空が皓々と白み始めた頃、黄瀬は急く急くと回廊を渡っていた。
日を跨ぐか、跨がないかという時分に一度は解放されたこの身が何故柔らかな寝台の上にないのかと言えば、簡単な話だ。寝台に横になった途端、従者に呼び戻されたからだ。
数刻後の暁を待てぬ仕事とは一体どれ程の厄介事だと思っていれば、何のことはない。赤髪の人魚が水槽ごと消え失せたというだけだった。
例えば、この足の目的地でもある最奥の宝箱に閉じ込めている蒼の珠玉が消え失せたというのなら話は別だ。そんな事態が起きたのならば、第一王子直属軍は愚か、黄瀬が持てる力の全てを行使して珠玉を取り戻す算段を付けるだろう。蒼の珠玉にはそれだけの価値があるのだから、当然だ。
だが、あの赤髪の人魚に黄瀬を動かせるだけの価値があるかと言われれば、否だ。拉致した当初より、あの人魚の価値はその生態だけにあった。目的であるデータを粗方取り終えた今となっては、あの人魚に価値はない。ならば、態々探し出してゴミを増やす必要もない。
それに、黄瀬はその人魚の行方に見当が付いていた。

『オージの掌中の珠を現実に戻してあげるからさー、赤髪の人魚をオレにくんない?』

恐らくは、その契約を持ち掛けてきた魔法使いである高尾の下だ。
人魚を求める高尾の目的がどういうものであるのかは知らないし、興味もない。黄瀬にとって大事なのは件の珠玉だけだ。彼女が現実に戻り、自分を認識してくれるのならば、どんな犠牲を払っても構わなかった。ゴミにしかならないものと引き換えにその願いが叶うのならば、此方は諸手を挙げてそれを差し出す。
そして、昨日、彼女は現実に戻ってきた。あちらが契約を遂行したのだから、当然、あの人魚は高尾の管轄に移る。あの人魚をどうしようとも、それは最早魔法使いの権利だ。例えば、あの人魚の意識をどうにか呼び戻し、海に帰そうとも、黄瀬に文句を言う筋合いはない。赤髪の人魚を殺そうが、生かそうが、本当にどうでもいいのだから言うつもりもないが。
だが、それは黄瀬だけの話であって、契約も何も知らない従者は違った。契約内容を話し、憶測であるが高尾の思惑も話した。それでも、日々血に塗れる半面か人道を強く慮る従者は人魚を探せと煩かった。
結局、その煩さに負けて黄瀬は腰を上げたものの、捜索物は中々見付からなかった。見つかり次第珠玉の元に戻ろうと思っていた黄瀬は一瞬唖然としたが、直ぐに違う研究室に足を向けた。考えてみれば、高尾に与えた研究室は随分とあり、虱潰しに当たっていくしかなかった。思った以上に時間を食ったが、漸く高尾共々人魚が見つかり黄瀬は逃げるようにその場を去ってきた。
窓から外を見上げれば、藍色に染められていた空は日に白く焼かれ始めていた。
宮仕えの者たちが目を覚まし、活動し始めている頃だと辺りを付けた黄瀬は、更に足を急かした。
辿り着いた最奥の室の扉を静かに開け、足音を殺してその中へと入っていく。黄瀬を出迎えたのは、静謐を擽るような小さな寝息だった。
まだ灯りの点いていない室内を横切り、黄瀬は寝台の前に立つ。幾重の紗幕越しでは、薄らとした肢体の影しかみえない。邪魔なそれを払うように潜れば、昨夜と変わらないあどけない寝顔が露わになる。まだ目を覚ましていないことに安堵し、黄瀬は寝台を揺らさないようにそこに腰掛けた。
人間になった途端、壊れてしまった黒子は食事に対して関心を失ってしまった。そのまま食べずにいては死んでしまう。だが、食文化の違いを考えれば、不用意に食べさせるのは危険だった。
取り敢えず人魚の主食であるはずの魚介類等で作ったスープを飲ませていたが、それだけでは著しく栄養の問題があった。だが、他の栄養あるものを食べて貰おうにも、壊れた黒子は嚥下をしても咀嚼はしなかった。こんな状態では罷り間違っても固形物など与えられない。
だが、だからと言って栄養的な問題を無視するわけにもいかない。迷った末、どうしても固形物を与える時は黄瀬が自らの口内で噛み砕き、水と一緒に与えることで昨日まで過ごしてきた。
そんな食生活であった為、まろかった頬は少しばかり痩けていた。
数日ではあるが、大して栄養を摂っていなかった黒子の痩け具合が少しで済んだのは、一重に高尾のお陰だ。
高尾は人間へ変化する魔法薬を飲ませる時は人魚にとって心臓にも等しい珠も一緒に飲み込ませろと言った。別に高尾はこうなることを予測していたのではなく、心臓と同等の重みを持つ珠が人間になった時外にあったのでは何らかの支障を来たすのではないかと危惧して言っただけらしい。それでも、助言に従ったことが幸いとなり、胃に入った珠は栄養素の代わりとなり身体の機能を維持した。
だが、それも少しの期間で、つい先日には珠が完全に身体に吸収されてしまったらしく、黒子は少しずつ痩せていった。今では頬が痩け、ふくよかとは言い難かった身体も肉が落ちて肋骨が目立ち始めていた。
痛ましいその頬に触れようと伸ばした黄瀬の指は宙で止まった。
既に日は昇っている。この指が刺激を与えれば黒子は目を覚ますかもしれない。
瞼が開き、美しいベビーブルーの双眸が自分を映す時、彼女はどんな反応をするだろうか。そう考えた途端、黄瀬の長い指が小さく痙攣を起こした。
黒子は、きっと黄瀬を恐れる。もしかしたら、憎悪と嫌悪の果てに黄瀬を遠ざけるかもしれない。湯殿で意識のない黒子を抱きしめていた時は、そんなものは瑣末な問題だと思った。例え嫌悪して拒絶をしても、黒子は黄瀬から逃げる術を持たないからだ。
憎悪や嫌悪等という負の感情は心を酷く疲弊させるため長くは保たない。時と共に、いつかはそれらも緩和される。そうなれば、付け入る隙ができる。ゆっくりと時間を掛ければ、黒子を雁字搦めにする確かな自信が黄瀬にはあった。だから、黒子が嫌悪しようと憎悪しようと、そんなものは黄瀬とって瑣末な問題に過ぎなかった。
けれど、その時の黄瀬は大事な事を忘れていた。負の感情は確かにいつか溶けていくものだが、それは憎悪や嫌悪が上塗りされないことが大前提だ。ベビーブルーの双眸に宿る嫌悪や憎悪の色を目の当たりにした時、優しくも穏やかでも在れないだろう黄瀬にはその契機が訪れない可能性があった。
黄瀬は伸ばした手を握り締める。そのまま暫く何かを考え込むように黙っていたが、徐に寝台に足を掛けた。痩躯を跨いだ黄瀬は拳を枕に埋め、黒子を押し潰さぬようにヘイズルの頭もそこに埋めた。

