最近、あの子を見ない。
相田リコはそんなことを考えつつ、焦燥感に苛まれる。
五限と六限の中間休み、リコはキュッキュッと廊下を鳴らし早足で歩く。向かう先は、一年のとある教室。辿り着いた教室の扉をガラリと引けば賑やかな一年坊主どもがいる。幾つかの視線が此方へと寄越されるがリコは気に留めることなく教室内へと入って行く。
そんな中、一人の声がリコの足を止めた。

「黒子でしたら今日も来てないみたいですよ」

リコが振り向けば、見覚えのある後輩の少年がいた。名前は知らない。彼が何処の部活に属しているのかも知らない。ただ、彼とリコには一つだけ接点があった。
『黒子テツヤ』という接点が。
少年は黒子のクラスメイトで。
リコは黒子と部活が同じ。
それでも、ただそれだけ。普通なら、相互認識することなんてなかっただろう。
けれど、普通ではないことが今起きていて、リコと少年は相互認識をすることになったのだ。『黒子テツヤは、今日来ている?』その一言により。
普通ではないこと、というのが、約二週間前からの黒子テツヤの不在だった。

「あいつの姿は朝から誰も見てないし、席にはカバンも掛ってません。担任は何の連絡も受けてないそうですよ、二週間前から、一度も」

「……そう、ありがとう」

少年にいつものように礼を返し、リコはまた別の一年の教室へと足を伸ばす。腕に巻きつく時計に眼を落とせば、あと四分程で鐘が鳴るところだった。これはやばい、いそがなくては、と足を速めればリコの顔面は壁に激突した。

「っつぅうううう」

鼻っ柱を強打した痛みに眦に涙が溜まる。目の前にある黒色に壁が人間であることがわかり、リコは怒鳴りつけようと顔を上げた。

「カントク?」

だが、怒鳴りつけようとした相手を見て、リコは黙った。
黙り、そのまま相手の腕を掴み、階段を駆け上がった。背後から文句が聞こえてくるが、今はどうでもいい。本当に、どうでもいい。今は、それよりも胸奥に潜むもやもやとした不快な焦燥感を一刻も早く払拭したい。それがリコの思いであった。
ここでいいか、と足を止めたのはいつか来た屋上の入り口への踊り場。無人であるし、教師も別段見回りに来ないから内緒話には持って来いの場所だ。

「で、火神クン。黒子君から電話、あった?」

ぱっと振り向けば、引き釣られることに文句を言いつつも抵抗をしなかった火神が苦虫を噛み潰した顔をしていた。それが、リコの問いに対する、答えだった。
先程、会いに行こうと思っていたリコの部活での後輩の火神。彼が一番黒子と接点がある。彼になら、連絡が入っているのではないか。
リコは彼に賭けていた。負けると、何処かで知っていて。

「ないっスよ。一度も。何回か、掛けてみてはいるんスケド、電源落としてるみたい、です」

「だよね、うん、私もそうだし。家にも行ってみたんだよね、昨日も。でもアノ子どうやら独り暮らししているみたいよ。ご近所さんに聞いてみたら両親はどっちも四月から海外赴任してるんですって。―――だぁれも黒子君の姿を見ていない。家に居るのか居ないのか、帰って来ているかも不明。でも、ポストには二週間前からの新聞が溜まっていたわ」

ああもう、っと苛々するようにリコは頭をぐしゃりと掻き上げる。
嫌な予感がする。どうしても、嫌な予感がするのだ。それは、黒子が休み始めてから、ずっと。
黒子が部活に学校に来なかった初日、誰もがサボりだと思うことはなかった。何故、と問われれば『あの黒子に限ってバスケをサボるなんて有り得ない』としか答えられない。黒子は本当にバスケが好きだから。因って、部内での見解は風邪でも引いた、ということだった。
それでも、リコには某かのシコリがあった。黒子は不精な人間ではあるが、部活を休むなら必ず連絡すると思ったのだ。だが、誰もそんな連絡は受けていなかった。リコは勿論、火神も日向も、担任も。本当に、誰も。
その日からリコは黒子の携帯に連絡を入れたり、自宅へと足を伸ばすことになったのだ。勿論、電話は繋がらないし、姿を見ることもないけれど。

「病院もね、調べてみたりしたのよ。伝という伝を頼って。何処にも居なかったわ、勿論受診記録もなし」

「最後に見たときはベつに普通だ、でした。病気しているようにも見えなかった、です。つうか、二週間スよ、もう」

そう、二週間。これだけ長期行方不明となると、流石に、リコだけではなく誰もが焦りを見せ始めた。そしてリコは、とある予測を確信し始めていた。

「火神クン、私今日は部活出れないから、日向君にそう言っといて。じゃ」

言いたいことだけ言ってリコはその場に火神を置いて走り去る。腕時計に眼を落とせば既に六限が始まっていた。チャイムの音など全く聞こえていなかった。リコはははっと空笑いをするが、直ぐにそれは止まる。心臓がバクバクしているのだ。笑うのも痛いくらいに、自分は緊張している。

「ありえないでしょ、そんなの。ありえないわよ、ありえない」

有り得ない自分の予想が、外れて欲しかった。





リコはあのまま早退した。そして、今、他校に居た。そこに会いたい人間が居るからだ。その人物の背を見つけ、リコは声を掛けた。

「黄瀬くん」

彼の名を呼んで、振り向くそのわずかな時間、リコの心臓はやはり痛いほど脈打っていた。その胸懐で繰り返す。
(監禁なんて、有り得ないわっ―――)




「黄瀬くん」

掛けられた女の声に鬱陶しさを感じながら、それでも黄瀬は振り向いた。無視するほうが後々面倒だからだ。
どうせ自分のファンの一人だろうと思っていたのだが、予想は外れた。そこにいたのは、いつか見た女だった。黄瀬の大事な『彼』の傍に居た、女だった。
出来れば、見たくない女でもあった。

