黒子は暗闇の中を必死に走っていた。左も右も、果ては上も下も認識できないような、その闇の中を。
此処が何処であるかは分からない。分かっているのは、たった一つだけ。黒子は此処に居たくないというだけだ。
休むことなく闇を掻き分けるように進んでいけば、遠くの方に小さな光が見えた。黒子は顔を安堵に歪ませ、走った。走って、走って、そして、光へ小さな手を伸ばした。
光に触れ、助かったと黒子は涙を零した。これであの闇から解放されると。―――から解放されたのだと。黒子は涙で顔を濡らして喜んだ。
だが、次の瞬間、黒子は声を上げた。その音は歓喜にではなく、恐怖と絶望に彩られていた。
(たすけてたすけて、だれか、だれかだれかたすけてっ)


「ぁあああああああああああっ」

黒子はびくりと身体を跳ねつかせて飛び起きた。
乱れた息も整えぬまま黒子は焦ったように周囲を見渡す。眼に映る全てが自室であることを証明した後で黒子は漸く顔の筋を緩めた。
深呼吸をし、黒子は恐怖に震える自分の身体を抱き締める。
不意に、背後に何かがあるような強迫観念を覚え、顔を強張らせて振り向くがそこには壁しかない。そして、ベッド上にも黒子しか居ない。だが、不安はひとつだけではない。窓の外に誰かいるのではないか。違う部屋に誰かいるのではないか。そんな不安から逃れられず黒子は顔を歪めた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょ……」

(根拠がない慰めではない。だって、『彼』は、もういない。彼は昔に戻った。今の彼は僕に興味などない様子を見せた。だから、大丈夫、大丈夫)
繰り返し、繰り返し、黒子は自身に言い聞かせる。そうして、強迫観念は漸く治まりを見せた。
疲労塗れの溜息を吐き出し、黒子は冷や汗で不快な肌を清めようとバスルームへと向かう。
両親は二人揃って海外赴任している為、この部屋は黒子しかいない。高校に入ってからは先程のように夢に魘されることが多くなったので両親の不在は幸いした。出来るなら彼らに余計な心配などかけたくはない。
前髪を掻き上げ、黒子は洗面所で服を脱ぎ落として行く。前にある姿見を目に入れないようにしていたが、不意に手を止めた。
黒子の背筋をまた汗が伝って行く。血の気も下がって行く。唇を震わせ、黒子は姿見に映る自分の姿を横目で見た。
一般男子から見ても小さい胃に比例したこの身体は元々華奢であったが、今では骨が浮き立つほどの痩躯になった。その原因は鏡に映るこの身体に散在する赤い烙印。
放っておけば消えていくはずのソレ。だのに、消える前に新たに捺され続け、決して消えなかったソレ。捺していた『彼』が消えたことで二度と捺されることはないだろう、ソレ。
けれど、本当にそうだろうか。脳内にある嫌な記憶が蘇り、黒子にそう訴えかけてくる。強く、強く。
黒子は壁に寄りかかり、腰が抜けたように座り込んだ。
(……たい、あの、けー、たい……)
赤い烙印を捺された身体をうつすのは、鏡だけではなかった。


通学路で黒子は悶々としていた。どうしたい、という自問に返す答えは決まっている。だが、どうすればいいのかが分からない。
(『アレ』を消さなくては)
モデルをやっている『彼』のことだから携帯にはプライバシーロックが掛けられているはずだ。そのロックを今いる彼に外される前に手を打たなければ、以前の二の舞になるかもしれない。普通なら、『そんなこと』にはならないと黒子も断言できただろうが、実際にその前提があるのだからそうとも言い切れない。
(なんとか、しなくては……なんとか)

「兎に角会いに行って、それで……」

「おい」

ぶつぶつと口の中で呟いていると黒子は声と共に肩を叩かれた。思わず咽喉が引き攣り、瞳は恐怖に染まる。ぎこちなく振り向くと、そこにいたのは予想した人間ではなく、火神だった。
黒子は咽喉を震わせて、安堵の息を零した。それを見咎め、火神は眼を眇める。

「おい、どうした、黒子?」

「……、いえ」

顔を覗き込んでくる火神を見詰め、黒子は気が抜けたように目尻を下げて頭を振る。
火神を嘲っているのではないが、彼を見ていると自分は少し考えすぎなのではないかと思えてくる。黒子は息を吐き出し、小さく表情を崩した。

「いえ……いいえ、なんでもないです」

「そう、か?いや、なら、いいんだけど」

黒子の笑った顔が珍しいのだろう。まじまじと此方を見詰めてくる火神を促し、黒子は先に行く。
早足で横に並んだ火神を見遣り、黒子は兎に角今日彼に会いに行くことを決めた。

「火神君、僕は今日部活を休みますので、カントクに伝言をお願いします」

「あ?なんで」

野暮用です、そう答えようと口を開いた黒子は背後から何かに圧し掛かられてその場に縫い止められた。
ぎゅうっと長い両腕に囲まれた華奢な身体が震えだす。背後にいるのが誰であるか、考えるまでもなく分かる。『彼』はそうするのが好きだった。そして、聞くこの香りは間違いなく彼のモノだ。

