「もっと丁寧に舐めなさい。」
「はい・・・・・・」
美しく整った爪先をカシムの口元に押し当てて、エリザは小さく鼻を鳴らした。
このカシム、何を考えているのか分からない男だが、とにかく言う事はよく聞く。
こうして足を舐めろと言えば舐めるし、人を殺せと言えば殺す。
愛情などは欠片もないが、そこが決め手だった。
「お前は幸せな男ね。この私と結婚出来るのだから。」
「は。」
「尤も、お前が無事南斗白鷺拳の新たな伝承者になれたらの話、ではあるけれども。」
「心得ております。」
「いいこと?その暁には、今まで以上に私とお父様に尽くすのよ?私とお父様は、お前の忠実なところを買っているのだから。」
「勿論です、エリザ様。」
「分かったらさっさと続けなさい。」
エリザはまたその爪先を、カシムの口元に蹴り付けるように押し当てた。
そう、この男の忠実さは買える。
強さと見目形の良さにおいては、シュウやサウザーの方が格段に上だが、彼らでは自分達父娘の好きには動かせない。
誇り高く帝王気質のサウザーに関しては、言い寄っても無駄だと最初から眼中になかった。
だが温厚で人の好いシュウならば、無下に女を傷つけられまい。
強引に言い寄ってしまえば、済し崩し的に婿という名の操り人形に仕立て上げられると思ったのに。
― 愚かな男・・・・・・・・・。
だが、歯軋りしたのはもう過去の話。
何を思ったかは知らないが、掟を破ってあのような醜い傷を負った男など、こちらから願い下げだ。
おまけに、伝承者の座も十中八九奪われたも同然。
それも全て、自分に楯突いた報いなのだ。清々する。
後はシュウが伝承者の座から正式に追われるのを待つだけだ。
その時は、シュウを掟破りの不心得者として処刑してやる。
愛する男を失ったがどんな顔をするか、さぞや見物であろう。
「ふふ、楽しみね・・・・・・・」
「ええ。私も心から楽しみにしています。」
「・・・・・お前に言ったのではないわ。黙ってさっさと続けなさい。」
「はっ。申し訳ございません。」
勘違いされては困る。
こんな薄気味の悪い男に、愛など求めてはいない。
こんな男が自分の伴侶に納まるのは甚だ不本意だが、それも形式上の事だ。
飼い殺しで利用するだけし尽くして、はけ口は他所に求めれば良い。
この男は、父と自分の忠実な駒であれば良いのだ。
「ふふっ、カシム。頼りにしているわよ。」
「はっ、有り難き幸せ・・・・・・・」
そう、貧しい生まれの自分に、家柄という財産を与えてくれる事が。
例え犬ころのように扱われようが、どんな汚い仕事をさせられようが、今まで耐えてきた甲斐があったというものだ。
しかし、感謝するのはそこだけだ。
女帝気取りで我侭放題の女狐には、いくら美しくても正直欲情すらしない。
女は弱い方が良い。
あの時の、シュウの女。あの女は良い女だった。
恐怖に震えていた姿を思い出すと、今でも身体の芯が熱くなる。
まんまとエリザの婿に納まった暁には、好みの女で憂さを晴らせば良い。
エリザ父娘の権力と財力を持ってすれば、どんな遊びも贅沢も思いのままなのだから。
この父娘に利用されている振りをしていれば良いのだ。
踊らされている振りをして、水面下で少しずつ力を得ていく。
そうしていずれは全てをこの手に。
それぞれの思惑にほくそ笑んでいたその時、不意のノックの後、ドアが開いた。
「失礼する。」
「シュウ様・・・・・!」
「シュウ殿・・・・・!」
エリザとカシムは一瞬焦ったが、シュウの目が見えない事を思い出し、落ち着きを取り戻した。
「カシムがこちらに居ると聞いたのだが。」
「・・・・・・これに。」
カシムはエリザの足元から立ち上がると、シュウの前に歩み寄った。
「私に会いにその御目でわざわざご足労下さるとは。何か大事なお話でも?」
「ああ。南斗白鷺拳伝承者の座をかけての勝負、受けて立つ。その事を告げに来たのだ。」
「ほう、てっきり引退なさるおつもりだと思っておりましたが。」
「そうだな。後釜の者が心ある者であれば、それもまた私の辿るべき道だったかもしれん。しかし我が南斗白鷺拳は、貴様の如き卑劣な小物に伝承出来る拳では断じてない。」
「ぬっ・・・・・、この私を侮辱するおつもりか!?」
「この私とは大きく出たな。その思い上がった心、試合の場でこのシュウが砕いてやる。」
