その日の朝も、いつもと何も変わらぬ朝だった。
「今日は一日道場に居る事になるだろう。済まんな、畑を手伝えなくて。」
「いいのよ。こっちは一人で大丈夫だから。」
澄み切った冬の青空が、二人の頭上に広がっている。
だがこの平和な風景とは裏腹に、二人の胸中は複雑だった。
シュウは北斗の動向と南斗の行く末を案じ、はシュウの身を案じて。
しかしその不安を表に出す事なく、二人はいつものように微笑みを交し合った。
柔らかく綻んだシュウの群青の瞳が、ゆっくりと近付いてくる。
はその澄んだ色を見つめながら、シュウの口付けを受けた。
「行ってくる。」
「行ってらっしゃい。」
― 気をつけて・・・・・
颯爽と歩いて行くシュウの後姿を見送って、は不安げに睫毛を伏せた。
道場は既に物々しい雰囲気で満ちていた。
南斗の拳士の中から選りすぐった10人の男達が、己の出番を今か今かと待ち侘びている。
そして、上座で泰然と構えている二人の男、サウザーとラオウ。
とてつもなく強大なオーラを纏うその二人が、この雰囲気を作っているといえよう。
もしトキまでもがこの場に居れば、それはもっと重々しいものになっていたに違いない。
「ラオウ、久しぶりだな。」
「シュウか。相も変わらず喰えぬ気を纏っておるわ。」
「それはお互い様だ。」
シュウは些かも気を緩めず、空いた椅子に腰を掛けた。
上座からは、道場全体が良く見通せる。
シュウはその一角に、一人の少年を見た。
― あれが・・・・・・
確かになかなかの面構えをしている。
だがまだ明らかに幼さを隠せない容貌だ。
まだまだ修行中の身なのだろう。
そんな未熟者が、伝承者の器でこそないとはいえ、曲りなりにも南斗の拳を一通り身につけた男達に果たして敵うのであろうか?
「一同、始めい!!」
それまで沈黙を通していたサウザーの鋭い一声が試合の開始を告げ、シュウは一層緊迫した面持ちで少年を見つめた。
どうやら要らぬ心配だったようだ。
この少年、凄まじい才と可能性を秘めている。
南斗の男を一人また一人と倒していく少年をじっと見据えながら、シュウはその小さな身体に宿る恐るべき素質に驚いていた。
きっとこの少年は強くなる。
自分よりも、同じくその姿を鋭い視線で射抜いているサウザーよりも。
そして、もしかすると、このラオウよりも。
ラオウは確かに強い。
これ程の才を持つ者は他におるまい。誰もがそう思っている。
今この場に居ないトキもまた同じ。
だが、ラオウは計り知れぬ野望と凶暴性を持ち合わせている。
トキは逆に優しすぎるようだ。
類稀な才を持ちながら、それを医学の方面に活かしたがっていると聞き及んだ事がある。
だとすれば、次期北斗神拳伝承者は、この少年になるのかもしれない。
― これ程の非凡な男達が、同じ世で一子相伝の北斗の宿命を背負うとは・・・・
「フフフ、聞いたかシュウよ。これは面白い事になってきたわ!!」
「・・・・・・」
ラオウの言葉を聞いたサウザーが、愉快そうに笑っている。
この男は、何故これ程余裕の表情を浮かべているのだろう。
北斗の行く末が誰の手に握られても、問題ではないと思っているのだろうか?
もし歪んだ男の手に渡れば、この南斗も破滅を辿る事になるというのに。
― それを見極めねばならぬ・・・・
九人目の男に挑む少年に、シュウは一瞬殺気を込めた視線を送った。
だが少年は、体力の限界が近いであろうに、髪の毛一筋程も集中力を乱す事なくその気に気付いた。
いい面構えだ。
全く動じていない。
だが、問題はここからだ。
こちらに気を取られて相手の攻撃を喰らうようであれば、そこまでの器。
およそ伝承者の器にはなれない。
シュウはわざと目を逸らせない程に殺気を強め、少年を見据えた。
両者まんじりともせず、強い視線をぶつけ合う。
二人にとっては永遠のような時間だ。
だが、他者は違う。
この隙をついて、試合相手が背後から一撃を繰り出してきた。
「あたあ!!」
「おお!!」
「九人目までも!!これはもしや!!」
その一撃を受ける前に九人目を倒した少年に、驚きの声が上がる。
南斗十人組手を、九人目まで勝ち残ってきたとは大したものだ。
これで才は確かめた。
後はその才をどう活かす男になるのか、その精神を確かめばならない。
シュウは椅子から立ち上がり、少年の前に立ちはだかった。
「お前の名は?」
「ケンシロウ・・・・・」
― 確かめさせて貰うぞ、ケンシロウ・・・・
シュウは闘気を込めた眼差しで、ケンシロウと名乗った少年を見据えた。
いかに才があろうとも、所詮はまだ修行中の身。
そしてシュウは、南斗の中でも最高峰に分類される拳法の伝承者。
勝負は一瞬で決まった。
「うう・・・・・」
死には至らねど、到底起き上がれないダメージを負ったケンシロウは、苦悶の表情を浮かべて床に転がった。
その様をサウザーは冷酷な笑みを浮かべて、ラオウは眉一つ動かさずに見つめている。
シュウもまた、無言のままケンシロウの動向を見守った。
サウザーの命で、拳士達が立ち上がる。
このままいけば、あと数秒後には止めを刺されて死ぬだろう。
そうと分かっていても、シュウは敢えてケンシロウの動きを待った。
「うっ・・・・・」
男達が槍を手に動き始めた瞬間、ケンシロウはようやく身体を起こした。
苦しそうに曲げた背をそれでも精一杯正し、血を吐きながら。
「あ・・・・ありがとう・・・・・。10人目の相手があなたでよかった・・・・」
痛みに軋む身体を鞭打って言った言葉は、シュウへの礼だった。
今正に死と直面しているというのに、礼とは。
年端もいかぬ身ならば、助けてくれと泣き喚きそうなものなのに。
それも笑顔でだ。
諦めでもなく、媚びるものでもなく、ただ純粋に感謝の念を表したような。
己の才に慢心もせず、死をも恐れず。
何という潔さ、何という見事さ。
今にも死にそうなこの子供が、シュウにはあのラオウよりも強大に見えた。
― 死なせる訳にはいかん・・・・!
