あれからは、ずっと廟に篭りがちだった。
最低限の食事や水浴び等をする時は廟から出るが、後は文字通り、朝から晩まで篭っている。
恐ろしい敵の懐の中に居るというのに皮肉な話だが、ここに居ると心が洗われる気持ちになれるのだ。
この地に来る事になったのは、きっと神の導きだろう。
「やはりここに居たか、。」
祭壇の前でいつものように祈っていると、突然扉が開いて、サウザーが廟に入って来た。
突然入って来るのはいつもの事だが、いつもは来ない時間帯に来た事が不思議で、は思わずサウザーの方を振り返った。
「・・・・・・何か?」
普段、サウザーは、朝・昼・夜と規則的にやって来る。
霊前に供物を供えて供養し、復活の儀式に立ち会う為だ。
それなのに、朝というには遅く、昼と見なすには早すぎるこんな時間に、一体どうしたのだろう。
そう思っていると、サウザーは事も無げな口調で言った。
「お前の下僕のイドラという男が、たった今死んだ。」
一瞬、の心臓がドクンと大きく鳴った。
嘘や冗談ではないだろう事は、直感的に分かった。
「何も知らなかったような顔だな。さっきの外での騒ぎは聞こえていなかったのか?」
は小さく頷いた。
一体何の事か分からないが、この廟には窓がなく、外の様子を見る事は勿論、音も殆ど聞こえないのである。
「外で・・・・・、何があったのですか?」
「なに、大した事ではない。ちょっとお前の下僕共をからかってやっただけだ。」
サウザーの冷たい含み笑いは、何処か愉しげだった。
「イドラは・・・・・・、何故死んだのですか・・・・・・?」
そう尋ねながらも、には返って来る答えの予測がついていた。
多分、間違いない。
イドラはサウザーに殺されたのだ。
「俺が殺したからだ。愚かにも、俺の命を狙ったのでな。」
そしてすぐに、やはり予想通りの答えが返って来た。
「あの男は、かなりの馬鹿だったようだな。」
「・・・・・・・どうしてですか?」
「奴は小賢しくも、俺を不意打ちしようとやって来た。だが、あれだけ殺気を撒き散らしていれば、誰でも気が付く。」
「・・・・・・」
「そんな事も分からずに、あの男は今が絶好の機会だとばかりに俺に飛び掛って来た。寝た振りをしていた俺にな。クックック。」
その時の様子は、簡単に頭に思い描く事が出来た。
サウザーは眠っていると信じて疑わずに、猛々しく襲い掛かるイドラ。
不意に開くサウザーの鋭い目。
イドラの呆然とした顔と、そして・・・・・・・
「っ・・・・・・・!」
脳裏に広がる残酷な光景をこれ以上見ていられず、は固く目を瞑った。
「あの男は見せしめだ。俺に逆らい、楯突く者には死あるのみ。この事、お前も良く肝に銘じておくのだな。」
サウザーは、釘を刺すようにそう言い放ち、廟を出て行った。
「あぁ・・・・・・・」
いつかはこんな日が来るだろうと、ずっと思っていた。
サウザーに囚われた時に、今がその時かも知れないという予感が、ふと頭をよぎった。
そして今、改めて強く確信した。
予感はやはり間違っていなかったのだ、と。
そう、これは神の導き。
逃れる事は、きっと出来ない。
厚く盛り上がった胸板を木綿のローブが覆い隠す様を、サモンは焦点の合わない目でぼんやりと眺めていた。
何が悲しくて、男の入浴を手伝わねばならないのだろう。
ずっとこうして堪えていれば、その内解放される日が本当に必ず来るのだろうか。
「っ・・・・・・」
湿った手拭いが、突然頭上に投げ掛けられた。
だが、怒りを買った訳でも、からかわれている訳でもない。
投げた男は、何も考えていないのだ。
ただ、濡れた身体を拭いた手拭いを手拭い掛けに引っ掛けた、それだけの事。
聖帝サウザーは、人を『物』としか見ていない。
「・・・・・水です。」
「うむ。」
こんな不愉快な仕打ちを受けているというのに、手拭いを床に叩き付けて啖呵を切ってやるどころか、ご丁寧に風呂上りの冷たい水を差し出す始末。
自分で自分が嫌になる。
「寝る前に少し飲みたい気分だ。部屋に持って来い。」
「はい・・・・・・・」
