笠松はその後輩が入学してから厭な事態によく遭遇した。皮切りとなったのは、件の後輩だった。
自他共に認めるほどのバスケ馬鹿であることを自覚している笠松に記憶の自信は余りない。だが、『それ』は、丁度新入部員と正式部員との顔合わせのすぐ後のことだったはずだ。
笠松にとってその後輩の第一印象は、『気に入らない』だった。別に『キセキの世代』の一人に対しての嫉妬ではない。モデルをこなす容姿を羨んででもない。バスケの片手間にモデルをやっていることに、不真面目だと怒りを感じたわけでもない。理由は、笠松は既に成長を終えたというのに、その後輩は当時十五歳の癖に既に百八十九センチという長身。しかも、後輩はまだ伸びるという。笠松には羨ましいなんて言葉は浮かばなかった。やっかみでも何でも良い。兎に角、笠松には手の届かない高身長がただ腹立たしかったのだ。
そんなこんなでその後輩、黄瀬涼太に対してのイビリを決意した笠松が、『それ』に出くわしたのは嫌な巡り会わせだったと今では思う。あれは、仮入部から正式入部の時期となり、丁度黄瀬がレギュラー入りを発表された頃だ。
黄瀬は時折酷く冷めた眼をする、と気が付いたのは以外にも監督だった。キャプテンの笠松は監督からそれを聞いて、そうだろうか、と首を傾げた。黄瀬はお調子者で、そして毛並みのいい血統書犬。それが笠松の見解だったから監督の言葉は理解しづらいものがあった。
それでも、それから笠松は黄瀬の動向や言葉に注意した。ゲームをしているときや他校との練習試合をしているとき、ふと笠松が眼をやると確かに黄瀬は酷く冷めた目になる。そして、コート内で何かを探すように視線を彷徨わせるのだ。だが、願うものが見つからないのか後輩の視線はいつもすぐにボールへと戻る。途端、その瞳が昏い色纏う。
後は必ずといって良いほど黄瀬は乱暴なプレイを取る。今までファールが出なかったのは、対峙している相手が黄瀬の発する重く冷たい威圧感に気圧されていたからだ。
触らぬ神に祟りなし、と言わんばかりにチームメイトも監督でさえ黄瀬のそのプレイを咎めることはなかった。だが、部を纏める立場の笠松まで同様の対応をするわけにはいかなかった。今までは地区予選クラスの相手だから黄瀬の威圧感に勝手に気圧され一歩引くようなプレイであったが、これからの全国クラスであんなプレイをされては必ずファールを取られるのが必至。あの後輩とてそれは理解しているだろうが、キャプテンとして叱責せねば他には示しが付かない。
笠松は黄瀬を追い体育館裏の水場に向かった。水場では、時期は四月の終わりとは言えまだ肌寒いというのに、黄瀬は頭から水を被っていた。
その背に笠松は声を掛けた。水を止め、ゆっくりと振り返った後輩の眼光に、笠松は身を竦める心地を味わった。叱責中、黄瀬はいつもと同じ声音、同じ態度で接してきた。いつもと違ったのは、刃物のような鋭い双眸だけだった。
お調子者で、血統書犬のような、あの男が上手く隠匿していたはずの本性が表に出ていた。それが、笠松にとっての『厭な事態』の連鎖の始まりとなった。
その次は、多分、黄瀬の元チームメイトが在籍している誠凛との練習試合が決まったときだ。
昼休み、笠松は丁度出会った後輩に次の練習試合の相手を教えてやった。すると、黄瀬は異常に浮かれた。今までの表情の全てがツクリモノであるとわかる程、黄瀬は活き活きしていた。そして、そのまま用事があるからと学校は早退、部活も欠席した。
次の日の部活、黄瀬はゲームで入部後初めてのファールを取った。黄瀬はいつも異常に威圧感を発していた。対峙の相手はいつも異常に気圧され一歩も二歩も引いたプレイを取っていた。だのに、黄瀬はファールを取り、相手は脳震盪を起こした。
上機嫌な黄瀬が、上機嫌の素に会いに行った。その翌日、今までとは比べようもないほどの骨にまで響いてきそうな威圧感を発して、憤怒の念を撒き散らしていた。
監督も流石に叱責し、黄瀬に一週間部活謹慎を命じた。部活開始後から表情を変えていない黄瀬は微かに眼を眇めたが、了承を示した。
「一週間なら、出られるし、いいか」
冷酷に黄瀬がそう呟くのを、笠松は確かに見た。
その次は、誠凛の練習試合が終わってからだ。
笠松の予想では練習試合に負けたという結果に荒れるのではないかと思っていた黄瀬は、普通だった。呆気に取られるほど、普通だった。以前のように、コート内の何かを探すように視線を彷徨わすことはなくなり、乱暴なプレイをすることもなくなった。部活がない日は黄瀬が誠凛にまで足を伸ばし透明少年に合っているからか、毎日が平穏、だった。ただ、笠松は黄瀬の受け答えが何故か薄っぺらに感じ始めていた。
それから暫くして、黄瀬が部活後にクラスメートだという女子生徒から呼び出しを受けた。女子生徒の後を追う黄瀬に揶揄混じりに別離を告げて笠松と他の部員は一度校門を潜った。そして、踵を返した。部員の一人がこう言った。
「今の黄瀬、嵐の前の静けさみたいだよな」
その言葉を聞いた途端、笠松は酷い胸騒ぎに、焦燥感に襲われた。脳裏に思い起こされたのは、刃物のような双眸を持つ後輩。自分と競り合っていたチームメイトが脳震盪を起こしても、心配するような面持ちを見せなかった、黄瀬だ。
探し回り、特別校舎の裏で人の声がした。笠松は足を止め、校舎の影から覗き見た。