シュウは迫り来る槍の雨を、その手で払いのけた。
サウザーの言う事は尤もだ。
掟に背いている事は、重々承知している。
だがその掟に背く価値が、この少年にはあるのだ。
いや、何としてでも救わねばならない。
「ただで命をくれとは言わぬ!代わりに・・・・・」
そう。
この少年は今に大きく光り輝く。
成長したこの少年は、南斗のみならず、多くの人を導き救う一条の光となるであろう。
その為には、南斗白鷺拳伝承者としての力を失う事になっても構わない。
言い換えれば、それが私に出来るたった一つの事なのだから。
ただ一つ。
、
もう二度と君の笑顔を見られなくなる事を、どうか許して欲しい。
だが私の心には、いつも君のあの笑顔が焼き付いているから。
「・・・・・俺の光をくれてやる。これで文句はなかろう?」
だから、忘れる事はない。
これから先、この目が永遠に闇に閉ざされようとも。
南斗の使いだという見知らぬ男がやって来た時から、嫌な予感はしていた。
使いの車に揺られながら、は押し潰されるような不安と戦っていた。
見知らぬ男の前で取り乱さぬようにするのが精一杯で、口を開く余裕もない。
だから、シュウの負傷がどの程度なのかも、傷を負った理由も、今は何も分からなかった。
ただ一刻も早く、シュウの元へ。
震えそうになる手を固く握り締めて、はずっと窓の外を睨み続けた。
「シュウ・・・・!?」
通された医務室は、シュウ以外誰も居なかった。
はここへ連れてきてくれた男が出て行くのを見計らうと、シュウの側へ駆け寄った。
簡素なベッドで、顔に包帯を巻いて眠るシュウの側へ。
「シュウ・・・・、何故こんな・・・・・」
の震える声にも気付かぬ程、シュウは深く眠っている。
治療に用いた薬のせいで、恐らく今日は目を覚まさないだろうと言われていたが、本当のようだ。
勿論、捨て置いて帰るつもりはない。
目を覚ますまで側に居るつもりだった。
だがその時、医務室のドアが開いて誰かが入ってきた。
「来たか、女。確か・・・・、、と言ったな?」
「貴方は・・・・・」
にこりともしないその金髪の男は、確かシュウがサウザーと呼んでいたあの時の男だ。
やはり物々しい空気を纏っている。
だが今のには、気後れしていられる余裕はなかった。
「貴方が連絡を下さったのですか?」
「そうだ。早く引き取って貰わねば困るからな。」
皮肉な物言いだが、ともかく連絡を寄越してくれたのは有り難かった。
はまず礼を述べると、一番訊きたかった事をサウザーに尋ねた。
「どうか説明して下さい。彼がこんな怪我を負った訳を・・・・」
「訊いてどうする?訊いたところで奴の眼が再び開く訳でもあるまい。」
「・・・・・理由を知りたいと思うのは、無駄な事ですか?」
僅かに震えたの声を聞いたサウザーは、退屈そうに小さく鼻を鳴らした。
そして、ベッドに横たわったままのシュウを突如抱え上げた。
あれだけ大きなシュウの体躯を、いとも軽々と抱えている。
「あの、何を・・・・」
「ついて来い。家まで送ってやる。」
「でも・・・・」
「ここは道場で、診療所ではない。療養は家でやって貰う。」
それだけを言うと、サウザーは背を向けて行ってしまった。
ついて来ねば置いていくと言わんばかりの冷たさと素早さで。
最早この場で何を訊く事も出来ず、は慌てて後を追うより他なかった。