東部地区の侵攻から戻って、はや3日。
それにも関わらず、サウザーの苛立ちは未だ治まっていなかった。
あの時のシュウとのやりとりが、何故か忘れられなかったのである。
あの時、圧勝を収めたのは聖帝軍の方だった。
いや、いつだって勝つのは聖帝軍の方である。
だからあれは、惨敗を喫したシュウのせめてもの負け惜しみだ。
負け犬の遠吠えは勝者にとっては最大の賛辞、いつだってそれは耳に心地良く響くではないか。
そう、鬼だの悪魔だのと悪口雑言の限りを尽くされたのなら。
つまりは聖帝の力に屈服したと認めるも同然の言葉なら。
「おのれ、シュウめ・・・・・・・」
だが、あの時は違っていた。
シュウは、聖帝の唯一の弱点とも言える心の奥の古傷に触れた。
そしてその上、聖帝を憐れみさえしたのだ。
この聖帝を。
誰よりも強く、誰よりも誇り高い、南斗の帝王を。
哀しい男だ、と。
「・・・・・・ええい、黙れ!!」
思わず力任せに投げつけてしまったグラスが壁に当たって砕ける音で、サウザーは我に返った。
グラスは粉々に砕け、中に入っていたブランデーが壁や絨毯を濡らしてしまっている。
その様を見て、サウザーは重い溜息をついた。
あれからずっと、何をしていても気分が晴れない。
美味い筈の酒も不味いし、贅の限りを尽くした食事も食う気がしない。
次なる侵略の計画を練る事さえ、正直に言えば億劫だ。
「如何なさいましたか、聖帝様!?」
割れたグラスをうんざりとした目で見ていると、サウザーの怒声とグラスの砕ける音を聞きつけたらしい衛兵が、何事かと部屋に駆け込んで来た。
「何でもない。部屋が汚れた。片付けておけ。」
「・・・・はっ。」
ぞんざいに指示をすると、衛兵は黙って速やかに掃除を始めた。
この衛兵は、いや、聖帝軍の全兵士は、『聖帝の言葉は絶対、聖帝の命令には絶対服従』と徹底的に教育されているのだ。
そして、彼等の上に立つ聖帝たる者、常に絶対的な存在でなければならない。
常に強く、常に気高く、常に雄大な存在でなければ。
「終わりました、聖帝様。」
「うむ。」
「他に何か御用はございますか?」
「ない。下がれ。」
「はっ。」
だから、未だ消しきれない心の古傷を知られる訳にはいかない。
動揺している事を悟られる訳にはいかないのだ。
「・・・・・・いや、待て。」
命令通り下がろうとする衛兵を、サウザーは不意に呼び止めた。
「車を出せ。出掛ける。」
突然の思い付きだが、恐らく今は思った通りにした方が良い。
聖帝が、『聖帝』として今後も君臨し続ける為には。
そして、『サウザー』という一人の男の為にとっても。
南十字星の紋章を掲げた大きな車が一台、満天の星空の下を駆け抜けていく。
町を横切り、砂漠を渡り、岩肌が剥き出しになった不毛の山々を幾つも越えて。
そうして、また太陽がぎらぎらと照りつけ始めた頃。
車はようやく停まった。
「行ってらっしゃいませ、聖帝様。」
「存分にご休息なさって下さい。」
「うむ。」
車の玉座から降りると、サウザーは自らの両脚で枯れた山道をしっかりと踏みしめた。
「2週間程で戻る。その間、各自任務を怠るな。全軍の兵士達にもそう伝えよ。」
「御意。」
「それでは、2週間後にまたこちらまでお迎えに上がります。」
部下達が心得顔で跪くのを一瞥し、歩き出そうとしたサウザーは、ふと思い出したように立ち止まって言った。
「一つ言い忘れた。例のジプシーを捕らえたら、投獄して監視をつけておけ。俺が戻るまで、決して逃したり死なせたりしてはならん。」
「は、ははぁ!」
「承知致しました!」
不甲斐無い部下達が重圧を感じて平伏す姿を、サウザーは冷ややかに見下ろした。
そう。あれから3日も経つというのに、例のジプシーはまだ捕らえられていない。
それがまた、サウザーの苛立ちをより一層掻き立てている。
ならば、頼りにならない部下に代わり、聖帝自らが奔走するかと言われれば、答えは否だ。
何処の馬の骨とも知れない人間一人の為に、聖帝が自ら動く必要はない。
それに今は、一個小隊ではなく、可能な限りの人員を捜索・捕縛に当たらせている。
その内、いずれかの部隊が捕らえて来る筈だ。
「留守は任せたぞ。」
サウザーはひとまずそう考える事にして、部下達をその場に残し、一人で歩き始めた。
この道は、懐かしい故郷の地へと続く道だ。
今はまだ草一本生えていない只の砂利道だが、かつて師と共に暮らしていた館の近くまで行けば、まだ緑が残っている。
