ひんやりとした空気に身震いし、は薄らと目を開けた。
「うっ・・・・・・・・・」
腹が痛む。
空気も冷たいが、寝かされている床も酷く冷たくて硬い。
寒さと腹の痛みに顔を顰めて起き上がってみれば、目の前に自分を見下ろす男が居た。
「お目覚めか?」
「・・・・・ここは何処なの・・・・・?」
「ここは道場の独房だ。本来は問題を起こした門下生をぶち込む所なんだが、静かで良い所だろう?どうだ、気に入ったか?」
「冗談でしょう・・・・・・!」
は憎々しげに言い放った。
静かで良い所などころか、窓一つなく蝋燭の灯しかない陰気臭い場所である。
篭った湿っぽい空気はそこはかとなく黴臭く、気分が滅入りそうだ。
「出して!帰して!」
「そうはいかん。試合の日までお前にはここに居て貰う。安心しろ。飯は運んでやるし、誰にもお前がここに居る事は言っていない。エリザにもな。」
「え・・・・・・?」
「言えばあの女はお前を殺しに来るだろう。黙っていてやった俺の慈悲に感謝するんだな。」
「何が慈悲よ!こんな所に閉じ込めておいて!」
カシムは、睨むの顎を愉快そうに掴んだ。
「何故俺がエリザに言わなかったと思う?」
「・・・・・知らないわ、離して・・・・・!」
「お前を殺すのが惜しいからさ。お前は生かして俺の玩具にする。」
「なっ・・・・・・!」
「類稀な才を持ちながら、いつも殊勝で人望も厚い。そんなご立派な南斗白鷺拳伝承者様から、この俺が何もかも奪うのだ。伝承者の地位も、女もな。」
「何故そんな事・・・・・!?あなたはシュウが憎いの!?」
ショックを隠せないの眼前に人差し指を立ててみせて、カシムはせせら笑った。
「分かってないな。俺はただ多くを手に入れたいだけだ。まずはシュウを倒し、南斗白鷺拳伝承者の座を得る。そうすれば、エリザは俺の妻になる。あの女とその親父は、その結婚で俺を飼い殺すつもりらしいが、そうはいかん。邪魔な親父は消し、あの女の家も財産も全て俺のものにしてやる。そしていずれは南斗の宗家をも牛耳る。俺は絶大な権力を手に入れるのだ!」
「そんな・・・」
「大それた事だと思うか?だが野心の無い男など、男に生まれた価値もなかろう?シュウは愚かだったが、そのお陰で俺にはチャンスが巡ってきた。今では憎いどころか感謝している位だ。伝承者の座と、お前という玩具までくれようとしているのだからな。」
愉快そうに話すカシムに、今度はが薄く笑った。
「・・・・・・大きな野望の割に、やり方は小ずるいのね。」
「・・・・・・何だと?」
「私を人質に取ってシュウに勝てるつもり?無理よ、きっと。」
「黙れ。いくらシュウが強いと言えども、それは過去の話だ。盲の男に俺が負けるか。」
「勝てる自信が無かったから、私を攫ったんでしょう?自信があれば正々堂々と勝負する筈だわ。」
「黙れ!!俺のやり方を愚弄するな!!」
「きゃあっ!!」
プライドを傷付けられたカシムは、の頬を激しく打った。
そして、頬を押さえて倒れ込んだに圧し掛かり、スカートの中に手を入れ、太腿を弄り始めた。
「シュウはいつもどんな風にお前を抱く?ん?」
「やめて・・・・・!」
「優しくしてくれるか?恐らくそうだろうな。だがな、俺は女を甚振るのが趣味だ。お前も壊れるまで可愛がってやる、ククク。」
「嫌っ・・・・・・・・・!」
唇に触れそうな程接近してくるカシムの顔を、は必死で押しやった。
こんな男の好きにされる位なら、いっそ死んだ方が良い。
だがカシムは、何を思ったのかふと力を抜き、を解放した。
「愉しみは後にとっておこう。あとたったの二日だ。二日後にゆっくり味わってやる。『先代』南斗白鷺拳伝承者の女をな。ハハハハハ!!」
勝ち誇った高笑いと共に、カシムは牢を出て行ってしまった。
扉に大きな南京錠を掛けて。
残されたは、蝋燭のほの暗い灯の下で途方に暮れるより他なかった。
昇ったばかりの晴れやかな朝日が照らす道を、シュウは一人歩いていた。
あと数時間後には、いよいよ試合が始まる。
その前に、に会いたかった。
たった一月、されど一月。
もうすっかり身体に染み込んだこの土地の匂いが、やけに懐かしく心安らかに感じる。
寂しい思いをしているであろうに早く会いたい一心で、シュウは足早に家の方向へと歩いた。
昼も夜もない鍛錬、そして容赦のないサウザーとの手合わせの日々に、疲労していない訳はない。
治る端から怪我を負い、身体には無数の傷が付いている。
しかし、お陰で心の眼が開いた。
