真夜中を過ぎて、嵐はより一層酷くなっているようだった。
雷鳴が轟き、激しい風雨が吹き荒れて、まるで今しがたの夢そっくりだ。
目を凝らせば、闇の中に血塗れで横たわっているオウガイの姿が浮かび上がってきそうな程に。
「っ・・・・・・・!」
サウザーは一瞬、恐怖に身を竦ませたが、すぐに我に返ると、軽く頭を振って窓から目を背けた。
「・・・・フン、馬鹿馬鹿しい・・・・・・・」
そんな事がある訳ない。
しかし、そうと分かってはいても、サウザーの脳裏にはまださっきの悪夢の余韻が残っていた。
オウガイの命を奪ってしまった夢は、昔でこそ何度も見たが、もう長らく見ていなかった。
それなのに、何故今頃になって見たのだろう。
しかも、あれ程恐ろしい形で。
本当に酷い夢だった。
あんなにおぞましい夢を見たのは初めてだった。
今もまだ背筋が凍りついている感じがして微かに身震いしたその時、が戻って来た。
「・・・・もう落ち着きましたか?」
サウザーが返事をしないでいると、はベッドサイドのランプに火を灯し、水差しからコップに水を注いでサウザーに差し出した。
手渡された瞬間、何故か猛烈な喉の乾きを覚えて、サウザーはそれを一息に飲み干した。
は、瞬く間に空になったコップを黙って受け取ると、手拭いでサウザーの汗を拭き始めた。
額にも、裸の胸にも背中にも、全身にびっしょりと冷や汗を掻いている。
乾いた手拭いでそれを拭き取られると、不快感と共にあの恐怖の余韻までもが幾分拭い去られる気がした。
「・・・・随分、恐ろしい夢だったのですね。」
「・・・・・・・・」
「どんな・・・・夢だったのですか?」
「・・・・・・何?」
「どんな夢だったのか、話して下さいませんか?」
「お前に話す必要などない。」
サウザーは冷たくそう言い放ったが、は引き下がらなかった。
「・・・・・貴方、うわ言で『許して下さい』と繰り返していました。貴方の声、泣き声のように・・・・・震えていました。」
「・・・・・・・」
「話して下さいませんか?誰かに話せば、少しは気が楽になります。・・・・私がそうでしたから。」
「・・・・・・・」
「今度は私が聞く番です。貴方のお話を。」
ランプの仄かな灯りに照らされたの表情はハッとする程温かく、柔らかで、
サウザーには一瞬、がまるで本物の救いの女神のように見えた。
そんなものはこの世に存在しないと分かっていても、それでも。
「・・・・・・・・・殺した夢だ、我が師・オウガイを、この手で・・・・・・」
気付けば、サウザーの唇は、ひとりでに言葉を紡ぎ始めていた。
「俺は嵐の中、目を塞いで、何処の誰とも分からぬ敵と闘っていた。初めての真剣勝負だ。
南斗鳳凰拳の伝承者となる為の試練だと、師に命じられての闘いだった・・・・。」
夢であって、決して夢でない出来事。
これまでずっと心の奥底に封印していた、過去の忌まわしい出来事。
それをサウザーは口にしていた。
「俺は間一髪で敵を倒した。そして、目隠しを取った。すると、そこに倒れていたのは、我が師・オウガイだった・・・・・・。」
「・・・・・・・・」
「俺は、相手が師だとは思っていなかった。何も知らなかった。俺は息絶えた師を掻き抱いて、
ひたすらに泣いた・・・・・。すると、死んだ筈の師が俺の名を呼んだ。死んだというのは俺の勘違いだ、
俺如きが偉大な師・オウガイを倒せる訳がなかったのだ、俺はそう思って喜びかけた。
だが師は、見た事もない程恐ろしい形相で、俺を責め苛み始めた・・・・。」
「どのように・・・・ですか?」
サウザーは、一瞬躊躇ってから答えた。
「・・・・・『お前のような恩知らずなど育てねば良かった』と。『儂は死にたくなかった』と・・・・。」
「・・・・・・」
