今日は嫌に水が重たい。恐らくは海の外で雨が降っているのだろう。そんなことを考えながら黒子は尾鰭を靡かせ海面へと泳ぐ。
だが、とある領域に差し掛かり、黒子は不意に進むことをやめた。薄いベビーブルーの双眸は海面を捉えている。その向こうにある光も。
「ひかり……船?」
見晴るかすも島影などないこの海域ではそれ以外に光源などない。普段なら月や太陽、星の輝きが考えられるが今日に限ってはそれもない。何故なら、今日は嵐だからだ。
荒立つ水に身体を攫われないように気を配りながら黒子は溜息を落とした。
「朔の日に船を出すなんて、何処の馬鹿でしょうね」
昔から朔の日は月の加護が失われるため海が荒れると言われていた。それは海の一族にだけではなく、陸の一族、つまりは人間にも伝承されていたはずだ。だからこそ、黒子は朔の日に船を出す人間なんて見たことがなかった。今日までは。
「時が移ろい、先人の謂れを無闇に迷信に変えたということですかね……だとしたら、自業自得ですね」
態々馬鹿を助ける義務などない。そう思いながらも黒子は深海へ帰ろうとはしなかった。
小雨程度なら浴びるのも気持ち良さそうだった。それを求め、上へと泳げば海の荒れ具合に外は小雨なのではなく嵐だと気が付いた。これでは水浴びなど出来ないだろうと思いながらも黒子が此処まで来たのは、何かに呼ばれた気がしたからだ。
今も何かに呼ばれているような気がして、黒子は踵を返すことが出来ない。
(なにもなかったら、かえりますから)
深海にいる幼馴染へ言い訳じみた言葉を送り、黒子は尾鰭を靡かせた。向かうは海面。
『お前は今日、最悪の運勢なのだよ。精々王宮で大人しくしていることだ』
渋い顔でそう言った幼馴染。あの言葉が頭から離れず、黒子は幽かに眉を寄せた。
(だいじょうぶですよ。だいじょうぶです、緑間君)
「いや、ほんと、たすかったっス。ありがと、にんぎょさん」
腕の中の人間をどうにか岩場に乗り上げさせれば、彼は息も絶え絶えに礼を言った。
黒子は海に浸りながら彼を眺め、そして、未だ船が浮かんでいるだろう方向を見る。最も遠く離れた此処からでは船影もこの瞳に映りはしないのだけれど。
さて、神の鉄鎚が振り下ろされる中であの船はまだ無事だろうか。結構な頑丈さの船であったから耐えられるとは思うが、よもや沈むことになったら迷惑するのは海の一族だ。
黒子は微かに溜息を吐き、瞳を伏せた。
「人魚さん?」
「なんですか」
「どうかしたっスか?」
聞き慣れぬ称呼にそれでも反応した黒子は疲れたように人間の方へ振り向いた。視線の先では人間は堅い顔で笑っていた。恐らくは過度の疲労と海水に長く浸っていた所為で筋が言うことを聞かないのだろう。
君が乗っていた船が沈没しないか不安なんです、とは流石に言えず黒子はなんでもないとしか答えられなかった。
「ボクはこれで失礼しますので。明け方前には誰か此処を通るはずです。では」
此処にいても自分に出来ることはないと黒子はその場を離れようとした。だが、潜る前に黒子は身体を背後から抱き竦められた。驚愕に目を見開き、直ぐ様背後を振り返ればそこには先ほど岩場に乗り上げさせた人間の小奇麗な顔がある。
「ちょ、なにしてるんですかっ」
「いかないでよ、オレ、一人になるじゃないっスか、嫌っスよ、こんなとこで一人になるの」
疲労の為か人間の腕には大した力は籠っておらず、女の身でも容易に振り払えた。だが、そうすると泳ぐだけの体力が戻っていない人間が溺れてしまうのは目に見えていて、黒子はそれが出来なかった。それに加え、海の一族としては体力のない存在の黒子も、初めて重石を抱えてこれ程の長距離を泳いだことで疲弊していた。