「それはこちらの台詞だ。両目を失った拳士など、もはや拳士に非ず!貴方はもはや伝承者ではないのだ。それを思い知らせてやる。」
対峙する二人を見ていたエリザは、口元に不敵な笑みを浮かべた。
とうとうこの時がやって来た。
まさか受けるとは思っていなかったが、しかし結果は見えている。
いかに音に聞こえたシュウといえども、盲目ではどうしようもない。
「良いでしょう。試合はこれから一月の後。勝負に敗れたり怖気付いて逃げれば、その時点で問答無用に伝承者の資格を剥奪の上、掟破りとして貴方に厳重な処罰を課します。そのように父に伝えますが、宜しいですわね?」
「ああ。私は逃げはしない。そちらこそ、正々堂々と勝負に挑むのだな。」
毅然とした口調で言い放って、シュウは部屋を後にした。
「お帰りなさい。」
「ただいま。」
出迎えてくれたの声音には、不安の色が隠れている。
シュウは泰然と微笑み、その肩を抱いて奥へ入った。
「レイはどうした?」
「もう帰ってしまったわ。シュウが帰るまで居ればって言ったんだけど。」
「そうか。怪我の方はどうだった?」
「少し切れてたけど、思った程大した事はなかったわ。ちゃんと手当てしておいたから。」
「そうか、済まなかったな。」
ふ、と息を吐き出して、シュウは再び口を開いた。
「、話があるんだ。」
「・・・・・・・・伝承者の事?」
「ああ。この間私を道場に呼んだのは、エリザ殿の父親だったのだ。彼は私を伝承者から下ろすと言った。北斗との他流試合の時に、私が掟を破った事を理由にして。」
「・・・・・・・それで?」
「彼は用意の良い事に、私の後釜まで決めていたようだったが、いつかのサウザーを覚えているか?」
「ええ。」
「彼がそれを反対し、私とその後釜候補に、伝承者の座を賭けた勝負をしろと言い出した。しかし私は迷っていたのだ。」
この数日、随分迷った。
が気遣ってくれればくれる程、その迷いは強くなった。
「その勝負を受け、伝承者の座を守り抜けば、今後も君に心配や迷惑を掛ける事になるだろう。それが心苦しかった。このまま拳を捨て、君と普通の暮らしをしていく事が一番良い事かもしれないと、そう思いもした。」
「・・・・・・・・・」
「しかし、やはり出来そうにない。あのような男に、我が南斗白鷺拳をやすやすと奪われる訳にはいかない。やはり私は、骨の髄まで南斗の男のようだ。済まない、。」
シュウの真摯な声に、はふと小さく笑いを零した。
「・・・・・・・だと思った。」
「?」
「そう言うと思ったわ。あの子の話を聞いて、貴方がこのまま引き下がる筈はないって思ってた。今まで何があっても貫き通してきたものを、貴方が簡単に捨てられる筈はないのよ。」
南斗白鷺拳は、いや、南斗そのものは、シュウの全てだ。
両親との別れも、その眼さえも捨ててまで貫いてきたものなのだから。
それをは良く分かっていた。
「貴方の気持ち、とても嬉しいわ。本音を言えばそうして欲しかった。もうこれ以上傷つかないで、もう二度と何も失う事のないように、平凡で平和な暮らしをして欲しかった。でも、それが無理なのも分かってた。だから貴方の思う通りにして。私はちゃんと・・・・・・見届けてみせる。」
「・・・・・・・・・」
「貴方のする事、全部見届けてみせる。貴方がどんな姿になっても受け止めるわ。だから・・・・・、どんな姿になっても良いから・・・・・、絶対に死なないって約束して・・・・・・・」
例え今後、シュウ自身の信念がその腕を失わせようとも、脚を失わせようとも。
受け入れて支えてみせる。
生きて側に居てくれさえすれば良い。
その覚悟を、はつけていた。
「・・・・・・分かった。約束する・・・・・!」
を強く抱きしめながら、シュウもまた誓っていた。
残った片翼でを包んで、南斗の宿命を背負っていく事を。
南斗白鷺拳伝承者として生きていく事を。
山に取り囲まれた、人の気配のない地。
と暮らすあの家の周辺よりも、更に自然の息吹が強いこの場所に、シュウはある男に会う為、一人降り立った。
あと一月。
それまでに開かねばならまい。
塞がった肉眼の代わりに、心の眼を。
それには、その男の力が必要だった。
森をくぐり抜け、川を越えた所にある古びた大きな館。
そこがシュウの目指す場所であった。
「この地に客とは珍しい。それもお前だとはな。」
「ここに戻っていると聞いたのでな。」
白髪の初老の男の肖像画が飾られている応接室に、その男は居た。
