笠松は一人、廊下を歩いていた。手には部活の後輩である男子生徒の荷物とIHの予選のトーナメント表。薄っぺらい紙を見つめ、名立たる強豪校をどう潰していくかと頭を悩ませる。
笠松が通う海常は決して弱くない。IHにも常連の強豪校だ。だが、つい最近新設校との練習試合で負けて以来なにやら中弛みしているようで笠松と監督は部員全体の士気を注意していた。

「たく、キセキの一人をゲットしたからって浮かれてんじゃねーのか?」

ぶつぶつとぼやいていても足は忠実に目的地まで笠松を連れて来てくれた。
保健室、と書かれたプレートを見詰め、笠松は溜息を吐く。
(一番、中弛みしてんのは、こいつだな)
笠松は手に持つ荷物を見遣り、また溜息を吐く。
此処にはついさっき部活中の事故で気絶した後輩がいる。その後輩と言うのが、当のキセキの一員なのだが。彼は件の練習試合以降苛々して乱暴なプレイを見せるようになった。仲間を省みず、苛立ちを吐き出すようにワンマンプレイをする。そして、今回の事故が起こった。
苛立つ黄瀬の気持ちも分かるが、後輩に非があるのは明白。だから、何度も何度も注意を重ねた。そして、今回も監督ではなく、キャプテンの自分が注意しなくてはいけない。なんとなく、損な役割だと笠松は思う。
此処で足を止めていても仕方がないし、自分は部活にも戻らなくてはいけない。笠松は戸を引き、中へと入って行った。
だが、その足は保健室の敷居を跨ぎ、直ぐに止まった。まだ寝ているだろうと思っていた黄瀬が既に起きていたからだ。彼は練習着姿で薬品棚の前でガラスに映った自分の顔を眺めていた。一瞬だけこちらを見たが直ぐにその視線は戻る。
笠松は少しばかり瞠目し、直ぐに後輩の下へ歩み寄った。

「馬鹿野郎、まだ寝てろ。脳震盪起こしたんだぞ」

いつもの様に背中を足蹴にしてやろうとしたら、その足が黄瀬の足に因って払われた。思わぬ反撃に笠松は瞠目する。
黄瀬は此方を冷たく一瞥し、そして、こう言った。

「アンタ、誰?」





部活が終わり、夕暮れに差し掛かるその時、黒子の携帯が震えた。その振動にひくりと身体を引き攣らせ、それでも出ないわけにもいかず携帯を手にする。サブ画面に表示されているのは見慣れた名だった。声も聞いていなのに冷や汗が背を伝い、血の気が下がっていくのが分かる。
黒子は躊躇しつつも受話のボタンを押す。其処から流れてくる音を拾うために耳を押し付ければ、流れてきたのは予想もしなかった声だった。

「えーと、透明少年だよな?悪い、海常の笠松だけど、分かるか?」

(なんで、この番号から?)
黒子は無意識に引き攣っていた咽喉を擦る。下がっていた血の気が少しずつ巡り始めていく心地がした。正直、『彼』の声を聞かずに済んで安堵した。

「……はい、分かりますが」

「ああ、悪い、ちょっと緊急事態でな。黄瀬の携帯を借りてんだ。で、ちょっと、透明少年に頼みがあんだけど、いいか?」

「頼み、ですか?」

電話の相手と本来の電話の持ち主の関係上、余りいい予感がしない言葉だった。黒子は淀む心を宥め、続きを促す。

「詳しくは道中で話すから、そのまま学校から出てきてくんねぇか?今、誠凛の前にいるんだ。白い乗用車にいるから」

そう言って電話は切られた。これでは断るに断れない。胃がキリキリと痛むような心地に溜息を吐き、黒子は重い足を踏み出した。
校門を出れば笠松が言っていた白の乗用車は直ぐに見つかった。運転席に海常の監督、後部座席に笠松。そして黄瀬。
見慣れた元チームメイトの姿に黒子の足が竦む。巡り始めていた血の気がまたもや下がり、背中は冷や汗に濡れる。このまま立ち去ろうか、そんな愚考が竦んで動かない足に強く語りかける。だが、黒子に気が付いた笠松が車から降りて逃亡は出来なくなった。

