場 所
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写 真
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名 称
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内 容
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吉野山
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吉野山
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大峰連山の北端から、南に約8kmつ
づく尾根。古来より日本一の桜の名所
として名高い所。役行者を 開祖とする
修験道の寺や、南朝ゆかりの史跡
や、西行や芭蕉が、逍遙した文学の
史跡等が、たくさん有る。
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吉野山
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下千本
中千本
上千本
奥千本
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吉野山の谷から尾根に掛けてを 埋め
尽くす桜を 鑑賞するエリアの 分類
名。下千本(吉野駅付近)・中千本(如
意輪寺付近)・上千本(吉野水分神社
付近)・奥千本(西行庵一帯)を指す。
花見時期は、4月上旬から下旬くらい
の約3週間以上は、何処かで見れる。
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六田(美
吉野橋
付近)
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柳の渡し
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昔は、椿・柳・桜の3つの渡し場が有り
ましたが、なかでも 千年くらい前、聖
宝理源大師が、開いたと言われてい
る。 かつては、吉野に入る行者たち
が、身を清めた場所です。
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吉野山
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吉野神宮
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吉野山の北麓にあり、1889(明治2
2)年、明治天皇が後醍醐天皇をしの
んで創建されました。祭神は後醍醐天
皇。摂社は日野資朝、児島高徳など7
人の功臣たちを祭っています。又、こ
こから葛城、金剛の山並みが見渡せ
ます。
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吉野山
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村上義光の墓
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信濃の武将で1333(元弘3)年に大
塔の宮の身代わりとして、蔵王堂仁天
門上で自害しその首が、大塔の宮で
ないと解りすてられていたものを里人
が、ここに葬った。吉野神宮から南へ
約1km、不動坂を登りつめた丘の上
に宝篋印塔が、立っている。
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吉野山
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大橋・天王橋
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大塔の宮が、吉野に峰起されたとき、
三空堀に見られた谷にかかる大橋・
天王橋・丈の橋を 吉野三橋と言う。大
橋は、七曲り坂を登りきった所にある
朱塗りの橋、天王橋は、竹林院近くの
橋です。丈の橋は、今は残っていませ
ん。どちらも小さな橋なので、注意しな
ければ解りにくいです。
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吉野山
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吉野山ビジターセンタ
ー
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蔵王堂の外観を模した建物で、センタ
ー内には、吉野の地質、動植物、桜、
歴史、修験道、文学などについてテー
マ別にコーナー展示している。まずス
タートをここからしては、如何でしょう
か。
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吉野山
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金峯山寺
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吉野山のシンボル。大峰山とは、吉野
山から大峰山にいたる山々の総称
で、金のみたけ と言う意味。 創立年
は、不明ですが、その昔、役行者が、
金峯山寺を 開き、平安時代に聖宝理
大師が、蔵王権現像を 安置したとい
われています。以後、中世において隆
盛を極め、現在も金峯山修験本宗本
山として偉容を 誇っている。
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吉野山
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蔵王堂
(本堂・国宝)
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金峯山の高台にそびえたつ、東大寺
大仏殿に次ぐ木造建築物、現在の本
堂は、1592(天正20)年に 再建され
た、室町末期を代表する建造物で、正
面5間・側面6間、建物の回りに裳層
を付けた入り母屋作り、桧皮葺。高さ
約34mもある。本尊として3体の蔵王
権現をまつり、中尊の高さは7m余り
の巨像。堂内は、内陣と礼堂からな
り、松やチャンチン(つつじ科)など自
然木を素材のまま使った柱68本が林
立するさまは豪壮である太閤秀吉が
花見に訪れた時寄進したと言われろ
内陣内の2本の金箔張りの化粧柱や
須弥壇は、桃山建築の美しさを 残し
ている。
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吉野山
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黒門
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金峯山寺の 総門。木造の門で、黒く
塗られている為この名が付けられた。
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吉野山
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銅の鳥居
(重要文化財)
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黒門から坂道を登りつめたところに有
り、高さ約7.5m、柱の周囲約3,3m
総銅製。1348(正平3)年に高 師直
の兵火で焼失した後、室町時代に再
建されたもの。正式名称は、発心門。
なお、山上ヶ岳までの間に発心・修行・
等覚・妙覚の四門がある。
