しかし、納屋はもぬけの殻だった。
あの悪漢共を縛り上げていた筈の縄だけが、床に転がっていた。
自分達でどうにかして逃げ出したのかもしれないが、シュウには誰かが連中を助け出したとしか思えなかった。
しかし、この夜中に当てもなく連中を探し回る訳にはいかない。
また長時間を一人にしては、万が一連中が戻ってきた場合、今度こそ最悪の事態に陥るかもしれないからだ。
探し回らずとも、黒幕の見当はついている。
となれば、シュウにとって優先すべき事は、の身を守る事であった。
それから2〜3日、シュウは片時もの側を離れなかった。
その間は無事何事もなく、の傷もすっかり綺麗に治っていったのであるが、傷の癒えないものは他にあった。
「畑・・・・、あの様子じゃ次の春は何の収穫も出来ないわね・・・・。」
「そうだな・・・・・、元通りにするには時間が掛かるだろう。」
「ええ・・・・」
は小さく頷いて溜息をついた。
畑は壊滅的な被害を被っていて、今が盛りの花は勿論の事、春に咲く予定だった花も全滅だった。
今から急いで植え直そうにも、もう種や球根も尽きていれば、既に植付時期も過ぎている為叶わない。
こうなっては当分の間、花を育てる事は不可能であった。
となれば、その間の暮らしが立たない事になるのは、容易に想像できる事であった。
「済まない、・・・・、私のせいで、また君に多大な迷惑を掛けてしまった。」
「どうして?シュウが悪いんじゃないわ。春になればまた次の季節の花を植えられるし、ほんの少しの辛抱よ。それまでは町で何か仕事を探して、それで何とか・・・」
「それに関しては私も全面協力する。だが今回の事は私のせいだ。思い当たる節がある。」
「どういう事・・・・?」
南斗の裏事情など何も知らない故無理もないが、は先日の暴漢達の行動の意図に何も気付いていない。
知らせずに済むなら、余計な不安を煽らずに済むなら、それに越した事はない。
だが、もう遅いのだ。
を離す気など、もうないのだから。
たとえ連中があの手この手で妨害してこようとも。
だからシュウは、己の推測をありのままに話す事を選んだ。
「そんな・・・・、この間の事がエリザさん達の仕組んだ事だなんて・・・、本当なの!?」
「確かに確実な証拠などは何もないが、おそらくそうだろう。」
「どうして・・・?どうして彼女達はそれ程貴方に固執するの?」
「偏に己が野望の為だろう。だが私は彼らの手駒になる気は断じてない。」
「でも・・・・、じゃあどうするの?」
は、不安そうな瞳をシュウに投げ掛けた。
シュウが彼らを頑なに拒む限り、彼らもまた執拗にシュウに、そして自分にも迫り来るであろう。
それを不安に思う事は、至極当然の事であった。
「南斗の宿舎を出ようと思う。、私と共に暮らしてくれないか?」
「え・・・・・?」
「そうすれば君と離れずに済む。この間のように連中が君に何か危害を加えようとも、私がこの手で阻止できる。それとも、は私と暮すのが嫌か?」
そう言って、シュウは目を細めた。
嫌な筈はない。
突然の話に驚いただけだ。
その証拠に、自分の表情がみるみる内に綻んでいくのが手に取るように分かる。
「嫌だなんて・・・・、そんな筈ないじゃないの・・・!」
「決まり、だな。」
シュウは温かな笑顔を浮かべると、をそっと抱き寄せた。
それからすぐ、シュウは南斗の道場へ向かった。
善は急げ、すぐにでも部屋を引き払う為と、あともう一つの目的の為に。
― 確たる証拠は何もないが・・・・、ほぼ間違いなく連中の仕業だ・・・・
シュウは険しい表情を浮かべながら、木々の枯れた山の獣道を歩いていた。
通行用に整えられた道は確かに歩きやすいが、こちらの方が町の方角に向かうには近道だからだ。
「ん?あれは・・・・・」
立ち枯れた小枝を掻き分けて進んでいたシュウは、ある一角に目を留めた。
そこだけ妙に盛り上がっている土の山がある。
どうにも気になったシュウは、その山を掘り崩してみた。
「これは・・・・!?」
そこにあったのは、先日の暴漢の一人の顔であった。
いや、一人ではない。
更に掘り返してみると、あの日納屋に閉じ込めた全員がその場に居た。
全員外側から凄まじい力で胸や腹などを突き破られ、苦悶の表情を浮かべて死んでいる。
シュウは、その死に様を嫌になる程良く知っていた。