ここで暴れて体力を消耗するより、彼の話し相手になって体力を回復させる方がいいのかもしれない。黒子は暫し考えを巡らせ、人間に頷いた。
彼はその日、自分の不幸を嘆いていた。
彼は今宵で十七歳となった。普通の市民ならば学業を終え就職に頭を悩ませる年代だろう。だが、彼は一国の王族だった。王族は十八となるまでに、その身に課せられた義務を果たさなければならない。所謂、婚約だ。
当然、父王と大臣の企みにより、朔の日であるにも拘わらず、彼は海の上で不特定多数の女とお見合いさせられた。
容姿の良い彼に、数多くの女が群がった。上流階級らしい麗句と流麗な所作は眼に保養となるが、その裏を探れば吐き気がする。誰もが他者を貶めて我こそはと媚を売っているのだから。
空気を読み、相手に合わせ猫を被るのは得意だったが、流石に利己的で腹黒い女の相手は彼でも疲れた。
何とか女たちを巻き、一人になれば今度は暗殺者が現れた。生憎彼は王族として一通りの武術を体得していたのでそうそう殺られることはなかったが。
いつものように暗殺者を伸し、さあ戻ろうかと思ったとき、船が大きく揺れた。反動で彼の体は浮き、船から放り出された。
海に落ちる瞬間、黒に塗り潰された空で、稲光が走った。嵐の到来だった。
最悪だ、と頭を抱えながら彼も何とか泳いでいたが、季節は春、水温は低い。そして、波はどんどん高くなり、荒れていく。どれ程自信がある体力でもすぐに奪われていくのは必至だった。
(マジで最悪。なんっスか、今日のオレの運勢史上最悪だったんすかね)
王族専属の魔法使いが遊学に行ってくると留守の今、真実は知りようもない。どこぞへと遊学に行った、友でもある魔法使いを震える唇で罵り、彼は力尽きた。
次に目が覚めたとき、彼の瞳に映ったのは真っ暗な空とそこから駆け降りてくる光。そして、誰かの、細い腕。重い身体を叱咤して視線をずらせば、自分よりも少し若い少女がいた。暗くて顔はよく見えないけれど、透くようなベビーブルーの髪が綺麗な少女だった。
じっと見据えていれば少女が此方を見た。その少女は酷薄な声音で、言った。
『溺れ死にたくなかったら、動かないでください。面倒ですから』
冷えて感覚のない身体では実感はないが、ここはまだ冷たい海の中なのだろう。だとすると、その海の中に何故この少女がいるのだろうか。彼は頭を悩ませ、ひとつ、思いついた。
『……にん、ぎょ?』
『言ってしまえばそうですが。出来れば海の一族の方がいいです―――それにしても、朔の日に、陸の一族の領域外に入るなんて、君たちは本当に馬鹿ですね』
少女はそれきり黙り、彼が話しかけても答えてはくれなかった。
「ね、人魚さん。名前はなんて言うんっスか。あ、オレは黄瀬っス」
「君に答える義務はありません」
なんとか感覚の戻ってきた掌を緩慢に運動させていた黄瀬は少女の釣れない返答に唇を尖らせた。
「えー。まぁいいや、あんまり煩く言うと海に帰っちゃいそうだし」
「よくわかってるじゃないですか」
「……冗談のつもりだったんだけど」
「生憎、ボクは冗談が好きではありません」
「………」
少女は海に首まで浸かり、瞳を半ば伏せている。どこか物憂げな風情に、帰りたいのだろうかと黄瀬は考え、次の話題を探した。なんとなく、この少女とまだ一緒にいたかった。まだ、繋ぎ止めておきたかった。
肩までしかない少女の淡い色の髪が海に少し広がっていた。それを見据えていた黄瀬はふと気が付いた。
