妊娠&流産@
ゆーさくが細気管支炎にかかり、呼吸困難になり気管内挿管を行った前日のこと。
数日前から、かあちゃんは生理の遅れに気づき、さらには体の異変を感じていた。
「もしや」と思い、市販の妊娠検査薬を購入して調べる。
妊娠陽性反応がでた。
「やったあ!二人目や!」かあちゃんは喜んだ。
結婚した当初から「子供は2,3人欲しいよな」ととうちゃんとかあちゃんは言っていた。
二人とも3人兄弟で育ってきたのだ。
しかし、ゆーさくが早産でなおかつお産トラブルで生まれ、障害を残してしまった。
だから最初は、ゆーさく一人を育てるので精一杯かも、と思っていた。
しかし、保育園に入園して、ほかの障害児を持つ家庭をたくさん見るうちに「ゆーさくのためにも兄弟が必要」「ゆーさくは私たちにとっては普通の子供」と思うようになり、次第に次の子供がやっぱり欲しくなる。
ところが、一方で、一人目を早産すると、二人目も早産しやすい、という話を聞いた。
早産=障害児ではないのだけど、やはりリスクは高い。
「二人目にも障害が残る危険性があるのが怖いなぁ」とかあちゃんは思うようになる。
とうちゃんにもこの話をすると、「二人目も障害児ってのは困る」と言っていた。
次の子供が欲しいのが半分。不安が半分。
そういう思いを抱えていたら、中途半端に悩み続けるのが嫌いなかあちゃんは、半ばやけくそになって「子供が出来たときに考えよう」と思うようになる。
「ゆーさくが障害児となったのは、早産が原因ではなくてお産事故みたいなもの。切迫早産は防げないかもしれないけれど早産は防げれるかも。事故も病院の対応しだいで防げれるかも。なるようにしかならない」と思うようになる。
さらに、保育園でいろんな障碍児を見るうちに、「二人目が障害児でもいいやん」という気さえ起こってきた。
また、保育園で兄弟のいるいろんな障碍児を見るうちに「やはり、ゆーさくにも兄弟が必要だ」という思いが強くなってくる。
だんだん、次の子供が欲しくなるほうが強くなってくるのだけど、やっぱり不安はぬぐいきれなかった。
そんな矢先の、妊娠判明だった。
実際、次の子ができた、とわかったとき、かあちゃんは素直に嬉しかった。
素直に嬉しいと感じられたことから、「やっぱり、次の子のお産はなるようにしかならない」という思いは強くなる。
しかし、とうちゃんは「だいじょうぶかなあ。」と不安そうににしていた。
ところが、次の日、ゆーさくは細気管支炎で大変なことになる。
さらにその翌日には、もしも・・・の為にと大病院へ転院。
さらにさらに、ゆーさくの気管切開を決断せざるを得なくなった。
妊娠のせいで、情緒不安定になりかけていたかあちゃんは、急に自分が妊娠していることに対して、かなり不安になった。
当時は、まだ気管切開の在宅ケアの実態を把握しておらず、ゆーさくの手術後は一体今までの在宅での生活がどう変わるのか、見当がつかない。
また、改めて、やっぱりこんなゆーさく一人を育てるだけで自分は精一杯なのではないか、という思いが蘇る。
ゆーさくが転院先のA病院を退院し、B病院の外来に戻ったとき、かあちゃんも産婦人科を受診した。
初めて、エコーでかあちゃんのお腹の中の二人目の子供とご対面。
とはいえ、まだまだ、胎児ではなくて胎芽でだったのだけど。
二人目の子供とご対面すると、やっぱり嬉しい気持ちで一杯になる。
ゆーさくはA病院を退院後、状態が落ち着いていたのもあるかもしれない。
その2週間後だったか、2回目の産婦人科受診をした。
しかし、今度は嬉しい気持ちにはなれなかった。
この検診は、流産へのプロローグとなった。
そのときの検診で産婦人科の先生が、「んー、心臓がそろそろ確認できる時期なんだけどなあ・・・。成長も遅いし。最終月経日、この日で本当にあってる?」と聞いてきた。
そしてカルテに「切迫流産」と書く。
かあちゃんは何となく「早産の次は流産かぁ」と思っていしまい、ため息をつく。
まだ、流産は確定じゃなかったけど、なんとなく「だめかも」という予感がしたのだ。
検診の2日後のことだった。
ゆーさくのリハビリがあり、連日B病院へ行った。
B病院の帰りに、ゆーさくを連れて、病院友達の家に遊びに行った。
友達の家でおしゃべりをしていて、私はトイレに行きたくなり行った。
行って、びっくりだった。
「生理がきたあ!」
トイレを飛び出し、友達に「生理やぁ」といった。
友達も「ええつ!それは生理ちゃうやん。出血や。病院にいかな。」とびっくり。
「病院に行く、んやなくて、戻ることになるけど・・・」私はそういいながら、帰る準備をしてゆーさくと一緒にまたB病院に戻ったのであった。
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