誰もいない広い室の檻の中で、黒子は今日も壁に凭れてそちらへと視線を向けていた。ベビーブルーに映るのは真っ黒の大きな布。
少し前までは、そこから日の光が入り込み、美しく輝く故郷が臨めた。夕日が落ちていく様も見られたし、淡い月光が部屋を少しだけ照らすことだってあった。
たった一人きりのこの室で黒子を慰めるのは窓の向こうの世界だけだった。一日に何度もこの室まで足を運んで来るあの人間との強制された会話よりも、それは確かな慰めだったというのに。あの人間は、黄瀬はそれが気に食わなかったらしく、酷く不機嫌そうに黒子の慰めを闇のような色で閉ざしてしまった。
黒子は唇を噛み締めて尾鰭に視線を落とす。
今では自分の慰めは何もない。さざなみの音は檻の上に行けば聞こえる。けれど、あそこは黄瀬がいちばん近くなる場所だから、黒子は行きたくなかった。
黄瀬のことは多分今でも嫌いではない。けれど、ああいう性質の者とは対峙したことがないから、黒子はどうしようもなく怖かった。
暴力を振われたことは一度もない。暴言を吐かれたこともない。出会い当初のような接触をされたわけでもない。怖いと感じるのは彼の雰囲気だ。
黄瀬はのらりくらりと好きなように話すだけで重要なことは何も話さない。火神のことを知りたくはないかと持ちかけてきたのに、結局今日まで何も言ってくれなかった。ならばと此方から聞けば、途端に機嫌を悪くし表情を落とす。
ピリピリと肌に痛い空気を纏って沈黙する彼は、それでも室を絶対に出て行ったりしない。只管黒子の髪を梳いて、頬を撫でる。空気に怯え、視線を彷徨わせる黒子を眺め、そうして漸く黄瀬は機嫌を直しこの室から出て行くのだ。
黒子にはあの人間が何をしたいのか全く分からなかった。一説にある不老不死を信じて自分を食べるのかと問えば、彼はそれを否定した。ならば、人間からすれば伝説の存在を飼育でもしたいだろうか。尋ねはしなかったが、こんな檻を作るぐらいだから、それが一番有力なのかもしれない。
そんなことを考えていれば黒子の目の前が滲みだす。

「……ふぅ、っ」

瞼を閉じれば涙が水に溶けていく。声を殺すように嗚咽を漏らし、黒子は泣いた。
自分はいい。人間と関わったのは紛れもなく自分の意思なのだから。例えこの先どうなろうとも、自らの浅薄が招いた自業自得なのだと受け入れよう。けれど、黒子の身代わりのように囚われた弟は別だ。あの子を巻き込むのは冗談ではない。念には念を入れて黄瀬に尋ねたりはしなかったが、緑間のこともある。もしかしたら彼も同様に捕まっているのかもしれない。そうなると巻き込むのは弟だけではないということだ。
黒子は自分の愚かしさに顔を覆った。
その時、背後の檻を叩く振動を受け黒子は振り返った。そこにはいつかのようにへらりと笑って手を振る黄瀬がいた。


第一王子の従者、笠松幸男は最近足繁く通う場所がある。そこは別段色めいた場所ではない。どちらかというと、それの反対に当たるような場所だ。
地下に造られたその室の前に立ち、笠松は重い扉を押し開く。
少し前までは此処で人道を疑うような実験が繰り返されていたが、それも今はない。当の研究者たちが既に亡いからだ。
死臭が鼻に突くと思うのは、その実験を目の当たりにし続けた所為か。それとも、研究者たちを一人残らず、この手で始末したせいだろうか。笠松は鼻孔を塞ぐように手の甲を当てる。
広々とした室にここぞとばかりに詰め込まれた様々な機械。細胞を摂取するのだと、いつかに実験対象を寝かせていた手術台。生体を調べるのだと投与し続けた毒のような薬品の棚。その他の備品が揃えられた棚を抜けて行けば、室の奥に辿り着く。そこにあるのは、大の大人が丸まって漸く収まりきる小さな水槽が一つ。
勿論、そんな窮屈な中にいるのは、笠松の主人の掌中の珠ではない。いるのは、最初に捕えた人魚だ。
人魚は容貌や体型が変化した反動にか、その直後に目を覚ました。覚醒後、あまりにも暴れるので研究者たちは人間が服用する睡眠薬を人魚に呑ませたらしい。だが、人間と人魚とでは薬の効力があまりに違うらしく、人魚はそれ以来虚脱に囚われることになった。たとえ、治癒力を見るためにと細胞を切り取られても、毒薬を投与されても、人魚が何らかの反応を返すことは一切なかった。
研究が止んだ今も、人魚は虚ろに双眸を開いているだけだ。毎日人魚に会いに来ている笠松のことも見えていないだろう。というよりも、そこに何かがいるということも、認知できていないのだろう。
鉛玉を呑みこんだように胃の辺りが重い。例え相手が人間ではなく異形と称せる人魚だとしても、これでは余りに非道徳的だと良心の呵責でもあるのだろうか。笠松は胃を一撫でして頭を掻き毟った。
(今更じゃねぇかッ)
そう、今更だ。今まで笠松は第一王子の影として幾人もの人間を鬼籍に刻み込んできた。勿論、それは主がいつの日かこの国の至高の座に就く為にだ。だが、崇高な大義を掲げても、自分が血に塗れている事実は変わらない。そんな人間が、今更、良心の呵責か。
(だいたい、良心の呵責ごときじゃ死人は蘇りゃしねーし、あの人魚も、元にはもどりゃしねーよ……)
自分の甘い思慮に笠松は苦々しく溜息を吐いた。
重い足取りで件の水槽の前に辿り着くと、そこには先客がいた。懐かしい友の後ろ姿だった。
友は水槽の中で丸まった人魚をじっと見ていた。

