アイルランド旅行記その9 アラン島紀行(続々)
島で朝を迎えるという体験をしたくて宿泊したわけでしたが、肝心の夜が明けると
霧雨にまったく見通しのきかない白い朝の風景でした。また味の違う自家製のブラ
ウンブレッドつきの朝食の後、トヨタのトラックが自転車を持ってきてくれるのを
待ち、道を少し歩いてみます。舗装は万全ですが、のぼり下りは結構ありそう。牧
場の花はどれも重たげに濡れて、うつむいたまま。赤紫はヒースと野生のタイム、
青いのはヘア・ベル、白いのはメドウ・スイート、黄色はラグウォート。まだまだ
あるけど名前はわかりません。こんなに荒涼とした風景でも、今が一年中で一番あ
でやかで美しい季節なのだと思い当たります。フェリーの数も減り、B&Bも閉ま
ってしまった冬になってこそ、島の本当の姿は見られるのでしょうが、旅行者でよ
かったとひそかに思わないでもありません(所詮は軟弱ものなので)。
やがて自転車がやってきました。相客のフランス人一家もサイクリングのようで
す。狭い島なので、この後も二、三度あって「だいじょーぶか?元気か?」と声を
掛け合いました。アラン島のレンタサイクルには鍵などという無粋なものはなかっ
た。よく考えたら、自転車取ったって何にもならないものね、レンタル店の名前は
入ってるし、島の外へもってこうにもフェリーでなければ無理ですし。
宿から一番近い見どころはDUN AONGHUSのようです。今回はちゃんとゴールウェイ
で地図入りのパンフレットを買ってあります。しかしこれがゲール語とバイリンガ
ルのパンフなんでとっさに見られないのです、ゲール語のアクサンティフみたいな
奴、目がちらちらするし、発音できないので地名が覚えられない。
ともかくメインロードを島の奥に向かってしばらくいくと、左手に折れる道があり
これは舗装はしてなくて、自転車はここで置いていけ、という指示があります。一台
置かれているところを見ると先行者がいる模様。徒歩で、石垣に囲われた牧場の間の
道をうねうねといきます。霧雨は降ったりやんだり、見通しは相変わらずよくありま
せん。50メートルほど先を青年が歩いているので後をついていきました。他に人影
はありません。屋根をなくした石造りの古い修道院跡が、雨のために出来た水たまり
に水没しそうなたたずまいです。島中にフクシアの潅木が生えているのですが、ここ
のフクシアの花は真っ赤なものばかりで、濃い緑の葉陰に鮮やかな対照をなして、霧
の中の風景のアクセントです。
しばらくいくと、雨のため増水した川が溢れ出して道を横切ってしまっていました。
前行く青年がどうするかと観察しておりますと、彼は石垣を乗り越え、牧場に入り込む
ことで難関を突破しています。私も前に習おうとしたのですが、そこで判明したのは、
石垣というのが、ケルト人はともかく日本人がまたいで越えるには少々高い。上にのっ
かろうとするとこれが、石を積んであるだけで、いっこうに固定してないのです。地震
のない国は安気でええなあ。なんとか石を崩さぬよう苦労して乗り越えてみたものの、
牧場の方だって水浸しで、花や草も水の中で咲いているんだもの、足場がありません。
一足しかない靴は私の命です。濡らすと明日がありません。ちょっと考えた末、失敬し
て石垣から二、三個石をはずし、水の中に投げ込んで踏み石として、解決を図りました。
やがて道は細くなり、丘の斜面を登っていくうちになくなります。異様な形に積み上
げられた小石の群はやはり遺跡なのでしょうか、岩肌がむき出しになり、ツルツル滑る
のですが、そのまましばらく登っていきました。DUN AONGHUSは紀元前の二重、三重の
石の砦、外側に立て札があって由来などが書いてあります。砦に開いた穴をくぐって中
側にはいるとこんなところでキャンプしている若者がいます。そういえば先ほどの青年
の姿が消えてしまいました。クーフーリンの化身だったんでしょうか、まさかね。
いやあずいぶん高いところまで登ったなあ、それにしてもこの石の砦の迫力はすごい
わ、そんな昔によう作ったもんやなあと、砦の一番中側の石畳を歩きながら、ありきた
りな感想を持ち、ところでこの先は海なんだっけね、と石畳の先に不用意に近づいた
とき私は冷や汗をかいて後ずさりを余儀なくされました。ツルツル滑る石の床のその
先は突然断崖となって100メートル下に切り込み、霧にかすむその下は灰色の荒海
が白い牙をむき出したあぎとを開くという(我ながら陳腐な表現)・・・今でもあの
ドーンという波のこだまを思い出すと何かにつかまりたくなるのです。それでDUN
(ドゥーン)というのか、というとそれは違うのだが、後でガイドブックなどに
載っているここの航空写真など見ると、改めてすごいもんだと思わされます。
メインロードに戻ると、また点在する遺跡を巡って自転車を走らせました。道端に
も古い石の十字架が立ち、霧の中からぼおっと、なぜか塗りだけは新しい極彩色のマ
リアさまなんかが現れてきます。昼に近づくとだんだんに日が射し、明るくなってき
ました。午後になるとフェリ
空が明るくなるとてきめんに海も青さを増すので、昨夜とはうってかわって青
い海、とはいえ年中水温はあまり変わらないといいますから相当冷たいのに、果敢に
も泳いでいるのはどこの国の人だろうか。
たくさんまわったキリスト教遺跡の中でも(たくさん見ると結構似たようなの
が多いのだ)最も印象的だったのは NA SEACHT D'TEAMPALL (7つの教会)だったで
しょうか。古い教会群と修道院の跡で、ハイ・クロスと呼ばれる背の高い十字架など
も集まった集合的遺跡。緑の草地に立つ屋根を失って潰えかけた石の廃墟ですが、折
しも溢れだした小川の水がその草地の上に流れをつくり、水の中にそよぐ草と石の壁、
そこに雲の間から挿す日の光というコントラストが目眩がしそうなほどの光景を作り
出しているのです。どこかで見たような既視感。 遺跡の案内をしてこずかい銭をせ
しめようというせこい青年などもおりましたが、だいたいに親切で人のいい人が多い
ようです。バスの運ちゃんも超親切です。彼らもお互い同士はゲール語で話していま
した。願わくば、観光化の波が彼らの生活、心をすさませてしまいませんように。
アラン島の項終わり、ゴールウェイに戻ります。