三尺ほどの長さのローテーブルを飾る異文化の食事。端から端まで隙間を許さぬように、それらは並べられていく。とてもではないが、寝起きに食す量とは思えない。
それとも、陸の一族はこんなにも沢山食するのだろうか。成程、道理で陸だけでは飽き足らず海にまで入って食料を調達するわけだ。
そんな冷めた思考に辿りつけば、黒子の胸がツキリと痛む。
今の自分は、心はどうあれ、その海を荒らす人間と同種。その事実が黒子の心を痛ませる。
上機嫌に鼻歌を口ずさみながら朝食を並べていく黄瀬の背を見て、その朝食をもう一度見渡す。色取り取りのそれらから立ち上るのは、香ばしい香りや甘い香り、そして、懐かしい潮の香り。
あれほど焦がれた故郷の欠片とも言うべきそれだと言うのに、何故か今はその香りが不快だ。ついさっき無理矢理に着付けられた薄紅のドレスの裾を握り締め、黒子は込み上げて来る吐き気を懸命に堪えた。
そうこうしている間に食事を並べ終えたのか、黒子の隣に黄瀬も腰を落ち着かせた。
黒子が座るソファが沈めば、黄瀬の気配が間近になる。黒子は息を呑み、射竦んだ。

「そんなに怯えないでよ、もう怒ってないっスから、ね?」

黄瀬は朗らかな口調でそう言って、咄嗟に俯いた黒子の白い頬を撫でてくる。接触に怯えて震える両手を握り合わせ、黒子はそれに耐えようとする。
確かに、泣き止めと言った時に見せたあの険呑さは、今この時には嘘のように掻き消えていた。けれど、だからと言って黄瀬が恐ろしくないという極論には至らない。
(それに―――)
黒子はそれより先の思考を押し留め、代わりに寝台の方に視線を送った。そして、一瞬きにも満たない内に視線を膝に戻し、両手を更に強く握りしめた。

「黒子っち?」

白い頬を撫でていた指がベビーブルーの髪を梳き、視界を狭めてくれていたそれを耳に掛けられる。少しばかり開けた視界の端には黄瀬が映り込み、震えは一層増した。黒子は震える唇を噛み締め、瞼を閉ざした。それでも指は変わらず頬を愛撫するように撫で続けた。
慣れる気配もなく、酷くなるばかりの怯えに苛立ったのか、黄瀬が小さく舌打った。隣からは微かに険呑な空気も流れ始める。
黒子は引き攣る咽喉で細く呼吸を繰り返した。逃げる術がないことを知っているから、震える唇を色が変わるほど噛み締めてこの空気に耐えるしかないのだ。

「ああ、怒ってないっスよ。大丈夫だから、そんなに唇噛んじゃダメっスよ」

そう言って黄瀬は噛み締める唇を指で辿った。
だが、その声音は明らかに苛立ちを抑え込んだもので、言葉を裏切っていた。当然、黒子は恐怖にしゃちこばるしかない。

「ご飯食べよう?あったかいスープもあるから、冷めちゃうし、ね?」

固く握りしめていた両手を解かれ、代わりに小さな器を与えられた。じんわりと掌から伝わってくる温かさは不快ではないが、湯気と共に立ち上がる香りが黒子には不快だった。
視界をゆっくりと開けた黒子は瞳を揺らした。白い碗には透明な琥珀の液体が入っていた。その中には小さな丸いお団子が二つ入っている。見た目は綺麗だと思う。けれど、食べたいとは到底思えない。
黒子は戦々恐々と黄瀬を仰ぐ。視線だけはかち合わないようにするつもりだったが、屈みこむように此方を見ていた黄瀬と目が合ってしまう。
彼は虚を突かれたような表情をし、次いで嬉しそうに相好を崩した。

「魚介類のスープなんスよ。食べてみて?」

それは、先ほどの苛立ちを抑え込んだ声音とは百八十度違った上機嫌な声音だった。だが、黄瀬を恐れる黒子にとってそれは飽くまでも圧力であり、脅迫だった。
黒子は俯き、視線を手の中の碗に戻すが、やはり食べる気にはならなかった。少しずつ咽喉をせり上がってくる吐き気がその証拠だ。それでも、黄瀬の視線は一向に剥がれる気配がなく、食べろと訴えて来るようだった。
視線に気押されるように、黒子は碗に口を付けた。そうして、ほんの少しだけ、スープを口に含んだ。
だが、舌に広がる味がどんなものであるのか認識する前に、身体の奥底から拒絶感が湧き起こる。肌が泡立ち、額には汗が滲み出て来る。
そして、全身の血の気が一気に下がった。
(き、もち、わ、るい……)
碗を膝の上に置き、黒子はスープを吐き出しそうになる口を両手で抑え込む。

