情事後、へとへとになった身体を引き吊り黒子は一人で風呂場へ向かう。
人の身体を良い様に操って熱を発散した黄瀬は寝室で眠りに着いている。念の為と処方された薬の副作用として眠気を催すものがあるらしい。お陰で彼の眼が白い布で覆われてからというものの、黒子は情事中に失神することは一度もなかった。反対に、二、三度熱を放った黄瀬が眠りに着くことが此処最近の常になっていた。
風呂場の扉を開ければ目の前には大きな姿見がある。そこに映し出された自身の痩躯を見て、黒子は今日も息を呑む。鏡に映る現実を拒絶するように、色素の薄い瞳が揺らめいた。細い指で白い首をなぞり、鏡越しに瞳で身体をなぞり、数え切れぬほどに鏤められた赤を確かめる。
病的な勢いで毎日増え続けるそれは、この身が黄瀬に支配されているという証だった。否定したくても、それは変えられぬ事実になりつつあることを黒子は自覚していた。

「なんで―――こんなことに……どうして……」

その答えは、自分にはわからない。
見慣れた綺麗な顔を情けなく崩した莞爾。聞き慣れても心奪われそうなテノール。見慣れた、聞き慣れた、そんな変わらない日常で始まりは落とされた。
恒例となった、彼の一言によって。

『黒子っち、黒子っち、勉強教えてぇ!』

それは、嘗て神の使徒と崇められた存在の聖誕祭前のことだった。





「黒子っち、黒子っち、勉強教えてぇ!」

言葉よりも早く、背後から重い何かが圧し掛かってきた。
テストが終わり、その結果も出た。明日からはいよいよ冬休みのこの時期、一部の人間だけは悲惨な状況に落とされる。冬休み期間に設けられる赤点取得生への補修授業だ。
その一部に入ったことなど一度もない。だのに、その悲惨さをよく知っている黒子は背に圧し掛かる重みに溜息を吐いた。時期的にそろそろだとは思っていた。また彼が来るかもしれないとは思っていたが、やはり来た。
黒子は開いていたお気に入りの著者の単行本を閉ざす。ここで意固地に圧し掛かってきた存在を無視しても煩いだけだと学んでいる。だったら応対する方がまだ面倒が少ない。

「……またですか、君は。今度は何点だったんですか」

「……28」

耳に入ってきた低い数字に変化に乏しい黒子の表情がヒクリと引き攣る。よもや、まさか、そんな思いを打ち消すように黒子は幾分低くなった声音で訊ねる。

「それは、何の教科なんです?」

「……平均で、す。英語以外で……」

「君って本当に英語以外は馬鹿だったんですね。もう、諦めたらどうですか?中学は義務教育ですからちゃんと卒業はさせてくれますよ。そんな点数でも」

黒子が切り捨てるようにそう言えば、背後から回される逞しい腕に力が入った。細い肩に頭を押し付け、黄瀬はひどいひどいと泣き真似て喚きだす。それを聞きながら、酷いのはどちらだと黒子の咽喉を溜息が突っ突く。
二学期末のテスト一ヶ月前から黒子は黄瀬に自分のノートを細々と手渡した。それをちゃんと読んで半分も暗記したら平均点は軽く超えられるはずだった。実際黒子のテスト対策はノートを見るだけだが、成績は学年総合で一桁以外を取ったことはない。例え暗記出来なくても何度も繰り返し読んでいれば選択問題で点数が稼げて赤点は免れるはずだった。
だのに、英語以外の全教科の平均が28点。冗談じゃない。ありえないことだ。考えられるのは、黄瀬にやる気が無いということだけだ。
二年、三年の中型大型の休みを全て黄瀬に潰された為、最後の大型の休みはそうさせてなるものかと早い時期から策を講じたのに。策は徒事に終わり、黒子の休みは自業自得であるはずの黄瀬の為に潰されるという。『酷い』のは一体どちらだと言うのか。この男は一度国語辞書の一字一句を残さず脳に刻み込むべきだ。