かつて都市だった場所から遥か遠く離れ、幾つもの山々を越えた更にその奥の僻地であったお陰で、あの地だけは辛うじて核戦争の被害を被らずに済んでいたのだ。
緑豊かな土地は、今の世なら誰もが欲して止まない宝である。
しかしあの地は、その存在が殆ど知られていない為、まず狙われはしない。
寂しく枯れ果てた険しい山々の奥深くに、豊かな自然の芽吹く地がひっそりと残っているなどと、一体誰に想像出来ようか。
あの地を知っている者は、サウザー本人とごく一部の南斗の者達、そして、近くの集落の住人達だけだ。
だがその集落は、今はもう存在しない。
かつては今しがた車で乗りつけて来た辺りに、町とは名ばかりの小さな集落があったのだが、
今ではあの通り何も無い。生活の痕跡も、人の気配さえも。
南斗の者もまずやって来ない。
彼等にとってあの地は、南斗鳳凰拳の現伝承者と先代伝承者がかつて暮らしていたというだけの、20年もの昔に無人となり果てた只の僻地で、今更何の用も無いからだ。
たとえば、何かと敵対してくるシュウ。彼にしてもそうである。
レジスタンスの活動の主旨は、相討ちにもならないと分かっている聖帝に戦いを挑む事ではなく、
聖帝軍に苦しめられている人々を、せめて一人でも多く救い出す事にある。
ところが、ここには彼等の救いを待つ民が居るどころか、元々人が住んでいないのだから、来る意味がない。
だが、サウザーにとっては違った。
他の者にとっては来ても仕方のない場所でも、サウザーにとっては故郷。
サウザーは故郷の地を大切に思い、こうして時々、『静養』と称して訪れていた。
故郷に帰る時、サウザーはいつも一人だ。
いつも途中で車を降り、こうして山道を一人で何時間も歩いて帰る。
側近も召使も荷物持ちも連れて行かない。
温かく、懐かしく、胸が張り裂けそうに切ない思い出と、師が待っていてくれるあの場所は、
いわばサウザーの『聖地』。
そこに、部下とはいえ素性の知れない卑しい者を入れたくないからだ。
そして、聖帝としてではなく、サウザーという一人の男として過ごす時間を、誰にも邪魔されたくないからだ。
「お師さん、只今参ります・・・・・・。」
館のある方角をまっすぐに見つめて、サウザーは歩みを速めた。
渡る風が、遥か上空で燦然と輝く太陽の光に良く似たサウザーの金の髪を揺らす。
その心地良い自然の息吹に、サウザーの表情は和らいだ。
ここは懐かしき故郷の地。風薫る緑の大地。
淡い緑の草原を流れる清らかな小川のせせらぎには、魚がいきいきと泳ぎ、鮮やかな濃緑の森からは、軽やかな鳥の囀りが聞こえて来る。
ここだけは昔と何も変わらない。
師・オウガイはもう、すぐ側に居る。
まずは師に会いに行き、それから師の御前に捧げる膳を拵えようか。
いや、やはり会いに行く前に、師の好きだった花を摘んで来よう。
きっと喜んでくれる筈だ。
そう考えて森の方角を向いた時、不意に館の中から人が出て来るのが見えた。
「侵入者だと?まさかこの地に・・・・・・」
サウザーは普段の冷徹な表情に立ち返ると、ひとまず素早く身を隠し、様子を伺い始めた。
「中は思ったより質素だったな。しかしまあ、あれでも十分御の字か。」
「まあそうだろ。食い物と水には困らねぇし、ここなら聖帝軍も追って来ねぇ。おまけに風呂もあったしな。強いて言えば、ちょっとばかり静かすぎて退屈なのが難だが。」
「この際だ、贅沢言うな。のんびり骨休みするには良い所だ。」
「早速ひとっ風呂浴びてメシにしようぜ!腹減っちまった!」
「分かった分かった、ともかく先に食料の調達だ。何せここにはこれだけの自然が残っているのだからな、その恵みを存分に堪能せねば、罰が当たるというものだ。山菜に魚に肉、この豊かな大地の恵みを大いに味わおうぞ!」
それぞれに荷物を担ぎ、談笑している5人の男達の後ろに控えるようにして、女が一人、俯きがちに歩いている。
誰にも知られていない筈のこの地に、こんな何者とも知れない薄汚い連中が6人も入り込んだなどとは信じられない。いや、信じたくない。
しかも身の程を弁えぬ傲慢なこの物言い、到底許せるものではない。
腹が煮えるような憤りを覚えたサウザーは、険しい表情で彼等の前に立ちはだかった。
「ここで何をしている?」
サウザーが威圧的な視線を向けると、全員の顔からそれまでの笑みが消えた。
「物盗りか?よりによって我が館に忍び込むとは良い度胸だ。」
