陸の魔法学を若くして学びつくした後、新たな魔法学を学ぶため海へと繰り出した。
そこで出会った師は、人間であると看破しても自分を弟子にしてくれた。それは勿論、何を考えているか分からない人間を監視する為でもあったのだろう。
睨んだ通り、頭の固い師は自分に対して明らかな警戒心を持っていた。だが、それでも教えてほしいと願えばその大半は叶えてくれた。
師弟を結ぶ代わり、王族とは決して関わるな。モノクルの奥、瞳を細めて忠告してきたのは師であったが、友を作ることは許してくれた。気軽に話しかけ、友であろうとしてくれたのは、その王族であったのに。
毎日、只管魔法学を学び、師をおちょくり、友と笑いあった。愉しい日々だった。充実した日々だった。
海の世界は嫌いではなかった。師も友も、嫌いではない。裏切ってしまったが、嫌いではないのだ。
その日、高尾はモノクルを片手に美しく装飾された扉を初めて押し開いた。扉の向こうは、王子の珠玉が眠る重い世界だった。
扉を閉め、高尾は中へと進んでいく。高価な調度品も、美しい壁画も、希少な本も、どうでもいい。目的は大きな寝台に横倒わる人形となった少女だ。
薄い色のドレスを纏う少女を守るように掛かる紗幕を払い除ける。
間近に迫っても虚ろな双眸は高尾を見ない。反応もない。まるで呼吸をするだけの人形だ。
重々しく溜息を吐いた高尾は、跪いて少女の小さな頭に手を置く。どうやっても険呑な色が孕む瞳を閉ざし、手に気を篭めていく。
(キミに壊れたまんまでいてもらっちゃ、困んだよねぇ)
暫くすると、静電気が音を立てて二人の周囲を取り囲むように走りだす。
「例え、此処が絶望の世界でも、戻って来てもらうよ」
そう呟き、高尾は瞼を押し上げた。同時に、少女の身体が大きく跳ねた。
「っ、う……」
ベビーブルーの瞳が痛みを訴え、細められる。周囲を見渡すように揺れていた瞳が高尾を捕らえると、少女は露骨に怯えを含んだ眼差しをくれた。
高尾はその様を嘲笑うように微笑んだ。
「オハヨ、随分とゆっくり寝てたじゃん、オヒメサマ?」
冷たい眼差しに含まれるのは明らかな侮蔑。黒子はそれを真っ向から受けながら、目の前のこの人間は誰だと自身に誰何する。
記憶を遡っても出てこない答えに黒子は危機感を覚え、力の入らない腕で後退する。そして、四苦八苦しながら座位を取った。
跪く人間の男は飄々とした笑みを見せながら、明らかに嘲りを強めた。
「よくできました、オヒメサマ。でも、そんな警戒心は最初から持っといてよ」
人間はそう言って何かを放った。それは小さく弧を描いて寝台の上に落ち、重く弾んで黒子の傍まで転がっていく。
見覚えのあるそれを拾い上げ、黒子は注視する。手の中にあるのは特徴などそうはない、何処にでもありそうなモノクル。けれど、黒子はこのモノクルに見覚えがあった。
本来の持ち主ごと守るようにモノクルを片手に仕舞い、黒子は人間を警戒するように凝視した。
「こうやって会うのは初めてだね。説明はしたげるよ。オレは高尾。真ちゃんのお弟子で、キミの弟であるカガミンのオトモダチ」
「……え?」
不可解な事を言われた。黒子は瞳を眇め、胡乱気な声を出す。
目の前の彼は人間だ。何故、海の一族の者と関わりを持てるのか。そんな疑問が表情に表れていたのだろう、高尾は飄々とした笑みを崩さず答えた。
「確かにオレは人間だよ。でも、人魚にもなれる。言ったでしょ、真ちゃんのお弟子だって。オレは魔法使いなんだよ。ついでに、忘れてるみたいだけど、キミも人間だから。オレが作った魔法薬と、王子の遺伝子の所為でね」
