くすんだ硝子から、柔らかな朝の光が差し込んでくる。
レイはその淡い光に照らされている、腕の中のを見つめていた。
― 黙って居なくならないで。
昨夜のの言葉が、細い棘となって胸に突き刺さる。
は予感していたのだろうか。
― 黙って去らないと約束したが・・・
「嘘吐きだな、俺は・・・」
レイは自嘲めいた笑いを浮かべて身体を起こした。
はまだ深い眠りに就いている。
それは好都合だった。
もし目覚めてしまえば、別れ難くなるから。
あの快活な瞳に捕われてしまうから。
手早く支度を整えると、レイは再びに向き直った。
「幸せにな・・・・」
願わくば、その手に平凡で穏やかな幸福が掴めるように。
そう祈らずにはいられない。
― 私・・・、レイの側に居たい。
― 黙って居なくならないで。
昨夜のの言葉が、徒に何度も繰り返される。
「許せ、・・・・」
何も知らずに夢に漂うの唇に最後の接吻を落とすと、レイは踵を返した。
は予感していたのだろうか。
そして許してくれるだろうか。
約束を破り、別れも告げずに去ってしまう事を。
一人で目覚めたベッドは、やけに寒々しかった。
「嘘吐き・・・・・」
少し前まであった筈の温もりは、既に消えている。
言いようのない喪失感に、涙の一滴すら流れない。
「非道い男だわ・・・」
約束を交わしたばかりだというのに。
まだこの肌には、昨夜の情事の跡が残っているのに。
レイは黙って居なくなってしまった。
「嘘吐き・・・・」
だが一番哀しいのは、こうなる事を心の何処かで感じていた事だ。
初めて出逢った時の事が思い出される。
冷たい、飢えた獣のような瞳が恐かった。
だがその獣は、堕ちるところまで堕ちて汚れきった自分に翼を与えてくれた。
暗く狭い檻から導き出して、再び光を与えてくれた。
「本当に酷い人だわ・・・・」
本音を言えば、何処までも一緒に行きたかった。
レイの隣こそが、一切の拠り所のない自分の、たった一つの居場所になっていた。
彼の隣でこそ、この翼は羽ばたけるというのに。
突然居場所を失った今、その翼は再び折れてしまった。
「さん。」
「・・・・はい。」
遠慮がちなノックの音で我に返り、は部屋のドアを開けた。
「神父様・・・・」
「食事の用意が出来ました。下へ下りていらっしゃい。」
「彼・・・・、いつ発ったの?」
その質問に、ハントは一瞬口籠った後、呟くように返答した。
「今朝早くに・・・・」
「そう。」
「あなたの事をくれぐれも頼むと、何度も念押しして行かれました。」
「そう。」
「何もない村ですが、ここは平和な所です。村人も皆あなたを歓迎していますよ。」
ハントは、ずっとこの村に住めと言っている。
これがレイの望みなのだろうか。
この穏やかな村で普通の暮らしを営み、誠実な村の男を愛して平凡な家庭を持て、と。
― これからは本当に愛した男だけに抱かれろ。そして女の幸せを掴め。
昨夜のレイの言葉が脳裏をよぎる。
レイは別れを決めていたようだった。
だからこその約束だった。
どうしても行くというのなら、せめてきちんと送りたかった。
再会を約束して、そして自分を納得させたかった。
それなのに。
「勝手な事ばっかり・・・・」
どうせ捨てて行くのなら、中途半端な優しさなど欲しくはなかった。
本当に愛した男は姿を消してしまったのに、どうして抱かれる事など出来るというのか。
彼なくして、どうやって女の幸せを掴めというのか。
「何か?」
「・・・・何でもないわ・・・・」
「・・・・朝食が冷めないうちに、早く下りていらっしゃい。」
ハントは気遣うような笑みを浮かべると、先に下へと下りていった。
再び一人になった部屋で、は床に崩れ落ちた。
冷酷な狼のような仮面を付けていても、心根は誰よりも温かい。
そうと知っているからこそ、その優しさはにとって身を切られるよりも酷だった。
「貴方は残酷だわ・・・・」
冷たい木の床に、一つ、また一つ、涙の雫が零れては消えていった。
平和な村に、穏やかな夜の帳が降りている。
は窓の外を見つめていた。
「レイ・・・・・」
レイが居なくなってから、はや数日が過ぎている。
今頃はもう、目的の場所に着いているだろうか。
無事にアイリを取り戻せただろうか。
何をしていても、誰と話していても、そんな事しか考えられない自分がいる。
それ程想っているのに、レイは夢の中にすら現れてはくれない。
「本当に冷たい人ね・・・・」
薄く笑った自分が、くすんだ硝子に映っている。
涙の跡はもう消えている。
代わりに、一つの決意が胸にあった。
平和で穏やかな村。
素朴で優しい村人達。
まっとうな仕事があって、その日その日を食べていく生活は何とか出来ている。
卑しい男達の慰み者にされる事もない。
この時代には有り難すぎる程の暮らしである事は、百も承知している。
実際、籠の鳥であった頃なら、喉から手が出る程欲しがったに違いない。
だが今は違う。
欲しいものはたった一つ。
レイだ。
彼の隣だけが、唯一望む場所なのだ。
もうそこでしか生きていけない。
ランプを吹き消すと、室内は外と同じ暗闇に包まれた。
「ごめんなさい・・・・・」
その言葉は、温かな厚意でもって接してくれている神父や村人達への、せめてもの謝罪であった。
尤も、それが彼らに聞こえる事はない。
面と向かって告げれば、優しい彼らは絶対に引き止めようとする。
だが、決意は変わらないのだ。
足元の小さな荷物を抱えると、は夜の腕に飛び込んで行った。
折れた翼を、再び羽ばたかせる為に。
「何だこれは・・・!?」
数日の移動の後、ようやく辿り着いた村は、無残に荒れ果てていた。
道には累々と屍が横たわり、瓦礫の山は黒く焼け焦げている。
「アイリは・・・、アイリは何処だ!?」
アイリの姿を、いや、誰か生きている者を捜して、レイは村の中を駆け回った。