「そして師は、狂人のような笑い声を上げながら『お前が死ねば良かったのだ』と繰り返し、
俺の顔に血みどろの手を擦り付けてきた・・・・・。」
サウザーはそこで押し黙った。
「恐ろしい・・・・・夢ですね。あんなにも優しげで、お幸せそうな師父様が・・・・」
「・・・・・何?」
サウザーは一瞬、耳を疑った。
優しげ、はともかく、『幸せそう』などという言葉が何故出てくるのか、と。
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味です。貴方の師父様は、とてもお幸せそうに見えましたから・・・・。
あの方はきっと、天寿を全うし、安らかに旅立って行かれたのでしょうね。」
の言葉は、サウザーの神経を逆撫でした。
もしオウガイの死が、寿命尽きての事だったのなら、天寿を全うした末の安らかな往生だったのなら、
誰がこんなに苦しむものか。
サウザーは心の中で、そう叫んでいた。
「・・・・お前に何が分かる?」
心の叫びを声に出す代わりに、サウザーは険しい目付きでを鋭く睨み付けた。
ところがは全く動じず、静かな声で答えた。
「・・・・あの方を見ていると、そう思えました。私は12年前からこれまで、多くの死者を見てきましたが、
あのように穏やかで綺麗な表情をしている人を見たのは、貴方の師父様が初めてでしたから。」
「っ・・・・・・!」
こんな答えが返ってくるとは思いもせず、サウザーは思わず言葉に詰まった。
「人の亡骸の表情には、亡くなる寸前の思いがオーラのように宿っています。あの方の表情は、
生を全うした人のそれでした。この世での役割を終えて天に呼び戻され還っていく・・・・・、
ごく自然な生命の流れに沿えた人のものでした。」
の話は、何処かで聞いた事のあるような話だった。
遠い昔に、誰かから。
「あの方からは、何の苦しみも恨みも感じ取れませんでした。むしろ幸せそうな、
満足そうな思いが伝わってきました。だからきっと、この方はお幸せな最期だったのだろうと・・・・」
そう、オウガイの教えと同じだった。
生命の流れ、自然の摂理。
巡り巡る命の環。
在りし日のオウガイも、同じ事を説いていた。
「違う・・・・・・・」
サウザーは己の手を見つめながら、微かに震える声で呟いた。
「・・・・・俺の見た悪夢は、単なる夢ではない。半分は真実だ。」
「・・・・どういう意味ですか?」
「俺がこの手で師の命を奪ったのは、事実なのだ・・・・・。」
オウガイの命を絶ち切ってしまった手を、恨めしげに見つめながら。
「俺は赤子の頃、この地に捨てられていた。師は、そんな何処の誰とも分からぬ俺を拾ってくれた。
そして、子のなかった師は、俺をまるで実の子のように慈しんで育ててくれた・・・・・。」
サウザーは今この一時、帝王である事を忘れていた。
聖帝ではなく、只の一人の人間となって、過ぎ去りし日々を思い起こしていた。
「だが、師・オウガイは南斗鳳凰拳の伝承者、そして俺はその後継者。
俺達はあくまでも師弟の関係だった。故に俺は、まだ幼い内から厳しい修行に明け暮れた・・・・・。」
真夏の炎天下でも、真冬の吹雪の中でも、毎日休む事なく繰り返した過酷な修行。
傷を負わぬ日は、血を流さぬ日は、1日たりともなかった。
痛くなかった訳ではない。
苦しくなかった訳ではない。
しかしサウザーにとっては、それを耐え抜いた後の喜びの方が遥かに大きかった。
「しかしそこにはいつでも、師の愛が、温もりがあった。どんな厳しい修行にも、俺は耐えられた。
辛いと思った事は一度もなかった。
師が常に俺を見守り、俺が一つ技を体得する度に、その温もりで俺を優しく包んでくれたからだ。
