と再会出来た時の驚きも、少し遠く感じられるようになったこの頃。
ユダは満ち足りた思いで毎日を過ごしていた。
一番幸せだと思っていた幼き頃よりも、遥かに大きな幸せを感じている。
毎日があの頃の続きのようで。
それでいて、今はあの頃より更に多くを求められる状況になっている。
それはつまり、あの幼き日の大切な約束を果たせるようになった、という事であった。
夜が訪れ、ひっそりと静まり返った城内を、ユダは一人歩いていた。
目指すのは勿論の部屋。
昼間の暑さが嘘のような涼しい風が吹き抜ける廊下を、ユダは上機嫌で歩いた。
逸る気持ちに任せて歩いたせいか、もう目の前にはの部屋の扉がある。
コンコンとノックしてみれば、すぐに中からが顔を出した。
「姉様。今宵は月が綺麗だ。少し飲まないか?」
「ええ、入って。」
ユダは部屋の扉を閉めると、持参したワインをクリスタルグラス二つに注ぎ分けた。
「赤ワインはお好きだったかな?」
「ええ、有難う。」
「では乾杯だ。姉様に。」
「あなたに。乾杯。」
チン、とグラスを合わせて、二人はゆっくりと中身を飲み干した。
「ふふっ、あなたとお酒を飲む日が来るなんて、考えてもみなかったわ。」
「俺もだ、姉様。」
ユダは満足そうな笑みを浮かべると、を連れ立ってベッドに腰掛け、大きな掃き出し窓の外に見える月を仰いだ。
「ご覧、姉様。何と美しい月だろう。」
「そうね。」
「こうして姉様と過ごす時間が、一番落ち着く。」
「ふふ、私もよ。」
ユダはに微笑みかけて、その腰をそっと抱いた。
「こんな日をずっと待っていた。大好きな姉様、俺のたった一人の・・・・・・」
腰に添えられていただけの逞しい腕がいつの間にか背中に回り、気付けばは、ユダの胸に抱き竦められていた。
「ユダ・・・・・・・」
「姉様。実は今日は、話があって来たんだ。」
「・・・・・・なあに?」
「姉様・・・・・、姉様はあの日の約束を覚えておいでか?」
「あの日の・・・・・約束?」
「大きくなったら、姉様は俺と結婚してくれる、昔そう約束してくれただろう?」
「あ・・・・・・・・」
ユダには悪いが、正直今の今まで忘れていた。
遠い昔の、子供の他愛ない約束だ。覚えている方が珍しいだろう。
だが言われてみれば、確かにそんな事を言った覚えがある。
「あの約束・・・・・・、あなたまだ覚えて・・・・?」
「フッ・・・・・、酷いな。当然ではないか。あの約束は、俺にとっては子供の遊びなどではなかった。本気だったのだ。」
「え・・・・・・・・」
「姉様、今こそ『その日』が来た。俺の妻に・・・・・なってくれるね?」
ユダは口付け易いように少しの身体を離すと、唇を重ねようとした。
「・・・・・っ、駄目・・・・・!」
だがはユダの口付けを拒み、その身体を押し返した。
「・・・・・・何故?」
「駄目なのよ、ユダ・・・・・・・・」
「何故だ!?あの日約束したではないか!何故・・・・!」
「それは・・・・・・・・」
人は変わるものだと、いつかユダは言っていた。
その言葉通り、ユダは確かに変わった。
だが、それと同じく自分自身もまた、あの頃の無垢な少女ではない。
「それは・・・・・・・」
「それは?」
「私は・・・・・、夫のある身よ。貴方も知っているでしょう?私の夫・・・・。」
「・・・・・・・まだ、まだあの男の元に居たのか。」
忘れたくても忘れられる筈がない、この世で一番憎い男。
の口からその男の存在を聞きたくなくて、今まで話をはぐらかしてきたのに、とうとうその恐れていた事が起こってしまった。
「居るわ・・・、いいえ、居たの、少し前までは。あの日、十年前のあの日・・・・・、あの日も私達、二人で遊んでいたわね・・・・・」
悲しげな視線を遠くに投げたは、ぽつぽつと語り始めた。
まるで懺悔のように。
「ユダ、あなたのお家はあの頃、没落寸前だったの。小父様の事業がずっとうまくいってなくて、お家の実情は火の車だったそうよ。」
「何だって・・・・・!?」
「知らないのも無理はないわ。あの頃あなたはまだ十歳だったものね。私も知らなかったわ、あの日、小父様と小母様に彼を紹介された日までは。」
「まさか・・・・・、まさか父と母は姉様を売ったのか!?」
「いいえ!いいえ違うわ!私の事を思ってして下さった事よ!」
は、ユダの言葉を鋭く遮った。
「没落した家で苦労する人生を歩むよりは、多少早くても、立派なお家の奥方になる方が私の為だと。大事な親友から預かった大切な娘に親としての責任を果たしてやらない事には、親友、私の亡き両親に、あの世に行った時に合わせる顔がないと。嫌がった私に、小父様と小母様は涙ながらにそう仰って下さったのよ・・・・。」
「そんな・・・・・・」
仮にそれが両親の本心だったとしたら、自分もそうだったのだろうか。
が嫁いだ後、何も聞かされぬまま南斗の道場に送り込まれたが、それも同じ、苦労を背負わせたくないと考えての事だったのか。
或いは力をつけ、家の再興を果たせと願いを込めての事だったのだろうか。
だが己の事は良い。