長い指に指し示された先を辿れば、見たこともない、着た覚えもないドレスがあった。黒子は尾鰭の辺りにモノクルを握り締めた手を置き、触れた感触にびくりと手を引いた。
尾鰭ではない。肉が二つに割れた感触。血の気が下がると同時に得体のしれない息苦しいあの記憶が黒子の中に蘇ってくる。何度も何度も熱い何かで胎を抉られ、そして注ぎこまれたその記憶が。血に飢えた獣のような瞳をした黄瀬が、逃がさないと囁いた絶望の瞬間を。
悲鳴を上げるように咽喉が引き攣る。歯ががちがちと鳴って噛みあわない。怖気に支配される黒子は縋るように手の中のそれを握り締めた。
「だからさー、言ってんじゃん?警戒心は最初から持っといてよって」
呼吸が乱れる黒子を今度こそ嘲笑し、高尾はその言葉を繰り返した。けれど、黒子には彼の言いたいことが分からない。
「まだわかんない?キミが人間になったのも、カガミンが捕まったのも、ぜーんぶ、キミの所為でしょ?キミがオージを、黄瀬を気易く助けなければこんなことにはならなかったはずじゃん。考えてみてよ、キミが黄瀬を助けなければ気に入られることはなかっただろうし、当然珠を取られることはなかった。珠を取られなかったら、カガミンがオレに変化の魔法薬を求めることもなかった。カガミンがキミに擬似して黄瀬に会いに行かなければ、カガミンは捕まらなかった。キミが捕まらないって黄瀬がキレてオレを殺そうともしなかっただろうし、オレは真ちゃんを裏切らずに済んだはずだった―――ね、ぜーんぶ、キミの気易い行動が発端でしょ?」
反論は出来なかった。する気もなかった。けれど、あからさまな侮蔑は痛く、黒子は唇を噛み締めて視線を落とした。
「黄瀬が惚れた人魚の女の子との再会の日に、カガミンに『姉に擬似する魔法薬が直ぐに欲しい』って言われて、まさか、もしかして、なんて思いながらも馬鹿正直に作ったオレにも非があるからねー、カガミンは助けるよ。オトモダチだからね。でも、馬鹿なキミまで助ける気はないから」
言いたいことはそれだけだと、背を向けた高尾はひらりひらりと手を振って、室を去っていく。だが、扉に手を掛ける間際、立ち止まり、黒子の方を振り向いた。
「オレは馬鹿なキミが嫌いだけどさ。でも、黄瀬の命の恩人には変わりないしな、教えてやるよ。王宮に閉じ込められていたキミを此処まで連れて来たのは、オレ。変化の魔法薬はまだあったからさ、真ちゃんに化けたんだ―――それ、モノクル、黄瀬に見つかったら取り上げられるからな」
そう言って今度こそ扉の向こうへと消える影を見送り、黒子は寝台に倒れ込んだ。
黒子は疲れたように億劫に瞬き、片手に仕舞いこんだモノクルを見詰める。
「やっぱり、キミの言うことが、正しかったんですね、緑間君……」
震える息を吐き出し、黒子はモノクルを寝台の隙間に深く押し込んだ。
仮説論を口にしても仕方がない。魔法でも過去には飛べないのだから。どれほど自分を責めても、最早現実を受けしれるしか黒子には術はない。
うつらうつらとする中で、黒子は二つに別れてしまった尾鰭を見る。撫でて形を辿れば、それは黄瀬や高尾が持っていた脚と同じだった。黒子は黄瀬の希求通り、人間になってしまった。
「陸海、他を侵すべからず」
古くから伝わる謂れ。迷信ではない、真実の謂れ。
だから、黒子は、もう海には戻れない。帰れない。
故郷を奪われただけでなく、まるで人魚であった自分を殺された気分だ。
水の檻の中でどんな結果も受け入れると黒子は覚悟した。それは一生を飼殺される覚悟であったし、欲望の為に殺される覚悟でもあった。この身が海には帰れずとも、魂は還れると信じていたからこその覚悟だった。
今となっては魂すら海に拒絶されてしまうだろう。