イドラが暴走してくれたお陰で、また振り出しに戻ってしまった。
一度命を狙われた以上、聖帝は滅多やたらな事ではもう気を許すまい。
聖帝が隙を見せるのは、そしてここから出て行けるのは、一体いつになるだろうか。
あと何日、何ヶ月、いや、何年後か。
それを考えると、気が狂いそうだった。
「・・・・・・ちっくしょう!あの野郎!!」
サウザーが出て行ってから暫く時間を置いて、サモンは堪えていた思いを吐き出した。
押し殺した声で悪態の限りを尽くし、固めた拳を掌に打ち付けて、狭い脱衣所の中で煮えくり返るような怒りを静かに発散させた。
しかしそれでも、少しも気分は晴れない。
少しでも暴れてやる事が出来たら幾らかは気も晴れるのだろうが、サウザーに聞こえると困るので、これ位が限度なのだ。
「ちきしょう、苛々するぜ・・・・・・・!」
酒はとっくに無くなった。
好きな葉巻さえ、好きな時に好きな場所で吸えない。
そして、女も抱けない。
もうこんな暮らしは限界だった。
「抱きてぇなあ、女・・・・・・・」
身体の中にはちきれんばかりに詰まっているこの苛立ちを今すぐどうにか出来なければ、もうこれ以上1日たりとも耐える自信がない。
もうこの際、女なら誰でも良い。
まるで発情期の獣のような気持ちになりながら風呂場を出ると、階段からが下りて来るのが見えた。
「クイーン。」
「サモン・・・・・・」
と話すのは久しぶりだった。
サウザーに囚われてからというもの、これが初めてだと言っても過言ではない。
毎日の雑事に追い立てられているのと、が余り皆の前に姿を見せない為に、なかなかまともに顔を合わせる機会がないのだ。
唯一会うのは食事の席でだが、そこには必ずサウザーが居て、食卓はいつも痛い程の沈黙と緊張に包まれており、とても会話など出来る状況ではなかった。
「どちらへ?」
「水を飲もうと思って・・・・・。貴方は?」
「俺?・・・・ヘッ、俺はついさっきまで聖帝様の風呂の世話ですよ。風呂沸かして、背中流して、着替え持って脱衣所でつっ立って。馬鹿馬鹿しいったらありゃしねぇ。」
「そう・・・・・ですか・・・・・・」
「つー訳で、風呂は空いてますよ。何なら今からでもどうぞ。今ならゆっくり入れる。」
「・・・・・・・では、後で・・・・・・・」
は、遠慮がちに呟いた。
しかし、その表情が却って癇に障った。
自分達は、風呂に入る事を許されていない。
自分達で作った食事を食べる事も許されていない。
そして、イドラが殺された今、労働の負担が更に増え、これまで以上にこき使われているのだ。
それに引き換えは、食事を許され、風呂を許され、その上一切の労働を免除されている。
同じ拘束されている身とはいえ、自分達に比べれば破格の待遇である。
が幾ら『救いの女神』でも、この差には納得出来ない。
『救いの女神』ならば、苦しんでいる人間を助けなければいけない筈だ。
「・・・・・・・まあそう言わずに。俺が背中流してあげますよ、クイーン。」
「きゃっ・・・・・!」
サモンは剣呑な表情での背後に回ると、を素早く風呂場に押し込めた。
「・・・・・・ごめんなさい、何も出来なくて・・・・・・・」
密室の中で二人きりになると、は開口一番に謝った。
相変わらず気弱そうなその顔を、青白くさせて。
「・・・・・・・知ってるか?昨日、イドラが殺られたんだぜ。」
「・・・・・・・知っています。昨日、聖帝から聞きました。」
「へぇ。何だ、知ってたのか。」
サモンは口を歪めて笑った。
「ったく、本当にツイてねぇよ。何でこんなとんでもない所に来ちまったのか。」
「そう・・・・・ですね・・・・・・・」
「こんな所に閉じ込められて、毎日毎日こき使われて。何の楽しみもありゃしない。」
こんな酷い時代でも、人生とはもっと楽しいものだった。
ついこの間までは。
町から町へ渡り歩き、色んな女と刹那の快楽に酔いしれた。
甘く強い酒のようなその味を、今は何よりも求めている。
「なあ・・・・・・・」
「や、やめて下さい・・・・・・・」