「そ、そうか、ここは貴殿の屋敷であったか。いや、あい済まぬ。声を掛けても返事が無かった故、てっきり無人かと。」
不届きな侵入者達の中から、髭面の男が一人、サウザーの前に進み出た。
「ここへは、故あって偶然に辿り着いただけであって、我等は断じて物盗りなどではない。ご安心召されい。」
そして男は、勿体つけた口調で話し始めた。
「我等は万民を救うべく、各地を旅して回っておる。ところがつい先頃、突然聖帝軍に目を付けられ、執拗に追い回されるようになったのだ。」
「・・・・・・・聖帝軍、だと?」
男の話を聞いて、サウザーは思わず訊き返した。
「左様。ともかく奴等の目の届かぬ所へと逃げ回っている内に、山中で車が故障し、そこから当てもなく彷徨い歩いておったら、偶然この地に辿り着いたという訳だ。」
城で下働きをさせる為の奴隷狩りにでも出くわしたのだろうかと思ったが、男の話から察するに、それも違うようだ。
奴隷狩りの場合は、十分な頭数を速やかに揃えて来る事に重点を置いており、たかだか5〜6人を執拗に追い回すような効率の悪いやり方はしない筈。
ならば、何故この者達は追われているのだろう。
こんな所に追い詰められる程、執拗に。
「・・・・・・何故、貴様らは追われているのだ?」
「理由は知らんが、奴等は我らがクイーンを狙っておる。」
「クイーン?」
「この御方だ。」
男が示した者を見て、サウザーは唖然とした。
その者は、男達の後ろに隠れるようにして立っていた女だった。
それも、人の目を惹き付けるような感じではない。
器量が悪い訳ではないが、目立たず、何処にでも居そうな感じの女だったのである。
「・・・・・・・・・フン、何者かと思えば、只の女ではないか。」
サウザーは別段興味も無さそうに女から視線を逸らすと、小さく鼻で笑った。
こんな何という事のない女が、何故か仰々しく祭り上げられている事が、滑稽でならなかったのだ。
だが、男は憤慨し、野太い怒声をサウザーに浴びせた。
「無礼者め!この御方をどなたと心得る!?遥か古の昔、天の神より特別な力を授かったジプシーの一族の末裔にて、その唯一人の生き残り、ジプシー・クイーンであらせられるぞ!」
「ジプシー・・・・・・だと?」
尊大な態度の男とは対照的に、当の本人である『ジプシー・クイーン』はおどおどと俯いた。
「この御方は、天の神より授かりし不思議な霊力を持っておられる!その有り難くも偉大なお力に救われた人間達は数知れず!言わばクイーンは、この乱世に舞い降りた救いの女神!!無礼な物言いは許さんぞ!」
― まさか・・・・・、この女が?
改めて女を凝視しながら、サウザーは心の中で酷く驚いていた。
まさかこの地で自ら捕らえる事になるとは思ってもみなかったし、また、この侵入者達が、自分の捜している例のジプシーの一行だとは露程も思っていなかったからだ。
しかも、よりにもよってこの女が、噂に名高い『聖人君子』だとは。
確かに部下の報告では、男とも女とも、他に仲間が居るかどうかも分からなかったが、いずれにせよ例のジプシーは、その噂に違わぬ尊大な風貌の人間に違いないと、サウザーは思い込んでいたのである。
― そうか、あれが例のジプシーか・・・・・
こちらも全く気付かなかったが、聖帝軍に追われている事や自分達の素性を『聖帝』本人に明かす位なのだから、何も気付いていないのは向こうも同じだと、サウザーは口の端を僅かに吊り上げた。
お前達の目の前に居る男が『聖帝』だと言ってやれば、さぞや愉快だろう。
だが、名乗ってやるのはまだ少々早い。
サウザーは敢えて自らの正体を明かさず、何食わぬ顔をして言った。
「不思議な力を持つジプシー・・・・・・、噂には聞いている。」
「・・・・・ほほう。このような人里離れた山奥まで、クイーンの御名は轟いておったか。」
「何でも、どんな怪我や病でも治し、死人を蘇らせる事さえ出来るとか。民からは、神よ聖人君子よと崇められているそうだな。」
「如何にも。」
サウザーの言葉で少し気を良くしたらしい男は、再び勿体つけた尊大な口調に戻った。
「知っておるなら話は早い。本来ならば、万民を救う為、すぐにでも新たな地に旅立たねばならぬところだが、クイーンをあの執念深い聖帝軍の手からお守りする為には、暫く人目につかぬ所で身を隠す必要がある。ここはそれに丁度うってつけの場所ゆえ、ほとぼりが冷めるまでの間、我ら一同、暫く厄介になるぞ。」