夜が更け、藍の空にふっくらとした白銀の月が浮かんでいた。
大半の使用人が寝付く夜分、漸く自分の宮に帰って来た黄瀬は急ぎ足で回廊を渡る。辿り着いた最奥の室の扉を開き、そっと入って音もなく閉める。
仄かな明かりだけの室内を横切り、寝台へと黄瀬は歩を進める。幾重の紗幕の向こう、横倒わる影が見える。規則正しい寝息が鼓膜をくすぐり、黄瀬は柔らかく微笑んだ。
紗幕を払い除ければ、露わになる愛しい少女。黄瀬は靴を脱ぎ捨て、その隣に横倒わった。
ベビーブルーの髪を後ろへと流し、顔を寄せれば、少女の吐息が唇に掛かった。柔らかい頬を指の背で撫でれば、少女の瞼が震えて唇から音が漏れる。小さな手を握れば、縋るように握り返してくれる。
昨日までとは違った反応だった。ただ、息をするだけの人形であった頃とは。
高尾が言っていた通り、黒子は現実に戻ってきたらしい。
黄瀬は嬉しくて、黒子を抱き寄せた。鼻頭を食み、頬を舐める。呻き、逃げようとする顔を追い、黄瀬は少女に跨った。薄く開いた可愛らしい唇が自分を誘っているようで、黄瀬は顔を寄せていく。
だが、唇が重なるその瞬間、扉からノック音が響いた。
さも、食事をするかの如く、獲物の上で開かれた獣の口がゆっくりと閉ざされる。
黄瀬は暫し紗幕越しに扉を見詰めていたが、再度そこからノック音が響いて来る。どうやら寝ていても諦めるつもりはないようだ。
獲物と称した唇をねっとりと舐め上げ、黄瀬は寝台を降りた。
靴も雑に履き、扉を開けばそこには思った通り従者の笠松がいた。笠松は主人を見上げ、ただ一言。
「仕事が出来たぞ」
そう言って先に執務室へと歩き出した。黄瀬はその背を見送り、紗幕に守られる少女を見やり、扉の向こうへと消えた。
<……こ>
静寂に呑まれそうな、小さな声がした。深淵に横倒わる黒子はぴくりと微かに反応する。
<く…こ……くろ、……ぃ、黒子>
幾度の呼びかけの後、はっきりと聞こえたその声に黒子ははっとする。
目を見開けば、漆が辺りを塗り潰していた。自分の掌に視線を落とせば、ぼんやり光るように明るかった。まるで黒子がぼんやりとした光を発しているようだった。
<目が覚めたか、馬鹿者>
「…みどりま、くん?」
<そうだ。お前に起きていることは大体分かっている。説明は不要なのだよ。時間がない。今から言うことをよく聞け>
周囲を見渡しても、なんの影も見えない。どうやら、此処にいるのは黒子だけのようだ。
漆黒の闇から響いて来る緑間の声は珍しく焦燥に駆られていた。
<完全な人間にされたのだな?>
「……っ、はい」
<案ずるな、まだ手段はある。陸の魔法使いだけが人魚を人間に出来るわけではない。海の魔法使いであるオレも、お前を人魚に戻す術を持っているのだよ>
その言葉に、黒子の中で淡い期待が生まれる。黒子は逸る想いで続く言葉を待った。
<だが、それにはお前を完全な人間にした奴の血と魂が必要だ>
「え……?」
それは、つまり。殺せということではないのか。黒子は瞳を泳がせて何度も開閉させる。
(まって…まって、黄瀬君を、殺せというんですか…)
黒子はゆるりと頭を振る。だが、声だけの交信では黒子の様子も心情も伝わることはない。緑間は黒子の心を置いて言葉を重ねていく。
<お前、オレのモノクルを持っているな?>
「持って、ます…」
<では返すのだよ。勿論、お前が今一番必要なものを代価として払おう―――黒子、モノクルを、返すのだよ>
応えを強制する声に、黒子は震えながら口を開いた。空気を振動させた音は、なんだったのか黒子も分からない。
その答えを知るのは、翌朝。寝台の隙間に鋭利な光を呆然と見詰めたその時に。