「この際だ。お前で良い、一発付き合えよ。なあ・・・・・」
本当は前後不覚に酔わせてくれるような悩殺的な女が欲しかったが、この際贅沢は言えない。
とて、女である事には違いないのだ。
「やめっ・・・・・・!」
サモンは、抵抗するを無理矢理抱き寄せ、色気の無い黒いワンピースの上から胸を弄り始めた。
「すぐに済ませてやるから・・・・・・」
「ぁっ・・・・・・・!」
そして、の耳朶を甘く噛み、腰の力が抜けたところで、強引に床に押し倒した。
その時。
「何をしている?」
勢い良く風呂場の戸が開き、険しい表情のサウザーが入って来た。
「聖帝・・・・・・!」
「言いつけておいた事もせずに、こんな所に女を引っ張り込むとはどういうつもりだ?」
「いや、あの・・・・・・!」
一片の慈悲もないサウザーの冷ややかな表情に、一瞬、血塗れのイドラの死体が重なって見えた。
嫌だ。
ああはなりたくない。
「・・・・うわあああ!!!」
本能的に命の危険を悟ったサモンは、床に尻をついたまま、腰に隠してあったナイフを無我夢中でサウザーへと投げつけた。
厚く鋭いその刃が、寸分の狂いもなくサウザーの額を狙って飛んでいく。
「・・・・フッ。」
しかしサウザーは、軽く首を傾げただけで、サモンのナイフをいとも容易く避けた。
「そ、そんな・・・・・・・!」
これまで数多の血を吸ってきた歴戦の猛者、自慢の相棒。
それが、聖帝には全く歯が立たなかった。
この至近距離で、髪の毛一筋程の傷も付けられなかった。
サモンは、虚しく壁に突き立っているナイフの柄を呆然と見つめた。
彼は最早完全に恐怖に呑まれ、これ以上抵抗する勇気も、立ち上がる力も、冷静さも、全て失っていた。
「ま、待ってくれ・・・・・・」
サモンは尻餅をついたままじりじりと後退し、脱衣所から浴室内へと逃げた。
小さな窓しかない浴室へ逃げても、却って余計に追い詰められるだけだというのに。
「問答無用。貴様は俺の命令に背き、あまつさえ我が館を汚そうとした。その罪、死して償え。」
背中が浴槽にぶつかった所で、サモンはようやくその事に気が付いた。
だが、気付いた時にはもう遅かった。
「これ・・・・わぶらっ!!!!」
何が起こったのかを理解出来ない内に、サモンは浴室の天井を眺めていた。
心地良い湯の中に浮かびながら。
確か浴槽にもたれて座り込んでいた筈なのに、何故だろう。
幾ら考えても、何も分からなかった。
考えても考えても、その端から湯に溶け出していくようだった。
そして、浴室の天井も、女達の顔も、葉巻の香りも、自分の名前も。
次第に全てが、湯に溶け出していった。
「フン。」
サウザーは退屈そうに鼻を鳴らして、脱衣所の隅で身を固くしているに向き直り、呆れたように言った。
「あのイドラといい、このサモンといい、お前の下僕にはろくな者がおらんようだな。まるで躾の出来ていない野良犬だ。仮にも聖女が、こんな連中を引き連れていて良いのか?」
聖人君子の従者ならば、普通、もっと高潔な人格者でなければならないだろうに、の従者達は、いずれもおよそ『高潔』とは程遠い曲者揃いだった。
聖人君子の従者というよりは、そこらをうろついている小悪党といった感じである。
何故は、わざわざこんな連中を選んで連れ歩いているのだろうか。
サウザーにはそれが分からなかった。
敢えて荒くれ者共を連れているのは、用心棒のつもりなのかも知れないが、守ってくれる筈の用心棒に逆に襲われていては、話にならないではないか。
「しかし、おめおめと下僕に組み敷かれてやるお前にも問題がある。隙を見せたか、或いはお前もそのつもりだったのか・・・・」
しかしサウザーは、別にを案じている訳ではなかった。
結果的に暴漢からを助けたような形にはなったが、サウザーにとっては、いつまでも言いつけた仕事をこなさず、何処かで油を売っている奴隷を捜しに来ただけの事。
そして、その役立たずを処分しただけの事だった。
「違います・・・・・・」
サウザーが疑いの目で見ると、は即座に否定した。
