一頭の馬が、少年を背に乗せて草原をゆっくりと歩いている。
軽やかに揺られながら満足そうな微笑を浮かべていた少年は、ふと背後に人の気配を感じて振り返った。
「お師さん!見て下さい!この馬、やっと元気になったんです!ほら、こうして人間を乗せて歩ける程に!!」
「うむ、よくやった。毎日よく世話をしたな。」
「はい!」
少年に師と呼ばれた初老の男は、豊かな白髭を蓄えた口元を優しく綻ばせて、少年のこれまでの労を労う。
その温かく優しい言葉が、少年にとっては何よりの褒美だった。
「・・・・・でも、町の連中は酷いです。見て下さい、この馬の見事さを。毛並みもこんなに綺麗で、身体も大きくて・・・・。足の怪我さえ治れば、まだまだこうして生きて動けるのに、治療もせずゴミのように捨ててしまうなんて・・・・・・」
「そうだな。」
「お師さんが見かけて連れていらっしゃらなければ、この馬はきっと死んでいました。俺は町の連中を許せません。」
「・・・・・人を憎むな。しかし、お前のその心は忘れるな。」
師の深く低い声に諭され、少年は小首を傾げた。
「人にも馬にも、生命がある。生命には、必ず始まりと終わりがある。分かるか?」
「はい。」
「生命の始まりは一通りだ。あらゆる生命は皆、生まれるべくして生まれてくる。だが、終わりには二通りある。」
「二通り?」
「意味のある死と、無益な死だ。」
師は少年を馬から抱いて下ろすと、まだ背の低い少年の視線に己のそれを合わせるようにして腰を屈めた。
「たとえば、儂らは糧を得る為に獣を狩り、魚を捕る。それはお前と私という生命を存続させる為に必要な事だ。その生き物が捧げてくれた生命に感謝し、儂ら人間は己が生命を維持する。だがそれは、人間だけが行う行為ではない。生きとし生けるもの全てが、そうして自らの生命を繋いでいる。小鳥は虫を食べ、獣は小鳥を食べてな。」
「はい。」
「また、生命はいずれ衰え、老いていく。老いの先にも必ず死が待っている。それはごく当然の、自然の摂理だ。生命は生まれ、己の成すべき事を成し、役目を終えると再び自然に還る。それは何も悲しい事ではない。だが、悲しいのは無益な死だ。」
少年の頭を優しく撫でて、師は言った。
「意味もなく生命を奪う権利は誰にも無い。誰もが一つしかない限りある生を全うする権利を持つ。良いか、決して無益な殺生はするな。そして、生あるものを慈しむ心を忘れるな。動物も植物も、そして人間も。皆かけがえのない生命だ。憎しみからは何も生まれない。それよりも慈しみ、理解し、愛せ。」
「慈しみ、理解し、愛する・・・・・・」
師の教えを復唱する少年に、師は温かい眼差しを向けた。
「分かるな、サウザー?」
― 分かるな、サウザー・・・・・・・・・・
そこで男の双眸が、ゆっくりと開かれた。
― お師さん、また貴方の夢を見ました。
遠く故郷の方角を窓から見つめながら、サウザーは一心不乱に祈りを捧げていた。
いや、祈りというよりは、会話に近いであろうか。
サウザーは今この場には居ない恩師と、心の中で会話をしていた。
― お師さん、俺はもう一度あの頃に戻りたいです。貴方が側に居てくれたあの頃に・・・・・
夢に出てきた馬は、遥か昔に天寿を全うして死んだ。
そして、生命の尊さを説いてくれた師・オウガイも、その教えを授けてくれた日から五年の後に死んだ。
それからはや二十年、そんなにも月日は過ぎたというのに、サウザーにはまだ死の気配が訪れそうになかった。
親子、いや、祖父と孫程も年齢の離れた二人の時間差は、オウガイが死に、その時間を止めたところでまだそう簡単には縮まってくれそうになかった。
「お師さん・・・・・・・」
