今夜は、月が美しい夜だった。
思えば二月前のあの時、を初めて抱いた夜も、こんな風に美しい月が昇っていた。
開け放した執務室の部屋の窓から、少し涼しくなった風が吹き込んで、身も心も清涼にしてくれるような気がする。
清らかなクリーム色の月をもっとよく見たくて、ユダは腰掛けていた椅子から立ち上がり、窓辺に立った。
美しいものは好きだ。美は何にも勝る宝だ。
宝石も美術品も音楽も、衣服も人の顔かたちも、美しければそれは全て宝なのだ。
髪を長く伸ばし、身に着けるものに気を配るのは、ただ偏に美を愛するが故。
しかし、拳王直属の軍の中には、己の事を愚弄する者が少なからず居る。
天下を狙う将の一人でありながら、女のように髪を編んだり、絹のスカーフなどを身に着けるなど、男として正気の沙汰とは思えん、などと。
しかしユダに言わせれば、考えられないのはその連中の方だった。
整えられたしなやかな髪は、頭部において何にも勝る装飾であるし、色美しい鮮やかな柄の絹のスカーフは、味気ない戦闘服に華やぎを加えてくれる。
不潔なざんばら髪を無骨な鉄仮面に押し込み、着たきりであちこち破れた汗臭い戦闘服を何日も着続けているような男の方が、余程無様で醜いではないか。
それが男のあるべき姿、身なりに構うのは女の仕事、とは、全くもって浅はかな単純思想だ。
美を愛する心に、男も女もないというのに。
現に己は、自分の性が男である事を良く自覚しているし、女になりたいとも思っていない。
ただ美しいものが好きなだけ、美しくありたいだけなのだ。
そう、己は男として、女であるを愛している。今も昔もずっと。
そしては、生まれて初めて覚えた美。生まれて初めて手にした宝だ。
「・・・・・・・・」
薄らと微笑んで、ユダは傍らに置いていたバイオリンを手に取った。
美しい旋律が、遠い月に向かって緩やかに流れていく。
それはもう何度となく練習した、あの曲の主旋律だった。
作曲者が後に妻となった女性に捧げた、あの美しい曲。
昔、屋敷のピアノでが苦心しながら練習しているのを聴いて、初めて自分でも楽器を奏でてみたいと思ったのだ。
この曲を二人で演奏出来たら、どんなに素晴らしいだろうか、と。
だが、バイオリンを手に入れた直後、肝心のはあの男の元に嫁いでしまった。
いつか妻にする事を夢見た女性は、違う男の妻となってしまった。
何日も悔し涙に頬を濡らし、バイオリンは手に入れたきり、ケースに入れたまま部屋の隅に放り出していた。
それを取り出したのは、涙が尽きた頃だった。
どうしても諦めきれなかったのだ。
と過ごした輝かしい日々の事も、自身の事も。
にまつわるもの全てを捨てる事が出来ず、が居なくなった広いだけの寒々しい屋敷で、
一人あの曲を練習し続けたのだ。
まるで、思い出を必死でなぞるように。
だが、失くした夢は十年経ってようやく戻って来た。
今度こそ、失くしはしない。
あの時描いた夢の全てを、今度こそ実現させてみせる・・・・・・
「ユダ様。」
「只今戻りました。」
「・・・・・・・・お前達か。」
不意に背後から聞こえた声に反応したユダは、バイオリンを奏でていた手を止めて振り返った。
「様のいらした村を見つけて参りました。」
「クヒクヒ、家の者もおりましたぞ。亭主らしき男が一人と、その両親らしき年寄りが二人。」
「村を治めている拳王部隊には、既に手を回しておきました。あの一家の事は、何が起きても目を瞑るように計らっております。」
「そうか、ご苦労。」
ダガールとコマクを形ばかりに労ったユダは、不敵な笑みを浮かべた。
「明日になったら早速向かうぞ。小隊を一隊用意しておけ。それで十分だ。」
「はっ。」
あの男の事は、パーティーまでに片を付けておきたかった。
いよいよ明日それが叶うと思うと、いてもたってもいられない程、に逢いたくなった。
私室に戻ってみれば、部屋の灯りはもう消えていた。
「・・・・・・?」
抑えた声で呼びかけながらベッドに近付いたら、の微かな寝息が聞こえてきた。
そういえば、今夜は執務で遅くなるから先に寝ていろと言い渡していたのだった。