「こんにちは、黒子っちンとこのカントクさん。今日は、なにか?」

「ええ、ちょっと。聞きたいことがあって」

ニコニコ笑う女はそう言って黄瀬へと歩み寄ってくる。

「黄瀬君さ、最近、黒子君に会った?」

緊張しているのか、声が堅い。黄瀬はいつものようにヘラリと笑う。

「なんでっスか?」

「ん?ちょっとね?で、会った?」

女は気付いたのだ。黒子が行方不明であることに。そして、その誘拐犯の嫌疑を、黄瀬に向けているのだ。
(まあ、ハズレではないけどね)
探られて痛いことはないと黄瀬は考える。
なにを喚こうとも女は何の権力もない未成年。そして、未成年の言葉に耳を傾ける大人は勿論、警察は存外少ない。恐らく彼らはこう見立てるだろう。黒子は『何処かで、羽目を外して遊び歩いているのだろう』と。だって、『彼』を擁護する存在は海外に居る。警察や教師が動かなくても、弾劾するような存在は居ないのだ。ならば、と彼らは楽な方へと傾く。人間とはそんなイキモノだ。
だが、いつかは彼らも動く。勿論黄瀬はその前に黒子を解放するが。
黄瀬だっていつまでも黒子を手元に縛り付けている心算はないのだ。黒子が、ちゃんと『理解』を示すなら、外に出してもいい。
(そう、ちゃんと、オレの言うことを理解して、言うことが聞けるなら、明日にだって出してあげる)
それは、自由にしてやるというわけではないのだけれど。
黄瀬は今日までの黒子との日々を思いだし、ゾクゾクと背筋をかける興奮に堪らず上唇を舐めた。

「ね、ちょっと今日用事があってさ、早く帰りたいんっスよ。もういいッスか?」

承諾も得ぬまま黄瀬は女に背を向けた。早く黒子の元に帰りたい。
女の出現に右下がりだった機嫌も今は急上昇している。それも、黄瀬の足と共に直ぐ急停止してしまうが。

「黄瀬君ってさ、初めて会ったときから黒子君に異常に執着してたわよね」

「それが?」

鬱陶しい、と思いつつ返事をし、女を再び視界に映す。もう愛想笑いも面倒くさくなり、黄瀬は女を睥睨した。女はそれに息を詰めるが、言葉を続けた。




「火神君には特にだけど、私にも、うちのチームメイトにも、黒子君の視界に入ったり黒子君に触ったりしている人間に凄い苛烈な視線送っていたの、気付いていたかしら?気付いているわよね、火神君に物騒な忠告していたみたいだし」

一ヶ月ほど前、誠凛に遊びに来ていた黄瀬が火神に『黒子っちに近付くな』と言っていた。その後なにを言ったのかは知らないが、黄瀬の二言三言の後火神の顔が真っ青になったのだ。黄瀬は何てことない平静な顔をしていたが、明らかにその目の色が可笑しかった。
リコはその瞬間に、人の狂気というもの気がした。だから、黒子が来なくなって、真っ先に黄瀬が何かしたのではないかと疑ったのだ。黄瀬が黒子に向けているのは恋情であることは分かっていた。だから、強姦にでもあったのではないかと。欠席が続くにつれ、監禁という要素も加わったが、人道外れたその予想を否定することは出来なかった。あの、目の色がどうしてもリコの頭から離れなかったから。

「ねえ、黒子君、知らない?」

少し離れた場所に立つ黄瀬に問い掛ければ、彼は苛立つ様に髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。そして眼を大きな手で覆い、一拍置いてその手は外した。瞬間、どくどくと痛む胸を宥めて答えを待っていたリコが息を止めた。
じゃり、と砂を踏みにじり此方へと寄る黄瀬にリコは恐怖に駆られ反射的に一歩後退る。だが、歯を食いしばり、それ以上はなんとか踏み堪えた。
黄瀬の目は、あのときと同じ色をしていた。きょうきだ。
足を止めた黄瀬とリコの間には半歩程度の距離。百八十九センチの彼の威圧感は並じゃない。それでも、引くわけにはいかないと歯を更に食いしばれば、リコの口は大きな手に覆われた。ぎしり、と顎の骨が泣くような強さ。リコは痛みにその手に爪を立てる。黄瀬は不機嫌そうに眼を細めはしても力を緩めたりはしなかった。

「あのさ、アイツを気安く呼ぶのやめて?殴り殺したくなるじゃん。あの赤髪が呼ぶのも腸煮えくり返るんだけど、アンタのその声で連呼されんのも耐えられねぇわ。だからさ、やめてくんない?これでも、自戒自制してんだよ。そうでもしなきゃ、アンタの面ぐちゃぐちゃにしそうなんだ。ついでにその咽喉も潰しそう。黒子を呼ぶのも、触るのも、あれの視界に映るのも、オレだけでいいんだよ。邪魔すんじゃねぇよ、クソアマ」

ドスの効いた声、というのはこういうのだろう。リコは目の前で凄む男に慄然と背筋を震わす。覆われていた口が解放されれば、歯が噛ち合わず鳴る。黄瀬はそんな姿に満足そうに笑み、リコの耳元でたった一言囁いて去って行った。
残されたリコは恐怖に呼吸が上手くできない。腰は抜けて、地面に座り込む。周囲から声が聞こえたが、右から左へ、まともに聞き取れるほどの平常心が今はない。
リコは両手で顔を覆う。
(ごめん、黒子君、むりだ、ごめん、ごめん)








「視界から消えてくれる?」

甘く囁かれたそれは、次はない、という警告。







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