オウガイの亡骸は今、故郷の地で、温かい思い出が溢れているあの場所に眠らせてある。
その状態は、死後二十年が経過しているとは思えない程良好だ。
高名な僧や腕の良い職人達を使い、特殊な技法を用いて恩師の亡骸を即身仏にしたのは、その時間差を縮めたいが為だった。
普通に弔い、師の遺体が朽ちてしまえば、師と自分との絆は永遠に絶たれてしまう。
もう二度と、彼に近付く事は出来なくなる。そんな事は我慢ならなかった。
いつか自分にも死が訪れるまで彼の亡骸を大切に保存し、命が尽きたその時に二人して土に還る。
幼い頃、いつも少し先で立ち止まって待っていてくれたように、輪廻の巡るその時も待っていて欲しい、それが師・オウガイに対するサウザーの願いだった。
だが、サウザーのそんな心の内を知る者は誰もいない。
何故ならサウザーは。
「聖帝様、ばんざーい!!」
眼下で一糸の乱れもなくきちんと整列している兵士達を、サウザーはバルコニーから冷ややかな目で見下ろしていた。
極星・南十字星を掲げる南斗鳳凰拳、この世に並ぶもののない一子相伝の帝王の拳。
サウザーはその伝承者であり、強大な勢力をもってこの世紀末を狙う覇者の一人、聖帝である。
聖帝に情は要らない。脆さは恥だ。
故に彼が素顔を見せるのは唯一人、師・オウガイだけだった。
「ご報告致します、聖帝様!」
隣では兵士を束ねる部隊の長が、畏まった態度で戦績を報告し始めたところだった。
「かねてより侵攻を重ねておりました東部地区ですが、三日前の戦を最後に、あの辺り一帯にのさばっていためぼしい組織を壊滅させました!現在は東部地区のほぼ全域が我が軍の支配下にあります!」
「そうか。」
「しかし、我が軍の情勢を聞きつけたレジスタンス軍が、現在東部地区へ向かっているとの情報が入っております。あと数日以内には辿り着くかと。」
「・・・・・フン、シュウの軍団か。」
「如何致しましょう?」
見るからに非力な素人兵達と年端もいかない息子を連れ、見えぬ目で必死になって荒野を駆けるかつての同門の姿を思い浮かべ、サウザーは冷笑を浮かべた。
シュウは確かに強い。だが、無敵ではない。
盲目というハンデを背負い、優しさという弱点を持つシュウは、決して無敵の強さを誇る男ではないのだ。
「・・・・・フフッ、シュウめ。懲りもせずによくやりおるわ。」
それに引き換え南斗鳳凰拳は無敵の拳、対等の敵など今も昔も巡り会った例がない。
シュウはサウザーを強大な敵と見なして全力で応戦してくるが、サウザー自身はシュウを全くと言って良い程恐れてはいなかった。
「良かろう、丁重に迎えてやれ。近隣の村の者にもてなさせろ。」
「と仰いますと?」
「女・子供・年寄りを人質に取り、男共にレジスタンスを迎え撃たせるのだ。レジスタンスを討たねば人質が死ぬぞ、と言い渡してな。刃向かうようなら、見せしめに何人か殺しても構わん。」
「なるほど、さすれば我が聖帝正規軍の兵力は些かも減らず、村人を救いに来たレジスタンスはその村人達と殺し合う事になる訳でありますな!!」
「あのシュウが何の罪もない村人を殺せたら、の話だがな。奴が応戦するのなら、ネズミ共が共食いする様を見物するのもまた一興。村人など掃いて捨てる程居る。逃げたら逃げたでそれまでの事。いずれにしても、我が軍に損害は無い。」
「流石は聖帝様!実に合理的で素晴らしい作戦であります!!」
恐れるどころか、サウザーはシュウとの闘いを娯楽として楽しんでさえいた。
鼠が如何に群を成し、勇猛果敢に立ち向かって来たところで、所詮一頭の虎には敵わない。
獲物を弄ぶ虎、それこそが聖帝サウザーだった。
「それからもう一つ、ご報告がありまして・・・・・・」