「悪いな、取り敢えず、乗ってくれ」

「あ、の……」

「ん、なんだ?」

よもや。まさか。そんな、考えが黒子の頭の中をぐるぐると回る。だが、その考えは決して浅慮ではないと言い切れた。だって、相手は黄瀬だ。それがないとは限らない。

「おい、透明少年、大丈夫か?顔真っ青だぞ」

「……っは、い」

「兎に角、乗れ」

余程この顔は真っ青なのだろう、笠松は焦ったように今まで自分が座っていた其処に黒子を押し込んだ。
ばたりと音を立てて密室となった空間。直ぐ隣には黄瀬がいて、彼は此方を見ているのか視線を感じる。黒子は震える手を押さえ込むように握り締めた。
だが、珍しいことに黄瀬の視線は直ぐに興味を失ったように外された。

「わりーな、透明少年。気分悪いのに連れて来ちまって」

「あ、いえ。それより、なんの用ですか?」

ルームミラー越しで視線を合わせてくる笠松と、隣で窓を見ている黄瀬を交互に見遣り、黒子は最終的にルームミラーの方に視線を遣ることで落ち着いた。
ルームミラーの中の笠松は顔を歪ませ、歯切れ悪く口を開く。

「あー、その、な」

「オレ記憶喪失になっちゃったみたいなんだよね」

笠松と話していた黒子は思わぬ横槍とその内容に思わず其方を見た。窓の方を向いていたはずの黄瀬はいつの間にか此方を凝視しており、思わず肩が引く。
黄瀬は見慣れた飄々とした表情を削ぎ落とし、人形のような無表情だった。無機質に思えてくるその瞳から逃れようと黒子は前を見て真偽を問う。

「ホントだ。なんっつったけな」

「外傷性の逆行性健忘だ」

診断を思い出そうと首を傾げる笠松に呆れた監督が答えた。
黒子はそれを復唱する。

「黄瀬は中学の入学式あたりの記憶はあるようなんだ。でも、ちょっと問題があってな」

「オレ、今マンションに住んでるらしいじゃん。結構なセキュリティーの。でも、そのセキュリティーの高さが仇になっててね、入り口んとこのさ、パスが分かんなくて入れねぇんだよね。でも、黒子だったらそのパス分かんじゃないかって、その人が言うからさ」

別に知りたかったことではないけれど、確かに黒子はそれを知っている。だが、何故、その事実を笠松が知っているのだろうか。笠松の歯切れの悪さと合わせ、黒子の中で一つの仮定が浮かぶ。途端、血の気がざっと引いた。

「黄瀬が、週末になると透明少年が泊まりに来るってよく言っててな。悪いな、お前の反応からして、黄瀬のこと鬱陶しがってんじゃないかと思って、頼むかどうか迷ったんだけどさ。でも、実家のほうに連絡してみたら、なんかそいつのご両親は海外に旅行中らしくて。連絡つかねーんだ。残念ながら、頼む人間がお前しかいなくってな」

黒子はルームミラー越しに笠松を見詰め、自分の震える手を見た。
(しらない、の、でしょうか)
笠松の言い方ではそう取れるが。黒子はひたりひたりと迫りくる絶望を瞑目して払う。
(どちらにしろ、これは、願ってもない好機です)