「好きっスよ。愛してるっス。でも、思いやるだけの、キレイな感情じゃあ、ないんだ……ッ」

いつだって、恋や愛には醜い一面がある。大事な人を傷付けても縛り付けておきたいと願う、醜い欲に彩られた一面が。
黄瀬が持つその一面は特に醜いだろう。その醜さを公然と赦される地位に座し、他を圧倒する権力を持つために。





重みはない。けれど、どこか圧迫された息苦しさを感じて黒子は目を覚ました。
ほんやりとする視界に映る誰かの肩に、黒子は既視感を覚えた。だが、一体いつのことだったかを思い出せない。重くて上手く働かない頭を叱咤するように額に手を当てれば、その誰かが起き上がり始めた。やけに緩慢に思えたその場面にも、同じく既視感が満ち溢れていた。
思い出せ、思い出すな、二律背反が黒子の中で鬩ぎ合う。ゆっくりと誰かが露わになる度に背が凍りついていく心地を味合わされる。これは一体何なんだろう。黒子は混乱するように瞳を揺らした。
そして、自分の瞳に映った誰かを呆然と見詰めた。
それを知ってか、知らずか、彼はおはようと穏やかに微笑み、黒子の頬を撫でた。

「おはよう、黒子っち」

既視感の正体に気が付いた黒子は反射的にその手を払い除け、寝台の端へと逃げようとした。けれど、それよりも早く黄瀬の腕に抱き込まれてしまう。
ぎりぎりと骨が軋む程の強い力に黒子は細く悲鳴を上げた。

「っぅ…たい……ぃたい……っ」

「ごめんね、痛い?でも、力緩めたら黒子っち逃げるんだから、仕方ないっスよね。大丈夫、骨を折ったりはしないよ」

悪びれもなく謝罪する黄瀬が頬を舐めてくる。触れられる度に肌が泡立ち不快を訴える。黒子はそれに耐えられず、腕の中から逃げようと暴れるが黄瀬は力を緩めない。それどころか、肩に回した手に力を込めて来る。力で勝ち目がない以上、黒子はその抱擁を耐えるしかなかった。

「おはよう、黒子っち。―――……おかえり、ずっと、待ってたんスよ」



嫌がる黒子の抵抗を児戯のようにあしらい、薄紅のドレスを着付けた黄瀬は満足そうに微笑んだ。

「ん、すっごい似合うっスよ」

そう言って髪を梳いてくる手を払い、黒子は涙を浮かべて黄瀬を睨みつけた。裸ではなかったが、薄い肌着姿を伴侶でもない男に見られた。黄瀬に抱いていた恐怖心を吹き飛ばすほど、それは黒子にとってショックなことだった。