盲目で闘う術を身につける事が出来たのだ。
そして、この目で南斗白鷺拳伝承者として生きていく自信もついた。
一人ではなく、を守りながら。
ところが。
「・・・・・・・何者だ。」
家の前に誰かの気配を感じた。
それは良く知るあの優しい気配ではなく、禍々しい敵意に満ちたものであった。
「そこに居るのは誰だ。」
「おかえりなさい。」
「その声は・・・・・、カシム!?何故お前がここに・・・・・!」
「お迎えに上がりました。さあ、道場へ参りましょう。」
驚愕するシュウをよそに、カシムは堂々とした歩みでシュウに近付いて来た。
隙なく身構えつつも、まずシュウの頭に浮かんだのはの事だった。
ここまで来ておいて、この男がに何もしていない筈はない。
嫌な予感が吐き気のようにこみ上げてくるのを堪えて、シュウは近付いてくるカシムに怒鳴った。
「嘘をつけ!何をしに来た!?はどうした!?」
「折角敬意を払ってお迎えに上がったのに、随分な言い草ですな。貴方の大切な恋人もお待ちかねだというのに。」
「何だと・・・・・!?」
シュウは、焦りと怒りで歯を食い縛った。
カシムやその背後にいるエリザ父娘の今の狙いは、南斗白鷺拳伝承者の座の筈。
目を失った自分を見くびって、容易くそれを奪えると信じている口ぶりだった。
それに腹が立つというよりは、むしろには何の危害も及ばないだろうと安心していたのに、この連中は何処まで卑劣な手を使うのか。
怒りを抑えられなくなったシュウは、拳を構えてカシムに踊りかかろうとした。
「おのれ、何処まで腐った男だ!!」
「おっと!女がどうなっても構わんのか!?」
「なに!?」
カシムの言葉に、シュウの拳が止まる。
「今この場で俺に手を出せば、あの女は死ぬ。それでも良いのか?」
「くそっ・・・・・!何故だ!には何の関係もないだろう!?何故正々堂々と勝負しない!?」
「正々堂々?クククッ、笑わせる。勝負など勝つか負けるか、只それだけだ。そして俺は、目的の為には手段を選ばん主義だ。」
「・・・・・・大層に、主義が聞いて呆れる!どうせこれも彼女らの差し金だろう!?一年前のあの時と同じようにな!違うか!?」
怒りの念を露にするシュウに、カシムは愉快そうな薄笑いを浮かべた。
「ククッ、一年前か。そういえばそんな事もあったかもしれんな。」
「やはり・・・・・!一度ならず二度までも、何故卑劣な手を使う!?仮にも南斗の男が、恥を知れ!」
「フッ・・・・、流石に言う事が高尚だな。俺は貴方のそんな所が気に食わなかった。ただストイックに己が拳に生きる。・・・・・・・人が羨む財力と権力を手にしかけておいてだ。俺が毎日あの父娘の足元に這い蹲り、汚れ仕事ばかりしている横でだ!・・・・・・貴方のそのご立派な姿勢に、あの頃俺の気がどれ程逆撫でられた事か・・・・。」
腹立たしい筈の過去を、カシムは懐かしそうに語った。
その口ぶりには、妙に余裕がある。
「愚かな!貴様そんな物の為に、この南斗の拳を学んだというのか!?」
「ククク、そうさ。だから俺はいつだって、あの父娘の命令に忠実に動いてきた。しかし、ようやく俺にも運が向いて来た。貴方が憎かったのは、もう過去の話だ。財力や権力から目を背け、更にその節穴同然の目すらをも自ら棄てた貴方の愚かしさには、心底感謝している。そうさ、俺とていつまでも只の飼い犬ではない。俺には俺の野望があるのだ。クククッ。」
飼い殺されて終わる気などない。
ようやく巡って来たこのチャンスを、絶対に掴んでみせる。
その為にはシュウ、お前から伝承者の座を確実に奪う必要があるのさ。
心の内で呟いて、カシムは不敵に笑い続けた。
「野望だと!?」
「そうだ。一つ面白い事を教えて差し上げよう。俺が伝承者になった暁には、あのエリザは俺の妻になるのだ。」
「何・・・・・!?」
「ククク、人の縁というのは不思議なものだな。貴方が手にする筈だったものを、この俺が全て握る事になるのだから。まあそんな事はどうでも良い。とにかくついて来て貰おう。試合もじき始まる事だ。」
「くっ・・・・・・・!」
今この場でカシムとやり合う事は簡単だ。
だがそうすれば、が何処に囚われているのか、その身が無事かどうかも分からない。
従って今のシュウには、カシムに背中を突き飛ばされるまま歩き出すしかなす術がなかった。
強引に乗せられた車から、再び強引に降ろされて。
そして連れて来られた場所は、道場のある一角、地下に作られた独房舎であった。
