アイルランド旅行記その8 アラン島紀行(続)
土砂降りのアラン島のほぼ中央にあるB&Bについたのは夜の8時半でした。
もちろん普通ならまだまだ明るい時間ですが、ようやく雨は小降りになったも
のの寒風吹きすさぶ灰色の風景が窓の外に拡がっています。宿のおばさんに明日
レンタサイクルで島を回りたい、というと、自転車の宅配を頼んでくれました。
レンタル店は船着き場近くにあって、島じゅうの民宿に注文に応じて自転車を宅
配してくれるのです。(ちなみに自転車を乗せてきたトラックは世界の「トヨタ」
でした。)晴れればいいのだが。
それから、夕御飯はどこで食べられるのだろうかと聞きましたら、一番近いの
は隣村(!)のレストランだという。電話をかけて開けておくよう頼んであげる
ということなので、有り難くお願いしました。しかし隣村とは・・・
「どうやって行くんです?遠いんですか?」と問いますと、ニッコリと笑ってお
ばさんは"I'll show you the way"といって私を窓のところへ連れてゆき、文字
ど
おり道を見せてくれたわけなのですが、窓の外には灰色の砂浜の湾が緩やかな弧
を描いて続いています。あの湾を越えて、まっすぐ行くと隣村よ、15分くらい
で行けるわ。(ちょっと待ってよ、15分て、一キロじゃないか)
それほど空腹であったわけでもないのですが、好奇心もあって私はセーターと
ベストとウィンドブレーカーで武装して(7月の終わり頃の話です)、外に出ま
した。砂浜の寒々とした風景はなぜか人をはねつけながらも惹きつけてやまない
不思議な魅力がありました。緑がかった灰色の波と白い飛沫が飛ぶ波打ち際を、
風に吹かれ、砂に足を取られながら歩いていく。見渡す限り人一人いない。霧に
かすむ丘にはうねうねと石垣が続いていって、濡れそぼった牧場の草原を区切っ
ています。事実、この島ほど、壮絶というか、奇異というか、その異様な風景で
人を圧倒するところはアイルランドじゅう他になかったといえるでしょう。
おばさんのいう15分はもっと長かったが、浜からまた道に上がり、隣村とい
うより家が数軒集まってるところというべきでしょうが、レストランに着きまし
た。ごく普通の民家ですが、素朴なテーブルがいくつか並び、暖炉に薪が燃えて
いました。髭の大男だが、物静かな感じの主人がローソクに灯をともしてくれて、
シーフード主体の手書きのメニューを持ってきてくれました。結構安くはなく、
本格的な料理の店のようでしたが、あまり食欲がなくて残念ながら、TODAY'S SOUP
とパンを頼みました。別にいやな顔もせず、おじさんは丁寧にテーブルをセットし
て、シーフードのスープと、自家製のブラウン・ブレッド、バターを並べてくれま
した。ブラウン・ブレッドというのは、アイルランドの誇る美味です。ずっしりと
した荒引きの全粒粉のパンで、イーストではなく、重曹で膨らませるのでソーダー
ブレッドともいいます。東京のビューリーズにもありますが、あんな薄っぺらなも
んじゃありません。小麦の粒は木ノ実のような風味があり、噛むほどにかすかな甘
みがある。トーストと共に、朝食にも出てくるので、今までにも食べていたのです
が、それはみな店売りのものでした。島ではどこの家でも自家製のパンを作ってい
ます。このレストランのブラウンブレッドは天下一品であったといっていい。至っ
て安上がりで単純な人間である私はこれだけで「アイルランドはおいしい」と判を
押してしまいます。
店のおじさんは落ちついた感じのいい人で、結構文学にも詳しく、イエーツの弟
が挿し絵を描いている(画家だったんですね!ジャック・イエーツって)新しい版
のイエーツ詩集が出た、少し高いけどとても美しい本で、いいですよ、とかいろい
ろ話してくれました。
まだべったり曇った空ですが、雨はやんで、また浜づたいに宿に帰りますと、宿
のおばさんは電話中です。ゲール語なんですね、それが。どこの言葉とも似ていな
い、聞いたことのない響きです。あの言葉の音に似てるな、とかいうような類推を
まったく拒否する不思議な言語です。
ここの宿で不満があるとすれば、それは風呂のシャワーの湯が途中で水になって
しまったことで、寒風の中を帰ってきた身には辛いものがありましたが、セーター
のままベッドに潜り込んで、毛布二枚かけて眠りました。夜半、風の音で目が覚め
て、カーテンを開け、窓の外を見てちょっと驚きました。今までに見たこともない
くらい、そこは漆黒の闇だったのです。人家の明かりも見えなければ、星も月もな
し、真の闇。風と海の音だけが響いていました。明日は晴れますように、と願いな
がら、何とはなしに眠れない夜だったのでした。
次回はイニシュモア島サイクリング(性懲りもない奴だとお思いでしょうが、今
度は道に迷う心配はありません。メインロードは一本しかない。)です。