それ以来サウザーは、必要以上にと接触しなくなった。
認めたくはなかったが、の言葉に揺れ動いている自分が居る事を、そして、己の内なる声から解放されたを羨む気持ちがある事を、サウザーは確かに感じ取っていたのだ。
― 馬鹿な。俺とあの女では、背負っているものが違うのだ。
只の女であると、自分は違う。
宿命も、罪の重さも、何もかもが。
サウザーは何度も己にそう言い聞かせた。
オウガイの命と共に受け継いだ一子相伝の南斗鳳凰拳、南斗108派の頂点に君臨する帝王の拳は、決して捨てられない。
それに、極星・南斗十字星、将星の宿命は、只のちっぽけな女の罪の意識とは訳が違う。
もっと重く、もっと崇高で、決して逃げられないものなのだ。
将星は帝王の星。
帝王は、愛や情に死ねない。
― 俺は帝王なのだ、あの女とは違う・・・・・・・。
だからこそ、サウザーは苦しみ続けていた。
聖帝と、一人の男としての自分自身との間で、この20年、苦しみ続けてきた。
唯一、心から慕った人を自分の手で殺めてしまった罪と、ケチなペテンでは、罪の重さが違う。苦しさが違うのだ。
― そう、俺はとは違うのだ・・・・・・・・
サウザーは、師・オウガイの肖像画を、切なげな瞳で仰ぎ見た。
その夜はじっとりと空気が澱んで、強い風が吹き荒んでいた。
嵐の予兆だ。
もうあと数時間の内に、外は荒れ狂うだろう。
風に叩かれてガタガタと小刻みに揺れる食堂の窓ガラスを眺めながら、サウザーはそう思った。
こんな嵐の夜は、オウガイが自分のベッドに入れてくれた。
幼いサウザーが嵐に怯えないように、安心して眠れるようにと思っての事だったようだが、サウザーは嵐を怖がるどころか、嵐が好きだった。
嵐が来れば、オウガイの温もりに包まれて眠れるからだ。
耳をつんざくような雷鳴も、激しい風雨の音も、何も怖くなかった。
オウガイの温かい胸から伝わってくる規則正しい鼓動が、全て掻き消してくれた。
まるで昨日の事のように思い出せる、しかし遠い昔の思い出だ。
「・・・・・・・嵐が・・・・、来るのでしょうか・・・・・・」
後ろからの声がして、我に返ったサウザーは、ゆっくりと振り返った。
「案ずるな。この様子では大した事はない。精々今夜一晩だ。明日の朝には過ぎている。」
「そうですか・・・・・・。」
「明日は予定通り、お前を我が居城に連行する。お前の命運もいよいよ尽きる時が来たという訳だ。」
サウザーは、冷ややかな視線をに向けた。
しかしは全く動じず、また穏やかな微笑を湛えて、黙々とサウザーの夕食の後片付けを始めた。
「今夜の内に精々、神に最期の祈りでも捧げておくのだな。」
サウザーはの横をすり抜けて、食堂を出て行った。
もうを抱く気にはなれなかった。
忌々しい女、殺しても飽き足りない女、処刑にかけるまで陵辱の限りを尽くしてやる、
ほんの何日か前まではそう考えていたのに、そして今でも決して許した訳ではないのに、何故か急に虚しくなってきたのだ。
たったの数日間とはいえ、その間に何度も何度も犯し抜いて飽きたからだろうか?
それとも、まるで生まれ変わったかのようなに興醒めしたからだろうか?
