構わず、ユダは大股で下女達の部屋に向かった。
そして、何十人からの下女達を寄せ集めて住まわせている部屋の扉を力任せに開き、驚いて飛び起きる彼女らを睨み下ろした。
「お前達、俺の命令に背いたな。」
「ヒッ・・・・、な、何の事で・・・・、ご、ございましょう・・・・!?」
「俺の命に背き、の世話を放棄した。お前達には何度も良く言って聞かせた筈だぞ。」
「そ、それは・・・・・!」
「それは、何だ?が断ったから、とでも言うつもりか?」
ユダは冷たい視線を下女達に向けた。
「断られても無礼のないよう尽くすのが、お前達の仕事の筈だ。ましてや俺の許可もなく・・・・。」
「もっ、申し訳ございません、ユダ様!!」
「何卒、何卒お許し下さい!!」
「お前達のした事を何と言うか知っているか?謀反だ。奴隷の分際で主の命に従わぬは謀反。その罪、お前達全員の命で償って貰うぞ。」
「ひっ、ひぃぃぃ!!!」
恐怖に震える女達に向かって、ユダが指先を伸ばしたその時だった。
「やめてユダ!!!」
ようやくユダに追いついたが、間一髪のところで彼女らの命を救った。
「彼女達を咎めないで!!咎めるなら私一人にして!!」
「・・・・!」
「私がいけなかったの!私が貴方に断りを入れておけば大丈夫だと言ったから・・・・!」
「部屋に戻っていろ、!」
「戻らないわ!!貴方も一緒でなければ戻りません!!彼女達には手を出さないで!!」
涙を零しながら下女達を庇うようにしてユダの前に立ちはだかる、そしてユダ、二人の睨み合いは暫し続いたが、やがてそれはユダが視線を逸らした事によって終結した。
「・・・・・・・ならば貴女も、二度とこのような勝手な真似はしないと約束してくれ。」
「っく・・・・・、うっ・・・・・・」
「良いな?」
「・・・・・・分かったわ・・・・・・、約束・・・・します・・・・・」
涙ながらに承諾したを優しく抱き締めて、ユダは下女達に言い放った。
「今日はに免じて許す。しかし次はないぞ。明日よりは今まで通り、いやそれ以上にに尽くせ。良いな?」
『はっ、はい・・・・!』
「・・・・・ごめんなさい、皆さん・・・・・・」
「様・・・・・・、そんな・・・・・・!」
「さあ、部屋へ戻ろう、。」
俯いたまま下女達に詫びるを引き摺るようにして、ユダは自室へ戻った。
部屋に戻っても、の涙が止まる事はなかった。
ブランデーを勧めても、バルコニーから月を見ようと誘っても、決して首を縦に振らないに、ユダは深い溜息をついた。
「・・・・・・、俺が悪かった。声を荒げた事なら詫びよう。」
「・・・・・そんな・・・・・・事じゃ・・・・・ないわ・・・・・」
「しかし、俺が詫びる事の出来る点は、そこしかない。何故なら俺が貴女に言った事は、俺の本心だからだ。」
「・・・・・・・・・・」
ベッドに浅く腰掛けたまま俯いているをそっと抱いて、ユダは話を続けた。
「貴女はこの俺の妻、何物にも替え難い俺の宝だ。貴女にはこの俺の城で、俺の隣で、女王のように凛と輝いていて欲しい。その為に威厳は必要なのだ。」
「・・・・・・・」
「だから俺は別に、貴女を子供扱いしている訳ではない。ただ貴女に、俺の与え得る限りの栄華を与え、幸福を与えたいだけだ。それ以外に他意はない。信じてくれ。」
乞うように言っても、はまだ顔を上げなかった。
のその意固地にも見える姿勢が、ユダにとっては辛かった。
自分を差し置いて、そんなにも取るに足らぬ連中の事を気遣うのか、と。
「貴女は・・・・・・・、俺一人の想いだけでは足りぬと仰せか・・・・・」
「・・・・・・ユダ?」
「何も奴隷共から慕われようとせずとも、貴女は既に人から必要とされているではないか。他ならぬこの俺から・・・・・」
「あ・・・・」
「それだけでは足りぬか?俺の想いだけでは、貴女は満足出来ないのか?」
「違・・・・、私、そんなつもりじゃ・・・・・!」
ようやく顔を上げたは、涙に濡れた顔のまま弁解を始めた。
「違うわ、ユダ・・・・!私はただ、お世話になった人達に恩返しがしたくて・・・!少しでも役立ちたくて・・・・!貴方と結婚してこの城の住人になるなら、彼らに快く迎えて貰えるように打ち解けたくて、それで・・・・!」
「・・・・・・・」
「貴方にだってそうよ・・・・・・。私はいつでも何でも、貴方から一方的に与えられるだけ・・・・・・。せめてお食事ぐらい作ってあげたい、何も持っていない私でも、少し位何か貴方にお返しがしたい、そう思ったから・・・・!」
「・・・・・・・」
時々涙で詰まりながらも必死で訴えるを、ユダは強く胸に掻き抱いた。
「・・・・・・貴女の気持ちはとても嬉しい。貴女がそう思ってくれるように、俺も貴女に少しでも多くのものを与えたい。貴女が俺に分かって欲しいと願うように、俺も貴女にこの気持ちを分かって欲しい。」
「ユ・・・・ダ・・・・・・・」
「俺は貴女に何も望まない。ただ一つ、この俺を愛する事以外は。俺はただ貴女に、いつでも俺の隣で花のように美しく咲き誇り、俺だけにその微笑みを向けて欲しいと願っているだけだ。俺の願いはただそれだけなのだ・・・・・・」
「あ・・・・・・」
気が付けば、はユダの口付けを受けていた。
「愛している、・・・・・。誰よりも誰よりも、美しく咲いて欲しい・・・・・。この俺の腕の中で・・・・・・・」
「ぁ・・・・・・・・」
そのままゆっくりとベッドに組み敷かれていくには、ユダの言葉を深く考える気力など、もう一片たりとも残っていなかった。