早春の森の中で、シュウは一人佇んでいた。
閉ざされた目の代わりに、両の耳を研ぎ澄ませて。
鳥の囀る声や雪の落ちる音がいやに大きく聞こえる中、シュウはただじっと気配を殺して待った。
そこへ一頭の鹿が、餌を求めて現れた。
その瞳は純粋ながらも警戒に光り、しなやかに引き締まった体は、危険を察知すればすぐさま逃げられるように油断なく動いている。
やがてその鹿は、雪の下から顔を出している若草を見つけた。
そして鹿がそれを食む微かな音こそが、シュウの待ち望んでいた音だった。
「はっ!」
シュウが放った蹴りは空を裂き、鹿へと襲い掛かった。
だが、その狙いは僅かにずれていた。
鋭い槍のようなシュウの脚は、鹿の鼻先を掠めて地についた。
そしてその頃にはもう、鹿は向こうに逃げた後だった。
ふっと息をついて、シュウは姿勢を正した。
野生動物が持つ危険察知能力は確かに侮れないものであるが、仮にも南斗白鷺拳を極めた男が、鹿一頭狩れぬとは。
「思ったより落ちているな・・・・・」
シュウは何処か自嘲めいた笑みを浮かべて、低く呟いた。
今の自分は、明らかに以前より力を失っている。
まるで片翼を失くした鳥の如く。
拳の威力は落ちていなくても、当たらなければ意味がない。
たとえどんなに僅かなずれでも、戦闘時にはそれが十分命取りになり得る。
もしもあの勝負を受けるのならば、一から修行しなおす気で視覚以外の感覚を鍛え上げなければなるまい。
もし、受けるのであれば。
しかしまだ迷っている。
への気持ちがそうさせている。
は大変な仕事をこなしながら、この塞がった目を献身的に看護してくれた。
一人で声を殺して泣いている夜も、何度もあった。
もしかしたらは、もうこの拳を捨てて欲しいと願っているのかもしれない。
南斗の拳士などでさえなければ、この目が光を失わずに済んだのに。
そう思っているかもしれない。
そう考えると、シュウにはまだ結論が出せなかった。
「ただいま、。」
「あ、お帰りなさい!どうだった?」
「済まない、逃がしてしまってな。」
「そう。」
「折角の鹿鍋なのに、鹿の肉がなくては台無しだな。悪かった。」
「良いのよ!狩りなんてそんなものなんだから。気にしないで!」
立ったまま肩身の狭そうに笑うシュウを励まして、はシュウを食卓へと着かせた。
「とにかく食べましょう。野菜だけだって美味しいんだから!何と言ってもこのスープに自信があるのよね。今日のは会心の作よ。」
「君の料理はいつだって会心の作ばかりだと思うが。」
「そう?有難う。でも今日のはもっと会心なの!さ、始めましょ!」
明るい声で言いながら、は鍋に野菜を放り込んでいる。
その音を聞きながら、シュウは穏やかな微笑を浮かべた。
は、失った片翼になろうとしてくれている。
そんな女性と巡り逢えた事は、きっと自分の生涯において最高の幸福だろう。
心からの気持ちに報いたいと思うし、また報いなければならないと思う。
このままずっと、こうして寄り添って暮らせば、それが出来るだろう。
拳を捨て、花を愛し、を愛して。
そうすれば、は喜んでくれるだろうか。
窓を開けて夜風を瞼に受けると、刺すような冷たさの和らいだ微風に、春の訪れを感じる。
眩しい太陽の光もほんのりした月の光も、全く区別のつかない闇の中にいても、季節はちゃんと巡っているようだ。
「シュウ、風が出てきたわ。窓を閉めましょう。」
「ああ。」
隣で横たわっていたに微笑みかけて、シュウは窓を閉めた。
「・・・・・・どうしたの?」
「何がだ?」
「ここ2〜3日、様子が変よ。南斗の道場で何かあった?」
「・・・・・フッ、君には敵わないな。大した観察眼だ。」
「だって貴方、時々じっと何か考え込んでる。何か悩んでるの?」
シュウは苦笑を浮かべて横たわり、を腕に抱き入れた。