そんな風にも考えたが、しかし答えは違っていた。
は聖帝を騙した忌々しい女だ。
その罪は極刑に値する。
しかし処刑までの間、その身体を貪り汚す事にもう意味を感じられない、それが答えだった。
たとえを甚振り倒して滅茶苦茶に壊してやったとしても、己の抱えている苦しみからは逃れられない。
何をしようとも、この心が癒える事は永遠にない。
サウザーはその事に気付いたのだった。
嵐が一段と酷くなった。
天の怒りのような激しい雨、慟哭するように吹き荒ぶ風。
その真っ只中に、サウザーは立っていた。
目を塞げば、そこはもう完全なる闇。
闇の中で、サウザーは息を殺していた。
狂おしい嵐の音に紛れている微かな気配を、息を殺して探っていた。
雷が、低い唸り声を響かせている。
まるで獲物に襲い掛からんとする獣のように、獰猛に。
ほんの一瞬でも気を緩めれば、即座に喉笛が切り裂かれる。
死が間近に迫る緊張感に、サウザーの感覚は益々研ぎ澄まされていく。
やがて、気配を感じた。
とても捉えきれない程に微かだったそれは、今や圧倒的な存在感と明確な殺気を持って、サウザーの背後にあった。
ほんの0コンマ数秒。
神が気まぐれに弄ぶ僅かな時間。
その瞬間に、運命は決まった。
激しい雷鳴と共に雷が天から落ちた瞬間、背後の敵から間一髪で身をかわしたサウザーの必殺の一撃が、確かな手応えをもって敵を切り裂いた。
ほぼ勝利を確信しながらも、万が一の反撃を警戒しながら、サウザーは目隠しを取った。
激しい雨に打たれて、人が倒れていた。
呻き声もなく、起きる気配もなかった。
サウザーは、雨に煙ってはっきりとは見えないその人の側に近付いた。
そして、雷光に照らし出されたその人の顔を見た。
「お・・・お師さん!!」
その人は、師・オウガイだった。
その胸を深く切り裂く十字傷は、紛れもなくサウザーがつけたものだった。
オウガイは極星・南斗十字星の紋章を刻み付けられて、既に事切れていた。
「お、お師さん!お師さん!!」
サウザーは、オウガイに縋りついた。
気が狂いそうだった。
何かの間違いであって欲しかった。
誰かに嘘だと言って欲しかった。
「な、何故、何故こんな・・・・・!うう・・・・、うう・・・・!!」
サウザーは泣いた。
己を恨みながら、運命を呪いながら、オウガイの胸に縋って泣いた。
いつも温かかったあの胸から無情に流れ出る血に塗れて泣いた。
その時、死んでいた筈のオウガイの手が、微かに動いた。
「・・・・・・サウザー・・・・・・・」
「っ・・・・・!お、お師さん!?」
サウザーは、涙と雨と血に濡れた顔を跳ね上げた。
自分のような半人前の小僧に南斗鳳凰拳の伝承者が、あの偉大なる師・オウガイが倒される事など、やはり有り得なかったのだ。
何もかもが、悪い夢だったのだ。
「ああ・・・・!良かった、お師さん・・・・・!しっかりして下さい!今、手当てを・・・」
絶対に、死なせはしない。
今度こそ、死なせはしない。
サウザーは必死になって、オウガイの胸の傷に止血を施そうとした。
その時、オウガイの手が、サウザーの腕を掴んだ。
「お、お師さん・・・・・・?」
「この・・・・・・・・不孝者が・・・・・・・」
「な・・・・・・・」
オウガイはサウザーの腕を掴んだまま、ムクリと身体を起こした。
そして、唖然とするサウザーに向かって、低い声で呟いた。
「みなし子だったお前を拾って育ててやった恩を忘れたか?この恩知らずめが・・・・・」
オウガイの瞳には、いつものあの優しい温もりは宿っていなかった。
代わりに見て取れたものは、恨み、憎悪。
禍々しい冷たさを孕んだその眼に、サウザーは一瞬にして凍りついた。
「あんなに慈しんで育ててやったのに・・・・・・、お前という奴は・・・・・・・」
「お・・・・お師・・・・・さん・・・・・・・」