「黒子っち、黒子っち。怒ってんの、ねぇ、ごめんなさいってぇっ!ノート貸してくれたのに、ごーめーんーなーさーい。おーねーがーい、おーしーえーてー」

「煩いですよ」

「じゃあ、教えてっス。最後くらいは有終の美を飾って見せるから!」

(信用できませんよ、そんな言葉。『ちゃんとやる』ってそう言ったから、ノートを渡したのに、君は結局やらなかったんじゃないですか)
黒子は顔を歪め、再び本を開いた。途端、回されている腕には力が篭もり、背後が喧しくなる。それでも黒子は無視を決め込んで活字で描かれる世界へと入っていった。それが、黄瀬への返答だった。
だが、その返答はその日のうちに、思わぬ形で覆されることになる。





「卑怯です」

黒子は本日何度目かの言葉をまた音にした。それを聞いた黄瀬は振り向き、莞爾のままで何度目かの謝罪を述べる。なんとも心の篭もっていない謝辞だった。せめてそのお綺麗な顔くらい申し訳なさそうに崩せばいいのに。
逃げ口上は許さないと黄瀬に奪われた自分のカバンを見詰め、黒子はまたもやその言葉を繰り返す。

「卑怯です。三学年の教師を全員味方につけるなんて。しかも、クラスメートだけでは飽き足りず、あの部長まで味方につけるなんて。卑怯です。女々しいです」

珍しいほどに、未練がましく不満が何度も口を突く。鬱然な黒子はそのままそれを音に変えて目の前の広い背中を殴る。
黄瀬は自分の部屋への扉を開き、黒子を誘う。
攻撃が効かないことはわかっていたものの、ここまで平然を通り越して上機嫌な様子を見せられると流石の黒子も疲れが出てくる。自分よりも高い位置にあるその眼を見て、R.KISEと書かれた標示を見た。そして、開かれた玄関口を見詰め、黒子は溜息を吐いた。

「黒子っち、諦めが悪いっスよ。ほーら、一度オーケーしたんスから、責任持たなくちゃ!」

「渋々です。周囲が丸々君の味方をしてたんです。あれで断れる人間なんて早々いませんよ。大体、君に責任云々の倫理は説かれたくないです」

黒子は若干顔を顰めながら黄瀬のテリトリーへ足を踏み入れる。靴を脱ぎ、何度か来たときの記憶通りに歩き出そうとし、足踏む。背後から施錠音が聞こえたのだ。
黄瀬は変わらぬ莞爾を浮べたまま、そんな黒子の手を取りリビングへと向かう。

「鍵、閉めるんですか?」

「うん」

「夕方までには帰りますが?」

「駄目っスよ。そんなの」

「何が駄目なんですか。長居はしませんよ。夕方までに各教科の要点を教えます。要領のいい君ならそれで大体の問題が解けます。それでもわからないところをまた後日教えに来ます」

リビングへの扉を開き、黄瀬は持っていたカバンを二つともソファーに放る。それは乱暴な扱いではなかったが、彼らしくない扱いではあった。
黒子は、黄瀬の名呼んだ。彼はやはり変わらぬ莞爾で振り向いた。

「どうか、しましたか?黄瀬君」

「うん、ちょっと舞い上がってるだけっスよ。ね、黒子っち、黒子っちのご両親は冬休み中海外?」

黄瀬はソファーの背に腰掛け、黒子の腕を引く。引き寄せられるがままに黒子はその足の間に納まる。随分と近くなった綺麗な顔を見詰め、こくりと頷けば、黄瀬の目が輝いた。見たこともない、嫌な笑い方だった。
背筋を駆けた悪寒に黒子は反射的に足を引くが、腰に絡む逞しい腕がそれを許さない。腰を引く力に抗う術もなく、二つの身体が互いの鼓動を感じ取れるほど密着する。

「きせ、くん?」

元来、彼は接触過多ではあったが、こんなことはされたことがない。不安に心を震わせて黒子は黄瀬を呼ぶ。
何故悪寒がするのかわからない。けれど、悪寒と言うのは脳からの警告であり、なんらかの危機を知らせるものだ。返答もなく、ただ変わらぬ莞爾だけを晒す男に不安が怯えに変わり黒子は眼を泳がせる。目の前の制服を掴む手に力を篭めて、もう一度男を呼ぶ。