「よお、久しぶりだな、高尾」

襟の高い黒衣を纏った背にそう声を掛ければ、彼は振り向くことなく、ただ手を振って笠松に応えた。
らしくないない様子に笠松は頭を傾げた。笠松は歩み寄り、高尾の隣で立ち止まる。そうして、漸く彼の首元に巻かれた包帯に気が付いた。

「どうしたんだ、その首……」

目を瞠り、笠松は問うた。だが、高尾は何も答えず、首を竦めるだけだった。
笠松は最悪の事態を思い至り、隣にある肩を咄嗟に引いた。

「まさか、王子に声帯潰されたのかっ!?」

蒼褪める笠松の脳裏に過ったのは、数日前のこと。
海の魔法学について遊学に出てくると言った高尾は、それでも毎日顔を見せに来ていた。それが遊学を許可する条件であったからだ。
女性体から男性体へと人魚が変化し、研究者共々黄瀬まで慌てていたその時も、高尾は顔を見せに来ていた。

『あっちゃー、やっぱそうかー』

その時、高尾はそう漏らした。聞き漏らすことなく、確りとその音を拾った黄瀬は高尾の胸元を締め上げ、問いただした。黄瀬の形相に気押された高尾は隠された真実を喋り出した。
黄瀬が望んでいた少女の人魚の身代わりになる為、赤髪の人魚が他者に擬似する魔法薬を飲んでいたのだと。つまり、変化したのではなく、元に戻ったのだと。
それを聞いた黄瀬は容赦なく高尾の首を締め上げた。

『アンタか。アンタがそんな薬を作ったのか……んな薬なんて作らなきゃあの子がオレに会いに来てくれたのにッ』

血の気がどんどん引いていく高尾から黄瀬を雁字搦めて引き離したのは笠松だった。だが、黄瀬は笠松よりも背丈がある。当然、力も黄瀬の方があった。振り解こうと思えば恐らくは振り解けただろう。だが、黄瀬はその場で高尾を睨み据えていた。昏く鈍光る双眸で高尾を睨み据え、凍て付くような声音で言ったのだ。

『あの子、連れてこい。どんな手段を使っても、オレの下に連れてこい』

あの時の黄瀬を省みれば、高尾の声帯くらい潰してもおかしくはないと笠松には思えた。
だが、高尾は虚を突かれた顔をして、次には笑って手を振りそれを否定した。

「オレが二日前にオヒメサマ連れて来たの、まだ知らない?」

そんなことは初耳だった。いや、だがそういえば此処二、三日黄瀬は珍しいほど上機嫌だった。なるほど、そういう裏があったのかと笠松は納得したように頷いた。
だが、だとすれば、高尾の首の怪我はなんなのか。笠松は目を眇めて続きを促す。

「その顔は初耳ー?」

揶揄する音に笠松は溜息を吐く。毎日毎時間、常に主と共にいるわけではない。どんな秘め事も共有しているわけではない。そんなことは高尾だって知っているだろう、そんな文句を口の中で噛み殺す。音にしてしまえば訊きたいことが遠くなる。

「どーやって連れて来たんだよ……」

呆れと疲れが混雑した声音に高尾は笠松を一瞥する。そして、水槽の中の人魚を顎で指した。

「オヒメサマの身近な人魚に変化して、この人魚を助けに行くように仕向けてみたのよ。んで、王宮に続く洞穴まで連れてきたはいいんだけどさ、なーんかオヒメサマ、オレの姿に違和感あったみたいで。変化してることバレたら怪しんで逃げられるだろうし?オヒメサマに逃げられたらオレ今度こそオージに殺されちゃうし。ってなわけで、本格的にバレる前に睡眠薬使って眠ってもらっちゃって、使い魔飛ばしてオージに迎えに来てもらったんだよ。そん時、オヒメサマ意識ないから沈んでいかないように捕まえてたんだけどさー、オージはその程度の接触すら気に食わなかったらしくって、咽喉を薄らと切られちゃったってわけ。ま、かるーいお仕置きだな」

