ごん、ごん、ごん、ごん―――コン。
断絶的に響くノック音に初めて音が返ってきた。最初はそれが信じられず、黒子は拳を扉に添わせたまま瞬くことしか出来なかった。

「かがみ、くん?」

「……生憎だが、違うのだよ」

その声と口調には聞き覚えがある。幼い頃より付き合いのある友人なのだ、当然だ。だが、今求めているのはその声ではないのだと、黒子は落胆に言葉を失う。

「黒子、そこを退くのだよ。鍵は、外した」

尾鰭を動かすだけの気力もなく、黒子は座り込んだまま腕で這うように部屋の中心に寄る。
ゆっくりと開かれる扉から、覗いた姿はやはり、その友だった。

「みどりま、くん……」

「馬鹿が。だから、お前の運勢は最悪だと言っただろう」

「……かがみくんは」

力なくそう問えば、緑間はモノクルの奥の目を細め、案ずる色合いの瞳から視線を逸らした。
黒子は思わず息を呑み、そして、緑間に駆け寄り問い詰めた。

「火神くんは、火神くんは?」

「陸の一族に連れて行かれた。既に、昨日のことだ」

「そんな……」

黒子は顔を両手で覆い、項垂れる。どうしよう、どうすればいい。連れて行かれたのなら、そこは何処だ。まだ、弟は生きているのか。様々に思考を巡らせ、黒子は再び緑間の胸元に縋り付いた。

「占ってください、火神くんの居場所を。助けに行きますっ」

唇を震わせて懇願すれば、友は視線をずらし、縋り付く手を振り解いた。今の今まで緑間が自分の頼みを断ったことはなかった。だから、その答えは黒子に酷い打撃を与えた。
黒子は瞳を彷徨わせ、淡い色の髪を掻きあげた。

「勝手な解釈をするな。お前のことだろうから、そう言うと思って既に調べておいたのだよ。精々オレに感謝することだ」

そう言って緑間は最短の道での案内まで買って出てくれた。黒子は危ないからと一度は断ったが、お前の粕のような体力で辿りつけても、そこから弟を助けられるのか、と問われれば黙るしかない。叶う限り確実に、そして安全に、弟を助けたいのだから。


「ここですか?」

黒子は崖の上に建つバルコニーを見つめ、緑間に尋ねた。緑間は頷き、崖にぽっかりと空いた岩穴に隠れるように黒子を引っ張っていく。
其処は船の乗降場であるようで、四、五人用の船が三隻あった。暗くてよく見えないが、奥へと続く階段らしいそれは恐らく例のバルコニーの建物と繋がっているのだろう。

「占いでは、此処から弟がいる場所まで行けると出た」

元々、黒子は占いのような不確かなものが嫌いであるが、緑間の占いは確かな実績がある。先日の黒子のことだけではなく、他にもいろいろあるのだ。だからこそ、信用に値することを黒子は知っていた。そして、今は緑間のそれが一番の頼りになることも。
火神がこの先にいることは分かった。
だが、そうなると問題が出てくる。海の一族である自分がどうやって陸に上がればいいのだろうか。それに天が定めた掟もある。
火神は陸に無理矢理上げられたところを連れて行かれたので、天が定めた領域侵犯には当たらないだろう。だが、黒子は今から自分の意志で陸の領域を侵そうとしている。

「深く考える必要はないな。お前は珠を陸の者に盗られている。珠がなくては、オレたちは生きていけない。つまり、オレたちは生きるために陸へ侵入することになる。情の象徴の月ならば、譲歩するだけの材料だ」

そう言えばそうだった。弟が攫われた事実に珠のことを忘れていた。黒子はよく思いついたものだと友を感心するように見つめた。
だが、不意に黒子の中で一つ疑問が生まれた。

