―――古来より人魚は真珠よりも二回り程大きな珠を持って生まれてくる。その真珠は心の臓にも値するほど重要な役割を持っているらしく、それを失くした人魚は一週間もしないうちに狂い死ぬという。
人間には決して用のないものではあるが、現代、人魚の存在を認識し始めた彼らはこの珠を呑むと不老不死になると愚かにも信じている。
とある本の一説に目を通し、黒子は重々しく溜息を吐いた。手に持っていた本を書棚の脇に返し、指で下段の本をなぞるがそこからは分類が別のものとなっていた。
昨日の暁時、その大事な珠を取られてから黒子は急いで王宮へと戻ってきた。それから、父母にも弟にも顔を見せず、此処に籠って珠に関する書物を漁っていた。
だが、どの書物を見ても黒子を絶望に落とすだけで希望を与えるような綴りはなかった。
「不本意ですが、緑間君の言うことを聞いておけばよかったですね」
不安に痛むこめかみを揉み解し、黒子は瞑目する。どうするか、と自問してみるが答えは決まり切っている。行くしかない。行かなければ珠は取り返せないのだから。珠を取り返せなければ、自分は死ぬしかなくなる。
うっすらと瞼を開き、溜息を吐いたとき、不意に項を這った熱を思い出す。黒子は反射的に項を押さえ、背後を振り返った。
そこには丁度不機嫌そうな弟が立っていた。
「あんだよ」
「え、いえ。キミこそ、なんですか、こんな所へ」
弟は逞しい身体に見合う運動が好きだ。黒子のようにじっと読書をすることは苦手だったはずだ。だから、彼がこの場所に立ち寄ることなど、そう滅多になかった。
「テメェが飯も食わずに此処に籠ってるから、オレが態々持って来てやったんだよっ」
「ああ、すみません。ありがとうございます。……あの、因みに、今は何時ですか?」
不用意に人間を信用し、珠を奪われた。そんなことを弟に知られたくはなくて、黒子の視線が泳ぐ。
今夜にはもう一度、黄瀬と名乗ったあの人間と会わなくてはいけない。暫くは公式行事などないから自由に外に行けるが、この弟は時々過保護になる。珠のことを言えば、きっと身代わりに自分が行くと言って弟は無茶なことをしかねない。
だが、黒子の挙動不審な動作に弟は目を眇め、此方へと詰め寄ってきた。黒子は後退り、けれど背にぶつかった書棚に後がないことを知り、顔を伏せた。
「テメェ、何隠してんだ」
「なにも……」
「はあ?テメェがそんだけ挙動不審な時に何もないことなんて一回もなかっただろうが」
胸元を締めあげて間近で睨みつけてくる弟から視線を逃がせば、がくがくと揺さぶられた。脳が揺れる感覚と息苦しさに、逞しい腕に黒子は縋り付く。
不意に、胸元が解放され、黒子は地べたに座り込んだ。こんなに早く解放されるとは思っておらず、黒子は頭を傾げながら弟を見上げた。
弟は硬い表情でつい先ほど黒子を締め上げていた掌を開閉させていた。二、三度繰り返した後、掌は拳を作り、弟は酷く強い表情で問うた。
「おい、黒子……お前、珠はどうした?」
「おい、おいっ高尾っ。いねぇのかっ」
つい先程まで黒子と話していた弟、火神は王宮から離れた岩場のとある店へ押し入っていた。
店の中は何とも胡散臭いもので溢れているのだが、此処に住む二人はそれ相応の人魚だった。その二人というのが、所謂魔法使い、と呼ばれる存在だった。
姉である黒子から聞き出した失態をなんとかしようと考えれば、まず奴らに頼まなければならない。
黒子は王宮の自室に閉じ込めてきたから、勝手に出られることはない。件の人間と会うのは夜だと言っていたからそう猶予はないと火神は焦り声高々に同じ名を呼んだ。
「うるさいのだよ、弟」
奥から出てきたのは左目にモノクルを掛けた青年だった。
漸く出てきたかと思えば目的の人物とは違い、火神は苛立ちを抑えるように赤い髪を掻き乱す。
この店の主人である青年、緑間は呻く火神を睥睨し、用がないならさっさと出て行けと邪険に告げた。
「ああっ?テメェじゃねぇよ、高尾だ。高尾の奴は何処だ」
「おい、アイツはオレの弟子なのだよ。オレのほうが優れているのに、なぜ奴を頼っている」
「あ、決まってんだろうが、テメェは一々代価を寄越せって言うだろうが」
「当然だ。なぜこのオレが無償で働かねばならん」