「黒子っち?どうしたの?食べられない?」

膝の上から重みが消えたことにも気付かず、黒子は頬を濡らして口腔から広がる嫌悪感に耐える。けれど、吐き出すことは勿論、飲み下すことも出来ないとなれば双眸を閉じて苦しげに呻くしかない。
不意に肩を引かれたかと思えば両腕を奪われた。次いで、黒子の唇に柔らかな何かが押しつけられ、歯列を無理矢理に割って何かが口腔に侵入してきた。
驚きに目を見開けば、眼前一杯に黄瀬がいた。黒子は両腕を纏め取られていることも忘れて恐慌したかのように屈強な肩を押すが、薄い肩に回された手に力が入っただけで願いは叶わない。

「んっ、ン……ンんぅ……っ」

口腔に入り込んだ黄瀬の舌が内壁を擽り、黒子はこそばゆさに身悶えてくぐもった声を出した。
酷く熱く感じる舌が蠢く度に全身から力が抜けていくようで、小さな手には力が入らず、黒子は震えながら黄瀬の服を握りしめた。すると、それが合図だったかのように、肩に置かれていた手が黒子の後頭部に掛かった。そのまま黄瀬に覆い被さるように顔の位置を動かされた。
散々口腔内を荒らされ、解放された頃には黒子の息は上がっていた。深呼吸を繰り返して呼吸が治まった時、口腔内にあったはずの嫌悪の原因が消えていることに気が付いた。
濡れた唇に手の甲を押し当て、黒子は困惑する。自分に呑みこんだ覚えがない以上、それの行方など、たった一つしかない。

「黒子っち、大丈夫スか?」

案じる声に、宥める手に、黒子は困惑を強める。
黄瀬はどんな意図を持って口付けてきたのだろうか。食べろと言ったモノを、どうして奪って行ったのだろうか。
自問すれば切迫するように一つの可能性が浮かび上がってくる。けれど、黒子はそれに気が付かない振りをした。
自分の切願の為には、彼の心情など知らない方がいい。黄瀬の行動が優しさ故ならば、尚更、絶対に気が付いてはいけない。
縋るような心地で故郷を求めた双眸に、けれどそれは映らない。そこに映ったのは黄瀬だった。
痩躯を抱き寄せた黄瀬に、今度は何をされるのかと黒子の咽喉が引き攣る。
その様子を認めているだろうに、それでも構わず距離を狭める黄瀬に焦り、黒子は顔を俯ける。けれど、抵抗を嘲笑うかのように顎を掬い上げられてしまう。顔を背けても、結局は両手で頬を捕らえられて逃げられなくなる。そうして、器用な長い指先に唇を割り開かれ、黄瀬の唇が隙間を許さぬように重ねられる。
やけに甘い舌と共に流れ込んでくるモノがなんであるか気が付き、黒子はそれを舌で押し返した。だが、黄瀬の舌の動きは巧みで、必ずそれは黒子の口の中へと戻ってきてしまった。
果実らしき甘味を舌に練り込むように押し付けられる。ジワリジワリと舌の上で侵食するように広がっていくその甘みに、黒子は涙を零した。
黄瀬が唇を放しても涙は止まらず、黒子は声を殺して泣いた。スープのような強い拒絶感は起きないが、舌の上にまるで虫が転がっているような心地がして気持ちが悪かった。
それでも、やはり吐き出すという行為は、黒子の身分に見合う矜持がどうしても許さない。

「っ…ぅーッ…ふっ、ぅー」

「甘い果実なんスけど、ダメっスか?」

案じる声音と涙を拭おうとする指先を黒子は振り払う。乾いた音がしたが、そんなことはどうでもいい。両手で顔を覆い、黒子は唇を噛み締める。
黒子がくぐもった声で泣いていると、片方の手を取られた。