「拳の道を歩むには満足でなくなった身でも、君を守っていく事ぐらいはきっと出来る。」
「え・・・・・・?」
「・・・・・・・君と出逢えて良かった。」
「シュウ・・・・・・」
の顔に触れてみれば、心なしか心配そうな表情を浮かべているように感じる。
シュウは安心させるように微笑むと、指先で探り当てたの唇に、自分の唇をゆっくりと重ねた。
「あっ・・・・ん・・・・・」
の甘い声を久方ぶりに聞いて、シュウは目が見えなくなってからを抱くのは、これが初めてだった事に気付いた。
その白い肢体や艶めいた表情をこの目で見る事はもはや叶わないが、身体で感じる事は出来る。
「は・・・・・あんッ・・・・・・!」
手探りでその滑らかな肌を弄れば、が自分を欲しているのが分かる。
つんと屹立した乳房の先や、指を濡らす熱い蜜が、それを教えてくれる。
「あん・・・・・、シュウ・・・・・・、もう来て・・・・・・」
腕を掴むの手に、力が篭っている。
シュウはに乞われるまま、熱く猛った自身を花弁に押し当てた。
「んっ・・・・・・!」
しかし、蜜で滑った花弁は、シュウをやんわりと拒む。
いや、拒むというよりは、自身がうまく中心に当たっていないようだ。
「んっ、あんッ・・・・!ふふふ、擽ったいわ・・・・・・」
「動いたら余計に擽ったいぞ。」
身じろぎしながらクスクスと笑うに苦笑を浮かべて、シュウはもう一度侵入を試みた。
しかしうまくいかない。
盲目での情交に慣れぬせいとはいえ、こうもうまくいかないと、じれったくてつい苛立ってしまう。
それが顔に出ていたのだろうか。
不意にの笑いが止んだ。
「大丈夫よ、シュウ。」
「・・・・・・」
「私に任せて・・・・・」
その直後、自身をの指先が捉える感触を覚えた。
熱く脈打つそれは、に触れられてまた硬度と質量を増す。
それをに気付かれはしないかと狼狽しつつも、なす術なくに身を任せていると、やがて自身はの手によって泉へと導かれた。
「んっ・・・・・・!」
は仰向けに横たわったまま、身体ごと下に下がって自らシュウを導き入れた。
「・・・・・・これで大丈夫、でしょ?」
「ああ。・・・・・・ふっ、情けないな。」
「そんな風に言わないで。すぐに慣れるわ。」
そう言うの声は、優しい響きをもっている。
シュウは擽ったそうに微笑むと、先端だけ入り込んでいた自身を根元まで深くの中に沈めた。
を愛しく思う気持ちを表すかのような力強さで。
「あッ・・・・・・、あぁぁ・・・・んッ!」
「っ・・・・・・・!・・・・・・、何処だ?」
「ここよ・・・・・、ここに居るわ・・・・・・」
彷徨わせた手は、の手での頬へと導かれる。
触れたその柔らかい頬を両手で包み込んで、シュウは深い口付けをに与えた。
「っはぁッ・・・・・・!ぁ・・・・・、シュウ・・・・・・!」
「愛してる・・・・・・・・、愛してる・・・・・・・・」
「私も・・・・・・、んっ・・・・・、愛してる、わ・・・・・・」
吐息を交わし、身体の奥まで繋がっていれば、この闇の中でも独りではないと思える。
永遠に見失った筈のの姿を、シュウは今、確かにその目で見ていた。
その翌日の事。
「ごめん下さい!」
「は〜い!」
シュウと共に売り物の花束を拵えている所に、誰かが訪ねてきた。
まだ年若い、いや、子供といっても差し支えなさそうな声をしている。
その声に全く心当たりのないは、首を傾げつつも玄関へ出た。
「どちら様?」
「俺、レイと言います。シュウさんは・・・・・?」
「シュウ?ええ、居るけど・・・・・・」
玄関に立っていたのは、まだ10歳そこそこの少年であった。
幼いながらに芯の通ったような、なかなか凛々しい面構えをしている。
しかしを驚かせたのは、その額を伝う赤い血の筋であった。
「あなた、それどうしたの!?」
「あ・・・・・・」