「ボクの珠のこと、何で知っているんですか?」

「間抜けにも奪われたお前の珠を人間から取り戻したいと、弟がオレに助力を求めてきたからに決まっているのだよ―――どうした?」

黒子はふと、何かを見落としている気がした。何か重大なものを。けれど、それが何かは分からず、黒子の顔は強張る。その様子に緑間は目を細め、どうしたと問うてくる。暫し悩んだ後、黒子はなんでもないと頭を振った。だが、それでも、警鐘のようなそれを見過ごすことができなかった。

「侵入するのは夜も更けた頃にするとしよう。それまで休みがてらに頭を整理するといいのだよ。ついでに、侵入する方法は既にある。心配しなくていい」

緑間はそう言ってベビーブルーの頭をくしゃりと撫でる。彼がよくする仕種だ。けれど黒子の中で違和感が溢れてくる。
緑間は、こんな手付きだったろうか。何かが、いつもと違う気がしてならない。だが、確信が持てず、黒子は疲れたようにこめかみを揉みこんだ。
そんなことをしていると、目の前に小さな瓶を翳された。それを手に取り、黒子は差し出してきた緑間を見上げる。

「随分長い間泳いできたからな、疲れているはずだ。お前も飲んでおけ」

その言からすると、小瓶の中身は疲労回復系統の魔法薬なのだろう。
緑間は岩場に手をつきながら、小瓶を一気に仰いだ。
彼が作る魔法薬は大概が苦い。恐らくそれもそうなのだろう、緑間は盛大に顔を歪めた。黒子は手の中の小瓶と緑間を交互に見やり、自身も小瓶を仰いだ。





夜半、幾つもの篝火に照らされた王宮区域の中、崖の上に立つ第一皇子の離れはひっそりとしていた。
離れの最奥に位置する広々とした一室で、黄瀬は褥に横倒わり、天蓋見つめていた。だが、その内変わり映えのしない光景に飽き、溜息を一つ落とし、ゆっくりと身体を起こす。
周囲を見渡せば、黄瀬の目に入ってくるのは全て瀟洒な家具ばかり。海側に位置する窓は特別製のガラスの嵌め殺しではあるが、大きいので陽光は取りやすい。黄瀬が座している褥も柔らかな肢体を痛めないようにと国宝級の職人が最高級の素材で作ったものを取り寄せた。天井には美しいベビーブルーを和ませるように絵を描かせた。壁一面には書棚を作らせ、その棚が埋まるほど珍しい本や各国の小説も集めてみた。褥の横には縦十五尺、幅十尺、横三十尺の大きな水槽。
すべて。すべて、あの子のためだ。
黄瀬はあの子を必ず人間にするつもりであったが、後遺症も分からない魔法薬を直ぐ様飲ませる気はなかった。だから、実験を繰り返して成功品だと思えるものが出るまではこの水槽で我慢してもらうつもりだった。
楽しみだった。あの子が自分のそばにいるという未来が、直ぐそこにあった。三日前までは。

「でも、いない。いるのは、あの人魚だけだ」

昨日、いや、すでに一昨日か。捕まえた人魚は王宮について数時間後、容貌も体型も変化し、男性体の人魚となった。最初はあの子もこうなるのかと黄瀬は慌てたが、とある筋によりそれは否定された。
それはそれで解決してよかった。だが、次はどうやってあの子を捕まえればいいのかと黄瀬は頭を悩ませた。あの子の瞳と同色の珠を黄瀬が持ち続ける限り、接点があるとは思うが、それが現実になるかは分からない。
黄瀬は胸元を探り、珠を取り出す。コロコロと掌で転がしたそれを口に含み、再び褥に横になった。
海に網を掛けて人魚をすべて捕まえてみるか。
(いや、でも、人魚は深海に棲む生き物っスよね。網が届く海域にはそうそう出てこないし……)
なら、あの人魚の血を海にばらまくか。鮫は嗅覚が鋭いというし、もしかしたら人魚も仲間の血には敏感かもしれない。
(だめだ。もしそれであの子が来てもなんかスンゲー腹が立って何するかわかんねぇっス)