「これは紛れも無く南斗の拳・・・・、やはり・・・・・」
これで99%の疑念が、100%の確信に変わった。
シュウは急ぎ南斗の道場へと向かった。
久しぶりに顔を出した南斗の道場は、相変わらずの様子であった。
懸命に修行を積み、拳の高みを目指している者達が集って稽古に励んでいる。
この中に邪な心を抱く者が存在するなど、信じたくはなかったのだが。
深々と頭を下げてくる練習生達を呼び止めて、シュウは珍しくエリザの所在を訪ねた。
「お前達、エリザ殿がこちらに参られているか知っているか?」
「エリザ様ですか?それなら先程お越しになりました。」
「客間に入って行かれたようですが?」
「そうか。分かった。」
また頭を下げる練習生達を労って、シュウは急ぎ足で客間へと向かった。
客間とはいえ、実際のところは南斗の者以外の客などそう滅多に来ない。
従って、ここはエリザの私室のようなものであった。
「エリザ殿、失礼致します。」
シュウは軽いノックの後エリザの名を呼び、ドアを開けた。
中には練習生達の言う通り、いつもの如く優雅な装いをしたエリザが紅茶などを啜っていた。
「あら、シュウ様。お久しぶりですこと。ご機嫌いかが?」
「本当にご無沙汰しておりました。失礼ですが今までどちらへ?」
「あら珍しい。貴方が私の行動に興味を示されるなんて、今までありませんでしたわね。」
「茶化さないで答えて頂きたい。どちらにいらした?」
にこりともしないシュウに肩を竦めてみせて、エリザはカップをソーサーに置いた。
「都に戻っておりましたの。久しぶりに故郷でゆっくり羽根を伸ばしたくなりまして。」
「ほう。それは奇遇ですな。私も少し前まで都におりました。何故お会いしなかったのでしょうな?」
「さあ、存じませんわ。私連日のように忙しくしておりましたので。でも残念ですわ。一言父にでも言付けておいて下されば、ご一緒にお芝居の見物でも出来ましたのにね。」
エリザは飄々と涼しげな笑顔を浮かべている。
だがシュウは最早、そんなものに騙されはしなかった。
「その御父上から既にお聞きになった筈だ。私達の婚約は白紙に戻った、と。」
「聞きましたわ。父が決めた事なら仕方ありませんわね。でももし貴方が後悔しているなら、私から特別に・・・」
「知らぬ間に随分物分りが良くなられたものだ。とすれば、あの狼藉はスザク殿の独断であったか?」
珍しいシュウの皮肉な笑みに、エリザはほんの僅かに眉を動かした。
だが表情自体は何も変わらない。
サウザーが彼女を女狐と呼ぶのも分かる気がする。
「あの狼藉?ほほ、何の事だか。」
「花売りの娘、が、先日暴漢に襲われました。」
「それはお気の毒に。」
「寸でのところで事無きを得たが、あれには南斗の者が絡んでおりました。」
「・・・・だとすれば由々しき事態ですわね。でも私には関係のない事ですわ。」
「そんな筈はないでしょう。あのスザク殿が、たかが一拳士にわざわざお声を掛けられる訳がない。そういえば、貴女には拳士達の取り巻きが大勢おりましたな。」
エリザに輪をかけて傲慢で高飛車なスザクの性質と、エリザのここでの環境。
シュウはわざとそれを指摘し、暗黙のうちに全ての目星がついている事を告げた。
それは流石に少々効いたらしく、エリザは泰然とした微笑を顔から消した。
「・・・・私が命じたと仰りたいの?」
「その通りです。」
「言い掛かりは止して頂戴。何処に私が命じたという証拠があるのかしら?私はずっと都に居りましたのよ?ここにいる南斗の者達にいつそんな命令をする暇があったというのかしら?」
「都で私の車が何者かに奪われました。スザク殿との話を終えた直後に。」
「馬鹿馬鹿しい!長旅から戻った直後で疲れておりますの。そんなお話ならお引き取り下さいな!」
刺々しい口調で言い放つエリザを、シュウは真っ直ぐに見つめた。
「これでお別れです、エリザ殿。貴女やスザク殿の思惑は決して叶う事はない。邪な企みは私が全てこの手で打ち砕く。それだけは肝に命じておいて下さい。」
無言で睨みつけるエリザにきっぱりとそう言い放って、シュウは踵を返した。
客間のドアを開けると、向こうからカシムが歩いてきた。
この男もエリザの取り巻きの一人である事は、前から知っている。
先日の一件に直接手を下したのは、日頃からあまり評判の良い話を聞かないこの男かもしれない。