黄瀬らしき後姿の男子生徒とさっきの女子生徒がいた。男子生徒は女子生徒に背を向けて去ろうとしていたが、呼び止められて足を止めた。振り向いたその容貌は確かに黄瀬涼太のものだったが、笠松の見たことのない表情だった。黄瀬に、表情がなかったのだ。例えツクリモノであろうと浮かべていた表情がない。女子生徒を見ているはずの双眸はガラスのようだ。
「おいおい、告白されて、する目と顔じゃ、ねぇだろ……」
余計なことを言うな。余計なことをするな。笠松はそう念じながら黄瀬を注視する。
女子生徒と黄瀬の遣り取りは、笠松には少し理解し難かった。女子生徒はなんだか自意識過剰的な発言をし、黄瀬は歯に衣を着せぬ罵倒する。話が、噛み合ってない気がするのはきっと笠松だけではない。黄瀬も、それには気が付いているのだろう。一瀉千里な黄瀬の罵倒は聞き耳を立てている笠松の肝を冷やすが、それでも女子生徒が良い様に解釈できないような言葉の羅列だった。
ただ、気になるのが、『恋人』という言葉だった。黄瀬が自分の全てを捧げるほど、大切に、溺愛している『恋人』は一体誰だ。
「まさか、まさか、なぁ……」
笠松の脳裏に浮かんだのは、いつか自分が透明少年と称した他校の生徒。そしてもう一つ、笠松の脳裏を過ぎるのは、数日前にこの学校で会った見覚えある他校の女子生徒。
「ちげぇ、よな、黄瀬」
笠松の手元には、小さな情報がある。それは、他校の女子生徒から受け取ったものと、自らの目で知った情報。一つ、最近透明少年が行方不明になったらしい。一つ、最近後輩がいつかの日のように上機嫌。一つ、その後輩は最近付き合いが悪くいつも家に直帰。一つ、後輩のその家には今大切に溺愛している恋人が居るらしい。そして、『最近』は、何れも約二週間前、とも置き換えられる。
浮かんでくる符号が、笠松に恐ろしい真実を導いてくる。
「おい、おいおい……」
落ち着け、と荒々しく脈打つ心臓と嫌な方向に進もうとする思考を笠松は懸命に宥める。それに時間と労力を使っていると、すぐ近くで声がした。
「立ち聞きは趣味が悪いっスよ?」
笠松は肩をびくっと跳ね付かせ、振り向いた。当然、其処には先程まで女子生徒に毒を吐いていた黄瀬がいた。
「あ、いや、あ、わる、い」
「どしたんですか、ああ、あの子のことっすか?なんか最近、あの子からストーカーに合ってたんスよね、オレ。だからちょっと苛々しちゃって。オレの話全く聞かないで、自分の良いようにしか解釈しないああいうタイプは、あれくらいは言わなきゃ後々厄介なことになるんスよ。キャプテンも気ぃ付けた方がいいっスよ?」
笠松の様子を訝しんでいた黄瀬は先程の自分の毒舌に驚いていたと解釈したらしい。それはそれで助かったのだが、笠松は脳内でぐるぐる回っている『恐ろしい真実』をどうするのかが今は重要だ。考える時間を欲し、笠松は話を引き延ばすために口を開いた。
「ストーカーって、平気なのか?」
「ああ、もう解決しました。弁護士雇ったり、興信所の人雇ったりして何とかね。あの子は明日にでも学校辞めるんじゃないですかね。あの子の親も仕事辞める羽目になるんじゃないかな」
「は?何言ってん、だ、黄瀬」
「あれ、聞いてなかったんですか?『目障りな人間は早々にご退場願う』ってさっき言ってたでしょ、オレ。今頃親のほうに向かった弁護士が話し付けてますよ。精神的苦痛に対する慰謝料を払うか、市内から立ち退くかってね。慰謝料結構な額でしたから、多分立ち退きを選ぶでしょ。此処にいてもそのうちマスコミにこのこと知られて叩かれるでしょうから。全く、人件費等で結構お金掛かりましたけどその分の働きはあったと思いたいですね」
黄瀬の言っていることが随分酷いと思うのは、結局は他人事だからなのだろうか。笠松の顔が引き釣る。
「じゃあ、オレ先に帰るっスよ。恋人がオレを待ってるんで!!」
人に真っ向から害悪と罵り消えろと毒を吐く黄瀬は非道徳的な人間なのか、と問われれば笠松は返答に窮する。だが、善人であるか、との問いならば即答できる。否、と。なら、善人でない後輩に、あの透明少年を預けていられるかという問いに対する答えもまた、否だ。
「監禁されている相手はそう思ってないんじゃないのか」
駆け出した後輩の背を、その言葉で留まらせた。後輩は、笠松の言葉に足を止める。そして、いつかと同じように、刃物のような鋭い眼光で笠松を射抜いた。
「どういう意味っスかね?」
「二日前か、誠凛の女監督が来てた。透明少年、行方不明だそうだな」
「キャプテン、なんで、俺が知っていることを前提に話してんスか?」
「生憎俺は、駆け引きなんぞ出来るような器用なやつじゃねぇんだよ。答えろ、おまえ、とうめいしょうね…」
透明少年を何処へやった、なんて答えの解りきった問いを口にしようとした矢先、乾いた音がしてその先を止められた。音の発生源は、黄瀬の両手。ここに神はいないが、黄瀬はそのまま、パンパンと拍手を打つように両手を打ち鳴らす。
「せぇんぱい、そういうの、世間一般でなんて言うか、知ってます?」
「あ?」
「下衆の勘繰り、って言うんスよ。ああ、下衆って知ってます?品性が下劣な人のことっスよ。―――オレ、一応先輩のこと買ってんスから、勝手に堕ちないで下さいね?」