「大体、あの人魚ってまだ生きてんスかね」

捕まえた後、あの子が病気を起こした時の為、人魚に関するデータを逐一取らせている。所謂人間にしたら、人体実験と取られるようなものも、あの研究者たちならしているのではないだろうか。
珠をねぶりながら黄瀬はあの人魚を嘲笑する。馬鹿な奴だと。
とある節、というのが親切にも教えてくれた。捕まえた男性体の人魚はあの子を守るため、態々あの子に疑似する魔法薬を飲み自分に会いに来たということを。
(本当馬鹿で虫唾が走る奴だよね、あの人魚)
黄瀬は珠を甘く食みながら、目を剣呑に細める。一時の激情に珠を噛み砕かぬように珠を口から取り出し、胸元にしまう。動作は慈しみが溢れているのに、どうしても瞳に宿る苛立ちが消えない。
それだけ、あの魔法薬というのは実に素晴らしい物だった。作り手でもある『とある節』の人物を、黄瀬は絞め殺そうかどうか一瞬本気で迷ったくらいだ。あの子を人間にするには『とある節』が必要になるという事実すら忘れて。
そうまで怒りを示す理由は勿論、あの擬似を黄瀬がうまく見破れなかったからだ。もしも、あの子の髪だけが海の中で光る性質でなかったら、黄瀬はあの存在を訝しんだりしなかった。口調は可笑しいものではあったけれど、そういうのも可愛いと呑気に思っていたかもしれない。
腹立たしい。本当に腹立たしい。黄瀬は苛立ち舌打つ。
剣呑な空気が支配する一室の扉が不意にノックされる。黄瀬が了承を示すと、入ってきたのは従者の笠松だった。

「どうかしたっスかー?」

「どうかじゃねぇだろう。もうそろそろ、止めさせたらどうだ」

苦虫を噛んだような声音に黄瀬は目を細めた。言っている意味がよくわからないのだ。長い付き合いの従者は主人が何を考えているかわかったのだろう、褥に歩み寄り口を開いた。

「あの実験だ。人魚が死んじまうぞ」

「まだ生きてたんスね。でも、まあ、いいんじゃないっスか。だって、むかつくんスよね、あの人魚。人の恋路を邪魔しやがって」

自身の苛立ちを宥めるように胸元の珠を撫でながら、黄瀬は身体を起こす。
褥に片足だけ立て、その膝に顎を乗せて笠松に微笑んで見せれば、少しばかり正義感の強い彼の癇に障ったのだろう。笠松の顔が歪んだ。

「お前なっ」

怒りに震える笠松の声。それを聞きながら黄瀬は胸奥で溜息を吐く。
表面では笑ってはいても、口調が荒れていることから、黄瀬の機嫌が下降していると彼ならわかるのだろうに。何故、その下降を助けるような真似をするのだろうか、この従者は。
苛立ちが募り、黄瀬は髪を掻き乱し、口を開いた。

「止めなくていいっス。逐一データだけ取らせて、明日には研究者は全員首切って。間違って生かしといたら、あの子にも汚い手ぇ出してきそうだし―――それとも、なんスか、命令に逆らってオレの手に掛かりたいスかね、アンタも」

殺気を纏いつかせて睨みつければ従者は後退り、唇を噛み締めて主人の意志を首肯した。
そのまま去っていくかに思えた笠松は小鳥を一羽、室内に放してから出て行った。
青い小鳥には見覚えがあり、軽く瞠目して黄瀬は指先を伸ばす。小鳥は当然のようにそこにとまる。
ち、ち、ち、と鳴く鳥は首を小刻みに傾げ、黄瀬を見つめていた。
不意に口角を上げた黄瀬は床に捨て置いた剣を拾い上げ、小鳥と共に自身もその部屋から出て行った。








人魚姫

こんなにも焦がれているのに、キミが此処にいない。今はまだ。







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