「……っひ」

今度は何をされるのかと疑るよりも先に、細い身体が恐怖し勝手にビクつく。他人の熱に侵されていないもう片方の手で唇を庇うように覆ってしまうのは最早防衛本能だ。
ほろほろと絶えることのない涙で汚れた顔を拭うこともせず、黒子は黄瀬を睨みつける。
だが、次いでその瞳は揺らいだ。目の前にいる黄瀬が、酷く痛ましげな顔で苦笑していたからだ。
黄瀬は水が入ったグラスを黒子の手の中に包み込ませるとすぐに手を放した。

「飲み込めないんなら、水で流すといいっスよ。大丈夫、ただの水だから、黒子っちでも飲めるはずっス」

辛そうに眉根を寄せて微笑む黄瀬から目を逸らすように黒子は手の中のグラスを見詰めた。これ以上彼を見ていてはいけないような気がした。心が焦燥するようにざわめいていた。

「オレが、一回飲んだほうがいい?」

頭上で囁かれた声音に黒子の肩がまた跳ねる。それを宥めるように黄瀬に頭を撫でられた。
グラスだけを見詰めていた黒子の視界に、黄瀬の長い指が入ってくる。その指はグラスをやんわり奪っていった。グラスを眼差しで追えば、それは薄い唇に当たる。
黒子の視界に現れた黄瀬はやはり苦笑してグラスの中の水を飲んだ。

「これで、飲める?」

もう一度グラスを黒子の手の中に包み込ませた黄瀬はそう問い掛けた。
黒子は暫くグラスを見詰め、徐に水を口に含んだ。スープを飲んだ時や果実を口移された時のような抵抗感はなかった。その水と共に口腔内の果実を腹へと流す。舌に残る甘みすら気持ち悪くて、水を一口また一口と飲み下す。気が付けばグラスの中は空になっていた。
物足りなさにグラスを撫でていると、微かな吐息が聞こえた。釣られて黒子が顔を上げると、先ほどまで痛ましげな苦笑ばかりを浮かべていた黄瀬が安堵したように小さく破顔していた。

「よかった。水まで口に合わなかったら、どうしようかと思ったっス」

そう言って微笑む黄瀬を見たくなくて顔を俯ければ、頬を撫でられた。
接触の度に黒子の細い身体を怖気が駆け巡る。身体が跳ねるのは接触の初めだけだが、触れられている間はずっと胸が重苦しい。だから、出来るなら触らないで欲しかった。例え、慰めるような意図を持っている指先でも、黒子にとっては凶器にしかならないのだから。

「ね、もうちょっとだけ食べて?何でもいいから、もう少しだけ」

黒子はその言葉に頭を振って拒絶を示した。
食べられるものなんて、何もない。最初に手渡された魚介類のスープだって気持ち悪くて堪らなかった。食べ慣れた海の食物までもがそうなのだから、陸の食物など食べられるわけがない。小さな果実ですら舌に乗った瞬間ジワリジワリと毒されていくようで恐ろしかった。なんの抵抗もなく胃に流し込めるのは、無味無臭の水ぐらいだ。

「…ゃ、もぅ、ぃゃです……ぃゃ…」

消え入りそうな細い声で、悲鳴を上げるように黒子は拒絶し続けた。


弱々しく声を上げる黒子を腕の中に閉じ込め、黄瀬は小さな頭を撫でる。宥めるように背を撫で、旋毛に口付ける。穏やかな所作とは裏腹に、黄瀬の背中を氷塊が滑り落ちていく。
もしかしたらと予想していた事態だった。文化の違いに黒子は陸の食事を受け付けないかもしれないとは思っていた。だが、それは動物の肉のことであって、魚介類や海藻、陸の穀物や野菜は大丈夫だと思っていた。
黒子が強く拒否したスープは人形であった時分から彼女が飲んでいたものだ。調理したのは黄瀬が信を置く料理人なので、同じレシピで作れとの命令に反したとは思えない。
だとすると、魚介類を黒子は拒否したことになる。加えて、果実まで拒否するならば、一体何を食べられるのだろうか。
黄瀬はベビーブルーの髪を掻き別けて小さな額に口付けを落とす。それは黒子を宥めるというよりも、自分の凍えた肝を落ち着かせる為に。
(でも、アレルギーが出てるわけじゃなかった。だとしたら、何とかなるかも……まだ、なんとか……)