だから頼まねぇんだろうが。引き攣る口元をなんとか宥めながらも、火神の瞳は剣呑に尖っていく。同様に緑間の双眸も冷えて、狭い店内で冷戦が勃発しようとしていた。
「た、っだいまー」
今にも殴り合いが始まるかと思われた時、店内に緊張感のない声が響いた。その声と同時に入ってきた人物を二人は見据え、共に溜息を吐きだしそっぽを向いた。どうにも、この男を見るとやる気をなくすというか、目の前の男を殴る気が失せるのだ。
「高尾、借りてくぜ」
火神は帰ってきたばかりの男の腕を掴み、緑間に断りを入れてその場を後にした。
「ちょっとちょっと、オレ今帰ってきたばっかりなんだけどー?」
「うっせぇな、ちょっと手ぇ貸してくれりゃぁそれでいいんだよ」
「また横暴なこと言っちゃってさー」
大体カガミンはさー、と変なあだ名で呼ぶ男の頭を殴りつけ、火神は所望する薬を告げた。
それを聞いた高尾は瞳を眇め、頭を傾げ、目を泳がせ、腕を組み、と長い時間悩んで一つ聞いてきた。
「どうしても欲しいの、それ」
「欲しい」
「いつまでに?」
「あと、四時間で作り上げてほしい」
どん、どん、どん。
断続的に響く扉を叩く音が廊下に響いているはずなのに、誰も来る気配がない。それでも黒子は扉を叩く。こちらからは施錠などしていない。だのに、扉は開かない。弟が、火神が外からなにか仕掛けをしたらしい。
早くしないと夜になってしまう。黄瀬があそこに来て、火神がそこへ行ってしまう。何が目的かもわからないあの人間のもとに、弟が行ってしまう。
黒子は本当に何も喋るつもりはなかった。けれど、火神は最近仲良くなったという緑間の弟子に色々なものを貰っていた。緑間は魔法使いだ。黒子は会ったことはないが、その弟子もまた。当然、貰ったものは全て魔法関連のものだ。意思に反し、秘密を暴く薬も、その中にはあった。
「火神くん」
得体の知らぬ薬を飲まされ、気が付いたら黒子の口は勝手に動いていた。止めようとしても喉は音を紡ぐことを止めなかった。結局すべての真実を吐きだし、漸く口は沈黙した。
「火神くん、戻ってください……」
小さな胸の中でざわざわとした騒ぎが治まらない。黒子は扉に頭を擦りつけて無鉄砲な弟の身を案じる。
果たして今は何時頃だろうか。深海は海の外とは違い、朝も昼も夜も淡い柔らかな光に照らされているから時計でしかわからない。だのに、弟はそれらをすべて取っ払ってしまった。
弟は、無事だろうか。わからない。どうか、無事でいてほしい。そんな願い込めて、黒子はまた扉を打った。
夜も更けた頃、藍の空には薄い月と星が散りばれられ美しく輝いていた。心奪われる情景だというのに、黄瀬は上になど興味を持たず、先日の岩場に腰掛け、眼下の海にばかり目をやっていた。
例の少女は何時頃に現れるだろうか。明確な時間を指定しなかったらからもしかしたら暁時かもしれない。そんなことを考えながら黄瀬は上機嫌に鼻歌を歌う。
普段なら待たされることを嫌うが、あの少女なら構わない。早く会いたいけれど、待つことは決して苦痛ではなかった。
黄瀬は首に掛けたペンダントの珠を手で弄び、舌で舐める。少し塩の味がする。彼女は海の深層に住むのだから、当然なのだけれど。
「でもこんなちいちゃい珠がなくなっただけで人魚は狂い死ぬんスね。不便だね」
彼女と別れたその後、黄瀬は人魚について書かれた書物を全て読んだ。泡を食った慌てように大事なものだと分かったからこそ奪ったのだけれど、命と同等であるとは流石に思わなかった。
だが、黄瀬は幸運だったとしか思っていない。命と同等ということは替えがないのだ。少女はどれだけ嫌がっても自分に会いに来るしかない。
珠を口に含み、舌で愛撫するように転がし、黄瀬は目を閉じる。あの少女が来たら水音で分かるだろう。その時になったら、何を話そうか。どうでもいいなんて、二度と言わせないだけのことを話したい。そうだ、彼女の名前も聞かなくては。それまではこの珠は返せない。
紐を引っ張って珠を口の中から出したとき、丁度水音が響いた。それは小さな小さな音で、辺り静謐さを壊さない、ひっそりとしたものだった。けれど、その音に気が付いた黄瀬はばっと勢いよく身体を起こし、目を凝らして音源を探った。
海の中で物影を一つ見つけ、黄瀬は微笑んだ。ひらりひらりと手を振れば、その影は警戒するように近づいてくる。