「き、せく、ん」

「此処に泊まればいいっスよ。冬休み中ずっと。帰んなくて、いいっス。煩く言う親がいないんスもん、いいでしょ?ずっと一緒にいよ?」

「……かえり、ます」

「だから、だーめ」

ぞわりぞわりと恐怖が背筋を這う。見慣れた、彼の綺麗な笑顔が気持ち悪くて、怖かった。黒子は頭を幼子のように振る。男は笑って駄目と言う。震える細い背を腰を、拒絶を示す小さな頭を宥めるように撫でては甘く囁くように駄目と繰り返す。
ゆっくりと額を合わされ、間近になった黄瀬の眼の中にギラギラと欲が孕んでいるのを見付けた。その瞬間、黒子は理性を無くした様に男の腕の中で我武者羅に暴れた。男が怯んだ隙になんとかそこから逃れ、駆け出す。だが、逃亡劇は数秒で終わりを告げた。

「あ、ぁ、はなし、はな、いや」

身体に絡み付く長い腕は二度目を許さず、黒子の細い両腕は一纏めに拘束されてしまう。そのまま、もう一方の手で顔を引き寄せられ乱暴に背後から口唇を重ねられる。驚愕し薄く開いたそこからイキモノのように何かが侵入してくる。反射的に黒子がそれを噛もうとすると、大きな手に力が篭められ頭皮がズキリと悲鳴を上げた。痛みに竦んだ黒子の口腔を男は好きなように荒らした。口唇を放さぬまま何度も角度だけを変え、初心者にするようなものではないそれを繰り返す。
淫猥な音を立てながら、口腔壁をなぞられ、舌を絡ませられ、その度に悪寒とは違う何かが黒子の身体を走った。初めて体験するそれに逃れようと足掻いていた腕や足からはその意思が抜ける。男はそれに気が付いたのか機嫌よさげに白藍色の髪を撫でた。

「ん、ぅ……んん、ぅうん」

だが、息の仕方など黒子は知らない。次第に酸素は足りなくなり頭がガンガンと悲鳴を上げる。足からは力が抜け、黄瀬に支えられ黒子は解放を待った。
離れていく薄い口唇を茫洋と見詰めていると赤い舌が艶かしく黒子の口唇を舐めた。あまりの淫猥さに背筋が震える。そのまま首筋を舐められて震えは余計に酷くなり、黒子は頭を広い肩へ仰け反らせた。

「かわいい」

朦朧とした黒子は身体の向きを変えられ、真正面から男に抱きしめられる。

「かわいっスね。息の仕方わかんなかった?ふふ、キスすんの、初めて?だよね?良かった。もし初めての相手がいたらオレそいつ殺しちゃう……ふふ、かわいい、黒子っち、ほんと、かわいい」

激しい淫欲に塗れた瞳に黒子を映し、うっそりと捕食者のような笑みを浮べる。男は莞爾を完全に削ぎ落とし、普段とはまったく違う表情を見せた。
咽喉を震わせるように笑い、黒子の口唇を舐め、その内を荒らし、唾液や涙で濡れる頬や顎を舌で拭う。黒子は逃れようと無い力を振り搾り男の腕の中で足掻く。だが、男は児戯のようにしか感じていないらしく、華奢な体躯はあやす様に抱え上げられてしまう。

「だーめ、黒子っちは此処にいるの。帰さないっスよ」

頬を上気させて喘ぐ黒子は大きな腕の中から柔らかな何処かへ丁寧に落とされる。そこがベッドだとすぐに気付くものの、顔の左右に大きな手を付き、腹を跨いで笑う男が最早逃亡を許さない。
冷たい鉄の檻に入れられたような圧迫感を感じ、息苦しさと未知なる恐怖に黒子は咽喉を震わせた。

「いっつも教えてもらうばかりだったっスからね、今度はオレが教えてあげるっス。気持ちイイコト。でも、黒子っちも教えてね?ずっと秘密のままの、進学先とか、ね」









ちぎる

なかったことにしたい。始まりから、全てを







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