ヒュゥイ、ヒュゥイ。
耳にしたことのない美しい音色が黒子の耳を擽る。
目に慣れ始めた室内の窓辺に立ち、黒子は『それ』をじっと見詰めた。
未だ故郷は黒い幕に覆われている。覚束ない足取りではあるが、歩行が出来るようになった黒子は真っ先にそれを引こうとした。だが、魔法が掛けられているらしく、布に触れることすら出来なかった。
閉ざされた世界の息苦しさに食欲は更に減退の一途を辿った。水以外口にしようとしない黒子は、日によってはその水さえも拒否した。
現状を危ぶんだのか、黄瀬は何か欲しいものはないかと尋ねた。黒子は考えるよりも先に黒に塗り潰された故郷を指した。
空腹感は確かにあった。けれど、陸の食事なのだと考えればどんなものであっても拒絶してしまった。やはり陸では生きていけないのだ。黒子はどうあっても人魚なのだ。だから、早く海に帰してくれと彼に無言で訴えた。
一拍後、その訴えを理解したらしい黄瀬は表情を落として酷薄に双眸を細めたが、黒子を抱き寄せる以上のことはしなかった。
零下の眼差しの恐ろしさに震えた黒子を置き去り、黄瀬はその日食事の時間以外はこの室を訪れなかった。
その翌朝、黄瀬は片腕に『それ』を留まらせたまま来たのだ。掌大の全身純白の鳥を。
細い柱に銀の籠を吊るし、入り口を開ければ鳥は自らその中に収まった。身丈よりも長い尾を垂らし、籠の中に大人しく鎮座して鳥は歌うように鳴いた。
鳥と黄瀬を交互に見ていたが、美しいその鳴声に黒子は目と耳を奪われた。
昨日の酷薄な眼差しとは打って変わり、穏やかに微笑む黄瀬に手を引かれるまま黒子は窓辺に寄った。
間近で見たその鳥の双眸は海の色だった。
何となく、嫌な予感がして黒子は後退った。途端、黄瀬は細い腰を引き寄せ、可愛いでしょう、と言った。楽しそうな声音に引き寄せられるように仰げば、彼はうっそりと笑んでもう一度同じことを言った。可愛いでしょ、と。
黄瀬はそれ以上何も言わず、以来純白の鳥は此処に据え置かれている。
彼が何のためにこの鳥を連れて来たのかは今も分からないが、嫌な感じはずっとしている。せめてこの鳥が室を自由に飛んでいたのなら、黒子とてこんな嫌な感覚に陥ったりしないだろうに。
そんなことを考え、黒子は鳥籠の扉を開けた。
けれど、青い目の鳥は大人しく鎮座したまま、やはり外に出ようとはしない。
恐る恐る籠の中に指を差し入れれば純白の翼が広がり、指に重みが掛かった。こうなることを期待していたが、実際にそうなると黒子は少し唖然として、そして、益々嫌な心地を味わった。それが何故なのかは、やはり分からない。
緊張し震える手を籠から出せば、鳥がきょろきょろと首を忙しなく回す。
黒子はその指を目の前まで持ち上げた。揃いの色の瞳が互いを見詰め合う。

「気に入っちゃった?」

「え…っあッ」

背後から声がしたと思えば、腰を強い力で引かれた。体勢が崩れ、揺れる視界の端で黒子の指に留まっていた鳥が逃げるように羽ばたくのが見えた。背後にいた黄瀬に抱き締められながらも、その姿を追っていた視界が急に変化した。
視界に映ったのは小奇麗な黄瀬の微笑だった。

「黒子っち、あの鳥のこと気に入ったんスね。良かった」

腕の中に抱き上げられたかと思えば、あっという間にソファまで運ばれ、そこに下ろされる。
黄瀬はあの日、泣き止めと脅迫してきて以来、それらしい威圧をしてこない。時折苛ついているような素振りは見せるが、それでも脅迫と呼ぶような言動は一切なかった。服を無理矢理に着付けられることも勿論なかったし、無理矢理に食事を取らされることもない。
その所為か、黒子もただの接触には以前のように怯えることはなくなった。
それは、少なからず、件の鳥も関係していた。
白い姿は何処かと視線を彷徨わせれば、いつの間にかローテーブルの端に鎮座していた。
どうやら今は食事の時間らしく、そのローテーブルの上には数種の果実が用意されている。
その内の幾つかに見覚えがあり、黒子は隣に座した黄瀬を仰ぎ見た。その眼差しを受けた彼は嬉しそうに笑って小振りの赤い果実を一つ取り、小さな掌の上に転がした。