「痛いっスよー、黒子っち」

ひらりひらりと手を泳がせる黄瀬は痛そうな素振りを全く見せず、そんなことを言う。
瞳にすらその姿を映したくなくて俯けば、細身を包む薄紅の布が視界に入ってきた。震える唇を噛み締め、黒子はそれを引っ張る。何をそこまで嫌悪しているのか、肌に触れる布の感触に肌が泡立つ。黒子は今にも癇癪を起したい気分に陥る。
感情のままに破いてやろうかと思った時、黒子の顎が掬われた。掬い上げた黄瀬は、うっそりと微笑む。

「それ、着ていたくないなら、脱いでもいいっスよ。但し、その場合はオレが何しても文句言わないでね?挑発する方が悪いんスから」

顎のラインをゆったりと撫でられ、ぞっとした。息を呑み血の気を下がらせた黒子に黄瀬は溜息を吐き、腰掛けていた寝台から立ち上がった。
これ幸いと黒子は寝台の端に寄り、震える身体を掻き抱く。何をされるかわからない恐怖と思い起こされた黄瀬の恐ろしさに歯が鳴った。どこか冷えていく空間に響く唯一の音に益々恐怖が募り、黒子は顔を歪めて頬を濡らし始めた。
此方を凝視していた黄瀬は小さく舌打ち、溜息を吐いた。

「……朝食取ってくるっス。その間に泣き止んでね。黒子っちは何してても可愛いんだけど、ね。オレは気の長いイイ人じゃないからさ、あんまり拒絶されると何すっかわかんないっスよ?」

脅迫の言葉を吐いた存在が扉の向こうへ消えるまで黒子は凝然としていた。何の気配もなくなって、暫くして、顔を上げる。
寝台を囲む紗幕は天蓋に伸びる足に括りつけられているので、視界を邪魔するものは涙だけだった。ぼやける視界の中に誰もいないことを視認し、黒子は寝台の頭の辺りを震えたままの手で探った。
昨夜、夢を見た。今では懐かしい幼馴染とそこで会った。彼が何と言っていたか、黒子は覚えている。だが、あの時、自分がどう答えたのかを覚えていない。
答えは直ぐに知れた。鋭利な煌めきを見つけた黒子は呆然と瞠目するしかなかった。


分かっていたことだけれど、苛々する。ベビーブルーの双眸が湛えていた恐怖と嫌悪を思い出し、黄瀬は壁を殴り付けた。一度では気が収まらず、もう一度。そんなことを何度も繰り返す。
優しくしようと思った。出来るだけ、優しくしようと。あどけない寝顔を包み込んで、そう思った。けれど、結局黄瀬は耐えられなかった。
殴る蹴ると言った暴力は決して振うことはないと誓える。けれど、それとは違った暴力を振ってしまうかもしれない。男という人種は支配できる力と手段を持つが故に酷く即物的だから。
先刻も怯える黒子を支配したくて堪らなかった。人形であった時分、此方を見ようとしなかった黒子の女の性を無理矢理に暴き、男である自分を見詰めさせたように。
抱いている間はあの瞳から憎悪も嫌悪も恐怖も消える。ベビーブルーが孕むのは黄瀬に向ける甘い欲だけとなるのだ。それがどれ程心地好いことか。
だが、この方法は今後出来るだけ控えなければならない。いつの日か黒子を手に入れるために、黄瀬はあの心に嫌悪や憎悪をこれ以上植え付けさせてはいけないのだ。
そこまで考えて、黄瀬はふと壁に打ち付けていた手を止めた。

「あー、じゃあ、服を着せるのもお風呂に入れるのもなしになんじゃない?」

動かなかった黒子の世話は食事だけに限らず、入浴や着替え、その他にも色々あった。黒子の周りから人を排除したかった黄瀬は側女を付けず、その世話を手ずから行った。
それを面倒だと思ったことはない。黒子と触れ合える時間は黄瀬にとって大切なものでしかなかった。
その大切な時間が、これからは奪われる。ドレスを着付ける際も抵抗し、肌着越しであるにも関わらず身体を見られることを嫌がった黒子だ。一緒に入浴など持っての他だろう。

「どーしよっかな…」

一緒に眠るのはまだ何とかなる。黄瀬があの部屋で寝付くときは黒子が既に眠っている時分であるだろうし、起床時間も彼女のそれよりもずっと早い。寝台に忍び込むのは容易い。
食事も、問題なく一緒に取れるだろう。今はそれだけで満足しておかなければいけない。黄瀬は溜息を吐いて無理矢理納得した。
納得するしかなかった。どうしても譲れない願いの為に。








人魚姫

キミが欲しい ―――その願いは余りに強すぎて







back/top/next