喋ると振動で痛いんだ、と訴えた高尾は口を引き結び、視線を人魚に戻す。
笠松は釣られるように痛ましい人魚へと視線をやる。今日もまた、人魚は虚脱な表情をし、笠松を認知しない。分かり切ったことだと溜息を吐き、そう言えばと隣へと視線を向けた。
高尾はたった一人で此処にいた。珍しいことだ。彼はよく使い魔と共に行動しているのに。そんな笠松の考えが分かったのか、高尾は口を開いた。

「使い魔ちゃん、死んじゃった。幸ちゃんにも忠告しといたげる。青はオヒメサマの為の色みたいだから、使わない方がいいよ」

―――でも、まあ、これ以降は機嫌がいいだろうから、青を纏っただけで殺されることはないだろうけど、ね。
音のないその呟きを見てとった笠松は溜息を吐き、そうだな、と答えた。
(あいつのゴキゲンの素は、もう、何処にも行けないだろうからな……)
その証拠に、笠松は友の顔を見ることができた。魔法使いである、友の顔を。





「あの、どこに……」

黄瀬に抱き上げられたまま黒子は水の檻から出された。階を危うげなく下りていく黄瀬の腕の中で黒子は縮こまっていた。
水中とは違い、陸地では身体に掛かる重みが少なかった。だが、決して心地がいいわけではない。寧ろ、黒子からすれば、今すぐにでも水の檻に舞い戻りたいほど不快だった。
水中でしか生きられない自分を、黄瀬は何処に連れて行こうというのか。尋ねてみても、自分を抱き上げる人間は上機嫌に笑って見せるだけだった。
辿り着いたのは、広い湯殿だった。湯船には湯気も立たない、水が薄らと張ってある。
黄瀬は服が濡れるのも構わずその湯船に跪き、黒子を恭しく横倒わせるように下ろした。
腹を跨ぎ、顔を寄せてくる人間の手が黒子の頬を撫でる。影に埋もれる中で黒子は居心地の悪さに後退さろうとするが、水が少な過ぎて動けない。

「どうしたんスか、黒子っち」

「も、戻してください」

せめてこれ以上近づいて来ないようにと黄瀬の肩に手を伸ばせば、彼は笑ってどうしたの、と尋ねてくる。
額に掛かる髪を後ろに流す手指から逃げ、水の檻に戻してと願えば、黄瀬は妙なことを言った。戻る必要はない、と。

「やっとね、出来たんスよ。お薬」

「くす、り?」

細い背に腕を回した黄瀬が笑う。近くなった小奇麗な顔がゆっくりと寄せられ、黒子は逃げるように顔を背けた。こめかみに柔らかいものが押し付けられ、生温かい熱が這う。それはねっとりと黒子の顔を這って鼻頭をくすぐった。

「ひゃっ」

びくりと身体を震わせた黒子に、ふふと咽喉を震わせて黄瀬は笑う。

「お薬。黒子っちが人間になる、魔法の、オクスリっス」

「……え?」

黒子は何を言われたのか理解できず、一瞬思考を停止した。だが、目の前で黄瀬が小さな瓶を仰いでいるのを見て、慌てた。
腕の力だけで黒子は何とか逃げ出そうとするが、黄瀬の脚に尾鰭が絡められていて動けなかった。それでも、黒子は水を掴むように足掻くことを止めない。人間にはなりたくなかった。黒子は海に帰りたかった。

「ぃや、いや……いやッ!!」

だが、強い力で額と顎を固定され、唇が無情にも重ねられる。
噛み締めた唇を指で無理矢理割られ、隙間から舌が差し込まれる。口腔に液体が流れこんでくるのを感じ取り黒子はくぐもった悲鳴を上げた。我武者羅に手を動かし、黄瀬を殴りつけるように退かそうとする。けれど、黄瀬は怯む様子も見せず、黒子の唇を塞ぎ、尚且つその内をやんわりと荒らす。
敗者は黒子だった。息苦しさにこくりと喉を鳴らし、黒子は流し込まれたモノを体内へと送ってしまった。唇が放され、黄瀬の指が濡れたそこを拭っても黒子は瞠目したまま反応できなかった。

「あ、ぁあ、ぁ、……ッ!」

黒子は震える手で、音にならない悲鳴を上げる咽喉を狂乱したように掻き毟った。








人魚姫

この手の届かない海になんて、二度と帰らせない







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