あまり来る事はないが、この独特の陰鬱な空気ですぐに分かる。
足音の響く階段を下り、コンクリートの床を踏みしめると、一番奥の独房から女の叫び声が聞こえてきた。
「ん゛ーーーッ!!」
「!?」
くぐもったこの声は、紛れもなくの声である。
シュウはその声のする方へと駆け寄った。
しかし。
「・・・・・お前達は誰だ?そこで何をしている!?」
掴んだ鉄格子の向こうに、の他に二人分の気配を感じた。
焦りの色を露にするシュウに、カシムが喉の奥で笑いながら近付いて来る。
「妙な真似はせん方が女の為ですぞ。槍の先が女の胸に食い込んでも良いのなら、話は別だが。」
どうやら独房の中で、誰かが、恐らくカシムの手の者だろうが、に槍を突きつけているらしい。
刃の触れ合う嫌な金属音を聞きつけたシュウは、ゆっくりと鉄格子から手を離した。
「・・・・・・・・分かった、だからには手を出すな・・・・・!」
「よし、それで良い。さあ、貴方の愛しい恋人だ。この通りピンピンしてる。ほら。何とか言ってやれ。恋人のお帰りだぞ。」
「うぅーーっ!」
面白がっているカシムを、は憎々しげな瞳で睨み付けた。
何か言おうにも、きつく噛まされた猿轡は言葉を遮る。
駆け寄ろうにも、胸に突きつけられた二本の槍の切先が、それを赦さない。
無念そうなシュウとの表情に満足した笑みを浮かべて、カシムは薄く笑った。
「ククッ。尤も、その塞がった口では、何を言っても通じんか。」
「うぅっ!んぅっ・・・・!」
「見ての通り、いや、聞いての通りだな。女は無事だ。無事も確認出来たところで、早速本題に入ろうか。」
「・・・・・・何だ?」
「今日の試合、貴方には負けてもらう。」
「八百長をやれというのか!?」
「その通り。尤も、他の長老達の手前もある故、丸っきりの無抵抗では困るがな。まあ、暫く大人しく辛抱していれば、俺がさっさと勝負を付けてやる。その方が無駄に痛い思いをせずに済むだろう?伝承者の座を譲って貰うんだ。俺のせめてもの情けと思ってくれ。」
「おのれ、貴様という奴は!卑劣な真似をするばかりか、勝負そのものまで穢す気か!」
「ならば綺麗な勝負と引き換えに、女を殺すか?」
シュウが頷けない事を分かっていて、カシムはそう言った。
そしてその想像に違わず、シュウは口惜しそうに唇を噛んだ。
「ククク。そうだ。貴方はもう観念するしかないのだ。」
「くそっ・・・・!」
「ククッ。しかし、それにしても良い女だ。掌に吸い付くような肌をしている。貴方が何度抱いても飽きない気持ちも分かる。」
「貴様・・・・・!に何をした!?」
「動くな!」
激昂して踊りかかろうとしたシュウを、カシムは鋭い声で一喝した。
「ククク、心配するな。まだ何もしてやしない。今のところはな。さあどうする?伝承者の座と女、どっちを選ぶ?」
「・・・・・分かった、だからには指一本触れるな!」
血を吐くように言い捨てるシュウを見て、カシムは愉快そうに口角を吊り上げた。
「高潔な南斗白鷺拳伝承者様も、所詮男は男だな。妙に親近感が湧いたよ、ハハハハハ!貴方に恋人が居て良かった、勝つ為の材料は多い程良い。ハハハハハ!!」
「おのれ・・・・・・!」
「さあ、そろそろ時間だ。我々は闘技場の方へ参りましょうか、シュウ殿?」
そのわざとらしい敬語は、挑発しているようにしか聞こえない。
無遠慮に背中を突き飛ばす掌を、シュウはきつく唇を噛み締めて受け止めた。
「試合が終われば、は必ず返して貰うぞ・・・・・・!」
この男が約束など守る筈がない。
だから絶対に、何としてでも取り戻す。
だけは、この命に換えても。
「勿論。但し約束を守ればな。無事に返して欲しければ・・・・・、分かっているな?」
二人とも無事にここを出る事は出来ない。
シュウは瀕死の状態にまで追い込んで、エリザ父娘に引き渡してやる。
後はどう料理しようが、連中の勝手にすれば良い。
俺は夢にまで見た権力の座への階段を上るだけだ。
その手始めの余興として、このを征服してやる。
「うぅっ・・・・・!」
― 嘘よ!そんなの嘘!
再び階段の方へ向かう二人の会話は、にとっては聞くに堪えないものだった。
力の限りに首を振った。声の限りに叫んだ。
けれど、シュウには届かない。
卑劣なカシムは、実直なシュウを陥れようとしている。
それを知っているというのに。
カシムの企みを知りつつも、それを伝えられない今の自分が歯痒くて、は大きく見開いた瞳から涙を零した。