「フフン。その口ぶり、断られる事は想定していないようだな。」
「クイーンの御名を知る者は皆、進んでクイーンのお役に立ちたがるのでな。」
サウザーの皮肉は通じたのか通じなかったのか、男は平然と言ってのけた。
「善行を積み、徳を積む程、人はより大きな幸福を得られる。ましてやクイーンの御身をお助けするとなれば、必ずや有り難い神のご加護があろうぞ。」
「・・・・・・なるほど。」
言動だけなら、女よりもこの男の方が余程聖人君子然としている、と思いながら、サウザーは皮肉めいた笑いを浮かべた。
「良かろう。本来ならばここは何人たりとも立ち入りを許さぬ地だが、貴様らは特別に置いてやる。」
「・・・・・貴殿の善意は、必ずや報われようぞ。」
男は一瞬、何か言いたげにピクリと口元を動かしたが、ひとまず気を取り直した様子で、自身を含めた5人の男達をサウザーに紹介し始めた。
「申し遅れた。儂の名はゲンジョウ。クイーンの側仕えをしておる。この者達は供の者だ。」
「オウコだ。」
「リュウキだ。」
「サモンだ。」
「イドラだ。」
ゲンジョウに倣って、4人の男達も次々にサウザーの前に出た。
オウコと名乗った男は、大きな古傷のある右の頬を歪めるようにして笑い、
リュウキという男は、被っていたボロボロのテンガロンハットを形ばかり取ってみせ、
サモンという男は、名乗りながらもモウモウと葉巻の煙を吹き出し、
イドラと名乗った大男に至っては、まるで威嚇するかのように挑戦的な顔付きでサウザーをまっすぐ見据えた。
いずれも『聖人君子』の従者らしからぬ連中なのが解せないが、そんな事は取るに足りない事だ。
用があるのはあくまでも女の方であって、男共など、サウザーの眼中にはなかった。
「我等5人はクイーンの忠実なる従者。そして、儂の言葉はクイーンのご意思だ。左様、しかと心得ておくように。それから今後、言動にはよくよく注意されよ。貴殿が世話をするのは、只の旅人ではない。偉大なるジプシー・クイーン、雲の上の御方だ。」
謙虚さの欠片も感じられないこの物言い、これから人の世話になろうとしている者の言葉とはとても思えない。
しかしサウザーは、そう腹を立ててはいなかった。
サウザーにとってこの愚かな男達は、滑稽な動作で笑わせてくれる道化師のようなものだったのである。
「知らぬ事とはいえ、貴殿の屋敷に無断で立ち入った非礼の詫びとする為、一度は許すが、ニ度はない。今後は粗相のないよう、謙虚な姿勢で誠心誠意お尽くしするように。先程のような傲慢な物言いは勿論の事、みだりにクイーンのお側に近付く事もならん。クイーンに御用のある時は、まずこの儂を通して貰う。良いな?」
薄く冷笑を浮かべたまま、微動だにしないサウザーに気付き、ゲンジョウは訝しげに眉を顰めた。
「さあ、何をしておる、主よ。早速もてなしの支度だ。我らがクイーンは、あの不届きな聖帝軍のせいで、心身共にお疲れなのだぞ。」
「・・・・・・クッククク・・・・・・」
「何が可笑しい?」
不愉快そうな顔になったゲンジョウに、サウザーは言った。
「貴様らの要求はそれだけか?ならば今度は俺の番だ。タダで置いてやる訳にはいかんのでな。こちらも条件を1つ、つけさせて貰おう。」
「・・・・・・何ぃ?」
「俺の意思は絶対だ。俺の命令に逆らう事は誰一人として許さん。」
「貴様・・・・・、誰に向かって物を言っておる!?」
機嫌を損ねるどころか完全に腹を立てた様子で、ゲンジョウは持っていた杖を振りかざし、戒めるようにしてサウザーの眼前に突き付けた。
しかし。
「なっ・・・・・!?」
サウザーが手刀を一振りすると、それは突如、音もなく真っ二つに断ち切られた。
切れた部分が地面に落ちて、その中から鈍く光る刃が飛び出した。
どうやら只の棒きれではなく、刀が仕込まれた仕込杖だったらしい。
サウザーは、呆然とする一行の足元に、手の中に残っていたもう一方の杖の切れ端をも放り投げた。
「・・・・・・貴様こそ、誰に向かって口を利いている。」
サウザーは冷酷で獰猛な笑みを浮かべ、ゆっくりと一同の顔を見回した。
その視線は、まるで獲物に狙いをつけた虎のようだった。
「これから暫く共に過ごすのだ、俺も名乗っておいてやろう。我が名はサウザー。聖帝サウザーだ。」
冷たく笑うサウザーの顔と、足元に転がる真っ二つに折れた刃を交互に見たジプシー一行の顔からは、みるみる血の気が失せていった。