私のクラスには、有名人が一人いる。
入学式で初めてその人を見たとき、ラッキーだとはしゃいだ。
その人は、黄瀬涼太。百八十九センチの長身で、モデルをこなす均整の取れたスタイルに男女の眼を奪う眉目秀麗さ、おまけに入学して間もないというのにバスケ部レギュラーを勝ち取った運動神経は抜群。ニコニコ笑う表情は可愛いし、真面目な顔をしてるときは誰もが格好良いと言った。話をすれば誰にでも気さくに乗ってきてくれるし会話を繋げてくれる。困っていれば手を差し出してくれる優しい男子。
それが、私が思っていた、『黄瀬涼太』の像。多分、この学校の大多数が、私と同じ像を思い描いているはずだ。
女の子がそんな彼へ恋慕を寄せることなんて、最早自明の理のようなものだった。
「ねぇ、もう行ってもいいスか?」
愛想を削ぎ落とした表情と感情の篭もらない冷たい声。
最終下校時刻間際、私は校舎の影に潜み、それを目にし、耳にしていた。
高校で出来た同じクラスの友人の一人に放課後付き合って欲しいと言われた。どうしたのかと訊ねれば彼女はこの春運良くも同窓となれた彼の有名人に告白したいと言ってきた。勇気がある、と私は感嘆の声を上げながら了承を示した。
この時私は、友人には悪いが、どうせ叶うことのない恋だと判っていたから早々にその想いを砕かれればいいと思っていた。そうして、一ファンに戻ったほうがいいと、そう思っていたのだ。別に私なら彼を振り向かせられると思っての傲慢な浅慮があってじゃない。
彼女に、少し問題があったのだ。ちょっとした、妄想癖と呼ばれるものが。
そのことで、何かしら黄瀬に迷惑が掛かっていることは解っていた。友人を諌めようにも、上手くいかない。彼女の友人として、彼に申し訳なさを感じるのが私の日課だった。
だから、もう円満でなくていい、多少の傷は甘受する心算で彼女の背を押した。
黄瀬涼太は優しい人。だけど、流石に友人の妄想癖にも気付いている様子だったから、はっきりと想いを口にして彼女の想いを断ち切ってくれるだろうなんて思っていた。
「もう行くから」
もう耳に慣れた冷たい声音で言った黄瀬が此方へと向かってくる。
私は友人に頼まれ見守り役として彼らの近くにいたのだが、黄瀬からしてみればただのデバガメ以外の何者でもないだろう。彼を不快にさせるのならせめて身でも隠すべきなのだろうが私の足は動かない。別段、私自身動こうとも思えない。そんな余裕がない。
ついさっきまで鼓膜を振動させていた音の意味が、余りに衝撃過ぎて思考の全てが止まっている。
「ま、まってっ」
縋るような友人の言葉が耳に届き、黄瀬のものだろう足音が止まる。私は重い足を持ち上げて校舎の影からその続きを見守った。
私に背を向け友人と向き合っている黄瀬はどんな顔をしているのだろう。つい先程のように、感情のないそれだろうか。まるで人形のようなそれと、目の前にヒトがいるのに、認識していないあの眼。
(さすがに、止めたほうが、いい、のかな?)
これ以上、黄瀬が友人を傷つける前に。
「あの、なんで、そんなこというの?私のこと、好きでしょ?」
「オレはアンタのことなんて好きじゃない。オレは好きなヒトがいてそのヒトと付き合ってる。アンタも誰もオレの眼中にはない。一生涯オレはそのヒト以外を愛さない。これ何回言わせんの?頭悪い?っていうかアンタさ言葉を理解で来ている?出来てねーよな?出来てたら何度も何度もオレにこんなこと言わせないもんな。オレにその面見せる前に脳外科と精神科受診して来いよ」
「だって、私が作ってきたお弁当食べてくれてたし、私のことよく見てたでしょ?意識してた、私のこと。ちゃんとわかってるよ?えと、ヤキモチとか妬いたほうがよかっ」