「サウザー、お前に頼みがある。」
「頼み?それもまた珍しい事だな。言ってみろ。」
「修行の相手をして欲しい。目が見えずとも満足に闘えるだけの勘を身に付けるには、お前の力が必要なのだ。」
「ふっ、なるほどな。カシムとの勝負、ようやく受ける気になったか。」
「頼まれてくれるか?」
「・・・・・・良かろう。貴様がそのまま腐るのは、俺とて面白くなかったところだ。但し手加減はせんぞ。女との別れは済ませてきたか?」
「その心配は無用だ。私は死なぬ。」
泰然と微笑を浮かべるシュウに、サウザーは口角を吊り上げた。
時は瞬く間に過ぎていった。
シュウが修行の為に家を空けてから、早くも一月近く経つ。
それは伝承者の座を賭けた勝負の日が、もう間近に迫っている事を意味していた。
シュウはまだ戻って来ない。
正直心配には違いないし、早く無事な顔を見たいと思う。
しかし、はシュウを信じていた。
この一月何の便りもないのは無事な証拠、きっともうすぐ帰って来る。
そう信じて、はシュウの帰りを待ち続けていた。
今日も一人、花の世話をしながら。
シュウが居ない内に、畑は春本番を迎えていた。
寒い冬を土の中で越えた種や球根は芽吹き、今美しい花を咲かせ始めている。
思えば冬の間、ここへ来てはよく泣いた。
顔に包帯を巻いて眠るシュウの姿を見ていられず、胸が張り裂けそうな苦しみと悲しみの結晶を、何度もこの土に零していた。
そんな幾粒もの涙を吸い込んでいるのに、花達は太陽に向かって明るく咲いている。
その強さに、は心救われていた。
何が降り注いでも負けず動じず、ただまっすぐ一方向を向いて生きる。
この強さに・・・・・・・
「御免下さい。」
「!」
つい物思いに耽っていると、背後から声を掛けられた。
花を買いに来た客だろうか。
我に返ったは、笑顔を浮かべて振り返った。
「はい、何でしょ・・・」
そしてその場に凍りついた。
そこに居たのは忘れもしない、一年前に自分を殺しかけた男だったからだ。
「あなたあの時の・・・・・!」
「覚えていてくれたとは光栄だな。」
「何しに来たの!?」
警戒し後ずさるに薄く笑いかけて、その男、カシムは足元の花に目をやった。
「ふん、美しいな。一年前にあれだけ徹底的に傷めつけてやったのに・・・・・、何ともしぶとい事だ。」
「ここまで必死で盛り返したわ。それでもまだ、あなた達に潰された花の方が多いのよ!」
は、カシムを厳しい目で睨みつけて言い放った。
この一年と少し、はシュウと共に、荒らされた畑に再び命を吹き込んできた。
その甲斐あって草花はまた花を咲かせられるようになったが、残念ながら木に咲く花は全て畑から消えた。
切り倒され滅茶苦茶にされた木は、どうやっても蘇る事はなかったのだ。
桃もツツジも薔薇も全て。
「よくもまた私の前に現れたわね!」
「ククク、そう冷たくするな。今日はお前に用があって迎えに来たのだ。」
「私を・・・・・・!?一体何の為に・・・・」
「お前には俺の切り札になって貰う。シュウとの勝負の為のな。」
「あなたが!?シュウと勝負するのはあなたなの・・・・・!?」
愕然とするをよそに、カシムは足元の花を一輪手折った。
そして、その花を自分の眼前に翳して弄びながら、独り言のように話を続けた。
「ふふ、そうだ。シュウの奴め、あのまま大人しく伝承者の座を俺に引き渡していれば良かったものを、わざわざ負けると分かっている勝負を受けた上、小賢しくも修行の旅に出たというではないか。ククッ、無駄な事を。両目の見えん奴がいくら鍛えたところで再び見えるようになる訳でなし、どれ程の意味がある?」
「・・・・・・・・・」
「だが、俺は完璧主義なのだ。俺の座右の銘を教えてやろうか?『念には念を』だ。より確実な勝利を掴む為に、利用出来るものは何でもとことん利用する。だからお前が必要なのさ。」
「馬鹿を言わないで!小賢しいのはあなたの方でしょう!?正々堂々と勝負しないなんて卑怯よ!私はあなたの切り札になんか、うっ・・・・・・!」
息巻くの言葉は、そこで遮られた。
鳩尾を突いた腕にどさりと倒れ込んできたを抱き上げて、カシムはほくそ笑んだ。
「そう冷たくするな。丁重にもてなしてやるぞ。」
気絶したの顔を愉快そうに一瞥して、カシムはくるりと踵を返した。
後ろ手に放り投げた花が一輪、ひらひらと空を舞って地に落ちた。