両親の思惑がどうであれ、幼かった己自身も確かに力を望み、道場に入ったのだ。
後悔など、今も昔もした事がない。
家の事も今となってはどうでも良い。
問題はの事だ。
たとえ真心から起こした行為だとしても、ユダは亡き両親を恨まずにはいられなかった。
「そんな・・・・・・・」
「だから私は縁談を受けたの。でも、毎日泣いてばかりだったわ。たった一時間程顔を合わせただけの男の人に、それも十も年上の人に、愛もないまま嫁ぐのですもの。あの頃の私には、どうしてもその結婚を喜ぶ事が出来なかった。」
「だから・・・・・、だから姉様は、あれから俺に会ってくれなくなったのか?」
「そうよ。あなたと遊んでいたら、離れたくなくなってしまいそうで。小父様と小母様のご厚意に逆らってしまいそうで・・・・・・。だから、会わなかったのよ。」
ごめんなさいね、は小さな声でそう詫びた。
「嫁いでからは、努めて気持ちを切り替えるようにしたわ。これも何かの縁、夫となった人に精一杯尽くしていこうと。けれど私は若すぎた。世間知らずだったの。そんな私に、年配で厳格な夫の両親が厳しく当たるようになるのに、そう時間はかからなかったわ。」
「何を馬鹿な・・・・・、姉様は何だって出来たではないか!勉強だって運動だってピアノだって!そんな老いぼれ共に文句をつけられる筋合いは・・・」
「『妻』として求められるのは、そういうものじゃなかったのよ。夫とその両親への絶対服従の心、広い理解、色んな方との息の詰まるようなお付き合い。たった十六で嫁いだ私は、そのどれもが満足に出来なかったわ。」
翳りのあるの表情を見て、ユダは心を引き裂かれるような痛みを覚えた。
嫁ぐ前のは、決して大人しいだけではない、快活で己の意見を持つ娘だった。
通っていた学校ではいつも責任ある役につき、将来は職業を持って自立した女性になりたいと言っていた。
そんなが、よりにもよって何百年昔のような古めかしい家風の家に嫁がされたのだ。
己の意見を聞いても貰えず、何をされても黙って耐えて。
そんな事をが出来る訳がない。うまくいく筈もないのは容易に想像出来る。
それは、今だからこそ想像出来る事だが。
「・・・・だがそんなご苦労の事など、俺は何も・・・・・・・」
「当然だわ。里帰りはおろか、手紙を書く事すら許されなかったのだから。」
「なんと・・・・・・」
そんな生活を何年も続けていれば、かつての溢れ出るような輝きが曇るのも無理はない。
その頃に今の己が居たならば、家人皆殺しにしてを連れ帰ったものを。
ユダはかつての己の無力を呪った。
「私の結婚生活は、幸せとは言えなかった。そしてその生活は、あの核戦争があった後も・・・・、いえ、その後から益々酷くなった。お金だけはあった家だったけど、そんな物、今の時代ではただの紙切れ。私達の生活はどん底に落ちてしまった。私はその日その日食べる物を調達する為、朝から晩まで馬車馬のように地べたに這いつくばって働いたわ。」
「そんなにまでご苦労を・・・・・」
「そんなある日、拳王軍が村へ攻めて来たの。そこで私は、貢物として拳王軍に差し出されたわ。舅の手によってね。けれど、もうどうでも良かった。殺されるなら殺されるで構わなかった。でも気がつけば、私はここに居たわ。」
そこから先の話は、もう聞くまでもない。
ユダはの話を遮り、口を開いた。
「俺は今、拳王軍の配下に居るのだ。形ばかりだがな。拳王が褒美をやるというから行ってみれば、驚いた・・・・・。まさか姉様だったなんて。」
「そういう経緯だったのね・・・・・・。」
「あの男は・・・・・・、拳王に差し出されようとする姉様を庇いはしなかったのか?」
「・・・・・・ええ。あの人は、両親に逆らう事の出来ない人だから。」
ぽつりと呟いたに、ユダは微かに震える声で告げた。
「・・・・・姉様、そんな男は夫などではない。縁はもう切れた。姉様はもう自由の身なのだ。」
「ユダ・・・・・・」
「何を気にする事がある。そんな男の為に、私との約束を反故にするおつもりか・・・・?」
「ユダ、ごめんなさい・・・・・・」
ユダの強い視線を受け止めきれず、は俯いたまま呟いた。
「たとえもう二度とあの人の元に戻る事がなくても、私はもうあなたが慕ってくれた私ではないわ。」
「何・・・・だと・・・・・・」
「あなたが昔の私を懐かしむ度に、昔と同じように『姉様』と呼んで慕ってくれる度に、私は・・・・・・、心が痛むの・・・・・。私はもう、あの頃の私じゃない。あなたは私を買い被りすぎているわ。私は疲れきってくたびれ果てた、只のつまらない女よ。あなたの姉と名乗る事もおこがましい程の・・・」
「違う!!!」
ユダはそう叫んで、を強く抱きしめた。
「違う・・・・!違う違う違う!!」
「ユダ・・・・・・!」
「つまらない女などではない!!姉などではない!!貴女は・・・・!貴女は俺の・・・・、唯一人愛する女なのだ!!」
もうこれ以上待てない。
十年想い続けてとてつもなく膨れ上がったへの愛に背中を押されて、ユダはをその場に組み敷いた。