「ねえ、人魚さんたちの髪って海の中では光るものなの?」
「え?」
「だって、ほら」
長い指が差し示した先では、海の中にある少女の髪がこの闇の中でうっすらと光り輝いているようだった。だが、少女は頭を傾げた。
「光って、いますか?」
「少なくとも、人間のオレにはそう見えるっス」
「こういう、髪質なんだと、思いますが」
「ふーん、いいっスね、綺麗でよく似合うっスよ」
見たこともない髪。恐らくは着飾ることに快感を覚える上流階級の女どもが見たら欲しがるだろう。だが、船の中にいたどの女にもこれは不釣り合いだ。暗闇に目が慣れても、少女の顔はよく見えないけれど、似合うのはきっと持ち主の彼女だけだ。
だから黄瀬はそう言ったのだが、彼女は不意に目を逸らし、更に口元を隠すように潜ってしまった。よもや、髪のことでなにか警戒心を出させたのか、と黄瀬は慌てて次の話題を探す。
「そう言えば、さっき言ってたのってどういうことなんスか?」
黄瀬は尋ねてみるが、何を尋ねられているのかわからない少女は当然頭を傾げた。その様子がなんとも可愛らしくて、黄瀬は重い身体をふらつかせながら、もっと水面に近い所へと移動した。
落ちたらどうするのかと訴えてくる瞳に笑い掛け、黄瀬は口を開く。
「ほら、朔の日に、陸の一族の領域外に出るなんてバカだって言ってたじゃん」
彼女は暫し此方を見つめ、知らないんですか、と尋ねた。その言葉の真意が分からず、黄瀬は頭を傾げた。
「この世界は天が作ったものです。天は、海と陸にそれぞれの生あるものを作り上げました。さっき言っていた陸の一族は、つまり君たち人間や、その周りの動物たちです。海の一族は、君が言う人魚である僕や、その他の魚たちのことです」
波の音に打ち消されることのない声音に耳を傾け、黄瀬は少女を見つめる。記憶を呼び起こしているのか、半ば伏せられたその瞳が酷く目を引くのだ。小さな口が薄く開き音を発する度、そちらにも目が行く。辺りが明るかったなら、せめて月が出ている夜であったなら、彼女をよく見れただろうにと黄瀬は少しばかり落ち込む。
ぼうっと黄瀬が見惚れていると、突然少女は口を閉ざした。
「聞く気がないのならこれで失礼してもいいですか」
問い掛けている、というよりは、もう帰りますという勧告だった。
黄瀬は慌てて謝辞を繰り返し口にして何とか少女を引き留めた。
留まりはしたものの、不服そうな少女は心なしか黄瀬から遠退いてしまう。傍に来て欲しい。だが、あまりしつこく言ってしまうと少女は今度こそ海の中へと消えてしまうだろう。
少女と自分の距離はどうしようもなく、黄瀬は話の続きを乞うた。
「天はこの二つの一族に同等の領域を与え、他の一族の領域は不可侵であると定めました。けれど、君たち人間は船を造り、海の一族の領域を知らず侵してしまった。そして、天が怒り、嵐を起こした。けれど、天は同時に悲しみ、涙を流した。天の力が籠った涙は、月になり、情の象徴となった。反対に、天は情を涙で流し出してしまい、残ったのは怒りだけでした。怒りに支配された天は天に非ず、天であったものは、太陽に閉じ込められ、自らが作り出した世界を見守ることを義務付けられました。天を生んだとされる、至高の存在に。そして、月は、君たちが生きるためなら、毎日ではないけれど、海の領域に入ることを許した。太陽の内にいる天であった方は怒ってはいますが、君たちへの加護を強制させられています。だから、君たちは通常はこの領域に入ってこられる。けれど、朔の日は月も太陽の加護もない。あるのは、浄化されない天の怒りと悲しみだけです。だから、この日に陸の一族がどのような理由を持って海の領域に入っても、こうやって嵐が起きるんです。勿論、娯楽目的で領域を侵すと朔の日でなくても嵐がおきます。酷いときは陸で地震が起きているはずです」