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吉野山
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仁王門
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銅の鳥居から約200m余り進むと 三
間一戸、入母屋造りの本瓦葺 楼門
が、石段を 登った所にある。1456
(康正2)年に再建された物で、南向き
の本堂が、山上ヶ岳からの巡礼を迎
えるのに対し、この門は、北向きで大
阪や京都から逆峯入りする信者を迎
えるための物。
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吉野山
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金輪王寺・吉野朝皇
居跡
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1336(延元元)年、吉水院に難を避
けられた後醍醐天皇は、次に蔵王堂
の西にあった実城寺を皇居とし寺号を
金輪王寺と改められました。醍醐天皇
が、悲運の生涯を閉じられた場所で
す。
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吉野山
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吉水神社
(書院・重要文化財)
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蔵王堂から徒歩5分の所に有りもと
は、吉水院という、金峯山寺の格式高
い僧坊であったが、明治の初め、後醍
醐天皇・楠正成・宗信法院をまつる神
社に改められた。後醍醐天皇を宗信
法院が、お迎えし一時行宮と成った事
も有り 又、源 義経が静御前や共の者
と逃げ延びてきたり、太閤秀吉が、花
見の本陣にしたのもここです。
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吉野山
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東南院
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開祖は、役行者と伝えられています。
開山の祭に、本堂とともに本堂から巽
(東南)の方向にあたるこの地に建て
られたと伝わっている。又、松尾芭蕉
が、1684(貞亨元)年ここに滞在した
とき、野晒紀行に詠んだ句碑が立って
いる。
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吉野山
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勝手神社
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吉野山山上へ上る街道と如意輪寺へ
の分岐にあり 後方の袖振山は、大海
人皇子が、社前で琴をかなでられたと
き、天女が袖を翻し舞ったという伝説
で知られている。境内は、義経と別れ
た静御前が追手に捕まえられ、請わ
れて舞を舞ったといわれる所。
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吉野山
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如意輪寺
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創建は、901〜22(延喜年間)年と伝
えられている。1336(延元元)年、後
醍醐天皇の勅願寺とされた寺。天皇
没後、楠正成が大阪四条畷の戦いに
出陣前、鏃にて記した辞世の句が堂
の扉(現在宝物殿に保存)が、有名。
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吉野山
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後醍醐天皇塔尾陵
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後醍醐天皇の御陵で、如意輪寺の裏
山に有る。天皇の悲願を伝え、北の京
都の方を正面として築かれている。
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吉野山
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竹林院
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聖徳太子の創建と伝えられる寺院で、
格調高い宿坊としても有名。護摩堂に
安置されている聖徳太子坐像は、南
北朝時代の作。庭園の群芳園は、千
利休が作庭し、細川幽斎が、改修した
と言われており吉野山西側をのぞむ
池泉回遊式の借景庭園で、大和三庭
園の」ひとつ。
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吉野山
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花矢倉
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吉野一の展望台で、眼下に上千本、
中千本、蔵王堂を見下ろせ、金剛・葛
城・二上山を望遠できる。
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吉野山
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吉野水分神社
(重要文化財)
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子守りの民家の終わる所に有り、水
の分配を司る。天之水分大神を主神
としている。みくまりが、みこもり(御子
守)となまって俗に子守さんとよばれ、
子宝の神として信仰されている。桃山
様式で、本殿・楼閣・拝殿などからなる
大変美しい神社。豊富秀頼の再建で、
本殿は、一間社春日造りで、左右の
二殿は、三間社流造りで、3殿を1棟
続きにしてあり、彩色や彫刻を施して
ある。ここより、宮滝へ降りる事が出
来る(徒歩)
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吉野山
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金峯神社
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奥千本に、杉や桜の老木などとともに
鎮座する古社。祭神は、吉野山の地
主神、金山毘古命。中世以降は、修
験道の修行場で、藤原道長も祈願し
たと伝えられる。
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吉野山
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西行庵・苔清水
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山上ヶ岳への道をそれ、谷筋を降りる
と小さな大地が開け、西行が、しばらく
の間、隠棲したと言われる西行庵が
有ります。付近は、奥千本で桜の頃よ
りも新緑や紅葉の時の方がより美しく
感じられる。
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