「それ、ぐらいなら」

黒子は笠松にそう返した。





その少年を見たとき、心がざわめいた。
医師に記憶喪失と言われても、ああそう、で済ませた黄瀬の心が騒いだのだ。その少年が笠松と名乗った男と話していれば、ざわつくと言うよりも獰猛なケモノが目覚めそうだった。
それでも、少年が自分の隣にその身を落ち着かせれば、それらは沈静された。そうなってくると、彼にも興味が持てず、黄瀬は窓の外へと視線を遣った。
流れていく景色だけを視界に映せば、耳に少年声が届いた。そして、笠松の声も。またもや獰猛なケモノがうなり声を上げ、気が付いたら黄瀬は笠松の声を遮っていた。
笠松と黄瀬を交互に見遣る青い瞳にケモノがまたしてもなりを潜めた。けれど、その瞳が笠松の方へと向けばまたしてもケモノが眼を覚ます。なんとも忙しいことだ。
(それにしても、コイツが『あの』黒子ねぇ)
一見、珍しい色を纏っているが眼を引くのはそれだけで、地味な顔立ちだった。だが、注視すると肌は新雪のように白いし、陶磁のように肌理が細かく滑らかだった。そして、一つ一つのパーツが小さなそこに収まっていて、少年は中性的なかわいらしさがあった。
(でも、オレって面食いするような易い人間だったっけ?)
可愛く見えても、自分がそれだけでこの少年と中学高校と交友関係を続けていたとは黄瀬には思えない。
だが、実際に携帯には『黒子っち』なんて名前がリダイヤル履歴を埋め尽くしていた。メールも彼にばかり送っていた。ただ、その内容が少しばかり気になったのだけど。
黄瀬は黙っている隣の少年を見詰める。
(気になるのは―――ふたぁつ)
視線を外に戻し、黄瀬はうっそりと笑んだ。手に持っている携帯を愛撫するように撫で付けながら。


笠松も監督も、黒子も帰った後、黄瀬は一人自分の一室であるというマンションを探索していた。

「うーん、オレの性格からして絶対にあると思うんだけどなぁ『アレ』。どこだぁ?」

倉庫代わりの部屋から出て次の部屋へと入る。
一際広いこの部屋は寝室だ。家具はクローゼットにキングサイズのベッドだけ。ふと、黄瀬はピンッと張られた黒のシーツを撫で、首を傾げた。だが、それだけで周囲を見渡してその部屋を出て行く。

「寝室はな、あんまり物を置かない主義だしな―――次は、と」

寝室の次は書斎のようだ。値の張りそうな黒色の机を撫で、そこに凭れて黄瀬は部屋を一周見渡した。眼に留まった壁一面の本棚が気になり、床から天井まで見上げる。
黄瀬はそのうちの最上段の本を手に取った。

「はっ、やぁっぱりあった」

本に隠された『それ』を手に取り、黄瀬は満足げに嗤う。我が事ながらこうも簡単に見破れると嘲弄したくなる。見つからなければ、それはそれで腹立つのだけど。黄瀬は苦笑しつつ、最上段の本を全て退け、他に同じようなものがないか探す。
探し物を一通り見つけ終えると『ソレら』は結構な量になった。残さず全て両手に持ち、黄瀬はリビングへと向かう。
ガラスのローテーブルの上に『ソレら』を置き、うち一つを観賞するためデッキにセットし黄瀬は一連の動作をする。黒の革張りソファーに座り、起動待ち時間を潰すためローテーブルに置かれている本を取る。中を見れば、やはり黄瀬の思ったとおりだった。
ぱらり、ぱらりとページを捲っていけば、準備が整い大画面のテレビが明るくなった。
流れてくる画と音に黄瀬は舌舐めずる。

「三年近く経っても、えげつねぇな、相変わらず」

(あれ……?そういや……)
ふと黄瀬はテレビと手の中の本を見比べ、そして足元の黒のラグと黒の革張のソファーを見た。

「おいおい、マジかよ……」

黄瀬は目の前に転がり出た真実に顔を歪めた。だが、考えてみれば、確かに『黄瀬涼太』という人物はそういう性質だ。

「なるほど、ああ、そういうことね」

納得はした。さて、なら、今の自分はどうすべきか。その自問こそを黄瀬は嘲弄した。
気になっていたのは、二つ。黄瀬に対しての過剰な怯えようと。そして、黄瀬の現状を聞いたときの、安堵したような表情。









蜘蛛の糸

 逃げられるとでも?







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