「あ?黄瀬じゃねぇーか」

返事のないことに眉を顰めた火神が此方を顧みた。そして、黒子の背後を見て瞠目し、聞きたくなかったその名を音にした。
横目で背後の彼を見れば、その眼差しは火神を射抜いていた。剣呑じみたその色は黒子の記憶にある。『彼』は、記憶をなくす前の黄瀬は黒子が火神といるとそんな眼をした。火神に対しても、黒子に対しても。
まさか記憶が戻ったのか。黒子は不安に瞳を揺らす。震える口唇を噛み締めて黄瀬の反応を待っていたが、彼は不意に火神から視線を外し、此方を見た。
何を言われるのかと身を硬くした黒子に黄瀬は笑いかけ、おはよう、と挨拶を落としてきた。

「……え?」

「おはよう、黒子」

口調も呼称も昨日のまま。黄瀬特有のそれではない。本当に戻っていないのか、それとも、此方の油断を誘うただの演技か。見当がつかず困惑する一方の黒子に黄瀬は首を傾げて見せた。

「黒子?どうかした?」

「え、いえ、あ、おはよう、ございます……」

たどたどしくもそう答えると黄瀬は破顔一笑した。それが中学時代の黄瀬と重なり黒子はひくりと身体を震わせた。思い出したのは、『あの』黄瀬ではない。そうなる前の黄瀬だ。
だが、黒子の背筋がぞくりと騒ぐ。
そして、その背筋は更にざわめく。

「ね、なくした記憶を取り戻すのにちょっと協力してくんない?」

黄瀬が落としたその一言と、そこに浮かんだ見慣れた莞爾に。





絡めた指は自分のものより随分と小さい。借りているマンションへ戻る道中、黄瀬はその可愛らしい指を無意識に愛撫するように撫でる。
黄瀬も背後にいる黒子も無言だったから手持ち無沙汰の所為もあったのだろう。撫でる度にぴくぴく反応する黒子に黄瀬は知らず口角を吊り上げた。
黄瀬の機嫌は今でこそ悪くはないが、当初は決して良くもなかった。それもこれも、背後の黒子が黄瀬と並ぶような長身の赤髪男と話していたからだ。尚且つ、安心したように笑っていたからだ。
昨日笠松からの得た情報によると、黒子とは一年時に同級だったらしい。だが、中学の入学式前後の記憶しかない黄瀬は彼を知らなかった。恐らくはもう少し後に黒子とは仲が良くなったのだろう。そのときはどういう目的であったのかは知らないが。ともかく、彼についての黄瀬の記憶は昨日のものが全て。そして、いずれの彼も黄瀬に対して怯えていた。間違っても、赤髪男に向けたような笑みを向けたりはしなかった。その事実が黄瀬は腹立たしかった。
本当はあの赤髪男を全身血塗れにしたかったが、記憶喪失の黄瀬の協力を黒子に促して此方の計画に一役買ってくれたこともあるので、今回は見逃そう。
黄瀬の借りているマンションがどんどん目前になる。エントランスに入り、侵入者を拒む特別性の強化ガラス扉を開くパスワードを打ち込む。その敷居を跨ぎ、黄瀬は耳に馴染んだメロディを小さく口ずさんだ。
途端、黄瀬は後ろも手を引っ張られた。口を閉ざして振り返った先には、敷居を丁度踏みしめている黒子が瞳を揺らし、そこで立ち往生している。

「きおく、もどって、ないんですよね?」

「戻ってないよ、なんにも」

震える声、泣きそうに揺れる瞳が肯定を求めていた。だから、黄瀬は笑って頷いた。だが、黒子は更に顔をくしゃりと歪め、助けを求めるように瞳を泳がせた。

「やっぱりちゅうがくのちーむめいとにあいにいきましょう。そっちのほうがいいです」

「そんな奴らはいいんだ。いらないんだ。黒子だけでいい。協力してくれるのは」

一歩半離れた蒼い瞳は一層に泳いでこの現実から逃げ出そうと足掻いている。その蒼の中で自分が凶悪な顔で笑っているのを見つけ、黄瀬は溜息を吐いた。途端、ひくりと肩を震わせて黒子は焦ったようにポケットから携帯を取り出す。
逃亡措置として繋いでいた手を黄瀬が引けば、身体は易々と傾き、ガラス扉は閉ざされた。黒子はそれを見詰め、傾いた身体を受け止めた黄瀬を見上げた。
黄瀬は莞爾を浮かべ小さな手に収まる携帯を取り上げる。そのまま黒子の手を引きエレベータに乗る。自室がある階のボタンを押せば、鉄の箱は勝手に上がっていく。その合間に取り上げた携帯を操作する。

「きせくん、きせくん、きせ、くん」

黒子は抵抗しない代わりに称呼し続ける。携帯の画面から目を離さない黄瀬は返事をしない代わりに小さな手を握り込んだ。

「オレの携帯ってさ、『黒子っち』しかアドレスがないんだよねぇ」

相変わらず黄瀬の視線は携帯の画面に奪われていた。そこに連なる知らない名に。
エレベータの扉が開き、黄瀬は漸く視線を上げ、黒子の手を引き自室へと歩き出す。程なくして、着いた自室への扉の施錠を外し、黒子を自分の領域へと招く。
だが、黒子は怯えたように瞳を泳がせたまま動かない。黄瀬は一拍沈黙し、口を開いた。

「オレの携帯ってさ、『黒子っち』しかアドレスないんだよね?でも、黒子の携帯には一杯あるね?メールを送信できる、アドレス」

そう言って蒼の眼前に黄瀬は自分の携帯を開いたままで掲げた。
途端、黒子は悲痛に顔を歪ませ、口唇を戦慄かせた。

「じゃあ、どうぞ、『黒子っち』?」









蜘蛛の糸

 夢の中の光はこの身を囚えた







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