レイと名乗った少年は、に指摘されて気付いたのか、バンテージを巻いた拳で額を乱雑に拭った。
「大丈夫!?どこでそんな怪我を・・・」
「大丈夫です。気にしないで下さい。」
「でも・・・・・・!」
「それより、シュウさんに会わせて下さい。お願いします!」
「・・・・・分かったわ、とにかく上がって!」
何にしろ、この場でじっとしていても仕方がない。
はレイを促して、部屋の中に戻った。
に連れられて居間へ入ったレイは、シュウの姿を見るや否やその側に駆け寄った。
「シュウさん!」
「その声は・・・・・、レイか!?」
「はい!お久しぶりです。」
レイは額の怪我も省みず、差し出されたシュウの手を取った。
シュウはレイの怪我に気付いておらず、レイもまた平気そうに見えるが、は気にせずにいられず、二人の間を割って入った。
「レイ、って言ったわよね?あなた、話の前に手当てをした方が良いわ。こっちにいらっしゃい。」
「どうしたのだ?」
「この子頭に怪我をしてるのよ。血が出てるわ。」
は心配そうな声でそう言ったが、シュウは全く動じなかった。
ただの子供ならいざ知らず、まだ練習生とはいえ南斗の道場で日々厳しい修行を積んでいるレイだからこそ、なのだろうが。
「怪我か。大事ないか?」
「はい。大丈夫です。」
「ならば良いが。鍛錬中に負ったのか?」
「その事でお話があって参りました。」
そう言うと、レイは真剣な眼差しでシュウをまっすぐ見据えた。
「南斗白鷺拳伝承者の座を、カシムさんに譲るというのは本当ですか?」
「何だと?」
「道場中、その噂でもちきりです。シュウさん、本当なんですか!?」
詰め寄ってくるレイを前に、シュウはじっと黙したままだった。
あの件はあのまままだ保留になっている筈なのに、一体誰がそんな噂を流したのだろう。
しかし、そんな事は考えるまでもない。
スザクとエリザ、そしてカシムの仕業だと容易に想像出来る。
何と傍若無人な連中であろう。
「カシムは?どうしている?」
「カシムさんは、もう既に伝承者気取りです。最近はサウザーさんが道場に姿を現さないのを良い事に、俺達練習生に稽古をつけてやると言っては、俺達に因縁をつけて・・・・。仲間が何人か大怪我を負って、町の診療所に運ばれました。」
「何だと・・・・・!?それはどういう事だ!?」
「練習生同士でやる筈の乱取りはやらせて貰えず、毎日ただ型の稽古ばかり。それだけならまだしも、その型に難癖をつけては棍棒で滅多打ちにするのです。それも決まって被害に遭うのは、シュウさんに型の稽古をつけて貰っていた奴ばかり。俺のこの怪我も・・・・・」
「何と・・・・・・・」
レイの話を聞いて、シュウは愕然とした。
練習生の中には確かに出来の良いのも悪いのも居るが、このレイなどは、まだまだ未熟ながらも光る物を持っている。
例え見込みのない者でも、叱責ならば口で言えば済む話、百歩譲って力で制裁するにしても、武器で滅多打ちにする事はない。
どんなに厳しくても、ただ耐えて師範の教えを受けねばならない練習生に、お門違いの私怨で怪我をさせるとは言語道断だ。
「シュウさん!カシムさんに伝承者の座を譲らないで下さい!」
「レイ・・・・・・」
「俺、貴方の教えなら、どんな厳しい修行でも耐えられます。貴方の指導はただ厳しいだけでなく、ちゃんと意味も成果もある。けれど今は・・・・・。道場に戻って下さい、お願いします!!でないと仲間が次々に潰されていく・・・・・・!」
僅かに声を震わせたレイの肩に、シュウはその大きな手を置いた。
「・・・・・分かった。お前はもう何も心配しなくて良い。」
「シュウさん・・・・・・・」
「、出掛けてくる。悪いがレイの手当てをしてやってくれ。」
「え、ええ・・・・・・・」
シュウはレイをに託すと、しっかりとした足取りで出て行った。