シュウは隙のない仕草で、カシムに近付いた。
「カシム、久しぶりだな。」
「ご無沙汰しておりました、シュウ殿。」
「長く顔を見なかったが、何処に居た?」
「それはシュウ殿とて同じでは?都に向かうとは伺っておりましたが、随分長うございましたな。」
飄々と言ってのけるカシムに疑惑の視線を向けていたシュウは、その腕に巻かれているバンテージが真新しい事に気付いた。
「カシム。バンテージを新調したのか。」
「これですか?ええ、前の物は随分古くなっておりましたので。」
「なるほど。古くなったバンテージは脆いからな。それこそ女の力でも千切れてしまう。」
シュウの言葉にカシムは一瞬表情を強張らせたが、すぐに気を取り直して薄い笑みを浮かべた。
「仰る通り。脆いバンテージでは、思う存分稽古が出来ませんからな。」
「良い心掛けだ。存分に稽古に励むが良い。しかし拳に溺れた者の中には、一般の者に拳を振るったり、あろう事か女に手を上げる不心得者もいるが、そうはならぬように気をつけろ。南斗の名を汚す輩は、このシュウが断じて許さんからな。」
「・・・・・お言葉、肝に銘じておきます。それでは。」
軽い会釈をした後、カシムはシュウの横を通り過ぎて行った。
その手を掴み、もっと強い言葉で問い詰める事も出来た。
だがシュウはそうしなかった。
そうしたところで、エリザやスザクが絡んでいる以上素直に吐くとも思えないし、証拠も決め手になるようなものは何もない。
だからあのような警告程度に留める他になかった。
しかし、次にもしまたに何かを仕掛けてきたならば。
― その時こそ、容赦はしない・・・・
その無言の決意を帯びた気迫を纏いながら、シュウは己の部屋へと向かった。
シュウが去ったのを見計らって、カシムは客間に入った。
「エリザ様。都からお戻りになられたと伺い、参りました。」
「カシム。お前、しくじったそうね。」
「・・・・・・申し訳ございません。あの女、意外にも激しい抵抗を見せて・・・」
「言い訳は要らないわ!!」
突如声を荒げたエリザは、壁に掛けてあった装飾用の細い槍を手に取り、カシムに打ちつけた。
「ぐぅッ・・・・!」
「お前を信用して任せたのに、何て様なの!?父に何と報告しろと言うの!?」
「申し訳ございません・・・・・」
「この役立たず!本当なら今頃は、シュウの方から頭を下げて私の元に戻って来ていた筈なのに!お前がしくじったせいで何もかもお終いよ!」
盛大な罵声と共に、エリザはカシムの背中を槍で何度も打ちつけた。
女の細腕とはいえ、鈍器を持てばそれなりの力になる。
カシムは歯を食い縛って、ただひたすらに耐え続けた。
確かにしくじりはしたが、証拠は全て消してある。
盗んだ車は崖から落として海に沈めたし、あの夜使った連中は皆殺しにして埋めた。
いずれも済んだ事だから、万が一言及されたとしてもいくらでも言い逃れは出来る。
従って、エリザやスザクにも決定的な破滅は訪れるまい。
とすれば、この怒りもいずれ鎮まる。
当分は肩身の狭い思いをせねばならないが、それも一時の事。
いずれまた取り入るチャンスは訪れる。
背中の痛みのせいで却って冷静になっていく頭で、カシムはそう考えていた。
「憎らしいわ、あの全て見透かしたような物言い!お前、まさか証拠など残さなかったでしょうね!?」
「はい、それはもう・・・・」
「今回は何とかシラを切り通せたけれど、これで当分迂闊な事は出来ないわ!下手をして宗家の耳にでも入れば、父も私も身の破滅よ!」
「お許し下さい、エリザ様・・・・!そのような事にならぬよう、このカシム、今後更に身を粉にしてスザク様とエリザ様にお仕えしとう御座います!どうか、どうか私めをお見捨てにならないで下さい・・・・!どうか今一度のお慈悲を・・・・」
エリザがこのような物言いに弱い事を、カシムは良く知っていた。
常に忠実で憐れな『犬』を装えば、エリザの人より高いプライドは満たされる。
スザク・エリザ父娘に取り入って、いずれ権力を欲しいままにするという野心を思えば、犬の真似などカシムにとっては何でもない事であった。
「・・・・良いわ。今回だけは特別に大目に見てあげる。但し、次はないわよ!」
「はっ、有り難き幸せ・・・・!」
槍を収めたエリザの足元に跪き、服従の証をその手の甲に落として、カシムは内心でほくそ笑んだ。