「人魚が見掛けられる付近って大概この中のどれかの果実が生る植物があったから、もしかしたら人魚も食べてたんじゃないかと思って取り寄せてみたんス」

凝視してくるヘイズルの視線から逃れ、果実に視線を落とす。瑞々しく艶やかなこの果実を黒子は食べたことがある。口に含めば爽やかな酸味と甘みが広がるのだ。

「……やっぱり、駄目っスか?」

じっと見詰めるだけで口に運ぼうとしない様子に、黄瀬は落胆の声音で問うた。
黒子はびくりと身体を震わせ、慌てて黄瀬を見上げた。くしゃりと顔を歪めた彼は不器用に微笑み、果実を取り上げた。

「無理しなくていいっスよ。食べられないものを無理に食べてたら、食事に対して恐怖心が出てくるっス」

黄瀬が長い指を持ち上げれば其処に鳥が飛び移った。赤い果実を差し出せば鳥は器用に食べ始める。
そんな風に鳥の世話をしている彼は黒子が思っていたよりもずっと柔和な風情を見せていた。そうして、今の今まで見てきた暴虐な黄瀬に抱いていた印象が、ほんの少しだけ変わった。
興味深そうに鳥が食事をする様子を見詰めていた黒子の目の前に大きな掌が差し出される。その上には同じ赤い果実が転がっている。

「黒子っちも上げてみる?」

そう言って黄瀬が果実を差し出すのは今に始まったことではない。この鳥が来て以来、食事の度に黄瀬はそう持ち掛けて来た。
初めはただ視線を背けていただけだったが、少し前から黄瀬はこの掌にも果実を載せるようになった。勿論、その果実を食べる気にはならない。だから、黒子は仕方なく鳥に果実を差し出していた。
だが、今日は黒子の小さな掌に果実はなく、目の前の大きな掌に転がっている。それに手を伸ばすべきかどうかを迷い、黒子はゆっくりと手を伸ばした。
小さな果実を自らの掌に転がし、鳥の目の前に差し出す。小さな口は果実を削っていき、瞬く間に黒子の掌には薄紅の果汁だけが残った。

「はは、凄い食べっぷりっスよね」

咽喉で哂う黄瀬が鳥をローテーブルに留まらせた。そのまま大きな手がローテーブルに置かれている布を取り、薄紅に塗れた黒子の掌を拭う。

「果実が主食なんですか、このコ……」

考えれば黄瀬はずっとこの鳥に果実だけを与えていた。鳥を見る機会は少なかった黒子だが、どうしてもその嗜好が珍しく思えた。
黒子の問い掛けに黄瀬は目を見開かせ、一拍後、綺麗なそれは破顔一笑した。

「可愛いでしょ?」

その笑みに黒子は目を奪われ、そして思考を奪われた。
この男の笑みは幾種類も目にしてきたが、目の前にあるモノはそれらとは全くの別物だった。
細められたヘイズルの瞳を彩る感情は間違いなく慈愛と歓喜だ。
そんな眼差しを向けられる理由が分からず、黒子は戸惑った末に顔を俯けた。色素の薄い髪がさらりと流れ、視界を少しだけ狭めてくれる。
欲望を剥き出しにした眼差しを向けられたら怖い。けれど、こんな愛しみに満ちた眼差しはもっと怖い。黒子はベビーブルーの簾の向こう、紗幕に囲まれた寝台を見詰めた。
海に還りたい。それはずっと願っている。渇望するように、願っている。だからこそ、黒子は今も鋭利に光を反射するナイフを隠し続けている。
故郷と黄瀬の命を掛けた天秤が僅かに傾く度、黒子はナイフを握り締めた。けれど、その切っ先が紅に染まることは一度としてなかった。
利己的に他者を害するのは黒子にとっては非常な覚悟が必要だった。
覚悟は未だ定められない。けれど、還ることを諦めることは絶対に出来ない。だから、心など寄せないで欲しい。今までのように暴虐理不尽なままでいてくれたら、黒子はいつか黄瀬の魂を奪う覚悟を持てるだろう。けれど、そんな風に直向きに心を寄せられると天秤の雌雄が思わぬ方に決してしまう。海に還れなくなってしまう。
黒子は膝の上の手を見詰めて唇を噛み締めた。

「久しぶりに黒子っちから話しかけてくれたっス」

(そんな風に、優しく笑わないで、ください……)








人魚姫

いとおしまないで―――やさしくなんて、しないで







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