「まだ何かあるのか?」
「はあ、それがその、実に他愛ない事なのですが・・・・・・」
「何だ、はっきり言え。」
急に不明瞭な声を出した部下を、サウザーは鬱陶しそうに睨み付けた。
勿体つけられる事は嫌いだ。また、曖昧な話を聞くのも嫌いだ。
そのどちらかなら殺してやろうと思いつつ、サウザーは部下が口を開くのを待った。
「実は今、その東部地区のとある町に、不思議な力を持つジプシーが居ると専らの噂でして。」
「それがどうした。」
「何やら妙な話なのです。占いが良く当たるとか・・・」
わざわざ報告するから何かと思えば、下らないにも程がある。
サウザーは部下の話を聞き流しつつ、いつこの男の身体を切り裂いてやろうかとさえ考えていた。
ところが、部下の話はこれで終わりという訳ではなかった。
「不思議な薬を用いて、どんな怪我や病でも治す事が出来、更には死者さえ蘇らせる事が出来る・・・・とか。」
「・・・・・・・・・何だと?」
終わりまで聞いてみると、部下の話は正直、サウザーの意表をつくものだった。
主君の恐ろしさを骨身に沁みて理解している筈の部下が、その主を相手に笑えない冗談を言うとも思えず、サウザーはひとまず部下に話の続きを促した。
「いえ、私もそのような馬鹿げた話などある筈はないと思うのですが!・・・・・しかし、そういう噂がまことしやかに流れておりまして・・・・・。何でも実際に、その者に災厄が降りかかる事を言い当てられた者や、その不思議な薬で身体が治った者、生き返った人間さえ居るとか・・・・・」
サウザーは珍しく、兵士の話を真剣に考え込んでいた。
占いはともかく、死んだ人間が生き返る、そんな事は有り得ない。
未だかつて、死者が生き返った話など聞いた事がない。
師・オウガイも言っていたではないか。生は一度しかない、限りあるものだと。
「・・・・・・只の根も葉も無い噂ではないのか?死人が蘇るなど、考えられん事だ。」
「いえそれが、目撃者も大勢居るそうで。尤も、私も部下から又聞きしただけですので、事実を確認してみない事には、確かな話だと断定は出来かねますが・・・・・」
「・・・・・・・」
「ともかくその者は、民衆共の熱狂的な支持を集めているそうなのです。民衆共はその者を、まるで神か聖人君子のように崇めているそうで・・・・・・」
だが、もしも万が一、神の力を持って生まれた聖人君子が実在したとしたら?
― まさか・・・・・・・
神など信じてはいない。祈っても祈っても、師を返してはくれなかった神など。
奇跡だって、そう容易く起きる筈がない。
だが、もし、万が一にも。
その奇跡が起こったら?
「・・・・・・・面白い。」
「如何致しましょう?」
「東部地区の制圧と並行して、その者を捕らえよ。一個小隊を遣わせば十分だろう。」
「はっ!直ちに!」
「その噂が嘘でも真でも、捨て置く事は出来ぬ。民衆共が平伏し、神と崇め奉るのは、この聖帝唯一人だ。」
「ご尤もであります!聖帝様の下僕となるべき民衆共の心を惑わす不届き千万な輩は、捕らえ次第即刻処刑して・・・」
「即刻捕らえて、生かしたまま連れて来い。見せしめの処刑はその後だ。」
「は?」
サウザーの命令を受けた瞬間、それまで一人で勇んでいた部下は、呆けた間抜け面を浮かべた。
「処刑の前に、直接話を聞きたい。」
「聖帝様直々に、でございますか!?そんな、畏れ多い!尋問ならば私共が・・・・」
「構わん。このサウザーが直々に尊顔を拝んでやろう。その『聖人』のな。」
奇跡の存在を99.9%否定しながらも、残りの0.1%が否定しきれない。
何事にも動じない筈の鉄の心が、今、微かに揺れているのを、サウザーは感じ取っていた。