それを思い出したユダは、苦笑交じりに衣服を脱ぎ去り、上掛けを捲っての隣にそっと身を横たえた。
執務で遅くなるというのは嘘だった。
本当は、一人で密かにあの曲を練習する為だったのだ。
当日まで内緒にしておく方が、きっとの驚きと喜びも大きいだろうから。
それにしても、先に寝ていて構わないと言ったのは自分自身だが、いざ本当にそうされると少し寂しい、などと思うのは我侭だろうか。
「・・・・・・・・」
白い絹のネグリジェに包まれた胸の膨らみが規則正しく上下するのを、ユダはじっとりと熱を帯びた瞳で見つめていた。
だが、はその視線に気付く事なく、安らかな眠りを楽しんでいる。
「・・・・・・フッ・・・・・・」
それを邪魔するのはやはり悪い気がして、ユダは小さく頭を振った。
滾るような欲望を、今夜のところはどうにか追い払わねば、と。
それでなくとも、殆ど毎日と言って良い位に求めているのだ。
もきっと、疲れているのだろう。
「おやすみ、・・・・・・・・・」
それに、こうして愛するの寝顔を見つめながら、穏やかな夜を過ごすのも悪くはない。
柔らかな黒髪を何度も撫でて口付けながら、ユダは夢の中に引き込まれるまで、の寝顔を見つめ続けていた。
「ん・・・・・・・・」
温かな何かが身体に纏わり付いているのを感じて、は薄らと瞼を開けた。
「ユダ・・・・・・・」
「おはよう、・・・・・・・」
「おはよう・・・・・・」
ふわりと包み込むように身体を抱いているユダの逞しい腕の中で、は薄らと微笑んだ。
「昨夜は遅かったのね。貴方がいつ戻って来たのか、全然気付かなかったわ。」
「ああ、少しな。貴女が余りにも良く眠っていたから、起こすのが忍びなくて。」
「まあ、ごめんなさい。私ったら何も気付かなくて。ふふっ、恥ずかしいわ・・・・・。」
「そんな事。眠っている貴女を見ているのも幸せだった。」
ユダはの額に軽く口付けると、起きるように促した。
「そろそろ下女が支度に来る頃だろう。もう起きた方が良い。」
「そうね。」
「それから、俺は今日、所用で出掛ける。」
「どちらへ?」
の何気ない質問に、ユダは曖昧な笑みを答えとして返した。
「今日中には戻る予定だ。どんなに遅くても、明日には必ず戻る。寂しいだろうが、俺が帰るまで待っていてくれ。」
「ええ。気をつけて。」
「貴女が来てから城を空けるのはこれが最初だから心配だよ。何かあったら、城の誰かにすぐさま言うんだ、良いね?」
「あら。六つも年上の私を子供扱いしないで。私なら平気よ。」
「それは失礼。」
ふざけて口を尖らせてみせるを、ユダは愛しげに見つめた。
「そうだ、パーティーの日取りが決まった。一週間後だ。」
「そう。」
「パーティーでは、またあの曲を弾いて欲しい。」
「SALUT D’AMOURの事?」
「ああ。俺はあの曲が一番好きだから。」
「そう。ふふっ、じゃあ貴方のお留守の間に、猛練習しなきゃね。」
「そうしてくれると有り難い。」
ユダはの唇にまた軽いキスを落とすと、ガウンを羽織った。
「では、俺はこれで。そろそろ出立の準備をせねば。」
「気をつけて。お帰りを待っているわ。」
「有難う。すぐ戻る。」
優雅な微笑みを一つ投げ掛けてに背を向けたユダは、立ち去りかけてまた振り返った。
「・・・・・・、愛してる・・・・・・・」
「ユダ・・・・・・・・・」
「貴女は?」
「え?」
「貴女は俺を愛しているか?」
ユダのその問いかけに、は即答する事が出来なかった。
「・・・・・・・・ええ、愛しているわ・・・・・・」
暫しの沈黙の後、はユダの瞳をまっすぐに見つめながら言った。
即答出来なかったのは、愛していないからではない。少し驚いただけなのだ。
今まで、このように訊き返される事は無かったのだから。
突然求められた気恥ずかしい台詞を口にする事に、少し戸惑っただけなのだ。
ただそれだけなのだ・・・・・。
「・・・・・・すぐに戻る。」
「行ってらっしゃい。」
今度こそ出て行くユダの背中を見送って、はそう自分に言い聞かせた。