「何が掟だ、何が宿命だ・・・・・、儂は死にたくなどなかったというのに・・・・・」
腕を掴むオウガイの手は信じられない程固く強く、振り解こうとしても解けなかった。
「ゆ・・・・許して下さい、お師さん・・・・・・・」
「許せるものか、そうとも、許せるものか・・・・・。お前などを拾ったばかりに、儂は、儂は・・・・」
「ゆ・・・・許して下さい・・・・・・!」
悪魔のようなオウガイの顔が恐ろしくて、サウザーは腕を掴まれながらも、身を仰け反らせた。
バランスを崩して無様に尻餅をついた姿勢のまま、じりじりと後退ろうとした。
帝王の誇りも何もかも、かなぐり捨てていた。
サウザーはそれ程までに、オウガイに怯えていた。
こんな恐怖を感じたのは、生まれて初めてだった。
「お前のような恩知らずなど、拾わねば良かった・・・・・。親代わりの儂を手に掛けるような血も涙もない悪魔など、育てねば良かった、見捨ててしまえば良かった・・・・・・。」
「あ・・・・あ・・・・・・!」
しかし、逃げ場は何処にもなかった。
サウザーは震えながら、涙を流した。
オウガイの歪んだ唇から発せられる呪いの言葉は、恐ろしいまでに悲しかった。
「そうとも、お前は悪魔だ。悪魔は滅びるべきなのだ・・・・・・・。」
「お師さん・・・・・・・!」
「儂ではなく、お前が死ねば良かったのだ・・・・・・・・」
「許して下さい、お師さん・・・・・・・!」
サウザーは、泣きながら許しを乞うた。
しかしオウガイは、やけに耳に障る声を上げて、そんなサウザーを嘲笑った。
「ワハハハハ!!!お前が死ねば良かったのだ!!!お前が!!!」
「お師さん・・・・・・・!!」
「お前が死ねば良かったのだ!!!ヒャハハハハ!!!」
オウガイの笑い声は最早、耳障りを通り越して狂気じみていた。
まるで得体の知れない魔物のような声だった。
「や・・やめて下さい・・・・・!後生ですから・・・・、お師さん・・・・・!」
「お前が死ねば良かったのだ、お前が死ねば良かったのだ、クハハハハハ!!!」
どれ程懇願しても、オウガイはやめてはくれなかった。
むしろ、益々おぞましさを増しながら『お前が死ねば良かった』と繰り返し、サウザーの顔に血みどろの手を伸ばしてきた。
「ククク、サウザーよ・・・・・・、そうだ、お前が死ねば良かったのだ・・・・・」
「や、やめて下さい・・・・・・・!やめ・・・!」
「お前がな!!!」
サウザーの顔に、オウガイの手が擦りつけられた。
額にも、瞼にも、頬にも顎にも、オウガイの血がベッタリとこびり付いたのが分かる。
血の匂いが鼻につく。
忌まわしい魔物のようなオウガイの笑い声が、鼓膜を突き破りそうな程に大きく響く。
「や・・・・やめろーーーーっっ!!!!」
声の限りに叫んだ瞬間、サウザーは飛び起きて手で顔を必死に拭った。
すると、暗がりの中から不意に女の声がした。
「あ、あの・・・・・」
「っ・・・・・・!」
驚いて声のした方に目を向けると、隣の物置部屋で眠っている筈のが、側でおずおずと様子を伺っていた。
サウザーは怯えた顔で硬直したまま、暫し呆然とを見つめていたが、やがてここが自分の部屋だと認識出来てから、深い溜息を吐いた。
「声が私の所にまで聞こえたものですから、どうしたのかと思って・・・・・。酷くうなされていましたけど、大丈夫ですか・・・・・?」
「・・・・・・何でもない、只の夢だ・・・・・・・。」
そう、只の夢だった。
酷い悪夢ではあったが。
サウザーは自分の手に何もついていない事を確認してから、ぐったりと目を閉じて額を押さえた。
別に具合が悪かった訳でもないのに、妙に頭が痛く、身体もだるかった。
「待っていて下さい、今、汗拭きとお水を・・・・・・・」
が出て行ってから、サウザーはまた、深い、深い溜息を吐いた。