流石に一昨日のあれは拙かったのかもしれない。考えれば、見も知らぬ男に痴漢されたのと同義だ。それをまず謝ろうかと考え、不意に黄瀬は目を眇めた。
目の前にいるのは一昨日会った人魚の少女だった。綺麗なベビーブルーの髪に、それよりも少しだけ薄い色の瞳。間違いなく、あの時の少女だった。
「こんばんは、人魚さん」
黄瀬は莞爾を浮かべて昨日のように少女を手招いた。少女はやはり警戒したように、けれど、此方へと近づいてくる。
岩場の間近までやってきた少女は堅い声音で返してとだけ言った。
「返して」
再び紡がれたそれに黄瀬は頭を傾げた。
「何をっスか?」
「とぼけ、ないで、ださい」
「とぼけてないっスけど。だって、君に返すものは何一つない」
「昨日、ぉ、ッ、ボクから奪ったものを、かえ、てください」
黄瀬は少し目を泳がせ、例のペンダントを少女に掲げる。少女は目を見張り、明らかに動揺した様子を見せた。
「これのことスか?」
「そうですっ。それを」
「じゃあ、こっち来てよ」
水面の近くまで岩場を降りた黄瀬に、少女は心なしか後退る。その様に、黄瀬は苛立ち、微かに歯軋りする。
「いらないの?」
声音から感情の色が落ちていく。これ以上苛々させないでほしい。黄瀬はそう念じながら掲げたペンダントを揺らした。
暫くして、少女が少しずつこちらへと泳いできた。ペンダントを取りやすいように少し下げてやると少女は硬い表情でそれに手を伸ばす。
ペンダントに触れるか触れないかの間際で黄瀬はペンダントを器用に掌に巻きつけ、そのまま少女の髪を鷲掴み一息に引き釣り上げ、岩場へと放り投げた。
頭皮を抱え、声も上げられずに蹲る人魚を黄瀬は冷たく見降ろす。
「おいおい、お前あれだけ惚れただのなんだの言ってたくせに、なんだよ、その所業は」
背後から掛けられた声に、肩越しに振り替えると黄瀬の従者である笠松が呆れた顔をしていた。
黄瀬は彼と、蹲る人魚に失笑した。
「オレが言ってた子とは違うっスよ、コレ」
忌々しそうに言い捨て、黄瀬は再びベビーブルーの髪を鷲掴み、細身を宙に浮かせた。
間近で人魚の顔を注視すると腹立たしいほどにあの子に似ている。痛みを訴えるように薄く開いた双眸の色も、肌の色も、やはり酷似している。
けれど、違うのだ。ある一点だけが、件の少女ではないと示している。
腹立たしいのは、その一点がなければ自分はこの紛い物とあの少女との区別がつかないということだ。これほどまでにあの少女を愛しいと思っても、自分には見分けがつかないのだ。
そう考えるとますます眼前の生物が憎たらしい。黄瀬はその心情のまま、人魚を岩場に叩きつけた。
「確かに似てるんっスけどね。全くの別モンスよ。あの子と一緒の顔がもう一つあるなんて、マジでむかつくんスけど。まさか、人魚って全部同じ顔じゃないっスよね。だとしたら、オレ海を干上がらせるっスよ」
背後の従者を睨みつけ、ちゃんと調べておいてと言い捨て、黄瀬は待たせておいた馬車に向かう。
慌てたのは従者だ。先程の一撃で赤い血すら流すこの人魚はどうすればいいのだ。
「お、おい。こいつどうすんだよっ?」
「連れて来て。丁度いいから」
元々、黄瀬は人魚を連れ帰るつもりであったから人が四人入っても窮屈しない水槽を持って来ていた。勿論、それは例の少女の為。だのに、他の存在の為に使わなくてはいけない。それもまた黄瀬の癇に障るのだろう。生憎、笠松には、同じ顔であることに何故ああまで怒りを示す主人の心情までは、分かりはしないけれど。
笠松は残った馬車の元で待機している者を呼び、岩場に蹲る人魚を見つめた。
この人魚はどうなるのだろうか。そう考え、笠松は溜息を落とした。そんなことは考えるまでもない。
人魚と人間は結婚できない。昔語りには結婚したという話があるが、実際には無理だ。特に、一国の王族である、黄瀬は子を成すのは義務だ。人魚と人間では交れないし、たとえ交れたとしても、生まれるのは異形だ。そんな王族を、民も王も認めるわけがない。
だが、笠松の主人である黄瀬は、人魚の少女に傾倒している。それは、怖いほどに。民や王を理由に諦めるとは到底思えない。
第一、陸には、魔法使いという存在がいる。
だとすると、この人魚の行く末は決まっているのだ。