俺はひたすら師の温もりを求めて、修行をこなしていった。」
よくやったと褒めてくれる、あの低い声。
頭を撫で、傷の手当てをしてくれる、あの大きな手。
抱きしめてくれるあの大きな温もりと、押し当てた耳に心地良く響く胸の鼓動。
愛を捨てた今も尚、サウザーの中には、そんな愛の記憶が決して色褪せる事なく残っていた。
そして、愛を失くしたあの日の事も。
「俺が15になった時、さっきの夢と同じ命令が俺に下された。俺は師の命令に従順に従い、
勝負の場に立った。そして俺は命令通り、敵を倒した。それがまさか師自身だとは露程も知らずに・・・・・」
わざわざ夢に見ずとも、あの日の出来事は、未だにサウザーの心を強く苛んでいた。
それは正に悪夢そのものだった。
夢なら早く覚めてくれと、あの時、どれ程強く念じた事だろう。
「師は、それを我等の宿命だと言った。
南斗鳳凰拳は一子相伝の拳法、伝承者は新たなる伝承者に倒されていくものなのだと、
悔いはない、と・・・・・・。そして師は、俺の腕の中で、優しく微笑んで息絶えた・・・・・・」
師・オウガイの最期の微笑を、そして、あの狂いそうな程の悲しみを思い出して、サウザーは唇を噛み締めた。
「かわせる筈だったんだ、あの人ならば・・・・。俺の実力は、決してあの人を上回ってなどいなかった、
その事は誰よりも俺が一番良く知っていた・・・・。それなのにあんな、かわすにかわせなかったなどと、あんな嘘を・・・・・」
サウザーは今、そこにが居る事も意識していなかった。
「こんな・・・・・・、こんな馬鹿な話があるものか・・・・・・・」
20年もの間、人知れず抱えてきた苦悩を、ただ吐き出しているだけだった。
「俺は、あの人の温もりを追い求める一心で腕を磨き、南斗鳳凰拳を会得したのだ・・・・・。
それなのに・・・・、まさかこの拳で・・・・・、この拳で・・・・・・、あの人の命を・・・・・・」
サウザーは固く握った拳を睨み付けた。
無念の思いを込めて、睨み付けた。
「あの時、こうなると分かっていれば、俺は・・・・・」
サウザーの声が微かに震えた瞬間、一際大きな落雷の音が轟いた。
その轟音が、二人の間に沈黙をもたらした。
何十秒か、或いは何秒か。
短いようで長い時間だった。
しかし、やがてその沈黙を破るようにして、の手がサウザーの拳にそっと重ねられた。
「・・・・・無償の愛だったのですね。」
「・・・・・無償の・・・・愛・・・・・?」
「貴方と師父様を結ぶ愛は、無償の愛だったのですね。たとえ血の繋がりはなくても、
あくまでも師弟関係であったとしても、貴方がたは紛れもなく、親子の絆で結ばれていたのですね。」
「親・・・子・・・・・」
誰かにそんな風に言われたのは初めてだった。
実の子のように慈しんで育ててくれたオウガイでさえはっきりと口に出してそう言った事はなく、終生、あくまでも師として在り続けた。
そしてサウザー自身もまた、オウガイを深く敬愛しながらも、あくまでも弟子として在り続けた。
親を知らぬサウザーには、今の今まで知りようもない事だったのだ。
あの愛を、『無償の愛』と呼ぶのだとは。
あの温もりが、『親子の絆』だとは。
「俺と・・・・・、お師さんが・・・・・・・・」
敬愛する恩師、偉大なる先人、命の恩人。
サウザーにとってオウガイは、とてもそんな言葉では言い表せない人だった。
何故言い表せなかったのか、その答えを今、サウザーは見つけた。
サウザーの中でオウガイは、正真正銘の『親』だった。
サウザーにとってオウガイは、血よりも濃い絆で結ばれた、唯一の肉親だったのだ。
「無償の愛とは、時に残酷なものですね。親はその愛ゆえに、時として子に狂おしいまでの苦しみを
与えてしまう・・・・・・。親自身、知らず知らずの内に・・・・・・。」