「気持ち悪いこというの止めてくんない?アンタを見てたことなんて一度もないよ?アンタは何の価値もないんだ当然だろ。プラス思考も終には妄想までしだして弊害になるんだな知らなかった。それからオレはアンタの弁当なんて受け取ってないから。受け取るわけないだろ。他人の作ったもんなんぞ気持ち悪くて触るのも厭になるのに食べるとでも思ってんの?なんて可哀想な頭してんだろうねどうせならそのまま何にも解らなくなってオレの目の前から消えりゃあいいのに。ああ喋んないで。いや喋っても良いけどオレの邪魔はしないで。さっさと帰りたいからさ。続きだけどここで手ぇ緩めちゃ今後に関わるだろうからちゃんと言うよ。誰だか知らないけどアンタのその迷惑極まりないプラス思考でもちゃんとオレの言葉を正しく解釈できるように言ってやる。オレはアンタのこと嫌いじゃないよ。だってアンタ嫌いって言われても『嫌いと好きは紙一重』なんてお幸せな考えのヒトだから、そんな言葉は言わない。正直言うとオレアンタのことなんてどうだっていい。好きでもないし嫌いでもない。オレの思考を煩わせられるのはこの世でただ一人オレの好きなヒトだけだからね。他のヤツの為に思考や感情を動かすなんて労力が勿体ないでしょ。だから日頃考えているのはその人のことだけ。これホントのこと。だからオレと何度も話したり遊んだって言われてもオレはアンタが何年の何組の誰なのかも知らない。知っても得することなんて一切ないのに興味なんて湧かないでしょ。で、無価値の名無しサン、言ったとおりオレの思考を煩わせられるのはたった一人。幸せだよたった一人に自分の感情と思考の全てを捧げられるんだ。オレの世界はそのヒトで構築されてる。でも残念なことに一緒にいられる時間なんて限られてんだよね。部活終わって家に帰ってそれから朝学校に行くまでのたったそれだけの時間しかオレにはそのヒトといれないんだ。なのに、ねぇ、なに、邪魔してくれてんの?流石のオレでも恋人を可愛がる時間邪魔されて削られたら、いくらなんでも煩わしいんだけど。オレのこと好きって言いながらなんもわかっちゃいないよね。好きな人間に迷惑かけるしかできないアンタってホント、害悪にしかならないね。価値ないよね。価値ない人間なら早く消えれば?そうすれば少しは価値が上がるかもね。でもまあ安心して?恋人以外でオレを煩わせるヤツは流石に目障りだから早々にご退場してもらうことにしているからさ?」
先程私の思考を打ち砕いた言葉の数々ですらまだオブラートに包まれていたのだと思えた。正に、忌憚なく一瀉千里。
私は全身の血が下がるという心地を味わった。きっと顔面は蒼白だ。
誰が、優しいと言った。こんな男の、何処が、優しいと。自分とその唯一のヒト、そしてそれ以外。そんな世界で生きているあの男は優しいんじゃない。無関心というにも異質。なんだろう、これは。
「あ、あ、違う、それ以外がないん、だ。自分と唯一のヒト、それだけが黄瀬君の世界で、他は何も存在しない。『それ以外』すらない世界なんだ……」
呆然と呟く。あり得るのだろうか、そう考えて私は否定する。ありえるわけがない。けれど、黄瀬は言った。他の人間のために感情を動かしたり思考する労力がもったいない、労力の全ては日頃考えているのはその人のためだと。じゃあなんだ、誰と話していても、遊んでいても、好きだと言っていたバスケの時間すら彼の思考も感情も何処か違うところにあって、私たちが見ていた黄瀬涼太は空虚な存在でしかなかったということか。
適度に好意を持たれていれば衝突することも少なく、煩わされることなどない。全ては、彼の世界を円満に廻すために。
(黄瀬君は、私たちを、ヒトとしてすら、認識してないんじゃ、ない、の…?)
「なに、それ……」
気持ち悪い。私は強烈な吐き気を催した。
だって、有り得ない。そんな人間がいるなんて。それが同じ人間の思考だなんて。だって、ヒトは一人では生きられないけれど、だからといって二人いればそれで良いというものでもないだろう。私だったらごめんだ。本気の恋なんてしたことはないけれど、私はきっと彼のような世界観は抱けないし、多分、誰もが抱けないものだ。
だって、異常だ。こんなの病気だ。
(ちがう、ちがうちがうちがうちがうちがうっ!!!そんな言葉ですら、陳腐!)
だからこそ、気持ちが悪い。なんだ、あの男は。狂っているとかじゃない。
「―――こわれてる」
音にした途端、怖くなった。なにに怯えているのかなんてわからない。ただ、純粋に怖いと思った。
私は男の背に隠された友人を置き去り逃げ出す。一瞬、友人の発狂したような泣き声が聞こえたが、それは私の足を止めるどころか急かす一手にしかならなかった。
翌日、私のクラスに一つ空席が出来る。
その一ヵ月後、彼女の葬儀に参列することになるなど、今の私は知らない。
そして、その時、共に霊柩車を見送る彼から下される断罪を。私は、まだ、知ることはない。
だから、私は、今、友人を捨てて、逃げている。