なんとも怪しげな話だ。そんな考えが顔に浮かんでいたのだろう、此方を見ていた彼女が溜息を吐いた。黄瀬は慌てて弁明するが、信じてくれるわけもなく、またもや彼女は心なしか後ろへと下がってしまう。
「まって、まってまって。ごめんなさい。マジでごめんなさい」
「いいですよ。仕方がないです。実感しなければわからないことですから」
「怒ってないスか?」
「呆れはしても、怒る理由がありません」
「そ、そうっスか」
嫌われなかったようだと黄瀬は胸を撫で下ろし、相好を崩した。そして、そのまま固まった。
「別にどうでもいいですから」
鼓膜を揺らしたその音を理解し、黄瀬の血の気がざっと音を立てて引いた。別にどうでもいい、ということは、嫌われる以前の問題だ。
空が白んできている。波も収まり、海は穏やかになりつつある。
そちらを眩しそうに見ている少女の顔を、黄瀬は初めて見た。随分幼い容貌をしているが、表情に感情の色が浮かんでいない。それでも、可愛らしい子だった。
ベビーブルーの髪より更に薄い水の色の瞳が此方を見て、何か言おうと口を開いた。
このまま彼女を帰せば、彼女は黄瀬を直ぐ様忘れるだろう。気に留める必要のない存在だ。いつまでも記憶しているはずがない。
このまま帰すことは出来ない。黄瀬は被り慣れた仮面を付け、少女を手招きした。少女は疑心に囚われることなく、此方へと来てくれる。間近へと迫った細身を脇から持ち上げ、自分の膝に座らせると少女はあたふたと慌てた。少しばかり焦りに変化した表情に黄瀬は頬の筋を緩める。
「下ろしてくださいっ」
「うん、ちゃんと下ろしてあげる」
黄瀬はそう言いながら、少女の頭から暴れる尾鰭まで視線を這わす。
掌で首筋を撫でるが、魚のような鰓はない。人間の想像上とは違い着衣された上半身、その少し膨らんだ胸元を避けて撫で下ろす。途中ふと気瀬は手を止め、丁度人間で言うと剣状突起の部分をやんわり撫でた。途端、少女はびくりと身体を震わせ、ついぞ見たこともないほどに暴れだした。
「放してくださいっ!!」
悲痛なほどに叫ぶ少女の身体を両腕で何とか抑え込み、黄瀬は項に顔を埋めた。舌で項を万遍なく舐めれば、少女は背を震わせて声を漏らした。それは酷く、耳に甘い音だった。褥でよく聞く耳障りな婀娜声ではない。
黄瀬はもっと聞きたいと、目的も忘れて細い首筋を食む。舌で服の隙間を割り、白雪のような肌を舐める。ひくりひくりと震える肩を抑え込み、更に侵そうとしたとき、舌に何かが当たった。
それを器用に舌先で手繰り、歯で噛み切る。海に落ちる前に大きな手で受け止めれば、それは思った通り、二寸ほどの綺麗な水色の珠のペンダントだった。
「っあ!」
少女の細腕がペンダントを持つ黄瀬の手を追う。その腕を捉え、黄瀬は少女を海へ帰した。
「返してください!」
海の中の少女は真っ青な顔で黄瀬に手を伸ばす。それに満足した黄瀬はうっそり微笑んだ。
「返してあげるっスよ。オレもこれには興味がないから」
「ならっ」
「でも、返してあげるのは、二日後の夜、此処で。君がオレとまた話をしてくれるんなら、返してあげるっス」
それまではお預け。黄瀬はそう言って、少女に背を向けた。
(訂正、訂正。不幸じゃなくて、すっげー幸運な日っスね)