の話は、サウザーの心にぴたりと寄り添った。
「親の居ない世界にたった一人取り残される事など、子は望んでいないというのに・・・・・。」
サウザーも同じ思いだった。
オウガイの居ない世界にたった一人で取り残される事など、望んではいなかった。
オウガイの命と引き換えにしてまで、伝承者の座など欲しくはなかった。
あの時、勝負の相手がオウガイだと分かっていれば、何と言われようと決して挑みはしなかった。
たとえ破門されようが、たとえ殺されようが、決して。
「けれどきっと、そうせずにはいられなかったのでしょう。貴方の師父様も、私の一族の大人達も・・・・・・」
サウザーはの言葉を噛み締めるように、ひっそりと瞼を閉じた。
の両親や一族の者は、子を守る為、子への無償の愛ゆえにその身を盾にして死んでいったが、オウガイもまた同じだったのだろうか。
そしてそれ故に、死を当たり前のように受け入れ、微笑んで逝ったのだろうか。
瞼の裏にオウガイの面影を浮かび上がらせながら、サウザーはそんな事を考えていた。
「俺は・・・・・・・」
願ったのは、南斗鳳凰拳伝承者の座ではない。
最強の帝王の力でも、絶大な権力でもない。
ただ、オウガイとのささやかで何気ない暮らし、安らぎと温もりに包まれていた穏やかなあの日々が、永遠に続く事だった。
欲しいものはただ一つ、愛だった。
「俺は・・・・・・・・!」
サウザーは、両手で顔を覆った。
そうでもしないと、涙が溢れてきそうだった。
「・・・・・これを。」
するとは、腰の巾着袋から何かを取り出し、サウザーに差し出した。
サウザーは顔を少し持ち上げ、それを睨むように一瞥した。
「・・・・・何だそれは?」
「催眠薬です。先日、貴方を騙して飲ませようとした・・・・、あの薬です。気鬱が晴れて、ぐっすりと眠れます。」
罵倒して払い除ける事は、何故か出来なかった。
に気を許したのではない。信じた訳でもない。
ただ今は、憎み、疑い、責める気力がなかった。
「恐ろしい夢も、悲しい過去も、今は何もかも忘れておやすみなさい。私が側についていますから・・・・・。」
「お前・・・・・・」
サウザーは、の瞳をじっと見つめた。
「・・・・何故、俺に情けをかける?あわよくば処刑を免れようという魂胆か?」
「今、私の目の前に居るのは、私を処刑する聖帝ではありません。傷付いて苦しんでいる、サウザーという一人の人間です。」
の瞳は、嘘を吐いている者のそれではなかった。
優しく、温かく、真摯な光を宿していた。
「最期に貴方一人だけでも、せめて一時だけでも、救いたいのです・・・・・。」
そして、美しい涙の粒を湛えていた。
「・・・・・・・・」
サウザーはの手から薬を取り、口に含んで飲み下した。
に気を許したつもりはない。
の罪を赦したのでもない。
ただ、オウガイを亡くしてから、一人の人間として誰かと接した事は、思えばこれが初めてだった。
今ばかりは何もかもを忘れたい、そんな気持ちになったのも、これが初めてだった。
「・・・・・・・・」
サウザーはベッドに座ったままゆっくりと手を伸ばし、の腕をそっと掴んで静かに引き寄せた。
腕の中に抱き入れると、の腕がサウザーの頭を優しくかき抱いた。
サウザーは今、ジプシー・クイーンを捕えようとする聖帝ではなく、只の一人の男だった。
もまた、聖帝に追われるジプシー・クイーンではなく、只の一人の女だった。
は柔らかく、温かかった。
これまで散々抱いたのに、何故、今の今まで気付かなかったのだろう。
「・・・・・・・」
サウザーはおずおずとの腰に両腕を回し、縋るようにを抱きしめた。
その青い瞳からは、知らず知らずの内に涙が一筋、伝い落ちていた。