「当たり前だ。もし、役目の途中で男を貪ろうなどと浅ましい考えを持っていたのなら、お前は女神でも聖人君子でもない、只の売女だ。俺は売女などに用はない。」
「・・・・・・・・」
そう。誰であろうと、役立たずに用はない。
サウザーは、冷ややかな目でを一瞥した。
「お前がここへ来て今日で6日目。我が師が息を吹き返す気配は未だに無い。それにも関わらず、何故俺が短気を起こさずじっと待ってやっているのか、その上、お前を手厚くもてなしてやってもいるのか、分かるか?」
「・・・・・・・私が・・・・・・・、『ジプシー・クイーン』だからです・・・・・」
「そうだ。ジプシー・クイーン、お前のその噂に名高い能力に、ひとまず期待しているからだ。・・・・・・来い。」
「あっ・・・・・」
サウザーはの手首を掴むと、強引に浴室へと引っ張り込んだ。
そして、そこに広がっている惨たらしい光景を、にまざまざと見せ付けた。
「見ろ。」
「っ・・・・・・!」
床に、天井に、壁に、一面飛び散った大量の血。
浴槽に力なくもたれ掛かっている、首のない男の身体。
そして、血の池と貸した湯船に呆けた顔で浮かんでいる、サモンの首。
悪夢としか喩えようのないこの残酷な光景に、は息を呑んだ。
「俺の期待を裏切るな。裏切れば、お前もこのサモンや、イドラと同じ末路を辿る事になる。良く覚えておけ。」
サウザーは、青ざめているの耳元にそう吹き込んだ。
「何てこった、サモンまで・・・・・・・」
「女に関しちゃ堪え性が無い。サモンの悪い癖が、奴の命取りになっちまったな。」
「・・・・・馬鹿め、迂闊な事をしおって。儂があれ程言ったのに・・・・・。」
リュウキ・オウコ・ゲンジョウは、また一人、聖帝によって命を奪われた仲間を弔っていた。
とは言っても、無惨な遺体をいつぞやの谷から投げ落としただけだが。
そう、残された3人に、死者の魂の安らぎを祈る余裕などはなかった。
「・・・・・・・これで一つだけはっきりした事があるぜ。」
暗い谷底を焦点の合わない目で見つめながら、リュウキが鬼気迫る声で呟いた。
「このままボヤボヤしていたら、俺達もいずれ必ず殺される。」
イドラ・サモンと立て続けに殺された今、リュウキはこれまでに経験した事のない程強い危機感を感じていた。
「・・・・・そんな事は分かっている。認めたくはないが、聖帝の力は思った以上だ。そして奴は、儂らを殺す事に何の躊躇いも感じておらん。少しでも意に沿わぬ事をすれば、儂らもイドラやサモンの二の舞になるであろう。」
「・・・・・だったらどうにかして下さいよ!」
ゲンジョウの抑えた声を聞いて、リュウキは思わず彼に掴み掛かっていた。
ゲンジョウとて決して内心安らかではないのだろうが、この非常時に何をそんなに落ち着いているのかと、妙に腹立たしくて仕方がなかった。
「頼まれた用を済ませるのがちょっと遅くなった、そんな些細な事でサモンは殺られちまったんだ!これがどういう事だか分かるか!?俺達も今に下らねぇ理由で殺されるって事なんだぞ!」
「落ち着け、リュウキ!!」
何とか鎮めようと押さえ付けてくるオウコの腕を振り払い、リュウキは更にヒステリックに喚き散らした。
聖帝の影が死神の黒衣に思えて、恐ろしくて恐ろしくて、もはや形振り構ってなどいられなかった。
「このままじゃ殺される、俺達も殺される、必ず殺される・・・・・!!!」
「ええい、黙れ!!落ち着かぬか!!」
「がはっ・・・・・・・!」
リュウキは突然ゲンジョウに殴られ、砂利ばかりの地面に倒れ込んだ。
頬に受けた拳の痛みで若干は理性が戻ってきたが、その幻覚とも現実のものともつかないイメージがリュウキの頭から離れる事はなかった。
「っぅ・・・・・・・・!」
「馬鹿者めが!一人で取り乱しおって!」
「おら、戻るぞ!さっさと立て!」
どんなに見苦しかろうが、卑怯だろうが。
死神の大鎌にむざむざ首を狩り取られてやるよりはマシだ。
「・・・・・・・・」
先に行ってしまう二人の後姿を見据えてゆっくりと起き上がりながら、リュウキは決意した。